中正暦

中正暦

[1] 中正曆は、 日本の暦法改良案の1つです。

[197] 工藤茂三郎が改暦案を考案したのは明治30年のことでした >>190

[148] 仏国の改暦案が日本に報じられた後、 工藤茂三郎が改暦案を寺尾寿の元に持ち込みました。 仏国第1案と似た趣旨のものでしたが、 ではなく60日の日干支暦日との対応を固定するべく、 日干支のない日を設けるものでした。 寺尾は工藤に対し、 日干支を日常的に扱っていて、 それが暦日と一致しないことを不便に感じているのであれば、 それはよい考えだろうとし、 仏国第1案を紹介しました。 しかし祭日吉凶の決定に日干支を用いている者が人為的に改変した新しい干支を採用するとは考えにくいと指摘しました。 >>138

[149] 当時寺尾の元にはそうした改暦案がいくつも持ち込まれていました。

[153] 工藤は平山の元にも改暦案を持ち込みました。 >>138

[150] 工藤の改暦案は中陽曆と命名され、更に中正曆と改称されました。 日干支暦日との関係の他、 年始の名称 (月の間に挿入する日付のない日は春中日、夏中日、秋中日、冬中日、 年の中間の月に属さない日は歳中日)、 二十四節気の名称を定めていました。 >>138 (5.2.4)

[152] 日干支に属さない餘日と閏日は、 曜日は前日と同じ土曜日とされ、 土曜日だけは2連続で現れ得ることになっていました。 >>138

[198] 明治42年請願帝国議会を通過し政府に送付されました。 >>190

[199] 明治43年、 補助費下付の請願帝国議会を通過し政府に送付されましたが、 政府は下付不実行としました。 >>190

[151] 中正曆帝国議会請願として提出され、 文部省から東京天文台へと送られてきました。 天文台長の寺尾はこれに対する私見を講演し天文月報に掲載し、 得られた意見を踏まえ東京天文台の主任たる平山と回答をまとめることとしていました。 >>137, >>138

[154] 寺尾は工藤の改暦案について厳しく批判しました。 仏国案が従来のと似て非なる形にを「破壊」した (>>214)のと同様、 日干支を似て非なるものに「破壊」するものであり、 以前これを指摘したにも関わらず理解されなかったことを遺憾としました。 年始立春とすることも (寺尾も平山も) 要領を得ないとしました。 時刻 (瞬間) である二十四節気の名称とし、 節気間の日数も改変していることも「破壊」であるとしました。 中正曆には記載されていませんが、 以前の中陽曆中陽論には、 一番寒い日の翌日が立春である、 寒いときは世界同時に寒くなるというようなことが書いてあったようです。 >>138

[185] 読売新聞には、 萬世不易 北斗中正 (發賣所: 藤田商店) の広告が掲載されていました。 「陰曆の詳しく分る新曆出づ」 と謳われた、 「初版忽ち賣切れ」 たという 「明治四十五年三曆(太陽、太陰、中正)比較」の暦本でした。

[186] 読売新聞には、 大正四年北斗中正曆 (出版印刷: 玄文社) の広告が掲載されていました。 暦法改正は世界の大問題であるところ、 中正曆は「世界に賞讃を受け居れり」というものと紹介していました。 しかし太陽暦、太陰暦の2暦を併記し各種暦注があることを売りにしていたようで、 特に「太陰曆」は本文中最も大書きとされていました。 また、「內務省著作登録済」であって 「世のヲバケと稱する僞曆やゴマカシの秘密出版物」 ではないことを強調していました。

[187] 明治時代末期に公式な旧暦併記が廃止され、 しかし旧暦の習慣が未だ根強く「お化け暦」 が流通していた世情にうまく便乗して普及させようとしていたことがわかります。

[200] 大正14年新渡戸稲造国際連盟に提出しました。 >>190

[201] 昭和24年日本国の第5回国会に暦法改正の請願が提出されました。 >>190

[193] 日本国の第6回国会衆議院文部委員会は、 文書表番号第一八〇号 暦法審議会設置の請願 (眞鍋勝君外一名紹介) を審議しました。 文部委員会理事の圓谷光衞 (福島県選出)衆議院議員眞鍋勝 (徳島県選出) が説明しました。ただし前者は理事としての代理説明と思われます。 「外一名」は不明です。 暦法審議会設置を求める請願を説明したのに対し、 政府から文部事務官の森田孝が慎重に検討する必要があると答えました。 請願は可決され政府に送付されたようです。 >>190

[194] 説明によると、請願者は工藤茂三郎の子であって、 グレゴリオ暦には問題があって日本では旧暦月遅れ暦が実施されており、 海外では世界暦などの活動があることから、 中正暦世界暦などを各界代表者で検討する審議会を設置する必要がある、 と主張していました。 >>190 子供世代に引き継がれて依然改暦活動を続けていたことがわかります。

[202] かつて支那王朝で使われた同名の農暦の一種とは無関係です。
[188] 讀賣新聞 大正六年八月四日 (朝刊), 三面

公私會合

中正曆研究會 (◦◦◦◦◦◦) 五日(日曜)午後一時よ り牛込東五軒町三五實行敎廳にて第二回例 會を開く由

[189] 牛込東五軒町は現在の日本国東京都新宿区東五軒町付近。 三五實行敎廳は不明。 実行教は当時から存在するが三五教 (後に月光天文台を建設) はまだ設立前。 なんにせよ神道系新興宗教の施設か。 教団の関与があったのか会場として使っただけかはこの文面だけでは何とも判断できない。
[358] 牛込東五軒町35番の実行教庁、ということで三五教とは関係ないのでは・・・? 昭和12年の紳士録に「實行敎管長」の住所が「東京市牛込󠄃區東五軒 三八半角」 とあります。35番に宗教施設、38番に住居があったということなのでしょう。

[204] 工藤繁三郎の作った中世暦について知りたい。 | レファレンス協同データベース (国立国会図書館著, ) https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000263246

[361] 実行教富士講の系統の教派神道>>360

[356] >>354, >>355, >>357

  本田親徳  <三五>
     ↓
出口王仁三郎 <大本教> <十ケ月暦>
     ↓
   三五教 <月光天文台> ← 山本一清 <天文学者>
 

[254] 692 十ケ月暦|玉鏡|三鏡 - 霊界物語ネット, https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg692

[255] 随筆(一〇)|第五巻 言霊解・其他|出口王仁三郎全集 - 霊界物語ネット, https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B121805c210

[259] 『神霊界』大正9年1月15日号掲載|第一章 出口王仁三郎関係文書|大本史料集成 - 霊界物語ネット, https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195502c110710

[260] 人類愛善と青年の動き|第二章 満州事変と大本|大本七十年史 - 霊界物語ネット, https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195402c5211

[257] ミロクの世の暦「十ケ月暦」の謎 | 飯塚弘明.com, https://iizukahiroaki.com/?p=620

[256] 「恒天暦」とは? | 飯塚弘明.com, https://iizukahiroaki.com/?p=626

[258] 出口王仁三郎の「十ケ月暦」 - オニド:王仁三郎ドット・ジェイピー, Iizuka Hiroaki, , http://www.onisavulo.jp/modules/ond/index.php?content_id=168