清白士集

清白士集

[7] 清白士集は、 清の梁玉縄の書籍です。

成立

[8] 著者は、 清の梁玉縄 (梁玉绳, 字: 曜北, 別字: 諫菴, 号: 清白士)。

[9] 清白士集序目は、著者を「君名玉繩字曜北別字諫菴」と説明し、 「清白士」を梁玉縄の号としている。

[10] 書誌では弟の梁履縄を著者とするものもあるが、別人。

[50] 梁玉縄の生没年諸説 :

生年 没年
>>51
>>52
>>54
>>53??
>>56??
>>58? ?

[55] 自序にの日付があり (>>19)、 >>38 に付けの一人称の記述があります。 これらが著者梁玉縄本人によるものと考えるなら、 説は成立しません。

[64] 庭立記聞の序文の後半に、

諫庵年六十九,長余二歲。

とあります。>>60

[65] 諫庵 = 梁玉繩が六十九歳で、筆者諸以敦より二歳年長だったと記しています。 これは、 当時梁玉繩が生存していたことを示す、 同時代の明確な記録です。

[66] さらに、諸以敦は今後も梁玉繩が父である学士梁先生から聞いた知見を子や甥に書き取らせ、 自分も校訂を手伝いたいという趣旨を述べています。 >>60

[57] なお、梁履繩については、 - とされます。 >>51


[19] 序目自記に「庚申秋三月」とあり、 。

[20] 序目には、孫志祖による清嘉慶五年庚申(1800)冬十二月の序も収録される。


[23] 庭立記聞の序は、 「附梓清白士集後」と述べる。 これは、梁学昌が父梁玉縄の記聞類を編輯して 清白士集の後に付したことを示している。

[59] 庭立記聞の序は、 嘉慶壬申 = 清嘉慶17年(1812)5月15日の諸以敦によるもの。 >>60

[61] 庭立記聞序文に、

己巳重九,小集清白堂,諸郎出草冊示余,且乞為名之。

... とあります。すなわち、己巳(1809)年の重陽節に清白堂で集まり、 梁玉繩の息子たちが草稿を諸以敦に見せ、書名を付けるよう求めました。

[62] 続いて、

展讀終卷,皆記乃翁考古答問之語,及撰造所未刻者,因題曰庭立記。

すなわち、草稿には父梁玉繩が古典を考証して問答した内容と、 まだ刊刻されていない著作が記録されていたため、 諸以敦が庭立記と名づけたとあります。

[63] さらに、三年後のことを次のように記しています。

閱三歲,仲季先後出宦,惟蛾子秀才侍親家居,請余刊定此編,附梓清白士集後,固雅志也。

すなわち、三年を経て次男・三男が官職に就き、 長男の学昌だけが家にいて親に仕えていたため、学昌が諸以敦にこの編の校訂・確定を依頼し、 清白士集の後ろに付して刊刻することになった、とのことです。

内容

[12] 清白士集序目に掲げるは六種で次の通りの計二十八巻。

[18] 序目所収梁玉縄自記は「續刊拙集,合六種、為二十八卷」と述べている。


[22] 国立公文書館本の目録には「二十八巻・庭立記聞四巻」、冊数は二十四冊とある。 >>39

[21] 宮内庁書陵部の目録には二十八巻・補遺一巻の嘉慶刊本が見える。 補遺の詳細は不明。

[40] 清白士集本元號略四巻補遺一巻として書誌一覧に収録された事例もある。 >>34

[36] 蔡雲の清白士集校補四巻がある。 >>5 光緒二十九年(1903)劉氏刻本がある。

[37] 清史稿の著録は梁玉縄の清白士集と蔡雲の清白士集校補を別々に掲げる。

[80] 清白士集校補のうち少なくても元号の部分は、 元号略補遺一巻に取り込まれている (>>46)。

電子版

[1] 清白士集, https://www.digital.archives.go.jp/file/1084469

[2] 清白士集 - Chinese Text Project, Donald Sturgeon, https://ctext.org/wiki.pl?if=en&res=1884447

[3] 清白士集内容及目录-识典古籍, https://www.shidianguji.com/ens/book/CADAL01025783/chapter/1l454doc8g750

[5] 聚學軒叢書 第1集第20册, 清劉世珩輯, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2581809/1/32 (要登録)

