[35] 平安時代末期の承安2(1172)年、 泰平や万平に改元されるとの噂が京都にありました。 日本私年号の研究 pp.四八〇-四八一
[114]
新字体は
[148] 2件の記録が現存します。
[149] 玉葉 は、 九条兼実 (-) の日記です。 からの記録があります。
[150] 著者の九条兼実は、当時は右大臣で、朝廷でもトップクラスの地位にありましたが、 後白河法皇と平清盛の権勢の盛んな時期であり、政治的影響力は限定的だったとされます。
[151] 文中で話し相手として登場する日野兼光 (-) は、 朝廷の実務官僚として後白河法皇, 平氏, 九条兼実らに重用されたといいます。 当時は左少弁でした。
[152] 話の中に出てくる平親宗 (-) は、 院近臣として後白河法皇に仕え、 平家都落ちの後も京都で地位を保ちました。 当時は右少弁でした。
[153] 百錬抄 は、 鎌倉時代後期頃成立とみられる史書です。 公家の日記などを素材に編纂されています。
[154] 当条の出典となった原資料は見つかっていません。
[157] 当事件については、 玉葉 と 百錬抄 の2系統の記録があります。 以後の史書等には、これらと微妙に異なる表現や出典を明示しない記述もあるものの、 両者から大きく離れるものではなく、根本的にこの2書から派生したものと推測できます。
[158] 玉葉 と 百錬抄 の両記事の関係を議論したものは見当たりません。 百錬抄 は諸日記から取材しており、玉葉が当該記事の出典である可能性は否定しきれません。
[159] そこで両者を比較すると、
| 玉葉 | 百錬抄 |
|---|---|
| (10日) 終日降雨、雷発拝 | 申尅有雷鳴二聲 |
| 13日 | 10日 |
| 濫觴被尋問 | 公家被誡仰 |
| 万平 | 泰平 |
... と、微妙な内容の差異があります。どちらも10日には雷の記事がありますが、 その内容にも違いがあります。また、玉葉は10日雷記事と 13日改元デマ記事の間に色々な記述がありますが、 百錬抄にはそれがありません。
[160] この両者に直接的な関係があると認定することは難しく、 一応両者は独立の原資料から派生した可能性が高いと考えるのがよさそうに思われます。
[161] 此れら以外の史料は報告されていません。万平ないし泰平が実用されたことを実証する史料は、 現在のところ皆無です。
[162] 元号名を玉葉は万平 / 萬平、 百錬抄は泰平としています。
[163]
どちらも平こそ共通ですが、万/萬と泰は音も字形も似ていません。
[164] 玉葉/百錬抄とも同時期に掛けた記事であり、 同一系統の風聞に属するものと考えられますが、 どちらか一方が正しいのか、どちらの噂もあったのか不明であり、 どちらの噂があったとしても、原形がどちらだったのかも不明であります (>>70)。
[165] 仮に一方のみが正しいとすると、 百錬抄は後世の編纂、玉葉は要人の日記であり、万平が確実 (原形に近かろう) と考えられています (>>40)。
[166] ただ、万平は市井で直接噂に触れた者の記録でなく朝廷の上層部まで上がってきた情報の記録であります。 百錬抄の情報源は不明ながら、九条兼実よりは下級の貴族の日記と想定されますから、 より生の風聞に近い位置で記録されたと考えることもでき、 その場合泰平の方が原形に近い可能性はあります。
[167] 玉葉 の記事は、 平親宗が語ったものを、 日野兼光が伝え、 九条兼実が書き記したものです。 この3人はいずれも当時朝廷の幹部であり、 京都で職務に従事していたと考えられます。
[168] 百錬抄 の記事は、 その原資料の著者は不明ですが、 公家の日記でしょうから、 やはり京都で記録されたと考えられます。
[189] 玉葉 には 「天下風聞」、 百錬抄 には 「諸国」 とあります。 おそらくこれらに由来し、諸国で流言があったと説明されています。
[169] ただし、ここでの「天下」「諸国」について、 具体的な範囲や情報源が明記されているわけではありません。 諸国から報告が上がってきていた、 という可能性がないともいえませんが、その証拠となる史料はありません。
[190] 「天下」「諸国」はあちこちから情報が聞こえてくる、という程度のニュアンスとも考えられ、 一応現状では保守的に京都近辺に噂があった、と理解しておくのが良いでしょう。
[191] 伊勢外宮を含む京都近辺とする説 (>>74) もありますが、 これは伊勢神宮から報告のあった怪異の件 (>>47) と結び付けての推測と考えられます。 伊勢神宮もこの噂の流通範囲と考えるべき確証があるわけではありません。
