[1] 上高地
上高地(かみこうち)とは、長野県西部の飛騨山脈南部の梓川上流の景勝地である。中部山岳国立公園の一部ともなっており、国の文化財(特別名勝・特別天然記念物)に指定されている。標高約1,500m。全域が松本市。
上高地へやってきました。上高地の入り口「釜トンネル」の北側坑口から長野県道24号上高地公園線の旧道を下流方面へ向かって歩きます。旧道とは道路が新しいルートができた際に、それ以前に使われていた道路が使われなくなったことを表しています。旧道は車が全く通っていないので、道路の整備や管理が行き届かず、朽ち果てるままになっています。
現在地は釜トンネルの北側にある産屋沢橋から釜トンネルに沿って南へ続いている旧道を歩いています。上の地図には旧道のルートは書いてありません。新しい道路が完成すると、これまで使われなくなった道路は地図上から抹消されてしまうのです。ただ現実には朽ち果てた旧道として残っているので歩くことができます。
上高地公園線の旧道には巨大なスノーシェッドが覆いかぶさっています。平成7年に竣工した「釜上洞門」と呼ばれていて、「洞門」とは落石や雪崩から道路を守るためにある覆いのようなものです。覆いと行っても鉄筋コンクリート製の頑丈な造りとなっています。釜上洞門の入り口から振り返って上高地方面を撮影しています。
上高地 の河童橋ー明神池間を歩いてきたときの様子を 4回に亘りブログアップしてきた。 “上高地でサルが出たあ~~(^_-)-☆” “上高地・・・河童橋から明神池へ” “上高地・・・明神池から河童橋へ” “上高地・・・河童橋と明神池の間で見た花” その中で “ 大正池 の水や枯れ木について昔とずいぶん違っている” そのような趣旨のコメントを幾つか頂戴した。 Saas-Feeの風は2009年に初めて上高地を歩いた時 「 大正池 とはこんなものだったのか」と 絵や写真で見てきた光景との違いに 少し期待外れの感を持っていた。 改めて6年前に撮った 大正池 の写真を眺めると やはり池底が露出しているし枯れ木は少ない。 このときのことを“いい色ひろば”にブログアップしていたが ブログサイトがサービスを中止したので記事は消滅した。 だがサイトが全記事をCDに収納してくれていたので復元はできる。 この日に撮った写真とサイトからのCDとを調べると 大正池 から河童橋まで歩いたことについては ブログアップしていなかった。 “ 大正池 ー釜ヶ渕堰堤ー 大正池 ”の記事を 少し修正して以下に添付する。 なかなか信州に出かける機会が無かったのだが 5月26日(2009年)に初めて上高地を歩いてきた。 バスを降りたところが大正池ホテルのそば さっそくカメラを取り出して大正池をパチリ 青空ではないことが残念だが 穂高連峰がはっきりと見えている。 天気が好くて、そしてさざなみが無ければ 湖面には“逆さ穂高連峰”がきれいに見えるだろうな。 こちらは焼岳 心なしか赤っぽい~ 赤く見えることから焼岳と聞いているから そのように見えるのか。 大正池は大正4年の焼岳の大爆発によって起きた土砂の流れが 梓川を堰き止めて出来た湖で 当時はもっと大きかったそうだ。 写真5枚をつないでパノラマ風にしてみた。 バスが大正池ホテルのそばに到着する少し前に “釜トンネル”を通っていて そのそばには“釜ヶ渕堰堤”があるというので そこまで行ってみることにした。 実はそちらは最終目的地である河童橋(約4km先)とは 逆方向になるのだけれど・・・。 バスで走っていると3分くらいの距離だったと思うのに しばらく歩いても釜トンネルの気配すらしない。
愛称「釜トン」は、心霊トンネル(スポットではない)・・?、
この様な釜トンネルは、断崖絶壁の深く切れ込んだV字峡谷の梓川に沿って、昭和の初期に長期間を要して手掘りで堀すすめられたという。
なんでもトンネルの建設は、某半島の人達の強制労働で掘り進められ、工事は昭和8年に貫通したという。
この時、事故死した作業員の人達が大勢埋まってるという噂もある。
又、昭和初期までは、冬期間に遭難、凍死した登山者の死体を収容した際、春から夏の間に松本市側に移送する時まで、トンネル内に一時保管することもあったという。
こんな理由によるのどうか、釜トンネルは「幽霊の出るトンネル」、「釜小僧が出るトンネル」などと「筋金入りの心霊スポット」などと言われる。
トンネル内で、いるはずのないアルピニストが後をついてきたとか・・、
トンネルの中ですれ違いざま幽霊が体の中をつき抜けていったとか・・、
グループの人数を確認すると必ず1人増えているとか・・、
目撃例は枚挙にいとまがなかったという。
或る松本電鉄バスの上高地線を受け持つ運転手は、「このカーブの壁にライトに照らされて、遭難者の顔が浮かび上がんだぞ−・・」とか・・、
「 特に、上高地からの最終バスは薄暗くなって車内は私ひとりになるわけですよ。 上高地側で信号待ちをしていると、ときたま、トンネルの入口のコンクリートが赤く光って見えるときがあるんです。 たぶん、信号機の赤の色だとは思いますけどねぇ、でも不気味ですよ、本当に。 釜トンネルの中では絶対にルームミラーは見ません。もし、乗せてもいない誰かが乗っていたら、と思うと恐くて後を見ることはできません 」
などと話している。
立秋 会長に聞け!!~第3回 上高地の水について聞け!!~2009年08月07日 (金)
上高地に梓川や大正池、明神池がなかったら どんなに寂しい事でしょう。 上高地にとって”水”は欠く事のできない要素です。 という事で今回は”上高地の水について聞け!!”です。 NPG:大正池は小さくなっているって言いますが、 昔はどんなもんだったんですか? 昔は田代橋あたりまで池尻が来てたんだ。 大体、ダメなんだよ。河床があがるとか、大正池が小さくなるとか いう問題があるけどね。 昔(大正池の堰堤が出来る以前)はどんどん土砂が 流れてったのに・・・ 大正池に水が必要だからって今はせき止めてるけどね、 私は大水が出たら一緒に流しちゃえって思うんだ。 でも、水の蓄えが必要だから貯めておこうとせき止めちゃう、 それで土砂が堆積してっちゃう。 ここらで1m以上(河床が)上がってんじゃないか、昔からすると。 それでね、今、中の湯の売店がある所(釜トンネルの入り口に ある)では、逆に河床が1.5mも低くなっちゃってんだよ。 だって、上高地から土砂が流れていかないんだから。 河川管理の難しい問題なんだよね。 もう少し、川の生命を考えた時に下に(土砂を)流してやんのが 原理だよね。 更に昔ね、新潟港(※1)が焼岳の石が流れてきて 港を埋めちゃって困るってんで、 新潟県知事から是非一つ砂防をってんで産屋沢の堰堤(※2)を 作る事にしたんだ。 昭和12年から初めて20年で完成したんだ。 それで上高地はこれだけ堆積が進んだって事だね。 それで更に下流域の穂高やなんかのワサビ田では水不足(※3) っていう問題も起きているんだ。 そういう事も考えるとやっぱり(土砂は)どんどん流すべきだよね。 ※1 新潟港:梓川は信濃川として日本海に注いでいる。 ※2 産屋沢の堰堤:釜ヶ淵堰堤の事。上高地の土砂を留めて いる。 ※3 わさび田の水不足:上流で土砂が留まるので下流域では 川が深くえぐれる。 深い溝になるので川に水が集中し、川周辺のワサビ田の 水が不足してしまう。 NPG:田代池の水も実は飲めるって聞いたんですが 本当なんですか? 飲めるさぁ!!上高地の水は基本的にどこだって飲めるよ。 だって下水が全然流れ込んでないじゃないか。 ところで、この下水管理は全部私がやったもの
