釜トンネル(かまトンネル)は県道24号上高地公園線上にある、長野県松本市安曇中の湯にあるトンネル。観光客が年間200万人にも及ぶ上高地へ通ずる車道はこの県道のみであるため、すべての車両がここを通過する。釜トンネルの名称は、県道と併走して流れる梓川がこの付近で狭小で激流の水しぶきが沸騰する湯けむりのように見えるため釜ヶ淵と呼ばれていることに因む。
17:32
「このシルエットの人物は、ナガジスさんなんじゃねーの?」
そんなツッコミをくれたアナタ。
アナタ鋭い!
待って待って! これは騙しなんかじゃないんだ。
ナガジスさんの足が速いんだもん。
私が感無量になって立ち止まっている最中も、どんどん地下へ吸い込まれていきやがる(笑)。
もっとも、あの“灯り”の正体は、私もチョー気になる。
かつて某鉱山で図らずも現役坑道に行き当たってしまったときの気まずさが思い出され、ちょっと息苦しい。
私は、おそるおそる灯りのそばへ近づいていった。
それは、紛れもなく横坑である。
…いや、もしかしたら自分たちの入ってきた方が「枝」なのか?
ほの明るい坑道との接続部は、そのようにも取れる線形である。
事前の予習の少なさから、この現状がなかなか我々には飲み込めなかった。
十数年前にも釜トンを通行しているが、こんな洞内分岐は無かったはずだ。
どう考えても、私が入った坑口は間違いなく釜トンの旧坑口である。
そして、この灯りの点灯された坑道のうち、右が旧釜トンネルの続きである。
にわかには信じがたいかも知れないが、もともと本坑はこんなにも屈折していた…。
(言うまでもなく、これが釜トンの恐ろしさの一つだ)
そして、見慣れぬ左の坑道は…。
勘の良い方ならばもうお気づきであろう。
左は、新釜トンネルとの連絡坑である。
洞内左折。
幸いにして、光の下に我々以外の生者はなかった。
ナトリウムライトの赤色光に煌々と照らされた路面は、不思議にも、分岐からやや下りになっている。
これは、釜トン全体の一方的な上り急勾配(中ノ湯側から)を考えれば、全く矛盾する下りである。
すなわち、この分(数メートル)が、現在の釜トンと旧釜トンの高低差ということになるのだろう。
明らかにイレギュラーな構造であるが、なんとこの連絡坑が「正式な県道」として使われていた時期もあると言うから驚く。
ややこしい話は後にしよう。
先に、連絡坑の状況を確認する。
釜トン標準である、たてよこ4mサイズの坑道が10mほど続いた先は、車を通さない極小断面に変わっている。
現在の連絡坑は、人だけが通れる規格になっているのだ。
断面が小さくなる所に置かれている、新しげな制御ボックス。
そこには、 「釜 (下) 照明盤」とあった。
どうやらこれは、新トンネルの照明制御盤であ
愛称「釜トン」は、心霊トンネル(スポットではない)・・?、
この様な釜トンネルは、断崖絶壁の深く切れ込んだV字峡谷の梓川に沿って、昭和の初期に長期間を要して手掘りで堀すすめられたという。
なんでもトンネルの建設は、某半島の人達の強制労働で掘り進められ、工事は昭和8年に貫通したという。
この時、事故死した作業員の人達が大勢埋まってるという噂もある。
又、昭和初期までは、冬期間に遭難、凍死した登山者の死体を収容した際、春から夏の間に松本市側に移送する時まで、トンネル内に一時保管することもあったという。
こんな理由によるのどうか、釜トンネルは「幽霊の出るトンネル」、「釜小僧が出るトンネル」などと「筋金入りの心霊スポット」などと言われる。
トンネル内で、いるはずのないアルピニストが後をついてきたとか・・、
トンネルの中ですれ違いざま幽霊が体の中をつき抜けていったとか・・、
グループの人数を確認すると必ず1人増えているとか・・、
目撃例は枚挙にいとまがなかったという。
或る松本電鉄バスの上高地線を受け持つ運転手は、「このカーブの壁にライトに照らされて、遭難者の顔が浮かび上がんだぞ−・・」とか・・、
「 特に、上高地からの最終バスは薄暗くなって車内は私ひとりになるわけですよ。 上高地側で信号待ちをしていると、ときたま、トンネルの入口のコンクリートが赤く光って見えるときがあるんです。 たぶん、信号機の赤の色だとは思いますけどねぇ、でも不気味ですよ、本当に。 釜トンネルの中では絶対にルームミラーは見ません。もし、乗せてもいない誰かが乗っていたら、と思うと恐くて後を見ることはできません 」
などと話している。
冬の上高地はつい最近までは私のような者が立ち入れる場所ではなかった。
