天龍

天龍

[23] 天竜 (旧字体: 天龍) は、日本の異年号の1つです。

元号名

[24] 新字体は天竜です。

[25] 旧字体は天龍です。

用例

日時事例

[37] 不動尊は現存し >>21, >>20, >>19、 現在も「密教伝来以来の不動尊像」なるものがあるとされます >>21。

[38] それに銘文があったのではないかと思われますが、 銘文らしきものに触れた現代の文献は見当たりません。

[52] 当地は慈覚大師 ( - ) が修行した場と伝わります。

[53] 奥羽観跡聞老志は、洞内に「平治二年」の文字があると書いています。 >>32 /251 銘の何かが現存するのかは不明です。

諸説

[29] 現在までに一例のみ知られていますが、実物の現況は不明です。 江戸時代のうちに既に銘文読み取りが困難になっていたようで、 「天竜元年」との解読の正確性には不安が残ります。

[56] まずは実物を調査し銘文を明確にする作業が必要です。


[54] 享保時代の研究者は、天竜は不明とし、それ以上の判断を避けました。 (>>26)

[55] 伴信友は妖僞年號 (>>3) と判断しました。信用できない怪しげな元号という判断です。 妖僞年號

[57] 媒体の仏像である可能性あるものは、 「密教伝来以来の不動尊像」 (>>37) とされています。その判定の根拠は不明瞭ですが、古めかしく、 慈覚大師の伝承と合致することによるものでしょうか。

[58] もしこの仏像の制作年を表すのだとすると、平安時代初期ということになるのでしょうか。

[59] 奈良時代末期に天應、平安時代初期に天長、天安があります。 天長・天安は慈覚大師の在命中に当たります。

[60] 不鮮明なこうした文字を読み違えたとも考えられるところですが、 実物を調査した享保時代の研究者も元号一覧を眺めながら解釈を考えたはずで、 それでも竜と読んで不明としたことは無視できません。

研究史

[26] 享保元年、 仙台藩主の伊達吉村は 薬師堂因縁記 を編纂させました。 本書は泉明寺薬師堂と塩滝不動明王に由来を調査し書き上げたものでした。 >>34

[35] 薬師堂因縁記 >>34

往古ハ此窟ヲ堂トシテ薬師如来ヲ安置ス、 窟中ヲ見レバ朽タル柱・格子ノ形モ遺レリ、 不動尊ノ石造ニ銘識アリ、 天竜元年ノ四字隠然タリ天竜ト云年号詳ナラズ又側ニ寺の旧址も見ユ

[18] 本書には、塩滝不動尊の石造に「天竜元年」の銘文があるものの、 「隠然」たるさまであったこと、 天竜という元号は不明であることが記載されています。 >>35

[39] 本書は昭和時代時点で泉明寺檀家佐藤家に所蔵されています。 ごく一部のみ低解像度の写真と引用が自治体史に掲載されています。 >>34 /264


[3] 江戸時代後期に伴信友が書いた年号の論に、 妖僞年號の一つとして天龍が挙げられています。 >>4

[2] 伴信友の逸号年表補考貼紙に、

陸奥名取郡秋保郷湯本村薬湯山 泉明寺薬師縁起𛂌不動石像 銘𛂌天龍元年と有り云〻

右縁起ハ享保中同寺僧侶の作𛂌候

此温泉ハ名取のミ湯𛂌候

(草書) とありまって、 >>16 が紹介されています。 >>1 これが (元号名のみの >>3 を除けば) >>16 に関する唯一の現存する情報です。

[5] 逸号年表貼紙は後世のものもありますが、年号の論にも記載があるので、 天龍は伴信友自身によるものと考えられます。

[6] >>2 によると、

... とのこと。

[15] 当地には秋保温泉が今もあります。その別名は名取の御湯。

[9] 薬師縁起とは 薬師堂因縁記 >>35 を指しているのではないかと思われます。

[28] 伴信友が秋保を訪問したとする記録は見当たりません。 伴信友が現地で薬湯山泉明寺薬師縁起の原本を見たというよりは、 写本なり現地人からの情報提供なりで知った可能性が高いと思われます。