冬の上高地はつい最近までは私のような者が立ち入れる場所ではなかった。
一昔前は「孤高の人」にもあるように、はるか手前の沢渡から約20Kmもの道のりを歩いて向かっていたのであった。
それが、平成9年に安房トンネルが開通したおかげで、1年中松本―高山間が開通し、それにより冬でも中の湯まではバスで行くことが可能になった。
私が四季を通じて初めて上高地へ入ったのは2003年末であった。登山を始めて2年ほどであったが、冬の穂高に魅せられ、勿論登ることは不可能であっても、この目で見たい衝動を抑えきれずに、無謀にも単独で初めてのスノーシューとともに釜トンネルを抜けた。
冬に上高地に入ったことがあれば、皆「釜トンネル」には思い入れがあると思われる。
今年「釜上トンネル」が開通し、昨年までの「釜トンネル」はその役目を終えた。この点はブログにも以前載せた通りである。
私はこのトンネルが怖いけれど大好きなので、繰り返しになるが、画像をアップしたい。
↑ 薄暗い天井には裸の蛍光灯と今にも落ちそうな氷柱。時々、ピキーンと氷柱が地面にたたきつけられる音だけがトンネル内に響く。足元は凍結している部分もあり、様々な意味で恐ろしい。
[編集] 概要
総延長は1,310m、幅員は7.0m(路肩含む)、計画交通量は2,100台/日(うち大型車は800台/日)、設計速度は30km/hである。最大勾配は10.9‰でトンネルでの標高差は約100mにも及ぶ。トンネルのすぐ手前の国道158号との分岐点には、県道を冬季通行止めとするためのバリケードがある。現在のトンネルは、工事時期の違いによって釜トンネルと釜上トンネル(仮称)とに分かれる。
[編集] 歴史
[編集] 初代
1927年(昭和2年)から1937年(昭和12年)まで供用された。
1915年(大正4年) - 焼岳の噴火によりできた大正池を利用した水力発電所の計画が持ち上がる。
1926年(大正15年) - 長野市の梓川電力(現・東京電力)が霞沢発電所の建設に着手した。当初は導水路建設のための工事資材運搬用の軌道として梓川沿いの急峻な岩崖に道が通され、その最も急峻な釜ヶ淵を避けて隧道がすべて手掘りで建設された。これが最も古い釜トンネルで、「古釜」の俗称がある。開通した当初の釜トンネルは長さ320m、幅と高さは2mそこそこだったといわれる[1]。
1927年に工事が完了し、軌道を整理して自動車道となった。
1933年(昭和8年) - 私道から県道へ移行、「松本槍ヶ岳線」の一部に指定された。また、乗合バスが大正池まで運行を開始した。
1934年(昭和9年) - 乗合バスが河童橋まで運行して乗客数も増えた。
[編集] 2代
1937年から2002年(平成14年)まで全域が供用され、2005年(平成17年)にすべて使われなくなった。
1934年 - 中ノ湯側の坑口付近で大規模な土砂崩れが発生した。
1937年 - 土砂崩れ対策のため、中ノ湯側に新たな坑口を開いて約270mを掘削し、途中で初代のトンネルと接続させた。この結果、トンネル全長は約520mとなり、初代のトンネルの50mほどが廃道となり、釜トンネル内に急カーブが生じた。
この頃までは、冬山で凍死した登山者の遺体を春から夏の間に松本市側に移送する時まで、冬季通行止めの期間にトンネル内で保管することもあった。
1950年(昭和25年) - 改修して幅員・トンネル高とも3.2mになった。
1964年(昭和39年) - 坑口にトンネル前後の道路の落石や雪崩を防ぐためのロックシェッドが設けられ、上高地側を「釜上洞門
廃道の中の廃道。
皆様にとっての廃道とは、どんなイメージだろう。
草むした砂利道、苔の生えたアスファルト、ひび割れたコンクリート、消えかけた白線、色あせた道路標識、忘れられた路傍の石碑、照明の消えた真っ暗な隧道、落石に埋もれたガードレール、路面を奔る沢水、崩れ落ちた橋や路肩、草いきれのする藪、弱音、諦め、安堵とガッツポーズ…
ここには、それら考えられる要素のほとんど全てのものがある!
廃道の中の廃道とは、決して険しいだけの廃道だとは思わない。
ここには、演出過剰なほどに分かりやすい、“廃道の真景”がある。
それゆえ、以前執筆させていただいた『 廃道をゆく (イカロス・ムック)
』にも、巻頭企画としてこの道を紹介した。
この道を辿ることは、廃道の酸いも甘いも同時に体験することに他ならない。
同書にて一度紹介済みではあるが、本とネットでは表現方法も異なることであるし、今回はより詳細なレポートを作成したい。
都合により、このレポートの完結までには数日間の更新停止を数度挟むと思いますが、なにとぞ気長にお楽しみ下さい。
国道158号は、福井県福井市と長野県松本市を結ぶ約250kmの一般国道で、中部日本の内陸部を東西に連絡する路線である。
この地域には南北方向に走向する地溝および山脈が連続しており、路線内には険しい峠が複数ある。
そのなかでも、北アルプスの穂高連峰と乗鞍岳の間を越える岐阜長野県境「安房(あぼう)峠」は冬期閉鎖を余儀なくされる最大の難所であったが、平成9年に念願の安房トンネルが開通したことで長年の困難は解消された。
だが、この安房峠越えの道。
険しいのは峠だけではなかった。
むしろ、安房峠が飛騨国と信濃国の最短距離にありながら、歴史的には南方に大きく迂回する野麦峠の方が両国を結ぶ街道の本道とされて来たのは、安房峠そのものよりも、その信濃側(長野側)アプローチとなる梓川渓谷の、尋常でない険しさのためであった。
右の地図を見ていただきたい。
密に描かれた等高線の最も密なところ、さらに多数の崖の記号を従えて描かれているのが、梓川渓谷である。
どこまでが谷で、どこからが山腹なのかの区別は難しいが、稜線に対する谷の深さは1000mを下らない。
北アルプスの名を冠するに足る、極めて険しい山岳の描写だ。
そして、梓川の流れに寄り添う、一筋の道がある。
釜(かま)トンネルは、日本で最も良く知られたトンネルのひとつではないだろうか。
一度でも体験すると忘れがたいその姿から、 “釜トン” の愛称で親しまれてきた。
釜トンは、長野県道24号上高地公園線上にあり、その起点である国道158号との中ノ湯交差点に面している。
この県道は、世界的山岳観光地である上高地へと至る唯一の自動車道であり、釜トンは開通以来、上高地への「門」として存在し続けてきた。
しかも、その門は大変に狭く、そして急勾配であり… 単純な門と言うより、上高地への進入を物理的に選別する「衛兵」といっても良いかも知れない…。それが、釜トンネルであった。
釜トンならではの狭隘と急勾配のために紡がれた逸話は、枚挙に暇がない。
それを語り始めれば、あっという間にスクロールバーが目一杯まで小さくなってしまうだろうが、敢えて皆様には多くの予備知識のない状態で、この釜トンネルを体験して貰いたいと思う。
私と、nagajis氏が、この日そうであったようにだ。
そこには、トンネル(隧道)の常識を覆すような光景が、一つならず待ち受けていた。
しかも、それが廃隧道になっていたのだから、もう タ マ ラ ナ イ。
2008/7/2 17:00 【 周辺地図(別ウィンドウ) 】
国道158号を松本から高山方向へ向かって進むと、幾つものトンネルの果て、中ノ湯洞門という古びた洞門を抜けた先で、この青看が現れる。