一昔前は「孤高の人」にもあるように、はるか手前の沢渡から約20Kmもの道のりを歩いて向かっていたのであった。
それが、平成9年に安房トンネルが開通したおかげで、1年中松本―高山間が開通し、それにより冬でも中の湯まではバスで行くことが可能になった。
私が四季を通じて初めて上高地へ入ったのは2003年末であった。登山を始めて2年ほどであったが、冬の穂高に魅せられ、勿論登ることは不可能であっても、この目で見たい衝動を抑えきれずに、無謀にも単独で初めてのスノーシューとともに釜トンネルを抜けた。
冬に上高地に入ったことがあれば、皆「釜トンネル」には思い入れがあると思われる。
今年「釜上トンネル」が開通し、昨年までの「釜トンネル」はその役目を終えた。この点はブログにも以前載せた通りである。
私はこのトンネルが怖いけれど大好きなので、繰り返しになるが、画像をアップしたい。
↑ 薄暗い天井には裸の蛍光灯と今にも落ちそうな氷柱。時々、ピキーンと氷柱が地面にたたきつけられる音だけがトンネル内に響く。足元は凍結している部分もあり、様々な意味で恐ろしい。
廃道の中の廃道。
皆様にとっての廃道とは、どんなイメージだろう。
草むした砂利道、苔の生えたアスファルト、ひび割れたコンクリート、消えかけた白線、色あせた道路標識、忘れられた路傍の石碑、照明の消えた真っ暗な隧道、落石に埋もれたガードレール、路面を奔る沢水、崩れ落ちた橋や路肩、草いきれのする藪、弱音、諦め、安堵とガッツポーズ…
ここには、それら考えられる要素のほとんど全てのものがある!
廃道の中の廃道とは、決して険しいだけの廃道だとは思わない。
ここには、演出過剰なほどに分かりやすい、“廃道の真景”がある。
それゆえ、以前執筆させていただいた『 廃道をゆく (イカロス・ムック)
』にも、巻頭企画としてこの道を紹介した。
この道を辿ることは、廃道の酸いも甘いも同時に体験することに他ならない。
同書にて一度紹介済みではあるが、本とネットでは表現方法も異なることであるし、今回はより詳細なレポートを作成したい。
都合により、このレポートの完結までには数日間の更新停止を数度挟むと思いますが、なにとぞ気長にお楽しみ下さい。
国道158号は、福井県福井市と長野県松本市を結ぶ約250kmの一般国道で、中部日本の内陸部を東西に連絡する路線である。
この地域には南北方向に走向する地溝および山脈が連続しており、路線内には険しい峠が複数ある。
そのなかでも、北アルプスの穂高連峰と乗鞍岳の間を越える岐阜長野県境「安房(あぼう)峠」は冬期閉鎖を余儀なくされる最大の難所であったが、平成9年に念願の安房トンネルが開通したことで長年の困難は解消された。
だが、この安房峠越えの道。
険しいのは峠だけではなかった。
むしろ、安房峠が飛騨国と信濃国の最短距離にありながら、歴史的には南方に大きく迂回する野麦峠の方が両国を結ぶ街道の本道とされて来たのは、安房峠そのものよりも、その信濃側(長野側)アプローチとなる梓川渓谷の、尋常でない険しさのためであった。
右の地図を見ていただきたい。
密に描かれた等高線の最も密なところ、さらに多数の崖の記号を従えて描かれているのが、梓川渓谷である。
どこまでが谷で、どこからが山腹なのかの区別は難しいが、稜線に対する谷の深さは1000mを下らない。
北アルプスの名を冠するに足る、極めて険しい山岳の描写だ。
そして、梓川の流れに寄り添う、一筋の道がある。
国道158号沢渡〜中ノ湯間の旧道探索も、残すは2つのステージだけとなり、これらのステージを越えた存在(いわばExステージ)として我々の最終攻略目標となっていた“ 釜トン ”が、いよいよ近付いてきた。
終盤の第4、第5ステージは、いずれも1km以上あった過去3つのステージよりもだいぶ短く、それぞれ現道の新坂巻トンネル(昭和53(1978)年竣工、全長294m)と赤怒谷トンネル(昭和59(1984)年竣工、全長396m)に対応した500m前後の旧道である。
一連の旧道では既に十分過ぎるほどの危険を体験してきた我々にとって、この段階でも油断などというものはなかったと思うが、ただ、私の中に「完全踏破が出来そうだ」という気分は生まれていた。根底にあるのは、ここまで二人で越えてきた自負である。
だが、そんな気分を私が持ったことを今になって振り返れば、少しだけ可笑しくなる。
なにせ、私達は二人とも子猫のように知らなかった。
第4ステージの、地図からは計り知れない “ 凶 状” を!
