[16] 五節句のうち、 1月7日、 3月3日、 5月5日、 7月7日は令義解で節日 (祝日) と明文化されました >>14。
Yahoo!百科事典[日本大百科全書(小学館)]の「祝祭日」の項に次の記述があった。
祝祭日(しゅくさいじつ)
1. 日本の祝祭日
「中世以後の武家社会では将軍家(幕府)の家祭が祝祭日の形になり、民間の伝統的節供行事と中国の節日儀礼を習合した形で、宮廷儀礼とは別個な行事体系が生成した。いわゆる「五節供」の制で、室町期にいちおう成立した形が江戸幕府に引き継がれ、1616年(元和2)の制令などで、いわゆる「五節供」の式日の制が確定した。」
「日本の祝祭日は明治初頭「近代国家」の発足とともに制定された。1873年(明治6)に旧来の「五節供」の祝日を廃し、「神武(じんむ)の昔」に返るという主旨でおもに『延喜式(えんぎしき)』などの規定に従って皇室祭祀の日時を定め、これに基づいて国家意識を高揚させるため、祝祭日の制を設けた。」
きっかけは幕府が五節句を式日として定めてからです。
なのにはっきりと史実としての記録が確認できません。
『徳川実紀』の元和2年(1616)の正月元日の条に次のような記述があります。
「この夕雅楽頭忠世。大炊頭利勝を御前にめされ。江城。駿府城年中諸節の禮儀いまだ全く
備らず。よて昨年より會議して定らるゝ所の儀。今日より始め行はるれば。當家歴世の永式と
なすべきよし面命せらる。」
昨年ということは1615年と推察はできます。
また当時の 服制 の記述にも五節句が制定されたとあります。
なのに、制定そのものを記述した文献が図書館司書の大勢の方々の協力にも拘わらずとうとう見つかりませんでした。
中世以後の武家社会では将軍家(幕府)の家祭が祝祭日の形になり、民間の伝統的節供行事と中国の節日儀礼を習合した形で、宮廷儀礼とは別個な行事体系が生成した。いわゆる「五節供」の制で、室町期にいちおう成立した形が江戸幕府に引き継がれ、1616年(元和2)の制令などで、いわゆる「五節供」の式日の制が確定した。歳首(さいしゅ)(元日)をもっとも重い「式日」として、上巳(じょうし)(3月3日)、端午(たんご)(5月5日)、七夕(たなばた)(7月7日)、重陽(ちょうよう)(9月9日)の「五節(ごせち)」を定め、そのほかに嘉定(かじょう)(6月16日)、八朔(はっさく)(8月1日)、玄猪(げんちょ)(10月10日)と、歳暮の諸祭日を加えた行事体系である。
端午(たんご)-五月五日-菖蒲の節供。
武家や民間でもこの日を祝うのが一般化し、鎌倉幕府や室町幕府でもこの日を公の祝日とし、さらに江戸時代になると、五節供の一つとして重んじられ、庶民も武士のまねをして祝いました。
節日そのものは奈良時代よりが定められていましたが、それらは主として宮中儀礼としての宴であり、史料をひもとくと「節会(せちえ)」とも記されています。
仮寧令における節日の扱いが代表的なもので、唐では節日は休みとなるが、反対に日本では節会と呼ばれる儀式が実施されていた
江戸幕府の初期に、五節供というものをきめて、この日は必ず上長の家に、祝賀に行くべきものと定めたという話だが
この五節供の日を制定するに先だって、幕府では各藩各領の実状を調べさせたところが、人日や七夕には地方毎の風習の差が甚しく、とても民間と歩調を合わせることが出来ないのを知って、結局は理論に拠ってこの五つの日を決したという話が伝わっている。うそかも知れないが外形は少なくともそうなっている。つまりよく考えて勝手にきめさえすれば、人民は付いて来るだろうと思ったのである。ところが必ずしも予測の如くならず、民間には別に独自の年中行事があって、衰えたりまた盛んになったりしながらも、なお今日までは続いている。
『徳川禁令考』に収められている『年始嘉節大小名諸士参賀式統令』によると、幕府が制定した式日は「年始」(1月1日)「五節句」(人日・上巳・端午・七夕・重陽)「八朔(はっさく)」(8月1日)。
[11] >>10 に年始嘉節大小名諸士參賀式統令 (慶安3年/1650年9月18日) などが掲載されており、確かに正月や五節供や八朔その他の「御禮日」 の幕府行事について規定されていたようなのですが、五節句や八朔は既に周知の事実として扱われており、 それら自体を定めるものではないように見えます。
[12] 節句・平安時代の11月11日について- 歴史 | 教えて!goo ( 版) http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8048337.html
40 諸節日条
正月1日、7日、16日、3月3日、5月5日、7月7日、11月大嘗の日を、みな節日〔せちにち〕とすること。(節会に参集した群臣へ節禄を)あまねく賜うについては、臨時に勅を聴くこと。