[43] 清白士集, https://www.digital.archives.go.jp/file/1084469

元号

[4] 巻12 - 巻15 元号略

[24] 序からは、梁玉縄が庚戌(乾隆五十五年、1790)夏に編纂を始め、癸丑(乾隆五十八年、1793)に序を記したことが読み取れる。

[25] 序文は、「癸丑良月」に梁玉縄が「余自庚戌之夏……輯元號略四卷」と記したもの。 清乾隆五十五年(1790)夏に編纂を始め、 清乾隆五十八年(1793)に序を付したことになる。

[26] 序文が説明する編纂方針は以下の通り。

[33] 前三巻を通常の年号群、第四巻を擬而未用・無考の「佚号」群に充てる。


[42] >>41 末尾に「姪許乃賡校」とあります。


[45] 識典古籍本巻28の末尾の補遺部分 >>38 は、 国立公文書館本元号略末尾の補遺部分 >>44 とおそらく同一。

[47] おそらく両者は同じ版に由来するもの (細部に変更がないかまでは未確認)。しかも本編と別紙なので、 もともと異なる位置に補遺が付けられて流通していたのか、後から異なる位置に付属されたのか不明。

[48] >>38 の 130 は一部消失していて、画像処理の何らかの不具合なのか (それにしては不自然) 原書に何らかの細工が施されているのか (それも不自然) 不明ながら、 >>44 の #39 は完全。

[49] 消えている部分の最初の行は見出しで、 「壬申春陸萊又續校増」 とある。

[67] 補遺の前半は日本の元号。 次のようにあります。

余輯元號略,摭采日本號名,恨無從訂其缺誤。

嘉慶乙丑夏五,仝里王覲宸自日本歸……

元號略付梓已久,不能刊改,因依次比敍卷末,補所未及,并著其異仝以備攷。

[68] すなわち、 著者梁玉繩はすでに元號略四巻を刊行していました。 しかし、日本の年号については、欠落や誤りを十分に確認できないことを課題としていました。

[69] そこに、同郷の王覲宸が日本から帰国し、 日本で刊行された 新刻大成年代廣紀 一紙を持ち帰ります。 梁玉繩はそれを十日余り借りて閲覧し、従来参照していた鍾淵映所引東鑑の記述と比較しました。

[70] その結果、修正・補充すべき事項があると判断したものの、 すでに刊行済みの四巻を改刻することはできませんでした。 そこで、 嘉慶乙丑 = 嘉慶10(1805)年5月、補遺を巻末に追加したのです。

[71] 梁玉繩が利用した資料は、本文によれば嘉慶5(1800)年までの情報を含んでいました。

[72] 補遺は日本年号のリストと「凡補專號八十三,重號二十六」という記述の後に、 次の文章が続きます。

子友梁諫菴著元號略四卷,搜考極博……閒有疏漏,予爲補之。

そして最後に、

諸以敦

と署名されています。

[73] したがって、ここでの「予」は諸以敦を指します。 諸以敦は、梁玉繩の元號略が広く調査された著作であることを認めながら、 なおも漏れがあるため、自分が補ったのだと説明しています。

[74] さらに、次のように述べています。

年來予有篹述,每就正,諫菴隨時削改,此所校,亦以報也。

[75] すなわち、諸以敦自身も著述を行っており、その都度、梁玉繩に見てもらい、 修正してもらっていた。今回はその恩に報いるために梁玉繩の著作を校訂した、 とのことです。諸以敦と梁玉繩との継続的な交流関係がうかがえます。 偶然手にした後世の別人の追補ではなく、同一の学派内部での研究の進展を反映する作業といえます。

[76] そして増補校訂は更に続きます。

[77] 「庚午秋陸萊仲又校增」として、西暦1810年庚午秋に陸萊仲が増補しています。

[78] 「壬申春陸萊又續校増」として、西暦1812年壬申春に陸萊仲が増補しています。

[35] 清白士集校補所収補遺 >>6 として別に刊行されたもの。

[46] >>44 の #36 からの部分と同内容。


[81] 元号略はその後の元号研究で参照された他に、古銭研究でも銭文の元号名に関係してよく参照されたようです。

関連

廣記

[79] 紀元編


[83] 古事類苑が元号略から一部引いています。 >>82

メモ