一度も旧道の下調べをしていない我々にとっては、知らないのは無理のないことだった。
特に第4ステージのこちら側、坂巻温泉側の入口は、険しさとは真逆のむしろ“優美さ”の舞台であったから、勘違いも容易く起きた。
ステージ4の開幕を告げるのは、この 驚くべき細身の橋 !!
この旧橋の存在は、隣にある現道の坂巻橋からもよく見える。この写真もそこから撮影したのである。
だが、見え易いかと問われれば、答えは微妙だ。
徒歩や自転車で坂巻橋を使えば確実に目にするはずだが、自動車だと気付かないことの方が多そうだ。
旧橋は現橋より少し低い位置に有るため、ある程度車高がある車で、かつ上り線(松本方面へ進行)の助手席側でないと見えにくいと思われる。
それに、トンネルとトンネルの間の橋の上でほぼ真横を向かないと見えないだろう。
基本的に一連の旧道群の遺構は、現道から見えにくいものが多いのだが、特に存在感が大きなこの橋でさえも、恵まれているとは言えない。
にしても、本当にスリムな橋だ。強度は大丈夫なのかと思ってしまうが、上高地にマイカー規制が敷かれる以前の「想像を絶するほどに激しかった」とされる観光シーズンの交通量を捌いていたのだから、決して弱くはないのだろう。
この橋の形式は、言わずと知れた、コンクリートアーチ
新釜トンネル・北側坑口のある稜線沿いに下流側へ続く一本の道路があります。この道路が旧釜トンネルへと続く長野県道24号上高地公園線の旧道です。新釜トンネルが中ノ湯から産屋沢までいくつもの稜線の内側を突き進んでくるのに対し、旧道は釜ヶ淵と呼ばれる梓川の流路勾配が急激に大きくなる部分付近まで梓川の縁を走り、旧釜トンネルに進入します。
この旧釜トンネルを実際に歩いてレポートをされている方です。以前、国道158号線旧道「沢渡〜中ノ湯」レポートと同じ方で、私もこのジャンルに強い興味を持ちました。
全員で11名。斜度11%、約1.3KMのトンネルを歩く。旧釜トンネルと比べて舗装は
バッチリ。昔は旧トンネルはお化けが出るとのもっぱらの噂で松電のボンネットバスが
ウーウーうなりをあげて素掘りのトンネルを走る時に気味の悪さを感じたものだが
今はそんなカケラも無い。
【位置図(マピオン)】
日が短い時期の探索の夜って、皆さんどう過ごされますか?
基本、車中泊である私の場合、可能であれば地元の図書館に立ち寄るようにしています。
もっとも、地方の図書館ほど早閉まりの傾向が強いので、例えば日が落ちる午後5時に探索を終えたとしても、既に図書館が閉まってるというパターンは多いです。
しかし、千葉県茂原市の界隈で小さな素掘隧道巡りを楽しんだ先日の探索では、茂原市立図書館の閉館が午後7時だったので、日没後に1時間ばかりですが、郷土資料を漁る機会に恵まれました。
あ、ちゃんと私だって汗や泥で汚れた探索服は脱いでから 全裸で 入館してますからね!