ここは古くから中ノ湯といい、以前はその名の通りの温泉場だった。
そして、釜トン開通以来、ずっと上高地の玄関口を務めてきた場所だ。
青看には、はっきりと「直進」「県道24号」「上高地」と記されており、このまま上高地へも進んでいけそうだが、実際それは出来ない。
それが許されるのは、限られた一部のドライバーだけなのである。
そして、青看は現れても肝心の交差点は見えもしない。
交差点は、青看から300m近くも先にあるのだ。
だが、早くも右折と直進のレーンが別れる。
この設計は言うまでもなく、交差点の渋滞対策である。
そして、通行レーンが分岐する直前の場所に、草むらに埋もれそうな1枚の看板がある。
「県道上高地公園線 待機路線終り これより駐車・停車禁止」 と書かれている。
つまり、上高地へ向かおうとする車がいくら渋滞の列を作っていても、これ以上手前で待ってはいけな
[編集] 地理
長野県松本市の北西に位置する飛騨山脈(北アルプス)槍ヶ岳に源を発し南流する。上高地で大正池を形成し、梓湖(奈川渡ダム)に注ぐ。島々宿で東に向きを変え、新淵橋を過ぎたところから右岸の波田と左岸の梓に河岸段丘をつくる。松本市大字島内で奈良井川を合わせ犀川と名を変える。奈良井川との合流点手前のラーラ松本付近では拾ヶ堰や勘左衛門堰が地下横断をする。
[編集] 歴史
仁科濫觴記によれば、成務天皇の代に諸国の郡の境界を定めた際(古事記には「国々の堺、また大県小県の県主を定めた」とある)、保高見ノ熱躬(ほたかみのあつみ:後に「熱躬」を「安曇」と改称)が郡司であったため熱躬郡(あつみぐん)とし、境界の川も「熱躬川(あつみがわ)」とした。この熱躬川が、天智天皇7年(668年)に「梓川」と改称された[1]、とある。「熱躬川」であったにもかかわらず、梓川を「あつみがわ」ではなく「あずさがわ」と呼ぶ理由としては、二十巻本の和名抄(巻5)で、信濃国安曇郡を「阿都之(あつし)」と訓じてあることがあげられる。この「あつし」の訓は、「あづさ」の音にきわめて近い。
一方で、流域は古来より梓の産地であり、梓弓の材料として朝廷にも献上されていて、このことが川の名前の由来になったとも言われている[2]。
[編集] 利水
梓川の水は、発電用と、農業用灌漑のために、古くから用いられてきた。このため、新淵橋よりも下流の松本盆地での流量は豊かだとは言えない。
[編集] 発電用
水路式発電所は上高地に近い上流から、盆地部に下りての昭和電工赤松発電所・梓水力発電所まで、流域の各地に造られて古くから稼働してきた。1969年(昭和44年)11月には、奈川渡ダム、水殿ダム、稲核ダムの梓川3ダムが完成した(それまで梓川にはダム式発電所がなかった)。この梓川3ダムは揚水発電所として運用され、電力需要の多い時間に発電のためにいったん下流に放水された水を、電力需要の少ない夜間に再度揚水して上流のダム湖にためるようになっている。このために、下流のダム湖の上端が上流のダムの下まで来るように造られている。
[編集] 灌漑用
「堰」は一般には、川を堰き止める構造物をさすが、松本盆地ではその堰から取水して水を流す人工河川をも「堰」(読みは「せぎ」)といい、たくさん存在する。梓川から取水するものだけでなく、烏川から取水する烏川
[編集] アクセス
鉄道・バス:アルピコ交通上高地線新島々駅より上高地行き路線バスで約45分で中の湯バス停へ。(あるいは松本バスターミナルから高山濃飛バスセンター行き特急バスで約75分。冬季は特急バスのみ。)バス停前の「中の湯売店」からは旅館の送迎車を利用。なお、朝は1回だけ旅館から大正池までの送迎がある。
マイカー:安房峠へ通じる国道158号の旧道沿いにある。ただし、冬季(概ね毎年11月中旬から翌年4月下旬頃)は、旅館へ通じる区間を含む旧道が閉鎖されるため、岐阜県(平湯温泉)側および長野県側双方から旅館まで直接マイカーで乗り入れることができない。このため冬季間は中の湯バス停前の「中の湯売店」から旅館に電話をかけ、安房峠道路の中ノ湯インターチェンジの旧道接続部にあるゲート(中の湯ゲート)を開いてもらう必要がある。
[編集] 泉質
硫黄泉(旅館)
鉄泉(卜伝の湯)
[編集] 温泉地
一軒宿の「中の湯温泉旅館」が存在する。上高地観光の拠点になるほか、焼岳登山の中の湯コースの登山基地としても利用価値が高い。近年は閉山後の上高地を徒歩で釜トンネルを通って訪れる人の基地として使用される例も増えている。
一軒宿はかつて、国道158号と上高地への県道の交差点近くに旅館が存在した。2005年6月まで交互通行だった釜トンネルの信号待ち中、梓川の対岸に存在した旧中の湯温泉の露天風呂に入浴する浴客は、上高地への車窓名物の一つだった。しかし、安房トンネル工事が原因の水蒸気爆発により、安房峠途中の現在地へ移転を余儀なくされる。移転後の現在地からは穂高連峰が遠望できる。
かつての中の湯温泉旅館の場所に近い釜トンネル入り口付近には、中の湯売店と、洞窟風呂である「卜伝の湯」が残る。「卜伝の湯」は30分単位の貸切りとなっており、入浴希望の宿泊者は予約時間に合わせて旅館から送迎車に乗って入浴に行くことになる。卜伝の湯への日帰り入浴は中の湯売店でも受け付けており、空き時間さえあれば外来入浴もできる。
旧旅館があった梓川沿いの場所は、崖地のあらゆる所で温泉が湧出しており、一帯は湯気と温泉の匂いに包まれている。旧中の湯の源泉とは別の野湯も多く存在する。沢渡温泉の源泉も当地にある。但し、旧中の湯の源泉とは別の安房トンネル工事の際に発見された源泉を利用している。旧中の湯の源泉は、現旅館にポンプで汲み上げられるも
釜ヶ渕堰堤(かまがふちえんてい)は、長野県松本市安曇(旧南安曇郡安曇村)、信濃川水系犀川の上流部(梓川)に建設されたダム。高さ29メートルの積石アーチ式コンクリート砂防ダムである。国の登録有形文化財。
[編集] 概要
1915年、焼岳の噴火による大量の泥流が犀川上流部(梓川)をせき止めてられて大正池が誕生した。この堆積した土砂の流出を防ぎ、上高地の景観と犀川流域の保全を目的に、大正池の河口直下に建設されている。かつては県道沿いに上高地に向かう途中に見ることができたが、県道の崩落事故が度重なったため2005年に新しい釜トンネルに付け替えられ、ほとんど人目に触れることはなくなった。
[編集] 歴史
1936年(昭和11年)に着工し、1943年(昭和18年)に釜ヶ渕堰堤本体工事が、翌年昭和19年に下流側の本副堰堤工事が竣工した。内部の構造は主に玉石を埋め込んだ粗石コンクリートで、表面は現地の石を加工した築石を用いている。梓川流域ではこの堰堤の着工に先立ち、1932年(昭和7年)に国の直轄砂防工事が始められており、当初は梓川沿いの山腹工や、沢渡周辺の川への小規模な砂防工事が行われた。2002年(平成14年)8月、国の登録有形文化財に登録。
[編集] 関連項目
ダム
日本のダム
アーチ式コンクリートダム
治山
砂防
上高地
釜トンネル
[編集] 外部リンク
国土交通省 - 河川局 - 砂防部 - 登録有形文化財に登録された歴史的砂防施設 - 釜ヶ渕堰堤
上高地公式Website - 釜ヶ渕堰堤
座標: 北緯36度12分51.15秒 東経137度36分54.11秒 / 北緯36.2142083度 東経137.6150306度
初代ビジターセンター、
最後の越冬!