[170] 玉葉は承安2年閏12月13日条に記事を掛けていますが、 日野兼光から情報を得た日付であり、実際に噂が流れ始めたのはこれよりもずっと前となります。
[171] 百錬抄は承安2年閏12月10日条に記事を掛けていますが、 「近日」としており、しかも「被誡仰」としており、10日に「被誡仰」 があったと取れます。だとすると、実際に噂が流れていたのはそれよりも前で、 無視できない規模になって10日に「被誡仰」したことになります。
[172] いつから噂が流れたのかはこれらの史料からは決められませんが、 おそらく閏12月か12月頃で、どんなに長くても数ヶ月以上前からではないでしょう。
[176] この時期、実際には公年号の改元は行われていません。 改元が必ず行われるべき事情 (代始改元など) もありません。
[177] 改元に向けた動き自体はあったのではないかと考える向きもあります (>>59)。 しかし、それを裏付ける記録は見つかっていません。
... という手順を進みます。つまり、元号名が決まっているのは最終段階です。 決定した元号名の情報が出ているのに、 朝廷の人々が改元の実施を知らない、というのは有り得ないことです。
[203] 玉葉をはじめ当時の公家の記録が多く残っているこの時代に、 本来進んでいた改元手続きの記録が丸々抜け落ちて現存しない、 というのも考えにくいことです。
[179] 院政/平氏政権の時代も正式な改元手続きが天皇の朝廷で進められることには変わりなく、 もし本当に改元の準備が進められていたなら、 玉葉の著者の九条兼実が把握していないはずがありません。
[187] しかも朝廷本体ではなく後白河法皇や平氏の側で改元の機運が高まっていたとすると、 そちらサイドに属していた平親宗が知らないはずがありません。
[173] 百錬抄は10日条で「公家被誡仰」とします。 その「誡」の具体的内容、相手方の範囲、処分の強さは不明ですが、 朝廷は
... を各位に指示したと理解できます。具体的に誰の決裁で処分が行われたのかも不明瞭です。
[174] 玉葉は13日条で改元デマを日野兼光からの伝聞として記録していますが、 改元デマへの対処を協議したわけではなさそうです。 九条兼実はこの処分に関与していなそうに読めます。
[218] また、大日本史など近世・近代の文献は、 かなり厳しく禁止処分が下ったように読める書き方をしていますが、 史料上はそうとも断定できないことに注意が必要です。 九条兼実が知らない、玉葉に記載しない程度で処理された事案です。
[175] 玉葉には「濫觴被尋問」とあり、 改元デマの流布元に興味が向いていたことがわかりますが、 朝廷として組織的に調査していたのか、 公家の中で話題になっていただけなのか曖昧で、どちらかといえば後者に感じられます。 九条兼実の名が上がったものの、 (九条兼実寄りの立場とみられる日野兼光から間接的に知らされただけで) 事情聴取されているわけでもなさそうです。 (といっても本当に九条兼実が黒幕だった場合、これを公然と糾弾できる立場のものはそれほど多くなさそうですが。)
[207] 玉葉, 百練抄とも、「改元がこれからある」という風聞なのか、 「改元が既になされた」という風聞なのか、必ずしも明確ではありません。
[208] 他の改元デマの事例から考えても、そもそもデマとして流布される状態で、 どちらか明瞭でない表現の可能性もあります。
[209] 「改元が既になされた」ないし「ただちに改元が施行されるところである」 と受信者が理解したなら、新元号を実用した者もいたかもしれません。 しかし、現在それを確認できる史料は知られていません。
[210] 朝廷が「誡」したのも改元情報の流布に対してなのか、偽新元号の実利用に対してなのか不明瞭です (>>173)。
[211] 諸解説の中には、私年号であるとか、 一部で利用されたものであるような書き方をしているものが見られますが、 独自の根拠があるようには見えません。
[181] 現存する記録は京都のものと推測され (>>169)、その他の地域には記録がありません。 京都が発生地である可能性は高いですが、それ以外の可能性を排除できる史料的根拠はありません。
[192] 京都 (またはその周辺) のどのような人々の間で流通していたのかは定かではありません。
[193] 民間、と説明するものもありますが、2史料に明確にそのような表現があるわけではありません。
