⿸厂友治

⿸厂友治

[62] ⿸厂友は、 日本の私年号の1つです。

元号名

[63] ⿸厂友⿸厂友は不明な文字です。

[64] >>23 では、ややわかりにくいですが、 の右上にのようなものが見えます (犮󠄂)。 翻刻したのは咎なし点と判断したものでしょうか。

[65] >>23 では犮󠄂部分の正確な字形がどうなっているのか、わかりにくいです。

[67] 比較的単純な部品の組み合わせですが、ありそうで見かけない字形です。

[66] >>23 では部分が薄くてよくわかりません。それが2字目をとするものがあるのでしょう。 草書体のように見えるのも確かですが、 >>23 では断定しづらいです。

用例

[77] 1点のみ知られています。

日時事例

[37] 銘文には「歳神丁□」ともあります。 これを干支年とみる解釈もいくつかあります。 日付とは少々離れており、慎重な検討が必要です。

[54] この狛犬の大きさは、52cmあまり >>22

[55] 休ヶ岡八幡宮に伝わったといわれる狛犬は他にもあるので要注意。

諸説

[70] 次の各説があります。

[74] 寛治説は、媒体の様式と日干支の一致を根拠とします。 字形の違いが著しいことが断定を憚らせる障害となっています。

[75] 康治説は、媒体の様式と字形の (比較的) 類似性を根拠とすると思われます。 日干支が一致しないことが問題で、字形もそこまで似ていないのがネックです。

[76] 私年号説は、類似の公年号を見出だせないことが根拠であり、 他に同定可能な用例が見当たらないこと、年次決定のヒントが皆無であることが問題となります。

研究史

[35] 年表は、 >>25に掲載していました。 >>34 年表という性質上、銘文もなければ根拠も示されていません。


[27] 土井実の史料集は、 >>25 を紹介し、次のように説明しています。 >>1

[31] 何の説明もなく唐突に丁未年か調べています。なぜか本書掲載の銘文では省略されていますが、 「歳神丁[未]」 とあり、これを干支年と見ていると思われます。

[68] 具体的な比定年は明言していませんが、 衡3年、 ⿸厂友治元年、 保寿元年、 嘉元3年の順に並べており、 平安時代頃の想定とみられます。 なお、保寿私年号であり、平安時代の終わり頃とする説と考えられます。 保寿

[69] 土井実年表では、 >>25 は 「康治?」 とされています。 >>32 こちらには説明がなく、理由は不明です。


[201] 昭和32年、 昭和時代日本国奈良県の歴史研究者田村吉永 (-) は、 >>25 を紹介しました。 >>6

[9] 12月7日乙酉となる年は、

です。 >>6

[14] 歳神丁[未]が□□元年の干支だとすると、 >>9 に該当年はありません。 >>6

[15] >>14私年号用例の多くは元年であることから田村吉永は□□を私年号と考えました。 >>6

[16] 田村吉永は、元号名を「私にはどうも読めない」としています。 >>6

[17] 日本美術史年表は康治元年奈良薬師寺休丘八幡宮狛犬としています。 >>6

[18] しかし康治元年は壬戌で、12月7日も乙酉ではありません。 >>6

[19] 丁[未]が丁丑の誤りだとすると応永4年が候補となります。 しかし歳神が干支年を記したものとは簡単に決し難いです。 田村吉永は今のところなんとも解し難いとしました。 >>6

[20] 田村吉永は□□が私年号であることには強い自信を持っていたようです。 しかし昭和47年のほぼ同内容の論文では□□は省かれています。 大和の私年号

[79] の概説書で田村吉永担当部に >>25 の紹介があります。 >>9 >>17 >>18 と同様の説明があります。 >>78 私年号ではないかという見解が省かれているのは、中立的な解説を意識したものでしょうか。

[51] なお、 昭和42年の日本私年号の研究私年号六題を引用しており、 他の私年号は掲載していますが、□□は掲載していません。 私年号的諸資料にも掲載していません。 久保常晴私年号ではないと判定したのでしょうか。


[36] 昭和40年の平安遺文・金石文編は、 >>25としつつも、 干支が合わず研究の余地があるとしています。 >>22

[38] 昭和42年の日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 造像銘記篇四は、 12月7日乙酉となる諸年号のうち、 寛治の可能性を認めつつ、 文字としてかどうか疑いを残しています。 >>22