1970(昭和45)年6月にオープンした、初代・上高地ビジターセンターは2001年のシーズンをもって引退し、2代目に引き継がれる。半年に及ぶ長い越冬も今回が最後になる。
旧ビジターセンター
2000.01.20
冬の釜ヶ淵堰堤
昭和19年に竣工された、��釜ヶ淵砂防堰堤�≠ヘ、平成14年9月に「登録有形文化財」の登録を受けた。��アーチ式高堰堤�≠ニしてその後の手本となったとされ、上高地のシンボルともいえる。旧釜トンネルから、自然滝のように流れ落ちる様子が見えたが、新釜トンネルを利用するようになり、堰堤を眺めることは出来なくなった。残念…。
旧釜トンネルより
2000.01.27
ほぼ、結氷!
早朝の気温が氷点下17度まで下がっていた日、大正池の9割近くが氷結していた。ここまで冷え込むと、「寒い」というよりは、「痛い」としか感じ取れない。
大正池
2000.01.27
国道158号沢渡〜中ノ湯間の旧道探索も、残すは2つのステージだけとなり、これらのステージを越えた存在(いわばExステージ)として我々の最終攻略目標となっていた“ 釜トン ”が、いよいよ近付いてきた。
終盤の第4、第5ステージは、いずれも1km以上あった過去3つのステージよりもだいぶ短く、それぞれ現道の新坂巻トンネル(昭和53(1978)年竣工、全長294m)と赤怒谷トンネル(昭和59(1984)年竣工、全長396m)に対応した500m前後の旧道である。
一連の旧道では既に十分過ぎるほどの危険を体験してきた我々にとって、この段階でも油断などというものはなかったと思うが、ただ、私の中に「完全踏破が出来そうだ」という気分は生まれていた。根底にあるのは、ここまで二人で越えてきた自負である。
だが、そんな気分を私が持ったことを今になって振り返れば、少しだけ可笑しくなる。
なにせ、私達は二人とも子猫のように知らなかった。
第4ステージの、地図からは計り知れない “ 凶 状” を!
一度も旧道の下調べをしていない我々にとっては、知らないのは無理のないことだった。
特に第4ステージのこちら側、坂巻温泉側の入口は、険しさとは真逆のむしろ“優美さ”の舞台であったから、勘違いも容易く起きた。
ステージ4の開幕を告げるのは、この 驚くべき細身の橋 !!
この旧橋の存在は、隣にある現道の坂巻橋からもよく見える。この写真もそこから撮影したのである。
だが、見え易いかと問われれば、答えは微妙だ。
徒歩や自転車で坂巻橋を使えば確実に目にするはずだが、自動車だと気付かないことの方が多そうだ。
旧橋は現橋より少し低い位置に有るため、ある程度車高がある車で、かつ上り線(松本方面へ進行)の助手席側でないと見えにくいと思われる。
それに、トンネルとトンネルの間の橋の上でほぼ真横を向かないと見えないだろう。
基本的に一連の旧道群の遺構は、現道から見えにくいものが多いのだが、特に存在感が大きなこの橋でさえも、恵まれているとは言えない。
にしても、本当にスリムな橋だ。強度は大丈夫なのかと思ってしまうが、上高地にマイカー規制が敷かれる以前の「想像を絶するほどに激しかった」とされる観光シーズンの交通量を捌いていたのだから、決して弱くはないのだろう。
この橋の形式は、言わずと知れた、コンクリートアーチ
右図は、安曇三ダムと通称される梓川に連なる3つのダムを中心とした、松本市安曇地区(旧安曇村)のマップである。
3つのダムは、東京電力が昭和30年代以降に開発したもので、主に発電、次いで農業水利と洪水頂設に用いられている。
最も下流の稲核(いねこき)ダムから水殿ダムをへて奈川渡ダム、そしてその上流端である沢渡まで、水面高低差200mを付けながら、梓川には約15kmも湖が連続していることになる。
ダム有るところに、廃道あり。
このセオリーはこの場所でも生きている。
梓川の本流に平行する国道158号はもちろん、奈川渡で南に分かれる県道26号、そして前川渡で分かれる県道84号のいずれにも、当然のように水没を喫した廃道が存在する。
おいおい紹介していくことにもなるだろう。
だが、私にとってこの国道158号の梓川筋は、単に廃道を巡って終わりという、行きずりの場所ではない。
日本中の道の中でも、ここの現国道には殊更おおきな思い入れがある。
右の地図にも描かれているが、奈川渡ダムの周辺はとにかくもの凄いトンネル連続地帯になっていて、明かり区間よりもトンネルの占める距離の方が長いほどなのである。
そして、これらのトンネルが
…幼かった私の心に
…二度と治らぬ病を
…暗くて狭い隧道への飽くなき憧憬を
…植え付けてしまった。
旧安曇村内の国道158号関連のレポートとしては、最も松本寄りの 「猿なぎ洞門(橋場地区)」 を公開済である。
次は水殿ダムから奈川渡ダムまでの区間をお伝えしたいと思う。
いよいよ、我がオブ心の故郷、トンネル連続地帯にも掛かるレポートになるだろう。
これは、今回のレポート範囲のダムが出来る前の地図。
ちょうどこの地図が描かれた昭和28年に、従来は県道「松本船津線」であった梓川沿いの道が、二級国道158号「福井松本線」へ昇格したのであった。
地図を見ても分かるとおり、この区間には当時隧道はひとつも無かった。
そして、奈川渡付近では谷底を通っていた。
ここは明らかに奈川渡ダムによって水没しているであろうが、一方でその下流の水殿ダムは、必ずしも旧道に影響しなかったかも知れない。
地図を見る限り、水殿ダムから下流の稲核ダムにかけての道は、ダムが出来る以前からかなり高い山腹に付けられていたようだ。
続いて、現在の地形図を見てみよう。
今回
データ
名称
釜ヶ渕堰堤
指定等区分
国登録有形文化財
指定年月日
平成14年8月21日
種別
治山治水
所在地
安曇4460付近
所有者
国
時代区分
昭和時代
付加事項
所属カテゴリ
テーマ
登録文化財
テーマ
明治から現代
地域
安曇地区
分野
建造物
地図
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解説