[194] やがてそれが朝廷に到達したのか、はじめから公家の中で流れた噂だったのかは不明ですが、 ともかく公家の間で話題となりました。 玉葉は九条兼実が発信源と疑われていたとしていますが、 九条兼実がこの噂を流せる、流しそうだ、と感じた (感じられる人脈知識を持つ) 人達がいた、 そういう人達が出てくるような流布の態様だった、と言うことは出来ます。
[195] 逆にいえば、九条兼実が発信源でもおかしくない形で情報が回っていたのであり、 例えば遠方の国からはるばる伝わってきた怪情報、のような形ではありませんでした。
[182] 玉葉によると、当時の人々は九条兼実を発信源と疑ったようです。 その根拠までは不明ですが、 院政・平氏政権下で九条兼実は朝廷の高い地位にあるにも関わらず冷遇されており、 それに不満を持って噂を流したとでも思われていたのでしょうか。
[183] 玉葉はそれに対する釈明も何も記載しておらず真偽不明、と説明されることがあります。 確かにその通りで、正確な説明ではあるのですが、わざわざ記録に残さないという選択もできる中で、 聞いたまま書き残したのは、後ろめたいことがなかった、という解釈も可能です。
[212] 当時の政界の力学をよく理解するためにも興味深い史料のはずですが、 これを使った議論はあまり見かけません。
[185] 近世の異年号考は、 弥勒と泰平が平氏政権への人々の不満から生じた、 とする説を提起しました。
[213]
ただし、弥勒を承安年間の私年号とする説は現在では成立しないと考えられています。
[186] 昭和時代の久保常晴は、 この年、伊勢神宮等からの怪異の報告が相次ぎ、 玉葉記事当日もその対処が協議されていることに着目し、 これによって改元の動きが発生したと考えています。 (>>57) しかしながら、実際には九条兼実周辺で改元手続きは進められていないのであり、 ありもしない改元の理由を推測しても意味はないでしょう。何を意図した考察かよくわかりません。
[217] 近世の偽年号考も、改元に向けた動きはあったが実施に至らなかったと考えました (>>103)。その理由は明記されておらず、火のないところに煙は立たないとの暗黙の前提によるのでしょうか。
[188] 当時の公家や民衆の間で、 怪異が続く時改元するべきだとの共通認識があったとすれば、 それが改元の風聞が生じる根拠・素地となることはあり得ます。 これについてはよく検討する必要があるでしょう。
[215] 近代以来の多くの年表類等が泰平 (や万平) を私年号と扱ってきました。
[6] 昭和42年の 日本私年号の研究ではこれら2つを私年号的諸資料として立項し、 従来私年号と目されてきたものの、私年号ではないとしています。
[8] 板碑とその時代は日本私年号の研究を参照しながら、 泰平を承安2年の私年号としています。一覧表のみで理由は記載なく不明です。
[2] Wikipedia は括弧付きながら私年号の一覧に掲載しています。 風説と注記されてはいます。 >>1
[3] 実用例が確認されておらず、私年号とする根拠は明らかではありません。 現段階では改元デマとしかいえません。
[15] >>3 これなのですが、研究史を遡ってみた結果、 近世のまだ研究が始まったばかりの頃、公年号以外のものが雑多に一括りにされていたものが異年号とか逸年号とか呼ばれていて、 それが近代に入るとそのまま異年号や私年号と呼ばれる括りになって、 昭和の頃に私年号と呼ばれるようになった経緯があるみたいです。
[216] 日本私年号の研究が指摘した通り、 実用されたことが確認されていない以上、 公年号であるとも私年号であるともいうことはできません。 私年号とは別個の1つの改元デマと扱うのがよいでしょう。
[155] 、 九条兼実は、 入手した万平なる改元デマの情報を自身の日記 玉葉 に記録しました (>>94)。 現在確認されている唯一の同時代記録であり、 最古の (嫌疑を受けているとはいえ一応) 第三者的な立場からの記録です。
[123] 成立の江戸幕府の史書 本朝通鑑 は、 承安2年閏[12]月是月条で、 「民間訛言。改元泰平󠄃元年。降令禁止之。」 と書いています。 >>122
[197] 明記されていませんが、 百練抄 が出典と思われます。
[81] 文化元年序の 異年號考 は、 百練抄 からの引用で泰平を掲載しています。 >>14
[82] ただし、異年號考注釈を「泰平之年」とするなど品質の悪い異本を著者が所蔵していたところに基づいていたようであり、 「泰平元年」の誤りと考えられるとし、良い本を入手して考える必要があると書いています。 >>14
[184]
異年号考は弥勒の検討の中でも泰平の事例を引いています。
