[64]
>>23 では、ややわかりにくいですが、 友の右上に丶のようなものが見えます (犮󠄂)。
友と翻刻したのは咎なし点と判断したものでしょうか。
[65]
>>23 では犮󠄂部分の正確な字形がどうなっているのか、わかりにくいです。
[67] 比較的単純な部品の組み合わせですが、ありそうで見かけない字形です。
[66]
>>23 では治部分が薄くてよくわかりません。それが2字目を□とするものがあるのでしょう。
治の草書体のように見えるのも確かですが、 >>23 では断定しづらいです。
[77] 1点のみ知られています。
[37] 銘文には「歳神丁□」ともあります。 これを干支年とみる解釈もいくつかあります。 日付とは少々離れており、慎重な検討が必要です。
[70] 次の各説があります。
[74] 寛治説は、媒体の様式と日干支の一致を根拠とします。 字形の違いが著しいことが断定を憚らせる障害となっています。
[75] 康治説は、媒体の様式と字形の (比較的) 類似性を根拠とすると思われます。 日干支が一致しないことが問題で、字形もそこまで似ていないのがネックです。
[76] 私年号説は、類似の公年号を見出だせないことが根拠であり、 他に同定可能な用例が見当たらないこと、年次決定のヒントが皆無であることが問題となります。
[35] の年表は、 >>25 をに掲載していました。 >>34 年表という性質上、銘文もなければ根拠も示されていません。
[27] の土井実の史料集は、 >>25 を紹介し、次のように説明しています。 >>1
[31] 何の説明もなく唐突に丁未年か調べています。なぜか本書掲載の銘文では省略されていますが、 「歳神丁[未]」 とあり、これを干支年と見ていると思われます。
[68]
具体的な比定年は明言していませんが、
[69]
の土井実の年表では、
>>25
は
「
[201] 昭和32年、 昭和時代の日本国奈良県の歴史研究者田村吉永は、 >>25 を紹介しました。 >>6
[9] 12月7日乙酉となる年は、
です。 >>6
[14] 歳神丁[未]が□□元年の干支だとすると、 >>9 に該当年はありません。 >>6
[15] >>14 と私年号用例の多くは元年であることから田村吉永は□□を私年号と考えました。 >>6
[16] 田村吉永は、元号名を「私にはどうも読めない」としています。 >>6
[17] 日本美術史年表は康治元年奈良薬師寺休丘八幡宮狛犬としています。 >>6
[18] しかし康治元年は壬戌で、12月7日も乙酉ではありません。 >>6
[19] 丁[未]が丁丑の誤りだとすると応永4年が候補となります。 しかし歳神が干支年を記したものとは簡単に決し難いです。 田村吉永は今のところなんとも解し難いとしました。 >>6
[20]
田村吉永は□□が私年号であることには強い自信を持っていたようです。
しかし昭和47年のほぼ同内容の論文では□□は省かれています。
[79] の概説書で田村吉永担当部に >>25 の紹介があります。 >>9 >>17 >>18 と同様の説明があります。 >>78 私年号ではないかという見解が省かれているのは、中立的な解説を意識したものでしょうか。
[51] なお、 昭和42年の日本私年号の研究は私年号六題を引用しており、 他の私年号は掲載していますが、□□は掲載していません。 私年号的諸資料にも掲載していません。 久保常晴は私年号ではないと判定したのでしょうか。
[36] 昭和40年の平安遺文・金石文編は、 >>25 をとしつつも、 干支が合わず研究の余地があるとしています。 >>22
[38]
昭和42年の日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 造像銘記篇四は、
12月7日乙酉となる諸年号のうち、
寛治の可能性を認めつつ、
文字として寛かどうか疑いを残しています。
>>22
[39] の 奈良六大寺大観 は、 様式に天平時代との共通性を指摘しつつも、 平安時代後期の特色があるとし、 銘文の年代は確定しがたいものの、造像は平安時代後期であると推定しています。 >>22 (先行研究として >>35 >>201 >>36 >>38 を紹介しています。)
[87]
の
奈良県文化財図録
は、元号名を読めないとしつつも、
2字目は治と推定しています。
様式から平安時代後期の作としています。
>>86
[89] の 日本の古寺美術 は、 町田甲一が「元年12月7日乙酉」からと特定したと紹介しています。 また、様式からも納得でき、平安時代後期の製作としています。 >>88
[91]
の
奈良県の文化財
は、
墨書銘を造像時のものと思われるとし、2字目は治と推定しています。
説が作風にかなうとしています。
>>90
[93]
の薬師寺は、
2字目を治と断定しています。
古い特徴を指摘しつつも、
説が有力であると述べ、
古い例を手本にしたのではないかと推測しています。
>>92
5 ページ
... 保延元年東大寺法華堂柱(一一三五) 7 保延四年法隆寺釈迦如来像 13 (一一三八)法隆寺納舍利塔 14 法隆寺輿舁面 80 保延六年大宇陀町大藏寺扁(一一四○ )額 81 永治元年春日大社镜(二四一)昭永治二年山王神社大日石仏 15 (一一四二) 3 康治元年薬師寺 ...