で、この市立図書館で蔵書検索をしたところ、たちどころに出て来たのがこの一冊。やばいでしょ、これは。
“トンネルのはなし”
当然手にとって確かめてみれば、市教育委員会の手によるものとあって、内容の信憑性は十分な感じ。
ページ数としては40ページ足らずの小冊ではあったが、現役、廃、そして開削済みをも含む、市内に存在する、或いは存在した、28本の隧道の名前、緒元、そして簡単な歴史を解説するという、オブローダーの急所を捕らえた必殺設計に脳髄炸裂。
しかもである。中には歴代地形図はおろか、ゼンリンの住宅地図にさえ記載の無い隧道が数本あったのだから、もう堪らない!! 勿論その多くは、私が始めて知る隧道だったわけで。
ということで、本来の私の予定では、この日で茂原市内の隧道巡りは終了し、翌日はお隣の長柄町や長南町へ舞台を移す予定であったのだが、急遽これを変更。私が知らなかった茂原市内の隧道のいくつかを、翌朝一番で見に行くことにしたのである。
そしてそのうちの1本が、本来無名であるらしいが、区別のために同書が名付けた “本納小学校裏山トンネル” こと、本編物件である。
で、この隧道の所在地だが、本来無名の隧道に与えられた便宜の名称が示すとおり、茂原市立本納小学校の裏にあるらしい。
らしいと書いたのは、この本の発行が平成10(1998)年と少しばかり古いことと、他の隧道もそうだが、さほど詳細な地図が掲載されていないからである。
なので、手元の地図と比較してみて、おそらく左図に示した範囲のどこかにあるだろうと判断した。
おおむね100m四方の範囲内であり、地形にもよるが、まあ現存してさえいれば、発見
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上高地 の河童橋ー明神池間を歩いてきたときの様子を 4回に亘りブログアップしてきた。 “上高地でサルが出たあ~~(^_-)-☆” “上高地・・・河童橋から明神池へ” “上高地・・・明神池から河童橋へ” “上高地・・・河童橋と明神池の間で見た花” その中で “ 大正池 の水や枯れ木について昔とずいぶん違っている” そのような趣旨のコメントを幾つか頂戴した。 Saas-Feeの風は2009年に初めて上高地を歩いた時 「 大正池 とはこんなものだったのか」と 絵や写真で見てきた光景との違いに 少し期待外れの感を持っていた。 改めて6年前に撮った 大正池 の写真を眺めると やはり池底が露出しているし枯れ木は少ない。 このときのことを“いい色ひろば”にブログアップしていたが ブログサイトがサービスを中止したので記事は消滅した。 だがサイトが全記事をCDに収納してくれていたので復元はできる。 この日に撮った写真とサイトからのCDとを調べると 大正池 から河童橋まで歩いたことについては ブログアップしていなかった。 “ 大正池 ー釜ヶ渕堰堤ー 大正池 ”の記事を 少し修正して以下に添付する。 なかなか信州に出かける機会が無かったのだが 5月26日(2009年)に初めて上高地を歩いてきた。 バスを降りたところが大正池ホテルのそば さっそくカメラを取り出して大正池をパチリ 青空ではないことが残念だが 穂高連峰がはっきりと見えている。 天気が好くて、そしてさざなみが無ければ 湖面には“逆さ穂高連峰”がきれいに見えるだろうな。 こちらは焼岳 心なしか赤っぽい~ 赤く見えることから焼岳と聞いているから そのように見えるのか。 大正池は大正4年の焼岳の大爆発によって起きた土砂の流れが 梓川を堰き止めて出来た湖で 当時はもっと大きかったそうだ。 写真5枚をつないでパノラマ風にしてみた。 バスが大正池ホテルのそばに到着する少し前に “釜トンネル”を通っていて そのそばには“釜ヶ渕堰堤”があるというので そこまで行ってみることにした。 実はそちらは最終目的地である河童橋(約4km先)とは 逆方向になるのだけれど・・・。 バスで走っていると3分くらいの距離だったと思うのに しばらく歩いても釜トンネルの気配すらしない。
松本市安曇の上高地へ向かうには、かつては恐ろしいほどに急で、狭く暗い旧釜トンネルを通った。そのトンネルを抜け、続くロックシェッドの間から見える
のが釜ケ渕堰堤だ。梓川の土砂流下を抑える高さ29メートルの壁は、ごう音とともに大瀑布(ばくふ)をつくり、晴れた日はエメラルドグリーンに輝く渕まで
演出する。動と静がつくる迫力ある光景を前に、これから挑む頂を思い、一層胸を高鳴らせた岳人も多かっただろう。
◇