[39] 奈良六大寺大観 は、 様式に天平時代との共通性を指摘しつつも、 平安時代後期の特色があるとし、 銘文の年代は確定しがたいものの、造像は平安時代後期であると推定しています。 >>22 (先行研究として >>35 >>201 >>36 >>38 を紹介しています。)

[87] 奈良県文化財図録 は、元号名を読めないとしつつも、 2字目はと推定しています。 様式から平安時代後期の作としています。 >>86

[89] 日本の古寺美術 は、 町田甲一が「元年12月7日乙酉」からと特定したと紹介しています。 また、様式からも納得でき、平安時代後期の製作としています。 >>88

[91] 奈良県の文化財 は、 墨書銘を造像時のものと思われるとし、2字目はと推定しています。 説が作風にかなうとしています。 >>90

[93] 薬師寺は、 2字目をと断定しています。 古い特徴を指摘しつつも、 説が有力であると述べ、 古い例を手本にしたのではないかと推測しています。 >>92

[94] 様式からの推測が「有力」説の解読に引きづられていることに留意を要します。
[3] 奈良県史 - Google ブックス, , https://books.google.co.jp/books?id=HFpMAQAAIAAJ&q=%22%E5%8F%A3%E6%B2%BB%22

5 ページ

... 保延元年東大寺法華堂柱(一一三五) 7 保延四年法隆寺釈迦如来像 13 (一一三八)法隆寺納舍利塔 14 法隆寺輿舁面 80 保延六年大宇陀町大藏寺扁(一一四○ )額 81 永治元年春日大社镜(二四一)昭永治二年山王神社大日石仏 15 (一一四二) 3 康治元年薬師寺 ...

54 ページ

狛犬自体は藤原時代の作である。右の銘文には、この日に宮うつしがあったと記している。紀年は一応「康治元年」(一一四二)と考えられ、異年号というよりむしろ異体文字と解した方がよいと思う。 t 正規に通用する元号以外に、別の異なった元号を表記した ...

116 ページ

作の時代などを総合して一応「康治元年」(一一四二)とする。此日宮うつしをわします口治元年十二月七日乙酉日(康)仏師法師僧口口口宝]造進八幡宮像一対、高さ阿方は五二・二丼、彩色の州浜座の裏に墨書銘がある。狛犬は平安時代後期の作。 88 薬師寺八幡宮狛犬奈良市西ノ京町〇康治元年(一一四二)この石仏と銘文 ...

[2] 奈良県史: 金石文 - 奈良県史編集委員会 - Google ブックス, https://books.google.co.jp/books?id=4pcNAQAAMAAJ&q=%22%E5%8F%A3%E6%B2%BB%22

116 ページ

... 年」う考え方もあるが、月日の干支が合わず、寛治という説も銘文中、紀年の口治は異体文字で記されていて、宝治とい此日宮うつしをわします III 治元年十一一月七日乙酉日(康)仏師!::::!法師僧 11:10 口宝前 0 造進八幡宮州浜座の裏に墨書銘がある。铂犬は平安時代後期の作。桧材寄木造、彩色像一対、高さ阿方は五一一.


[41] 現在の文化財系のデータベース等では、 説を取っていることが多いようです。 >>5, >>52, >>56, >>57

[42] の調査は、 説を紹介し、 造形的にもその頃としてよいと判断しています。 >>21

[58] ただ、本来なら時期不明の当像が、他の像の年代判定の基準に積極的に採用されているらしい >>57 のは気がかりです。


[82] >>81 は「元治元年 (一〇八七年) 十二月七日乙酉日」 と銘文を引用しています。元治としたのは誤記、誤植でしょうか。

[84] は、⿸厂とよく似ているとは言えないものの、 他の文字よりは似ているようにも思われます。 「寛治」と書かれた原資料からの単純な誤記ではないかもしれません。

[85] の出版ならワープロ原稿の可能性もありますから、 「がん」と読んで誤変換の可能性も排除できません。

関連

保寿

[4] 時系列 :

メモ

[95] 寛治元年説は字形という最大の問題を除けば、これといって否定するべき要素はないのですけど、 銘文が信頼できないとき参考にしたい本体の様式からの推定が、 どうにも頼りないのが問題ですよね。