54 ページ
狛犬自体は藤原時代の作である。右の銘文には、この日に宮うつしがあったと記している。紀年は一応「康治元年」(一一四二)と考えられ、異年号というよりむしろ異体文字と解した方がよいと思う。 t 正規に通用する元号以外に、別の異なった元号を表記した ...
116 ページ
作の時代などを総合して一応「康治元年」(一一四二)とする。此日宮うつしをわします口治元年十二月七日乙酉日(康)仏師法師僧口口口宝]造進八幡宮像一対、高さ阿方は五二・二丼、彩色の州浜座の裏に墨書銘がある。狛犬は平安時代後期の作。 88 薬師寺八幡宮狛犬奈良市西ノ京町〇康治元年(一一四二)この石仏と銘文 ...
116 ページ
... 年」う考え方もあるが、月日の干支が合わず、寛治という説も銘文中、紀年の口治は異体文字で記されていて、宝治とい此日宮うつしをわします III 治元年十一一月七日乙酉日(康)仏師!::::!法師僧 11:10 口宝前 0 造進八幡宮州浜座の裏に墨書銘がある。铂犬は平安時代後期の作。桧材寄木造、彩色像一対、高さ阿方は五一一.
[41] 現在の文化財系のデータベース等では、 説を取っていることが多いようです。 >>5, >>52, >>56, >>57
[42] の調査は、 説を紹介し、 造形的にもその頃としてよいと判断しています。 >>21
[58] ただ、本来なら時期不明の当像が、他の像の年代判定の基準に積極的に採用されているらしい >>57 のは気がかりです。
重文 狛犬 平安時代・寛治元年(1087) 奈良・薬師寺蔵
州浜座に寬治元年(1087)の墨書がある薬師寺の狛犬一対は、穏やかで優雅ささえ感じさせる。
『獅子と狛犬展図録』は、
狛犬 平安時代、寛治元年(1087年)か 木造彩色 像高 阿形52.2吽形52.1㎝ 奈良薬師寺蔵
同書は、
南都薬師寺鎮守の八幡宮に伝来した獅子一対の古例で、平安後期の優雅な表現になるものとして知られている。、11世紀の第4四半期を造像期とすることに矛盾はないという。
備考 年紀の部分を「寛治元年(一〇八七)」と読む説がある。本体と台座が同一作かどうか検討を要するが、様式的にもおよそこの頃の作と考えられる。
参考文献 『獅子・狛犬』展図録(京都国立博物館、一九九五年)
寛治元年(一〇八七)頃の作とされる奈良・薬師寺の獅子と狛犬などに通じ、制作年代は十一世紀とみられる。
なら仏像館名品図録. 奈良国立博物館, 2022, p.143, no.191. (岩井共二)
寛治元年(一〇八七)頃の作とされる奈良・薬師寺の獅子・狛犬などに通じ、十一世紀の制作とみられる。
奈良博三昧―至高の仏教美術コレクション―. 奈良国立博物館. 2021.7, p.260, no.109. (岩井共二)
10〜11世紀の作と考えられる奈良・薬師寺像や京都・東寺像に通ずるところがあり、本像の制作期も従来言われてきた平安末期(12世紀)をさかのぼるとみるべきだろう。
なら仏像館名品図録. 奈良国立博物館, 2010, p.115, no.151. (岩田茂樹)
など、寛治元年(1087)制作と考えられている奈良・薬師寺の獅子・狛犬や、10世紀後半とする説のある京都・教王護国寺の獅子に近く、本像の制作期も11世紀にさかのぼる可能性を考えさせる。
(岩田茂樹)
のは、寛治元年(1087)作の薬師寺の獅子像と共通する要素である。しかし薬師寺像との共通性は時代性と言うよりは、むしろ興福寺華原磬(かげんけい)の獅子のような奈良様を引くということであろう。逞しい肉付けをしながら、胴を引き締めた姿には鎌倉時代的な気分が現れ始め、本像が藤末鎌初の頃に古様な獅子を手本として作られたと考えられる。
奈良国立博物館の名宝─一世紀の軌跡. 奈良国立博物館, 1997, p.300, no.101. (井上一稔)
[82] >>81 は「
[84] 元は、とよく似ているとは言えないものの、
他の文字よりは似ているようにも思われます。
「寛治」と書かれた原資料からの単純な誤記ではないかもしれません。
[4] 時系列 :
[95] 寛治元年説は字形という最大の問題を除けば、これといって否定するべき要素はないのですけど、 銘文が信頼できないとき参考にしたい本体の様式からの推定が、 どうにも頼りないのが問題ですよね。