[2] 宇治宿禰墓は、 日本山城国乙訓郡大枝村字塚原 >>14 (現: 日本国京都府京都市右京区大枝塚原町 >>1) にある墓です。
[3] 上旬、 大枝村の中村嘉十吉が、 開墾中に石室を発見し、 銅製の骨蔵器と墓誌の一部を発見しました。 >>14
□前誓願物部神
八󠄃继孫宇治宿祢
大平子孫安坐□
雲二年十二月󠄃□
[5] 文字が読み取れる部分の上下左右は破損紛失しており、 周りに何文字あったのか不明です。
[13] 「月」の次は「二」か「七」ではないかとされました。 >>12
[7]
「
[8] 、 梅原末治は、 中村嘉十吉から出土状況を聞き取り、 墓誌について研究しました。 >>14 「□雲二年」は欠落部分に3文字入る余地がないとして、慶雲だとしました。 >>14, >>6 (山城に於ける字治宿禰の墳墓と其の墓誌, ; 字治宿禰墳墓, 京都府史蹟勝地調査會報告 第1冊, )
[16] 以後しばらくこの慶雲説が通説化していました。 >>14
[17] 昭和9年、 森本六爾は、 慶雲説を慎重に「推定」と扱いました。 >>14 (上代墓誌に関する一二の私考 上)
... を検討し、景雲の方が落ち着くとしました。 >>14 (天平地宝; 日本考古学入門, 昭和25年)
[23] 昭和15年、 梅原末治は、 景雲説について、 字数の問題が解決されない限り問題が残ると指摘しました。 >>14 (日本考古学論攷)
[24] その後しばらくどちらの説も進展しませんでした。 昭和30年代、40年代の研究者達は、 両説を併記する形で言及していました。 昭和43年、 石村喜英は景雲説だけに言及しました。 しかしその後必ずしも景雲説で安定したとは言えず、 慶雲説によった論文も出ていました。 >>14
[25] 昭和50年、 久保常晴は、 景雲説の補強のため改めて整理しました。 >>14
[9] 、 東野治之は、 神護景雲が景雲と省略されることがあること、 古い墓誌ほど表裏に記し、罫線も引かないことから、 神護景雲説に傾くとしました。 >>6 (日本古代の墓誌, )