釜ケ渕堰堤を背にして、左方向で今も噴煙を上げる焼岳は、大正4(1915)年の噴火で大正池を出現させるほど、大量の土砂を噴出した。流域は広範囲で
土砂災害に悩まされるようになった。そこで昭和7(1932)年、国直轄の砂防工事が始まった。その要が梓川の峡谷部、釜ケ渕に造られた釜ケ渕堰堤だっ
た。
メーンの本堰堤は高さ29メートル、幅79メートルの国内最初期、最大級の石積みアーチ式堰堤で、18年に完成した。内部に玉石を埋め込んだ粗石コンク
リート造りで、表面に現地の石を加工した築石を張り、頑丈な造りにした。全体は大きく6ブロックで構成されている。断面にすると下の段を凹形に、上の段を
凸形にし、下段には大きな石も並べて接合部をさらに強化した。釜ケ渕ならではの丁寧な技法と評価されている。
コンクリートの材料にする岩石や砂利は現地で調達し、トロッコで運搬した。セメントは松本電鉄島々駅まで貨車で、その先はトラックに積んで運び、現場で
練り合わせた。工事には機械を駆使したが、人力に頼るところが大きかった。戦時下で国内労働力が足りず、過半数は朝鮮半島からの労働者だったという。残さ
れた工事写真の中には、きゃしゃな足場を頼りに、大自然に立ち向かう小人のような作業員の姿が写ったものもあり、土石流の危険や厳しい寒さとも戦いながら
の命がけの作業だったことがうかがえる。この完成以降、上流でも工事が可能になり、梓川流域の砂防体制は強化され、噴火で失われた一帯の緑も回復の兆しが
見え出した。
◇
「今の技術でも完成までは当時と同じくらいの期間がかかるのではないか」。国土交通省北陸地方整備局松本砂防事務所の古山利也建設専門官は、平成18年
夏の豪雨災害後の補修なども担当し、その都度、堰堤に詰め込まれた先人の知恵と工夫に驚かされてきたという。
平成14年に国の登録有形文化財になった。堰堤は土
右図は、安曇三ダムと通称される梓川に連なる3つのダムを中心とした、松本市安曇地区(旧安曇村)のマップである。
3つのダムは、東京電力が昭和30年代以降に開発したもので、主に発電、次いで農業水利と洪水頂設に用いられている。
最も下流の稲核(いねこき)ダムから水殿ダムをへて奈川渡ダム、そしてその上流端である沢渡まで、水面高低差200mを付けながら、梓川には約15kmも湖が連続していることになる。
ダム有るところに、廃道あり。
このセオリーはこの場所でも生きている。
梓川の本流に平行する国道158号はもちろん、奈川渡で南に分かれる県道26号、そして前川渡で分かれる県道84号のいずれにも、当然のように水没を喫した廃道が存在する。
おいおい紹介していくことにもなるだろう。
だが、私にとってこの国道158号の梓川筋は、単に廃道を巡って終わりという、行きずりの場所ではない。
日本中の道の中でも、ここの現国道には殊更おおきな思い入れがある。
右の地図にも描かれているが、奈川渡ダムの周辺はとにかくもの凄いトンネル連続地帯になっていて、明かり区間よりもトンネルの占める距離の方が長いほどなのである。
そして、これらのトンネルが
…幼かった私の心に
…二度と治らぬ病を
…暗くて狭い隧道への飽くなき憧憬を
…植え付けてしまった。
旧安曇村内の国道158号関連のレポートとしては、最も松本寄りの 「猿なぎ洞門(橋場地区)」 を公開済である。
次は水殿ダムから奈川渡ダムまでの区間をお伝えしたいと思う。
いよいよ、我がオブ心の故郷、トンネル連続地帯にも掛かるレポートになるだろう。
これは、今回のレポート範囲のダムが出来る前の地図。
ちょうどこの地図が描かれた昭和28年に、従来は県道「松本船津線」であった梓川沿いの道が、二級国道158号「福井松本線」へ昇格したのであった。
地図を見ても分かるとおり、この区間には当時隧道はひとつも無かった。
そして、奈川渡付近では谷底を通っていた。
ここは明らかに奈川渡ダムによって水没しているであろうが、一方でその下流の水殿ダムは、必ずしも旧道に影響しなかったかも知れない。
地図を見る限り、水殿ダムから下流の稲核ダムにかけての道は、ダムが出来る以前からかなり高い山腹に付けられていたようだ。
続いて、現在の地形図を見てみよう。
今回
現地での最大の謎として残った、この写真の隧道の行く先は、旧版地形図を見ることで簡単に解決した。
次にご覧頂くのは、奈川渡ダム完成の17年前を描いた、 昭和27(1952)年応急修正版5万分1地形図「乗鞍嶽」 である。
長過ぎ〜!!
案の定、あの隧道はめちゃくちゃ長かった! 深追いせず正解。地形図上での長さを計ると、 3800m はある!
