節日

節日

[1] 雑令 全41条中22〜41条_現代語訳「養老律令」|官制大観_律令官制下の官職に関するリファレンス (Hiromi Ikari 著, 版) <http://www.sol.dti.ne.jp/hiromi/kansei/yoro30b.html#40>

40 諸節日条

正月1日、7日、16日、3月3日、5月5日、7月7日、11月大嘗の日を、みな節日〔せちにち〕とすること。(節会に参集した群臣へ節禄を)あまねく賜うについては、臨時に勅を聴くこと。

[2] 天聖令 - Wikipedia ( 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E8%81%96%E4%BB%A4>

仮寧令における節日の扱いが代表的なもので、唐では節日は休みとなるが、反対に日本では節会と呼ばれる儀式が実施されていた

[3] 学位論文要旨詳細 ( 版) <http://gazo.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/gakui/cgi-bin/gazo.cgi?no=214100>

第八章「假寧令と節日」は、医療制度とも密接に関わる休假(暇)制度についての考察である。古代の休假制度は假寧令に規定される。まず唐假寧令1条を敦煌写本書儀などから復原した私案を提示し、その上で日本令の当該条と比較した。唐では休暇の対象が内外官すべてであるのに対し、日本では京官に限られていることについて、令を継受した時点での日本における官僚制の透徹する範囲が在京諸司に限られていたことによる可能性を指摘した。節日の休暇が日本令では削除されていることについては、節日を純粋な休暇と捉える唐と、節日の儀式・宴もまた政務とする日本との違いを示した。あわせて節日の受容について考察を加え、唐令の節日条の存在を推定、復原し、日本雑令の節日条と比較検討し、節日という習俗・行事の定着にも令という法の継受が必須であったことを述べた。また唐假寧令が節日規定の変更とともに、幾度となく改変されていることに注意を喚起し、日本令と異なる唐令の柔軟性を主張した。なお本稿による唐假寧令文の復原成果は、前掲『唐令拾遺補』に入れられている。

[4] 節会(セチエ)とは - コトバンク (デジタル大辞泉,百科事典マイペディア,世界大百科事典 第2版,大辞林 第三版,日本大百科全書(ニッポニカ),世界大百科事典内言及 著, 版) <https://kotobank.jp/word/%E7%AF%80%E4%BC%9A-547783>

世界大百科事典 第2版の解説

せちえ【節会】

朝廷で行われる節日・公事(くじ)の日の宴会。〈令〉の規定によれば,元日,7日,16日,3月3日,5月5日,7月7日,11月大嘗の日を節日とする。節日の集会の意味であるが,奈良時代以後,それぞれ元日節会,白馬節会(あおうまのせちえ),踏歌の節会(とうかのせちえ),曲水の宴,端午節会(端午),相撲節会(すまいのせちえ),新嘗会(豊明節会(とよのあかりのせちえ))として天皇が群臣に饌(饗の膳)を賜る宴をいうようになった。

[5] 節会(セチエ)とは - コトバンク (デジタル大辞泉,百科事典マイペディア,世界大百科事典 第2版,大辞林 第三版,日本大百科全書(ニッポニカ),世界大百科事典内言及 著, 版) <https://kotobank.jp/word/%E7%AF%80%E4%BC%9A-547783>

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

節会

せちえ

節の日および規定の公事(くじ)がある日、朝廷で行われた宴会のこと。『令義解(りょうのぎげ)』雑令に「正月一日、七日、一六日、三月三日、五月五日、七月七日、一一月大嘗(だいじょう)日を皆節日と為(なす)」とあり、これらを節の日と定めている。この日天皇が出御し、饗宴(きょうえん)がある。「元日(朝賀、元日節会)、即位の儀を大儀とし、元日宴会、七日、新嘗会(にいなめのえ)を中儀とし、踏歌節会(とうかのせちえ)、九月九日(重陽節会(ちようようのせちえ))などを小儀とする」と『延喜式(えんぎしき)』にあって、大儀に参会する群臣は礼服を着るべき規定も書かれている。江戸幕府の定めた五節供(ごせつく)は、人日(じんじつ)(正月7日)、上巳(じょうし)(3月3日)、端午(たんご)(5月5日)、七夕(たなばた)(7月7日)、重陽(9月9日)の5日であり、これは古代・中世の節会と、民間の風習を取り入れてつくられたものであろう。民間では3月3日、5月5日、8月1日を三節供とする例もあり、のちに多くの節会の日が生まれてくる。元来、節会の供物(くもつ)が節供であるが、節日そのものを節供ともいう。[山中 裕]

[6] 『律令法』 ( 版) <http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:jF2Pj1p8ML4J:wwwhou1.meijo-u.ac.jp/housei2/semi/soturon/2002soturon/4semi/individual/word/%25E5%25BE%25B3%25E5%25BC%2598%25E3%2581%2595%25E3%2582%2593%25E4%25BF%25AE%25E6%25AD%25A3%25E7%25B5%2582%25E4%25BA%2586.doc>

こうして豪華絢爛を誇った「相撲節会」はやがて娯楽化していく。天長3年(826)になると、7月7日が天城天皇の国忌に当たることから節日が変更され16日に改められる。ところが、相撲がよほど面白いものだったとみえて、この頃から節日に関係なく臨時の天覧相撲が開かれるようになる。『類聚国史』(巻第73)によると天長10年(833)5月には、相撲節はたんなる娯楽遊戯のためではなく武力を簡練するのが中心の目的であるという勅がでるほどに娯楽化されていったようである。承和年中(834~847)になると、16日という節日さえも守られなくなり、7月の上旬になったり、中旬の3日間にわたって行われるなど恒例日がなく、加えて童相撲の天覧なども行われるようになり、やがて相撲は新たに天覧相撲を催すための節日が設けられるようになり「相撲節」と称されるようになっていった。

[7] 1話 - ootuka2014 ページ! ( 版) <http://ootuka2014.jimdo.com/%E2%85%A4%E6%9C%9F/1%E8%A9%B1/>

そのほか節禄 (せつろく) があります。1月1日・1月7日・1月16日・3月3日・5月5日・7月7日・9月9日や新嘗 (にいなめ) 日の節日に、絁や綿などを支給します。

[8] 皇學館大学教員 業績紹介: 清水 潔 ( 版) <http://www.kogakkan-u.ac.jp/gyouseki/38.html>

重陽節の起源 昭和60年02月 9月9日は飛鳥時代より節日であったが、その日に天武天皇が崩御、国忌日と定められてより節日から外されてきたが、延暦10年以後数年間に復活し、その再び停止、弘仁3年に至り正式に再開された経緯と要因について説く。3~10頁。

【単著】

皇學館大学史料編纂所報「史料」75号

掲載頁:3~10頁