[1] 日本近江国野洲郡篠原に、 鬼室集斯墓碑があったとする説があります。
[775] 近江蒲生郡志 所引 楓亭雑話 所引 南都大安寺資財録 には、 近江国野洲郡篠原に、 鬼室集斯墓があったと書いていました。
[382]
近江蒲生郡志や近代のいくつかの文献が、
これと同系統の文献を根拠に、
篠原に鬼室集斯墓があったと書いていました。
[392]
しかもそれは境界の目印とされたものですから、それなりの大きさの物と推測されました。
[429] 東桜谷志は、 これを根拠に篠原に墓があったと言われていたとし、 その墓とされる古墳が野洲町にあるとしていました。 >>1080 p.43
[383] ところがその根拠となった資財録は不審な点があると指摘されていました。 現在では椿井文書ではないかといわれています。
[403]
平成時代初期時点での「近年」、
日本国滋賀県野洲郡大篠原字山田の、
上下に段差のある田の畦がやや広くなった所にある大小2個の石と、
畦の下部 (下の水田面) にある数個の割石の露出が発見されました。
>>360 (
[405] 平成時代初期時点での所有者の山川源蔵によると、 大きい石は、 不整型であるが加工がされていて、 高さ約32cm、 幅約23cm、 長さ約28cm であり、この土地のものではありませんでした。 小さい石は、 不整型であるが人工物か否か不明で、 高さ約12cm、 幅約24cm、 長さ約24cm であり、 この土地の砂岩でした。 >>360
[406] 下部の割石のようなものから、 構造物であることは、 おおむね間違いないだろうとされます。 墓石であるか否かは不明です。 >>360
[404] 日本国滋賀県八日市市の郷土史家塚本義一と大篠原の大笹原神社宮司山川和泉が発見しました。 両氏は、 資財帳 の記述に合致するため、 鬼室集斯の本墓にほぼ間違いないとしました。 >>360
[407] 山川源蔵は、 旧所有者の福永一太郎からも、 鬼室集斯の墓石であるとの伝承は聞いていないといいます。 >>360
[409] この遺構は、 時点で既に破壊され工場用地が造成されていました。 >>360
[2]
本墓碑は鬼室神社所在の鬼室集斯墓碑の信憑性への疑問の根拠の1つとして江戸時代以来使われてきました。