[196] 本書は、私年号研究分野で取り扱った現在知られている最古の事例です。
[5]
天保時代の
紀伊国名所図会
は、
和勝の考察で泰平の事例を引いています。
[103] 天保10年の 偽年号考附言 は、 百練抄 からの引用で泰平を掲載しています。 「泰平元年」 と引いており、 このときは改元の議論だけがあって、そのことが公にならないまま、 沙汰止みとなったのだろう、 と推測しています。 >>21
[1927] 伴信友は、 妖僞年號の一例として、 百練抄 承安二年壬辰十二月の條に 「近日諸國稱有改元之由、公家被誡仰、其號泰平元年云々」 とあるのを引きました。 >>1731
[83] 明治時代の 逸年号考 は、 百練抄 からの引用で泰平を掲載しています。 「泰平元年」 と引いており、 泰平と改元すると諸国に訛言があったとを言っているのだろう、 としています。 >>22
[86] 明治時代の類書 古事類苑 は、 逸年号の部に 百練抄 該当条を引いています。 >>4
[116] 近世に編纂が開始され明治時代に完成した史書 大日本史 は、 承安2年閏[12]月是月条に、 百錬鈔 を出典に、 「諸国訛言、改元泰平󠄃、敕禁遏之」 と書いています。 >>115
[129] 明治時代の史書 皇朝編年史 は、 承安2年閏[12]月是月条に、 「諸国訛言、改元泰平󠄃、敕禁遏之」 と書いています。 >>128
[138]
大正時代の
史料綜覧
は、
承安2年閏12月13日条で、
是ヨリ先に諸国流言で
[118] 昭和元年の年代記は、 承安2年是年条に、 泰平󠄃と改元の流言があり、 閏12月に勅してこれを禁止した、 と書いています。 >>117
[87] 昭和8年の年表は、 承安2年の私年號として泰平󠄃元を掲載しています。 >>7
[113]
の年表は、
玉葉と百練抄を出典に、
承安2年閏12月13日、
諸国に
[125]
の年表は、
承安2年この年条に
[111] の論文は、 日本の元号の概略をまとめたものですが、 偽年号・逸年号を列挙する中で、 百練抄 を引いて、 承安2年に泰平元年があったことは明らかだと述べています。 >>110
[127]
の年表は、
承安2年条の元号の欄に
[61] 昭和39年の久保常晴の論文は、 私年号の1つとして泰平を掲載し、 次のように述べています。 >>60
[66] また、私年号の1つとして万平を掲載し、 次のように述べています。 >>60
[9] の年表は、 承安2年閏12月13日条に次のように記述しています。 >>16
[101] の 日本歴史大辞典 は、 百練抄記事を引きつつも、その内容は解説せず、 に相当する平安時代末期に使われた私年号としています。 >>20
[132] の書籍は、
... と説明しています。 >>131
[144] 近世後期以来現在に至るまで、ほとんどの私年号の表の類が泰平を承安2年の私年号として扱っています。 >>100
[145] 久保常晴が私年号ではないと分類したにも関わらず、 これに大きな影響を受けたはずの千々和到の表はそれを無視して (風聞と注記しつつも) 掲載し続けています。 >>100
[146] 万平を掲載した表の類は近代以来いくつかあるものの、主流とはなっていません。 >>100
[147] こうした傾向は、最新の研究成果を反映しないで前例を踏襲する一覧表等の保守的姿勢、 と簡単に説明出来てしまえば楽なのですが、 >>145 であったり、 新規で情報追加される他の私年号だったりの事例を考えると、 編集者らの態度に一貫性がありません。何も考えず、理解しないで雑に扱っている (編集チームに詳しい人がいない) という評価が一番しっくり来ます。
[85] 日本語版ウィキペディアの表には初期から泰平が掲載されており、 平成20年には別名として万平が追加されています。いずれも直接的な根拠は不明です。 >>84
私年号 異説 元年相当公年号(西暦) 継続年数 典拠・備考 (泰平) 万平 承安2年(1172年) - 『百錬抄』承安2年閏12月10日条、『玉葉』同月13日条。公年号改元の風説。
[219] 以上をまとめると、近世以来主に百練抄を通してのみこの事案が知られてきました。 近代になって玉葉の記事が知られるようになり、 久保常晴は初めて両者を本格的に検討しました。 しかし、未だ両史料の精読と先入観を排した事実関係の復元作業は十分に行われているとはいえないのが現状です。
[220] また、他の時代の改元デマや私年号現象、公年号の正規の改元手続きなどとの比較対照や、 当時代の政治史の流れの中での位置付けなど、手つかずの課題も多いです。