この数字は、過去に私が探索したあらゆる廃隧道の中で最長だと思う。
仮に洞内に泥が堆積していなかったとしても、さすがに途中で怖ろしくなって逃げ出したか、或いは本当に酸欠で大変な目に遭っていた可能性がある。
私は僅か20mほどでリタイアしたが、私は本当に果てしない長大な隧道に呑み込まれかけていたのである…。
そして肝心の出口には何があったかといえば、そこにはやはり発電所の記号が待ち受けていた。
その発電所の場所には、梓川と奈川が合流する奈川渡(ながわど)の地名があり、これは現在の奈川渡ダムサイトのすぐ近くだ。
上の図は、昭和27(1952)年と昭和47(1972)年の地形図である。カーソルオンやタップ操作で画像が切り換わる。
これらの地図には、私が今回発見した2本の水路橋を含む長大な発電用水路の全貌が描き出されているが、昭和47年版では既に奈川渡ダムが出現しており、その湖畔に本来なら既に廃止されていたはずの水路が引き続き描かれてしまっている。これは「資料修正版」という、ダム完成以前の図に簡単な修正を施しただけの版だからだろう。
昭和27年版に描かれた一連の発電用水路の上端は、大野川上流の乗鞍高原番所(ばんどころ)付近に設けられた取水堰であったようだ。
そこから小大野川の上流を経由して前川発電所の水圧管路(水を落とす水路)へ導かれていた。これが前半部分で、奈川渡ダムの完成後も引き続き稼働している。
対する後半部分が今回発見された廃止区間であり、ここでは2本の水路橋を経由し奈川渡にあった発電所へ導かれていた。
以上の水路の全長は10km以上もあり、しかもほぼ全線が隧道として描かれていた。
奈川渡ダムの湖底に眠る、長さ4km近い水路隧道。
その奥部は依然として未知のままであり、閉塞しているのか貫通しているのかも分からない。
我々はただ想像するのみである。
仄暗い湖底の底に、人知れず眠り続ける巨大な真闇のあることを。 ―
2018/4/27 17:24 《現在地》
異形に満ちた閉塞地点から、逃げるように撤収したのは7分前のこと。
今はもうトンネルからも脱出し、その足で特徴的なラッパ型坑門まで上ってきた。そして、おそらくもう二度とここから眺めることはないだろう夕日を眺めていた。
しかし残念ながら、この美しい今日の終わり際をじっくり堪能している暇はない。日が水平線に落ちきる前に、いくつかの難所を持つ海岸線を戻らなければならない。
復路、開始!
17:38
さっそくだが、ここまで来れば一安心だ。
いまは最大の高巻き(難場�D)を攻略し終えたところだ。
距離のうえではまだ4分の1も戻れていないが、往路で一番「危ない!」と思った難所がここだった。
先を知っている帰路だからこそ、許される時間になっている。
往路と同じ海岸だが、北海道の西の端から見送る北海道最後の夕日は、とても新鮮だった。
探索での大きな成果を抱えて帰る夕焼けの道は、何もかもが誇らしく、輝かしく見えた。
今回の北海道探索全体を通じて、今が幸せの絶頂だ。
“山行が”には勿体ないくらいフォトジェニックな景色に包まれながら、黙々と歩くことしばし、別れた時とは全く違う色を纏う、見覚えのある道が見えてきた。
「無事に戻ってきたぞ! 歓迎してくれるか、道よ!
いまの私は、知っているぞ。
お前の生き別れた片割れが、どうなったか。その現況を。
そして、“天狗トンネル”という、お前の生来の名も。
全てを知って、帰ってきたぞ!」
18:11 《現在地》
天狗覆道坑口前の閉鎖ゲート、自転車の在処へと戻ってきた。
ここから天狗トンネル北口までの海岸迂回の行程は、往路で約55分を要したが、復路は30分足らずで終わった。
通れる場所が予め分かっている状況だと、道なき道でもこのくらい素早く行き来できるということだ。
話の流れとしては、これにて大団円というのが最もすっきりしそうだが、忘れてはいない、ひとつだけやり残しがあったことを。
ここから始まる天狗覆道と、その奥に続く天狗トンネルの大成側部分を、まだ探索していない。
これらは、時間切れになることを心配して往路で先送りしていた部分だ。
最後にこれをやっつけよう。
まずはフェンスを越えて、その向こう側の水面へ飛び降りる。 バッシャン!
