釜ヶ渕

釜ヶ渕

[1] 上高地釜ヶ渕 (カマガフチ)

Webページ

[2] 近代化遺産を歩く, , http://www.shimintimes.co.jp/yomi/isan/isan71.html

松本市安曇の上高地へ向かうには、かつては恐ろしいほどに急で、狭く暗い旧釜トンネルを通った。そのトンネルを抜け、続くロックシェッドの間から見える

のが釜ケ渕堰堤だ。梓川の土砂流下を抑える高さ29メートルの壁は、ごう音とともに大瀑布(ばくふ)をつくり、晴れた日はエメラルドグリーンに輝く渕まで

演出する。動と静がつくる迫力ある光景を前に、これから挑む頂を思い、一層胸を高鳴らせた岳人も多かっただろう。

釜ケ渕堰堤を背にして、左方向で今も噴煙を上げる焼岳は、大正4(1915)年の噴火で大正池を出現させるほど、大量の土砂を噴出した。流域は広範囲で

土砂災害に悩まされるようになった。そこで昭和7(1932)年、国直轄の砂防工事が始まった。その要が梓川の峡谷部、釜ケ渕に造られた釜ケ渕堰堤だっ

た。

メーンの本堰堤は高さ29メートル、幅79メートルの国内最初期、最大級の石積みアーチ式堰堤で、18年に完成した。内部に玉石を埋め込んだ粗石コンク

リート造りで、表面に現地の石を加工した築石を張り、頑丈な造りにした。全体は大きく6ブロックで構成されている。断面にすると下の段を凹形に、上の段を

凸形にし、下段には大きな石も並べて接合部をさらに強化した。釜ケ渕ならではの丁寧な技法と評価されている。

コンクリートの材料にする岩石や砂利は現地で調達し、トロッコで運搬した。セメントは松本電鉄島々駅まで貨車で、その先はトラックに積んで運び、現場で

練り合わせた。工事には機械を駆使したが、人力に頼るところが大きかった。戦時下で国内労働力が足りず、過半数は朝鮮半島からの労働者だったという。残さ

れた工事写真の中には、きゃしゃな足場を頼りに、大自然に立ち向かう小人のような作業員の姿が写ったものもあり、土石流の危険や厳しい寒さとも戦いながら

の命がけの作業だったことがうかがえる。この完成以降、上流でも工事が可能になり、梓川流域の砂防体制は強化され、噴火で失われた一帯の緑も回復の兆しが

見え出した。

「今の技術でも完成までは当時と同じくらいの期間がかかるのではないか」。国土交通省北陸地方整備局松本砂防事務所の古山利也建設専門官は、平成18年

夏の豪雨災害後の補修なども担当し、その都度、堰堤に詰め込まれた先人の知恵と工夫に驚かされてきたという。

平成14年に国の登録有形文化財になった。堰堤は土

[3] アルプスSABO NEWS, , http://www.hrr.mlit.go.jp/matumoto/news/pno0476.html

平成25年3月27日(大安吉日)に、松本市安曇地区上高地地先で本年2月20日から掘削を開始していた釜ヶ渕排水トンネルが貫通しました。

工事受注者の㈱岡谷組、その協力会社、発注者である松本砂防事務所の関係者が見守る中、15時00分に最後の発破が行われ15時05分に貫通が確認されました。

この工事は、摂氏マイナス20℃にもなる極寒の中での施工であり、幾度か掘削機械等の故障が発生しましたが、無事故無災害で予定通り掘削し貫通させることが出来ました。

今後は、巻立て及び底版コンクリート、トンネル出入り口の処理(坑門工)を施工し、トンネル全体として今年の秋頃の完成を目指しています。

本工事の施工箇所にある釜ヶ渕堰堤は、施工当時(昭和19年竣工)の先端的な建設技術と、景観と調和した形態が評価され、平成14年9月に文化庁の登録有形文化財として登録されています。

釜ヶ渕堰堤は、長年にわたり上流からの土砂流出を調整し、梓川流域を守ってきた砂防堰堤ですが、厳しい気象及び度重なる洪水により、現在は老朽化が著しい状況にあります。

その為、松本砂防事務所では、釜ヶ渕堰堤の補強を実施するために梓川の流水の仮回し用のトンネルとして、釜ヶ渕堰堤の右岸側(下流に向かって右側)の山に全長約135mの排水用トンネルをNATM工法にて施工するものです。

[4] 釜ヶ淵 昔話, , http://www6.plala.or.jp/ebisunosato/kamagafuti.html

むかーし、瓜巣に五郎三郎(ごろうさぶろう)という家があったそうや。ある夜さり(夜)、見たこともないお婆さんが訪ねてきて、「えらいすまんけど、腹がへって腹がへってどもならん。何でもええで、食えるもんがあったら恵んでもらえまいか。」気の毒に思った五郎三郎のばば様が、おひつの底をさらえて残り飯を全部持たせたんやと。

