[10] 太初 / 泰初は、東アジア諸国で使われた元号の1つです。
7.《隋书·天文志上》:“案,虞喜云:‘落下闳为汉武帝于地中转浑天,定时节,作《泰初历》。’(浑天仪)或其所制也。”
汉武帝又分别于元封五年(公元前106年)三月,泰初元年(公元前104年)十月,泰初三年(公元前102年)四月,泰始四年(公元前93年)三月,征和四年(公元前89年)三月,多次到泰山封禅。汉武帝如此频繁地封禅泰山,对后世的封建帝王们产生了重大影响。
祕曰 “以爲經莫大於易, 故作太玄. 自子辰申子, 冠之以甲分二十七章爲一會, 八十一章爲一統, 從子至辰, 自辰至申, 自申至子, 凡四千六百一十七歲爲一元, 與泰初歷(注2) 相應. 亦有顓頊歷(注3) 焉, 此其事則述也, 作二百四十三表‧七百二十九贊十一篇, 此其書則作也.”
역주2 泰初歷 : 漢 武帝가 太初 1년(B.C.104)부터 실시한 曆法으로 鄧平이 처음 만들었으며, 태초력의 1朔望月은 29와 81분의 43일, 1回歸年은 365와 1539분의 385일이다. 《史記》 〈曆書〉와 《漢書》 〈律曆志〉에 의하면 한나라 초기 이래로 답습해 오던 秦나라의 顓頊曆을 司馬遷과 落下閎 등이 주도하여 태초력으로 改曆하였다고 한다. 개력의 주요 내용은 10월을 歲首로 하던 것을 正月로 바꾼 것, 冬至를 11월로 고정시킨 것, 中氣가 있는 달을 閏月로 채택한 것 등을 들 수 있다. 태초력은 한나라 말에 劉歆이 이를 다시 보수하여 三統曆이라고 하였으며, 85년 후한의 개력 때까지 188년 동안 쓰였다.
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太と泰の分化の問題を考える上でも、太初暦の概念上元泰初、
そして漢書、の関係性はよくよく考察する必要があろう。
[13] 日本書紀神功皇后66年条注釈に、この年は晋武帝泰初2年であるとし、 晋起居注から「武帝泰初二年十月」記事を引いています。 >>12, >>16
[14] 日本書紀の神功皇后66年は、 であり、 西晋の武帝の泰始2年です。
[18] 泰初は泰始の誤りとするのが通説です。 >>15, >>2 幽霊元号の1つと考えられます。
六十六年。【是年、晉武帝泰初二年。晉起居注云、武帝泰初二年十月、倭女王遣重譯貢獻。】
六十六年(AD266)に、【是年(ことし)、晋(しん)の武帝(ぶてい)の泰初(たいしょ)の二年なり。晉の起居(ききょ)の注に云はく、武帝の泰初の二年の十月に、倭(わ)の女王(ぢょわう)、譯(をさ)を重ねて貢献(こうけん)せしむといふ。】
(訳:この年は晋の武帝の泰初(泰始の誤り)2年である。晋の起居注という記録によると泰初2年10月に倭の女王が使者を送り通訳を重ねて朝貢した)
『晋起居注』の引用では泰始を泰初とした元号の誤りがあるが、『注』が現存しないため引用の誤りとは断定できない。
『日本書紀』の「神功紀」は、晋武帝泰初2年(泰始2年(266年)の誤り)の『晋起居注』(現存しない)に泰初2年10月、倭の女王が通訳を重ねて貢献したとの記述があるとしている。 現存する『晋書』武帝紀には、泰始2年11月、倭人が朝貢したという記事があり、四夷伝には泰始の初めに倭人が通訳を重ねて朝貢したともあるので(女王とは書かれていないが)、この女王は壹與と考えられている。
[20] >>19 は 「泰初は泰始の誤り」 とするべきところ、 「泰初は泰初の誤り」 とし、意味不明となっています。 講演録であり、文字起こしの際または印刷時の誤植でしょう。
[21]
日本書紀の泰初については、正史に記録されていない古形ではないか、
とする説が近代日本で提唱されました。現在では否定されています。
元凶邵大初元年
(成玄英疏)
【疏】泰,太;初,始也。元氣始萌,謂之太初,言其氣廣大,能為萬物之始本,故名太初。太初之時,惟有此無,未有於有。有既未有,名將安寄!故無有無名。
【釋文】《泰初》易說云:氣之始也。
【泰初】たいしよ
太初。
字通「泰」の項目を見る。
出典 平凡社「普及版 字通」
字泰初,一作太初
(それぞれいくつか用例あり)