未成ゆえに一度も灯されることのなかったナトリ
2018/5/26 11:05 《現在地》
麗しの「四号橋」にたっぷり癒されてから、もどってきたぞ。
この不自然の世界に。
ほんと、なんなのこれ。
廃道探索者としては、廃道然とした旧国道が残っていなかったことを残念に思うが、別に非難や批判をしたいと思っているわけではない。
ただただ、ものの数年でこんなに自然を取り戻せるんだなっていう驚きから来る、「なんなのこれ」だ。
これなら、「自然破壊反対!」なんていうのは、単に自分の好きなものを壊されたくないというエゴで、自然は壊したら二度と元には戻らないなんていう、私が子供のころからいろんな場面で教え込まれてきた理論は嘘っぱちかと思ってしまう。仮に壊しても、人間様はそれを元に戻せるんじゃないかなんて、だいぶ傲慢なことも考えたくなる。
実際、金と手間を惜しまなければ、たいていの復元は出来てしまうのだろう。元に戻せないのは、気温とか、環境そのものが変わってしまった場合くらいか。そして、現実はこの“金と手間”が惜しまれるものだから、世の廃道の大半が廃道として放置されているんだろうか。
この緑の築堤も、そこから見える万景壁も、石狩川も、四号橋も、実にすばらしい眺めだ。
読者諸兄の中にも、もし観光ガイドブックにこの景色が載っていたら、行ってみようと思う人がいるだろうし、まして国道から徒歩2分の好立地だ。
この築堤をそのまんま遊歩道にして活用でもすれば良いのに、そんな様子は全くない。
北海道の大自然は恵まれているから、このくらいは見るに値しないのだという意見もあるかも知れないが、これはそんなにありふれた景色ではないと思う。
単純に、ここが国立公園の特別地域内だから、遊歩道ひとつ作るのにも国の許可がいるだろうし、いろいろ大変なんだろうか。
あまりにも風景が変わっているので、本当に最近までここを国道が通っていたのだという証拠を示す必要がありそうだ。
左図は、昭和52(1977)年の航空写真である。
これを「最近」というのは少し無理があるかも知れないが、旧国道が現役だった時期の航空写真でこれより新しいものを見つけられなかった。
しかし、40年ほども昔の風景でありながら、大型観光バスと思われる細長いシルエットの車が多く行き交っており、路面もちゃんと舗装されているのが明確に見える。
今日の一般的な国道と比較しても遜色のない、十
[編集] 地理
長野県松本市の北西に位置する飛騨山脈(北アルプス)槍ヶ岳に源を発し南流する。上高地で大正池を形成し、梓湖(奈川渡ダム)に注ぐ。島々宿で東に向きを変え、新淵橋を過ぎたところから右岸の波田と左岸の梓に河岸段丘をつくる。松本市大字島内で奈良井川を合わせ犀川と名を変える。奈良井川との合流点手前のラーラ松本付近では拾ヶ堰や勘左衛門堰が地下横断をする。
[編集] 歴史
仁科濫觴記によれば、成務天皇の代に諸国の郡の境界を定めた際(古事記には「国々の堺、また大県小県の県主を定めた」とある)、保高見ノ熱躬(ほたかみのあつみ:後に「熱躬」を「安曇」と改称)が郡司であったため熱躬郡(あつみぐん)とし、境界の川も「熱躬川(あつみがわ)」とした。この熱躬川が、天智天皇7年(668年)に「梓川」と改称された[1]、とある。「熱躬川」であったにもかかわらず、梓川を「あつみがわ」ではなく「あずさがわ」と呼ぶ理由としては、二十巻本の和名抄(巻5)で、信濃国安曇郡を「阿都之(あつし)」と訓じてあることがあげられる。この「あつし」の訓は、「あづさ」の音にきわめて近い。
一方で、流域は古来より梓の産地であり、梓弓の材料として朝廷にも献上されていて、このことが川の名前の由来になったとも言われている[2]。
[編集] 利水
梓川の水は、発電用と、農業用灌漑のために、古くから用いられてきた。このため、新淵橋よりも下流の松本盆地での流量は豊かだとは言えない。
[編集] 発電用
水路式発電所は上高地に近い上流から、盆地部に下りての昭和電工赤松発電所・梓水力発電所まで、流域の各地に造られて古くから稼働してきた。1969年(昭和44年)11月には、奈川渡ダム、水殿ダム、稲核ダムの梓川3ダムが完成した(それまで梓川にはダム式発電所がなかった)。この梓川3ダムは揚水発電所として運用され、電力需要の多い時間に発電のためにいったん下流に放水された水を、電力需要の少ない夜間に再度揚水して上流のダム湖にためるようになっている。このために、下流のダム湖の上端が上流のダムの下まで来るように造られている。
[編集] 灌漑用
「堰」は一般には、川を堰き止める構造物をさすが、松本盆地ではその堰から取水して水を流す人工河川をも「堰」(読みは「せぎ」)といい、たくさん存在する。梓川から取水するものだけでなく、烏川から取水する烏川
2011/3/3 6:32 【現在地】