[40] 伴信友の書き方では、泉明寺薬師堂に不動像があって「天竜元年」 と書かれているように読めます。しかし、 現在泉明寺にそのような不動像があるとの情報は見当たりません。

[41] 伴信友は同書に泉明寺薬師堂と塩滝不動の両方の縁起がまとめられているとは知らず、 断片的な情報しか得ていなかったのではないでしょうか。


[45] 藩政時代の著 >>32 /286 とされる作者未詳 >>32 /36 の 秋保瀑布見の記 は、 秋保大滝への道中で塩滝不動を訪問したことを記録しています。 >>32

[42] 本書は 秋保名勝写真案内記 に収録されています。 秋保名勝写真案内記 は昭和17年に編集された非売品です。 現在では宮城県図書館に所蔵が確認できます。 >>44, >>43, >>32 /248

[33] >>32

五、秋保瀑布見の記

『秋保名勝写真案内記』所収、茂木文庫蔵

音にのみ聞きわたりし秋保の瀑布見にゆかん事を思ひたちて、 友とする人三たりよたり、神無月三かの日、草の戸を立出はべ りぬ。道の案内知る人もなければ、広瀬川の流れに沿ひて行く よし、かねて聞しることをしるべにたよりつゝ落合といふ辺り の橋をも過ぎ、愛子の里にいたる。爰に友どちの知れる人のあ る由にてその屋を訪ひて滝のふもとにいたる道すがらの事をく はしく尋ね問へば、露分衣のひるまも過ぬればいかに急ぐとも 日の暮るゝのちならでは彼のほとりに至りがたく、とひみる甲 斐もあらじ、今宵は湯本の里に宿り、翌るあしたのとくにいな ば興もありなんなとさゝやくを、人もわれも同じ念にもよほさ れて、さらば教へのまゝに仮枕せんとて、そのたよりあるかた におもむく。山又山をいくへともなく分行く所なれば人々越へ なやみ、登ればくだるなと佗あへぬ。此の言の葉は、最上川に てそ耳なれつれどかへる折にもいとおかしくきゝなされて、行 く〱のぞき橋にいたる。高くそびへたる巌のうへに架りたる 橋なればふむもいとあやうけれどしばらく足をとゞめ水上より なかるゝ末のみ見る限りを見はたすに、そばたちたるいはほ、 いくむらといふ限りもしらす立つゝきてひまひまを水のなかる ゝさまいはんかたなく絵にかゝまほし。そのあたりに慈覚の旧 跡とて洞窟あり。不動の碑を安置せり。碑のうらに天竜元年と 刻りつけあるよし聞つれど霜雪のいたくふりにしゆへか、文字 の姿も見へず苔のみ蒸したり。かたはらの松が根によりて、や すらひながら眺め見る。遠方の高峯緑に晴れて半ば雲を帯びま ぢかき山は染つくす、木々の紅葉に埋れて紅より外の色なく、 水行川の流れ岸の巌のたゝすまひ、さらに此国のさまともおも はれず、仙人の棲むてふ境に入りたらんかとあやまたれて、日 のくるゝをも知らずながめいり、行先も忘られしが入相の鐘に 驚き、からうじて湯本の里に行つきぬ。爰に温泉あり、是なん 名取の御湯也。湯守といふ植生の小屋に宿りよもすがら湯あみ して、明るあした末なをくらきに 立いでゝ滝のかたに おもむ く。道すがらのけはい、昨日のさまにもおさ〱おとらず。ひだ りみぎの山端ことに紅葉して、さながら錦のとばりを張りたら んがごとくなるに羽山といふ小山のみ、ひとり松杉の緑深く繁

[46] これによれば、

... ということになります。 >>33

[50] これは10月3日のことでしたが、何年かは不明です。

[51] 思い立って広瀬川沿いに一日で到着できる、 ということですから、仙台城下あたりに住んでいた知識人でしょうか。 おそらく江戸時代の中後期頃 (享保よりは後) に、そうした人々の間に「天竜元年」石像があるらしい、 という情報が伝わっていたと推測できます。


[22] 情報が少ないためなのか、その後の私年号研究では触れられることなく忘れられています。

関連

[31] >>301 北宋の真宗の天龍二年。天禧の誤植か。


天竜 (法元天皇)

メモ