昭和初期最大級の砂防堰堤
上高地に向かう途中の梓川渓谷に、登録有形文化財「釜ヶ渕堰堤」があります。
この堰堤は、初期のものとしては最大級の練石積アーチ式砂防堰堤です。昭和11年(1936年)に着工され、昭和18年7月に本堰堤が、昭和19年12月に下流側の第一副堰堤が竣工しました。本堰堤は高さ29.0m、長さ79.0mで、内部の構造はコンクリートを主体として玉石を埋め込んだ粗石コンクリート、堤体の表面は現地の石を加工した築石(間知石:角錐型に加工した石材)を用いた練石積コンクリート構造です。
かつては、上高地に向かう途中、釜トンネルを抜けると、ロックシェッドの間から見えるこのダムの雄姿に目を奪われたものでした。しかし現在は、ロックシェッドを迂回する新しい釜トンネルが開通し、車窓からは目にすることができなくなっています。
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去る平成14年5月17日に、文化庁の文化審議会において、安曇村中ノ湯の「釜ヶ渕堰堤」を国の登録有形文化財に登録するよう、文部科学大臣に向け答申が行われました。
「釜ヶ渕堰堤」は、昭和17年の竣工以後、およそ60年あまりもの長きにわたって、上高地の急峻な山々に囲まれた広い谷間を流れる梓川を災害から守り続け、いまも現役で梓川の砂防を担っています。なお、アーチ式砂防堰堤として登録有形文化財に登録されるよう答申されるのは全国で初めてです。
なお平成14年9月3日に登録有形文化財として登録されました。
−釜ヶ渕砂防堰堤の概要−
○所在地 長野県南安曇郡安曇村4460
○施工時期 昭和11年(1936年)着工
昭和17年(1942年)竣工
○規模・構造等
・堰堤の効果 貯砂量210万m3
・調整量 約26万m3
・堰堤の大きさ 高さ29m 長さ79m
体積約10,986m3
・構造 粗石コンクリート(法面は練石張)
○文化財登録にあたっての推薦理由等
1)国土の歴史的景観に寄与している。
落水が天然の滝のようにも見え、石積みのパターンやアーチ式の形状も周囲の景観と調和しており、景観的に評価が高い。また、上高地のランドマークとして、建設当初より来訪者に親しまれている。
2)造形の模範となっている。
わが国における初期のアーチ式堰堤であり、その形態や構造、先端的な築造技術は、その後のアーチ式堰堤の手本になったと考えられる。なお、本堰堤は、日本土木学会によっても「重要な近代土木遺産」としてその保存が望まれている。
国の登録有形文化財に指定された松本市安曇の砂防ダム「釜ケ渕堰堤(えんてい)」が昨年7月の豪雨で破損していたことが分かり、管理する国土交通省松本砂防事務所は来年度、当時の工法を使って復元する。同堰堤は、上高地入り口付近の梓川に1944(昭和19)年に造られ、手作業による美しい石積みが特徴。堰堤上部の2カ所で石積みがはがれている。
同堰堤は、高さ29メートル、長さ79メートルのコンクリート製。摩耗を防ぐため、表面を石積みで覆ってある。水が流れ落ちる中央部約24メートルのうち、2、3メートルずつ2カ所で石積みがはがれ、へこんだようになっている。
上高地では昨年7月15日から5日間で計500ミリ以上の降雨を記録。直後の調査で破損が見つかった。
内部のコンクリートに損傷はなく、堰堤が崩れる恐れはないが、同事務所は当時の文献などを調べ、現地の石を破損部分の形に加工して復元する。費用は調査費を含め数千万円を見込む。
同堰堤は、国内の砂防ダムで初めて上流側に曲線を描く「アーチ式」で造られた。資材使用量が少ないメリットがあるとされるが工事は難航し、8年をかけて戦時中に完成。2002年8月に登録有形文化財に指定された。同事務所は「険しい地形で水量も多いので工事は難しい。文化庁とも相談し、補修方法を慎重に検討したい」としている。
08/10 : 自宅−首都高−東北道
08/11 : 東北道−盛岡IC−早坂高原−岩泉温泉ホテル(手続き)−鵜の巣断崖−くろさき荘(泊)
08/12 : 黒崎散策−ネダリ浜−氷渡探検洞−普代−秋田駒ケ岳8合目(泊)
08/13 : 秋田駒ケ岳−アルパこまくさ−東北道−帰宅
今回のプランは、本来は「上高地−涸沢(泊)−北穂高−奥穂高(泊)−前穂高−岳沢−上高地(コンディションによっては変更あり)」だった。
長期予報によれば、決行だろうと信じていたが、動き始めた台風4号で見直しを余儀なくされた。
台風通過後も天候回復が遅れそうな気配あり、ここは決断するしかない。
以前から行きたいと思っていた氷渡探検洞を選んでみるが、オフィシャルサイトによれば「1週間前までに要予約」とある。
ダメもとで電話してみると、特別に対応していただけて、8/12午後に決定。
洞内は増水もなく、コンディション良好とのこと。
既に荷造り(登山用装備)を終えていたが、パッキングやり直しになり、少々パニックであった。
行きしなに首都高の螺旋トンネル「大橋ジャンクション」を走ってみる。
すでに首都高サイトやようつべの動画で予習していたので問題なく通行できたが、予備知識無しではビビるかもしれない。
若干の仮眠を交えて盛岡ICまで走りきり、三陸を目指す。
途中の早坂高原はトンネルで通過できるが、昼休憩をかねて上がってみることにする。
駐車場付近はレストハウスがあるだけで展望も無く寂しいが、わき道に少し入り込んでみれば、広大な牧草地が広がる。
このときは、残念ながら放牧された牛はいなかった。
長いドライブに疲れたので、国民宿舎くろさき荘に電話して、宿泊OKの返事をもらう。
駅周辺[編集]
梓川
一軒の民家
松本電鉄バスの車庫
廃線跡は新島々から先の車止以遠にある。線路は車止の向こう数mほど延びており、途中で途切れている。その先はあぜ道か私道まで確認できるが、用地の大半が田畑などに転用されており、残りは草木に覆われ、過去に何回かの大雨や嵐などの災害で地形が変わっており、面影はほとんど見ることができないのが現状である。島々跡地は現在バス車庫(屋根無し)に転用され駅の痕跡は確認しにくい。