二、三日過ぎた夜さり、またそのお婆さんが、食べ物をもらいに来た。おかしいと思ったが、まあかわいそうやと思って、そこらにある物を持たしてやったんやと。そしたらまた、二、三日してやって来たので、こりゃおかしい。ただ者ではないぞと思ったが、その時も食べ物を持たせてやったんやと。

そのあとで、「ありゃ化け物や。ここらに住んでおらん人が何度も来るはずがない。それも、こんな不便な家へ夜さり一人で来るなんて人間ではない。こんな化け物は退治した方がえからず(良い)。」家の者と相談して、トリカブトの根とサンショウの実をすりつぶして、練って団子の中へ入れて待ちこんどったら、ある夜さ、「たびたびでうたてえけど(申し訳ないが)、また飯をもらえんかな」といって、お婆さんがやって来たんや。知らん顔で、その毒入り団子をやると、お婆さんは喜んで、何度も礼をいって帰っていった。

次の日、釜ヶ淵に化け物みたいなでっかい岩魚が浮いとると、人がさわいでおった。ばば様が行ってみると、なんと三尺のようもある(三尺以上もある)かと思われるでっかい岩魚が死んどるんや。みんなで引き上げて、腹を割いてみると、家でくれた団子がでてきた。

「かわいそうじゃ、ありゃまあ岩魚やったのかよ。そんならそうといってくれりゃえかったね。申し訳なかったな、悪かったな。堪忍してくろよ。そんねでこうなっては、(そんなに大きくなっては)釜ヶ淵のえさで足らなんだはずじゃ。」五郎三郎のばば様は、そういって泣かさったと。

「国府のむかし話」より

[5] 隧道レポート 釜トンネル <古釜編>, , http://yamaiga.com/tunnel/kama/main7.html

平成17年に廃隧道化し、まさに魔窟と呼ぶに相応しい姿になりつつある、上高地のかつての衛兵「釜トンネル」。

一部の照明が今も照りつづける洞内には、現在の釜トンネルに繋がる連絡坑(釜上トンネルの一部)や、冬期間に利用されたという脱出口(採光窓)に加えて、コンクリートの壁の穴の裏には、 「古釜」と呼ばれる旧旧隧道が現存していたのである。

「古釜」が開通したのは昭和2年といわれ、当初は発電所建設のための工事用軌道であった。

昭和3年に工事が終了した後は自動車道となり、以後は上高地へ至る唯一の車道として、長い歴史を刻むことになる。

この古釜トンネルは全長320m、幅と高さは2m少々の、大変に狭隘なものであった。また、洞内は全線にわたって急勾配で、15%という急坂が続いていた。

古釜を含む車道は、昭和8年に正式に公道とされ、県道松本槍岳線に指定された。

同年には大正池の畔に「上高地帝国ホテル」が完成し、バスが通うようになる。

翌9年に上高地は「中部山岳国立公園」の指定を受け、日本を代表する山岳観光地として発展を始めるのである。

だが、この年の長雨で、中ノ湯から古釜トンネルまでの梓川沿いの県道が寸断されてしまう。

この抜本的な解決策として、決壊した梓川沿いの区間300mほどを廃止し、代わりに従来の釜トン内部から分岐する新トンネルを掘って、中ノ湯付近まで一気に地中を通すことになった。

この計画に則って昭和12年に完成したのが、以後平成17年まで利用されることになる、おなじみの「釜トン」である。

新トンネル部分は266mで、幅・高さともに4m強という、従来よりも余裕のあるサイズで作られた。そして、トンネルの全長は約510mになった。

以上をまとめると、「古釜」ルートは昭和2年に軌道として造られ、3年から車道化、8年にはバスも通ったが、9年に決壊し、12年に正式に廃止されていることになる。

まさに、釜トンの“知られざる過去”、“幻の初代”というべきルートだ。

2008/9/9 13:23

約2ヶ月ぶりの釜トン。

今回は一人きりだ。

沢渡にクルマを停め、そこからは例によって国道158号をチャリで上ってきた。

坑門に二つ並んだ坑口は、左が前回探索した旧釜トン、右が現在の釜トンである。

古釜への近道は左だが、例によって警備員+鉄扉の鉄壁ガードがある。

ここは黙

[10] 信州山小屋ネット 信濃毎日新聞社, , http://www8.shinmai.co.jp/yama/article.php?id=YAMA20070208004020

国の登録有形文化財に指定された松本市安曇の砂防ダム「釜ケ渕堰堤(えんてい)」が昨年7月の豪雨で破損していたことが分かり、管理する国土交通省松本砂防事務所は来年度、当時の工法を使って復元する。同堰堤は、上高地入り口付近の梓川に1944(昭和19)年に造られ、手作業による美しい石積みが特徴。堰堤上部の2カ所で石積みがはがれている。