ようやく本題である「草木トンネル」に着いたわけだが、先に立ち入ろうとしたのは、“本坑”(車道)ではなく、その近くに口を開けていた、こちらの“避難坑”らしき坑口だった。
全長1311mと比較的長い草木トンネルは、平成6年の開通当初から平成20年頃まで、高速道路である三遠南信自動車道の先行開通部分として利用されていたのであり、本坑とは別に避難坑が存在するのではないかと、予め期待はしていたのだが、初めてそれらしき存在が確認出来た。
坑内からは緩やかに風が出て来ており、貫通はしているようだが、出口の光は見えなかった。
また、照明器具は取り付けられているが、これも点灯していなかった。
さて、ひねくれ者の私は敢えて本坑ではなく、避難坑から攻略してやろうかと考えたのも束の間、入口の鉄扉は当然のように施錠されており、立ち入れなかったのである。
…ぬーん。
避難坑と本坑の両坑門の位置関係はご覧の通りである。
坑口部において、両者の進行方向は異なっているように見えるが、洞内でこれらがどう結び付くのか、興味深い。
避難坑といえども、そこへ至る道幅と較べてもらえば分かるとおり、車1台分以上の大きさがある。
なお、私が立っている場所は国道152号の路面で、かなりの急坂で左右に通じている。
この国道152号と草木トンネルがある国道474号とは、車1台分の狭いスロープで繋がっているものの、チェーンが架けられていて、車での出入りは出来ないようになっている(特に立入禁止などの表示は見られない)。
避難坑に拒絶された私は、何食わぬ顔で本坑へ戻ってきた。
避難坑同様、こちらも出口までは見えないが、照明が点いているおかげで、500mくらい先のカーブまですっと見通す事が出来た。
ずっとゆるやかな上り坂になっているのが分かる。
また、トンネル内にも車はいないようで、静まりかえっていた。
さて、それでは草木トンネルの内部探索へ参ろうか。
ここから見える範囲には、取り立てて珍しい風景は見あたらないが、我が国唯一の、高速道路から一般道へと降格したトンネル。
避難坑の他にも、何かあるはずだ。
100mばかり進むと、さっそく小さな異変が現れた。
内壁に取り付けられた、非常電話の存在を示す内照明式の道路標識(116の2非常電話)が、白いテープで×印に塞がれてい
先日、地理院地図を眺めているときに、面白いトンネルを見つけた。
あなたにも、見つけてもらいたい。
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ここ、どうなってるの?!
ごくごく短いトンネルが、180度のカーブを描いているように見える。
この奇妙なトンネルの道は、行き止まりのようだが、とても気になる。
実際にどんな景色が現地にはあるのか、見に行ってみよう。
場所は、日本有数の温泉歓楽街である、熱海(あたみ)だ。
2016/2/21 13:29 【現在地(マピオン)】
ここは、静岡県熱海市のJR熱海駅前。
東海道本線と東海道新幹線そして伊東線が停車するこの賑わいの駅を、観光やビジネスなどで訪れた経験を持つ人は大勢いることだろう。
しかし私はこの日この場所へ鉄道を使わずやってきた。
遙か昔に失われた 豆相人車鉄道 の跡を、人車鉄道並みの速度しか出ない自転車で追い掛けながら、辿り着いたのだ。
もっとも、ここに辿り着く直前に、人車鉄道の探索は終わっていた。かの鉄道の終点は、この近くではあるが、現在の駅前ではない。
前置きが長くなったが、私が初めて駅頭に立った熱海駅前から眺める景色は、溢れかけた宝石箱の印象を与えた。
瀟洒な洋装を纏う巨大な建造物たちは、猫額の海岸沿い低地から容易く溢れ出て、後背の山岳地(これは手ぬるい丘の如きものでは無く、伊豆半島の主山脈に属する本格派だ)をも支配的に居立していた。ここには立体的で迷宮的な、熱海という名の宝石箱都市(Jewel box city)の姿があった。
地図上に見つけた“奇妙なトンネル”を探すトレジャーハンティングの始まりだ。
13:50 【現在地】
熱海駅前を自転車で出発してから20分後、私は地図を頼りに辿り着いた。
駅から1kmほど西に離れた熱海市咲見町の一角、目指すトンネルへと通じる唯一の道の入口へと。
とても目立たない、青看も信号機もない交差点だった。
手前の2車線の道は交通量の多い市道であるが、そこからわざわざ、この見るからに狭く、見通しが悪く、急勾配が威圧的な脇道へと出入りするクルマは、今のところ見あたらない。
しかし良く見れば、この脇道の行き先が看板によって明かされていた。「両国予備校熱海研修会館」「Relax Resort Hotel」「野中山マンション」「東京実業健保組合保養所サンライズ熱海」といった、いかにも熱海色
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