歴史[編集]
1921年(大正10年)10月に部分開通した筑摩鉄道は、1922年(大正11年)9月26日に島々駅まで延伸開業して全通した。鉄道免許は、梓川上流の「竜島」まであったが、着工することはなく、島々駅が終着駅となった。北アルプス登山や上高地・乗鞍高原観光への出発拠点駅として有名になる。しかし、観光客・登山客の増加に伴い、周辺に平地の少ないこの駅では、これらの乗降・乗換客に対応するバス・ターミナル用地の確保が困難であった。そこで、旧赤松駅にこの機能を移すことにして、1966年(昭和41年)10月1日には旧赤松駅を新島々駅に改称し、その新駅にバス・ターミナルを新設、島々駅は無人駅になった[2]。1983年9月28日に台風による土砂災害のために線路上に砂礫が堆積し運行が不能になった。復旧工事をすることなく、そのまま1985年1月1日に正式に廃止となった。駅舎は新島々駅近くの国道を挟んで向かい側に移設され、観光シーズン限定で観光案内所として現在も使われている。内部には赤松(現新島々) - 島々の線路敷設工事の写真などが展示されている。
隣の駅[編集]
松本電気鉄道
上高地線
新島々駅 - 島々駅
脚注[編集]
^ 島々の集落は島々駅のあった場所から西へ2kmほど離れている。
^ 松本電気鉄道株式会社社史編集委員会『曙光-80年の歩み』松本電気鉄道株式会社、2000年3月25日
関連項目[編集]
日本の鉄道駅一覧
廃駅
14・8・31 Sun
とくにどこへ行きたいという所があるわけでもない。 休日は家で仕事の疲れを癒すという選択肢も それはそれでわるくない。
なのに バイクに乗りたいという衝動がわいてくるものだから、 とにかくよさげなルートはないだろうかと考えながら とりあえずバイクに乗って出かけた。 なんとなしに日野川沿いを北上して途中から越前海岸に向かった。
大味から越前海岸を南下しているうちに、 なんとなく杉津や松ケ鼻の景色がみたくなってきたので しおかぜラインを通って杉津集落を経て国道8号線へ。
8号線を走りながら思い出した。そうだ ウツロギ峠への道がたしか五幡から あったはずだ、と。 以前から気にはなっていたけど訪れる機会もなかったので、今回のライドで通ってみるのもいいかも
国道沿いの五幡集落の山際にある寂れた舗装道をゆくと すぐに道は未舗装となります。 先ごろの雨で路面は所々ぬかるんでいるようです。 ぬかるみの所は担いで越えてゆきました。
一昔前までは軽トラで行き交いも出来たらしいのですが、 今では道も荒れ気味です(徒歩での通行には何の支障もないです)。
途中には祠もあります。 拝んで峠をめざします。
頭上の樹林が開けてくると峠になり、峠の向こうは舗装路↑です。
快適な舗装路を下ってゆくと田尻集落です。 ここでドロドロになったバイクのタイヤを洗うついでに休憩 あとはお化けトンネルを経て帰りました。
体は疲れたけど、気分は癒されました
平成3年10月18日、
国道の現役の洞門が巨大な土砂崩れに呑み込まれ、あっという間に破壊されるという事故が発生した。
しかも、その模様は偶然にも、対岸の集落に住む安曇村役場職員によってビデオ撮影がされていた。
真新しいコンクリートの洞門が、落雷のような轟音とともにひしゃげ、無惨に崩れ落ちて行くショッキングな映像は、当日夕方のニュース映像にも使われており、ご記憶にある方もおいでだろう。
私もおぼろげながら見た記憶がある。
現在もこの映像は土木の世界において各種の解析に用いられているという。
これは、長野県松本市と福井県福井市を結ぶ国道158号上で、関東方面から上高地へと向かう玄関口の安曇村島々地区、「猿なぎ洞門」での出来事だった。
一歩間違えれば、昭和46年に静岡県の国道150号で発生した石部洞門崩落事故や、平成8年に北海道の国道229号豊浜トンネルでの崩落事故のような大惨事になっていただろう。
かくいう私も、かつて乗鞍への家族旅行の行き帰りに何度となく通った洞門だった。
自身にとっても思い出の地である猿なぎ洞門、そして乗鞍への再訪を、私は先日、実に十数年ぶりに果たした。
かつて私がオブローダーとしての資質を醸成させる、その重要な役割を果たした国道158号に、オブローダーとなった私がいろいろと返礼をするというのが目的だった。
詳しくはこのレポートの後に続くレポートで語ることになるだろうが、国道158号こそは幼い私が一番ワクワクする道だったのだ。
十数年ぶりの再訪。
当然、猿なぎ洞門も崩落事故によって廃止されたと思っていたのだが、実際の状況を確かめるのはこれが初めてである。
地図からそれらしい場所のあたりを付けた私は、いよいよ再開の朝を迎えた。
2008/9/9 6:00 【現在地】
ここは新旧道分岐地点… ではない。
目指す猿なぎ洞門は、直進した300mほど先にあるはずだ。
早くも、白っぽい崩壊斜面…この辺では「なぎ」という…が、見えちゃってる。
左の谷は上高地から流れてくる梓川だ。
ここではまず、 【この写真】 と同じアングルを目指すことにする。
撮影地は橋場集落ということであったが、そこはここから左の道を下って梓川を渡った対岸である。
右の地図を見て欲しい。
すでに問題の猿なぎ洞門は廃止され、危険区域をまるまる地中へ逃げる「
2008/7/2 10:06 【現在地(別ウィンドウ)】
旧国道の踏査は奈川渡ダムまでの旧国道は解明された。
残りは現道を走るだけだが、個人的にこの現道は是非とも「語りたい」風景に満ちている。
私は廃道が大好きだが、それにも増して好きなのが、老体に鞭打って現役を続行しているような道路たちなのである。
今回は、そんな風景をたっぷりと堪能していただきたい。
カラフルにペイントされた松本駅前行きの低公害バスが、朽ちかけた坑門から勢いよく飛び出してきた。
こういう風景に、まずグッと来るー!!