同堰堤は、高さ29メートル、長さ79メートルのコンクリート製。摩耗を防ぐため、表面を石積みで覆ってある。水が流れ落ちる中央部約24メートルのうち、2、3メートルずつ2カ所で石積みがはがれ、へこんだようになっている。

上高地では昨年7月15日から5日間で計500ミリ以上の降雨を記録。直後の調査で破損が見つかった。

内部のコンクリートに損傷はなく、堰堤が崩れる恐れはないが、同事務所は当時の文献などを調べ、現地の石を破損部分の形に加工して復元する。費用は調査費を含め数千万円を見込む。

同堰堤は、国内の砂防ダムで初めて上流側に曲線を描く「アーチ式」で造られた。資材使用量が少ないメリットがあるとされるが工事は難航し、8年をかけて戦時中に完成。2002年8月に登録有形文化財に指定された。同事務所は「険しい地形で水量も多いので工事は難しい。文化庁とも相談し、補修方法を慎重に検討したい」としている。

[11] 初夏の上高地○旧釜トンネル・釜上洞門へ続く道路 ( 長野県 ) - みのみのの「清流梓川のせせらぎ・上高地」 - Yahoo!ブログ, , http://blogs.yahoo.co.jp/minominofx66/1384481.html

新釜トンネル・北側坑口のある稜線沿いに下流側へ続く一本の道路があります。この道路が旧釜トンネルへと続く長野県道24号上高地公園線の旧道です。新釜トンネルが中ノ湯から産屋沢までいくつもの稜線の内側を突き進んでくるのに対し、旧道は釜ヶ淵と呼ばれる梓川の流路勾配が急激に大きくなる部分付近まで梓川の縁を走り、旧釜トンネルに進入します。

この旧釜トンネルを実際に歩いてレポートをされている方です。以前、国道158号線旧道「沢渡〜中ノ湯」レポートと同じ方で、私もこのジャンルに強い興味を持ちました。

[12] 道路レポート 国道158号旧道 沢渡〜中ノ湯, , http://yamaiga.com/road/r158_sawando/main7.html

16:07 【現在地】

急死しかねない危機を体感した直後で心臓はバクバク。

この時の私の精神は常時とは違う恐慌状態にあったのだが、実際に私の無防備な尻餅を目にしていた相方を余り心配させたくないのと、自分自身を出来るだけ平静にさせるべく、「えへへ危なかったぜ!」の軽いノリで、やり過ごすことにした。

幸いにして、今いる場所には平坦な地面があって、私も1分とたたず、探索時の平常心を取り戻したと思う。

(真に冷静に考えれば、この場所もいつ人頭大の落石が落ちてくるのか分からないような危険箇所だが、直前に較べれば遙かにマシな場所なのは確かだった)

そして、先ほど危機に遭う直前の記憶が確かならば、次のカーブの先には久々のロックシェッドが待ち受けていたはずだ。

オブローダーとして、橋やトンネルは当然だが、それに準じる大がかりな道路構造物である洞門やロックシェッド・スノーシェッドなども、ポイントの高い成果である。

まして事前情報にない発見ともなれば、おそらく多くの方が思う以上に私は大喜びする。

大小の落石が堆積し、本来の鋪装された路面が全く見えなくなってしまった路盤には、落石の他に、“ここにあるべきでは無いもの”の姿があった。

それは、ぐちゃぐちゃにひしゃげた 落石防護柵の残骸 。

こいつはここで落石と一緒に寝っ転がっていて良い存在ではない。本来は、こうした落石から路盤を守るという尊い使命を持っていたはず。

そいつの“あるべき場所”に目を向ける(→)。

なるほど、こいつは 無理 だ。責めてゴメン。

むしろ責めるべきは設置者だ。どうしてこの場所にこの落石防護柵で「いける」「やれる」「だいじょうぶ」「安心だよ」「にゃ〜」って思ったのか、小一分くらい問い質したい。

本当に申し訳程度に下の方だけコンクリートの吹き付けがなされていて、それより上の大半の崖は裸である。

この裸の崖からの膨大かつ超高速の落石は、ぜんぶ落石防護柵で受け止めようとしていたのだろうが、それは無理な話だろ。

まあ、現実に落石の被害にあった訳でも無い我々が真に不満を感じるはずもなく、むしろ「管理者GJ!」なんて言いながら親指を立てていたわけだが。

そうして次のカーブを曲がると…

ありました〜〜♪ ロックシェッドちゃん!

ただしこの周囲は直前までより明らかに緑が豊富で、それだけに、ロックシェッドが本当に欲し

釜ヶ渕堰堤

釜ヶ渕堰堤

履歴

[21] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933235856

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