トンネルナンバー「3」、大白川1号隧道、全長50.0mである。
『道路トンネル大鑑』(土木通信社刊)巻末の「隧道リスト」には、昭和40年竣工、幅員5.5mとある。
しかし、なぜかリストでは「大白川第二隧道」と記載されており、これはリストの間違いなのだろう。
それにしても、汚れた坑門だ (←褒め言葉) 。
廃道にあっても何ら違和感をおぼえないだろう。
いかにも後付けされたらしいロックシェッドで、ナンバー「4」、大白川2号隧道、全長187mにつながっている。
我々チャリにとっての安息の時は、まだ遠い。
道は、さほどの勾配ではないが、ずっと上り坂になっている。
何度も何度も車に追い越されながら、騒音の中を肩身の狭い思いをしながら進んでいく。
まもなく隧道脱出。
この景色が印象に残っている。
トンネルを出た道が先で折り返し、谷を挟んだ右奥に、今度は逆方向となって登っている。
この辺りは、隧道や橋をアクロバチックに織り交ぜた三次元的な線形になっていて、走っていて楽しい。
これでもう少し隧道が広ければ悠々と走れるのだが、まあ、隧道に入るとその都度キモチが引き締まるというのも、交通安全の役に立っているのかも知れない。
小雪なぎ隧道から始まった4連の隧道連続地帯が終わった。
振り返ると、隧道に向けて2車線が「ぎゅっ」と絞られている姿が目に余った。
…ああ、目に 余った ともよ。
ひどいなぁ この狭まり方!! イイヨイイヨーモットヤレ
大型車にとっての鬼門、大白川橋。
写真だと分かりづらいかも知れないが、このカーブはかなりきつい。
特に、中央部分が橋になっていて前後より狭いのが良くないのだろう。
この橋の前後でも、対向車が居る場合には大型車の一時停止が見られた。
こ
中ノ湯インターチェンジ(なかのゆインターチェンジ)は、長野県松本市にある安房峠道路のインターチェンジである。平面交差で国道158号に直接接続されている。 このインターチェンジには料金所がないが、平湯ICに設置されている料金所で精算する。
全員で11名。斜度11%、約1.3KMのトンネルを歩く。旧釜トンネルと比べて舗装は
バッチリ。昔は旧トンネルはお化けが出るとのもっぱらの噂で松電のボンネットバスが
ウーウーうなりをあげて素掘りのトンネルを走る時に気味の悪さを感じたものだが
今はそんなカケラも無い。
松本市安曇の上高地へ向かうには、かつては恐ろしいほどに急で、狭く暗い旧釜トンネルを通った。そのトンネルを抜け、続くロックシェッドの間から見える
のが釜ケ渕堰堤だ。梓川の土砂流下を抑える高さ29メートルの壁は、ごう音とともに大瀑布(ばくふ)をつくり、晴れた日はエメラルドグリーンに輝く渕まで
演出する。動と静がつくる迫力ある光景を前に、これから挑む頂を思い、一層胸を高鳴らせた岳人も多かっただろう。
◇
釜ケ渕堰堤を背にして、左方向で今も噴煙を上げる焼岳は、大正4(1915)年の噴火で大正池を出現させるほど、大量の土砂を噴出した。流域は広範囲で
土砂災害に悩まされるようになった。そこで昭和7(1932)年、国直轄の砂防工事が始まった。その要が梓川の峡谷部、釜ケ渕に造られた釜ケ渕堰堤だっ
た。
メーンの本堰堤は高さ29メートル、幅79メートルの国内最初期、最大級の石積みアーチ式堰堤で、18年に完成した。内部に玉石を埋め込んだ粗石コンク
リート造りで、表面に現地の石を加工した築石を張り、頑丈な造りにした。全体は大きく6ブロックで構成されている。断面にすると下の段を凹形に、上の段を
凸形にし、下段には大きな石も並べて接合部をさらに強化した。釜ケ渕ならではの丁寧な技法と評価されている。
コンクリートの材料にする岩石や砂利は現地で調達し、トロッコで運搬した。セメントは松本電鉄島々駅まで貨車で、その先はトラックに積んで運び、現場で
練り合わせた。工事には機械を駆使したが、人力に頼るところが大きかった。戦時下で国内労働力が足りず、過半数は朝鮮半島からの労働者だったという。残さ
れた工事写真の中には、きゃしゃな足場を頼りに、大自然に立ち向かう小人のような作業員の姿が写ったものもあり、土石流の危険や厳しい寒さとも戦いながら
の命がけの作業だったことがうかがえる。この完成以降、上流でも工事が可能になり、梓川流域の砂防体制は強化され、噴火で失われた一帯の緑も回復の兆しが
見え出した。
◇
「今の技術でも完成までは当時と同じくらいの期間がかかるのではないか」。国土交通省北陸地方整備局松本砂防事務所の古山利也建設専門官は、平成18年
夏の豪雨災害後の補修なども担当し、その都度、堰堤に詰め込まれた先人の知恵と工夫に驚かされてきたという。
平成14年に国の登録有形文化財になった。堰堤は土
これを執筆している平成28(2016)年の夏は、関東地方を中心に降水量が不足しており、各地のダム湖で深刻な渇水が報告されている。
そんなニュースを耳にして思い出したのが、今から8年前の平成20(2008)年8月に訪れた、長野県松本市の奈川渡(ながわど)ダムのことだ。
私は何度がこのダムを訪れているが、このときほどに低い水位を目にしたのは1度きりだ。
今回は、そんな折に行った湖底での廃道探索の模様を紹介しよう。
「ダムある所に廃道あり!」
…という格言があるかは知らないが、アーチ式ダムとして本邦第3位の堤高155mを誇る奈川渡ダムは、諏訪湖の2倍の1億2300万立方mという貯水量を持つ梓(あずさ)湖を、昭和43(1968)年のダム完成と同時に誕生させた。
この巨大な湖は、かつて梓川の川縁を通行していた諸道を水没させ、トンネルばかりが幅を利かせる付替道路へ生まれ変わらせた。
今回紹介するのは、この梓湖に水没した道路のうち、 長野県道84号乗鞍岳線の旧道 (大野川〜前川渡間)である。
現在の地図を見ると、梓川の支流である前川沿いの県道乗鞍岳線は、前川が梓湖に注ぐ1.5kmほど手前で川縁を離れ、3本のトンネルと梓湖を渡る大きな橋によって国道158号と結ばれている。この交差点の名前を 前川渡 (まえかわど)といい、湖に沈む前からあった旧来の地名なのだろう。 (この付近には奈川を渡る所に奈川渡、前川を渡る所に前川渡、根木の沢を渡るところに沢渡(さわんど)といった独特の命名法則があるようだ。)
なお、前川沿いの付替道路は昭和41年に着工され、43年のダム完成時に開通したという記録がある。
一方、県道乗鞍岳線は昭和39(1964)年に初めて県道認定を受けているので、ここには “湖に沈んだ県道” があるはずだった。
多くの水没旧道がそうであるように、現在の地形図には影も形も見えないけれども…。
、ダム完成直後に発行された地形図、昭和47(1972)年資料修正版5万分の1「乗鞍嶽」には、「大野川」という文字のすぐ上でトンネルに入らず右に分岐して、そのまま湖に突っ込む道が描かれている。
合流すべき旧国道も完全に湖面下にあり、この旧道が果たしてどの位置まで辿る事が出来るのかは水位次第と思われたが、実際には水位以外にも探索を難しくする要因があることを、私は現地で理解すること
高尾山から槍ヶ岳まで登るインカレ軽登山サークルのブログです♪
2014年度新規メンバー募集についてはこちら→→【http://blog.livedoor.jp/spring_climbing/archives/7220709.html】
【メンバー】 粂田 力 2015年3月21~22日 南アルプス深南部 寸又川山域の林道を調査 [1日目]寸又峡温泉-飛龍橋-寸又川右岸林道-千頭ダム-天地吊橋分岐-日向林道出合い-寸又橋-寸又川側から逆河内側に乗越すコル上-寸又橋-日向林道出合い-お立ち台-寸又川左岸林道-お立ち台▲ [2日目]お立ち台-1367.6-1670-1367.6-お立ち台-日向林道出合い-天地吊橋分岐-天地第一吊橋-千頭ダム-寸又川右岸林道-夢の吊橋-寸又峡温泉 夕食:手造りの店さとう 日帰り入浴:翠紅苑 今回の山行の目的は、不動岳ヒコーキ平尾根からアプローチをするために日向林道が通行が(完全に)不可能かどうかを調査しにいくこと 本記事と合わせて4ヶ月前の 丸盆岳東尾根 黒法師岳 前黒法師岳 周回 をご覧いただくとこのあたりの最近の状態がわかってくるかと思います 時期的には丸盆岳東尾根の方が紅葉も川の水の色も綺麗でした 私自身、学生生活最後の山行、記事になりますので寂しい限りです 林道情報気になる方のため写真を多めに またブログをご覧になっている新入生の方!この記事は個人山行と言って個人企画の登山です 全体登山でこんなにマイナーな山域へは入りません あくまで個人の趣味の世界ですのでそのへん心配しなくても大丈夫です 3月21日 今日明日は土日で観光の車も多いので、温泉街下の水車のある駐車場に駐車 1時間仮眠 おにぎり食べて、準備して 千頭林鉄の機関車をみる 作業員客車をみる カモシカを通り過ぎてゲート横のおばちゃんにあいさつして出発 天子トンネル手前に落石 まだ片づけてないところをみると最近落ちたのか 往きは体力温存するため飛龍橋をゆく 左に曲がれば前黒法師岳登山口や青薙沢、釜滝へ向かう大間川林道 沢屋さんたちの記録をみる限り最近は山犬の段から無理矢理、沢におりている人ばかりで大間川林道は通れるのだろうか?崩壊地は気合いで突破したとしていくつか朽ちかけた橋があったはず、、、 今日も起点は千頭ダムなので右岸林道を進む 尾崎坂展望台で休憩 また林鉄の機関車の
2018/4/27 17:24 《現在地》
異形に満ちた閉塞地点から、逃げるように撤収したのは7分前のこと。
今はもうトンネルからも脱出し、その足で特徴的なラッパ型坑門まで上ってきた。そして、おそらくもう二度とここから眺めることはないだろう夕日を眺めていた。
しかし残念ながら、この美しい今日の終わり際をじっくり堪能している暇はない。日が水平線に落ちきる前に、いくつかの難所を持つ海岸線を戻らなければならない。
復路、開始!
17:38
さっそくだが、ここまで来れば一安心だ。
いまは最大の高巻き(難場�D)を攻略し終えたところだ。
距離のうえではまだ4分の1も戻れていないが、往路で一番「危ない!」と思った難所がここだった。
先を知っている帰路だからこそ、許される時間になっている。
往路と同じ海岸だが、北海道の西の端から見送る北海道最後の夕日は、とても新鮮だった。
探索での大きな成果を抱えて帰る夕焼けの道は、何もかもが誇らしく、輝かしく見えた。
今回の北海道探索全体を通じて、今が幸せの絶頂だ。
“山行が”には勿体ないくらいフォトジェニックな景色に包まれながら、黙々と歩くことしばし、別れた時とは全く違う色を纏う、見覚えのある道が見えてきた。
「無事に戻ってきたぞ! 歓迎してくれるか、道よ!
いまの私は、知っているぞ。
お前の生き別れた片割れが、どうなったか。その現況を。
そして、“天狗トンネル”という、お前の生来の名も。
全てを知って、帰ってきたぞ!」
18:11 《現在地》
天狗覆道坑口前の閉鎖ゲート、自転車の在処へと戻ってきた。
ここから天狗トンネル北口までの海岸迂回の行程は、往路で約55分を要したが、復路は30分足らずで終わった。
通れる場所が予め分かっている状況だと、道なき道でもこのくらい素早く行き来できるということだ。
話の流れとしては、これにて大団円というのが最もすっきりしそうだが、忘れてはいない、ひとつだけやり残しがあったことを。
ここから始まる天狗覆道と、その奥に続く天狗トンネルの大成側部分を、まだ探索していない。
これらは、時間切れになることを心配して往路で先送りしていた部分だ。
最後にこれをやっつけよう。
まずはフェンスを越えて、その向こう側の水面へ飛び降りる。 バッシャン!
未成ゆえに一度も灯されることのなかったナトリ
2018/5/26 11:05 《現在地》
麗しの「四号橋」にたっぷり癒されてから、もどってきたぞ。
この不自然の世界に。
ほんと、なんなのこれ。
廃道探索者としては、廃道然とした旧国道が残っていなかったことを残念に思うが、別に非難や批判をしたいと思っているわけではない。
ただただ、ものの数年でこんなに自然を取り戻せるんだなっていう驚きから来る、「なんなのこれ」だ。
これなら、「自然破壊反対!」なんていうのは、単に自分の好きなものを壊されたくないというエゴで、自然は壊したら二度と元には戻らないなんていう、私が子供のころからいろんな場面で教え込まれてきた理論は嘘っぱちかと思ってしまう。仮に壊しても、人間様はそれを元に戻せるんじゃないかなんて、だいぶ傲慢なことも考えたくなる。
実際、金と手間を惜しまなければ、たいていの復元は出来てしまうのだろう。元に戻せないのは、気温とか、環境そのものが変わってしまった場合くらいか。そして、現実はこの“金と手間”が惜しまれるものだから、世の廃道の大半が廃道として放置されているんだろうか。
この緑の築堤も、そこから見える万景壁も、石狩川も、四号橋も、実にすばらしい眺めだ。
読者諸兄の中にも、もし観光ガイドブックにこの景色が載っていたら、行ってみようと思う人がいるだろうし、まして国道から徒歩2分の好立地だ。
この築堤をそのまんま遊歩道にして活用でもすれば良いのに、そんな様子は全くない。
北海道の大自然は恵まれているから、このくらいは見るに値しないのだという意見もあるかも知れないが、これはそんなにありふれた景色ではないと思う。
単純に、ここが国立公園の特別地域内だから、遊歩道ひとつ作るのにも国の許可がいるだろうし、いろいろ大変なんだろうか。
あまりにも風景が変わっているので、本当に最近までここを国道が通っていたのだという証拠を示す必要がありそうだ。
左図は、昭和52(1977)年の航空写真である。
これを「最近」というのは少し無理があるかも知れないが、旧国道が現役だった時期の航空写真でこれより新しいものを見つけられなかった。
しかし、40年ほども昔の風景でありながら、大型観光バスと思われる細長いシルエットの車が多く行き交っており、路面もちゃんと舗装されているのが明確に見える。
今日の一般的な国道と比較しても遜色のない、十
[62] この記事はSuikaWiki Worldでに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933232354
[63] 【山さ行がねが】ミニレポート第258回 机上レポート ~槍ヶ岳を目指した県道たち~, ヨッキれん, http://yamaiga.com/mini/258/main.html