[1] 梓川
梓川(あずさがわ)は、長野県松本市を流れる信濃川水系犀川の上流域を示す別称。
現地での最大の謎として残った、この写真の隧道の行く先は、旧版地形図を見ることで簡単に解決した。
次にご覧頂くのは、奈川渡ダム完成の17年前を描いた、 昭和27(1952)年応急修正版5万分1地形図「乗鞍嶽」 である。
長過ぎ〜!!
案の定、あの隧道はめちゃくちゃ長かった! 深追いせず正解。地形図上での長さを計ると、 3800m はある!
この数字は、過去に私が探索したあらゆる廃隧道の中で最長だと思う。
仮に洞内に泥が堆積していなかったとしても、さすがに途中で怖ろしくなって逃げ出したか、或いは本当に酸欠で大変な目に遭っていた可能性がある。
私は僅か20mほどでリタイアしたが、私は本当に果てしない長大な隧道に呑み込まれかけていたのである…。
そして肝心の出口には何があったかといえば、そこにはやはり発電所の記号が待ち受けていた。
その発電所の場所には、梓川と奈川が合流する奈川渡(ながわど)の地名があり、これは現在の奈川渡ダムサイトのすぐ近くだ。
上の図は、昭和27(1952)年と昭和47(1972)年の地形図である。カーソルオンやタップ操作で画像が切り換わる。
これらの地図には、私が今回発見した2本の水路橋を含む長大な発電用水路の全貌が描き出されているが、昭和47年版では既に奈川渡ダムが出現しており、その湖畔に本来なら既に廃止されていたはずの水路が引き続き描かれてしまっている。これは「資料修正版」という、ダム完成以前の図に簡単な修正を施しただけの版だからだろう。
昭和27年版に描かれた一連の発電用水路の上端は、大野川上流の乗鞍高原番所(ばんどころ)付近に設けられた取水堰であったようだ。
そこから小大野川の上流を経由して前川発電所の水圧管路(水を落とす水路)へ導かれていた。これが前半部分で、奈川渡ダムの完成後も引き続き稼働している。
対する後半部分が今回発見された廃止区間であり、ここでは2本の水路橋を経由し奈川渡にあった発電所へ導かれていた。
以上の水路の全長は10km以上もあり、しかもほぼ全線が隧道として描かれていた。
奈川渡ダムの湖底に眠る、長さ4km近い水路隧道。
その奥部は依然として未知のままであり、閉塞しているのか貫通しているのかも分からない。
我々はただ想像するのみである。
仄暗い湖底の底に、人知れず眠り続ける巨大な真闇のあることを。 ―
上高地は、飛騨山脈(北アルプス)の谷間(梓川)にある、大正池から横尾までの前後約10km、幅最大約1kmの堆積平野である。かつて岐阜県側に流れていた梓川が焼岳火山群の白谷山の噴火活動によってせき止められ池が生じ、そこに土砂が堆積して生まれたと考えられている。狭義にはこの平野のうち、観光名所として知られる河童橋の周辺だけを指す場合もある。この高度でこれほどの広さの平坦地は、日本では他に例が少ない。
気候的に山地帯(落葉広葉樹林帯)と亜高山帯針葉樹林の境界線付近の高度に位置しているため、ブナ・ミズナラ・シナノキ・ウラジロモミ・シラビソ・トウヒなど、両者の森林の要素が混在し、更にヤナギ類やカラマツを中心とする河川林や湿原が広がるなど、豊かな植生で知られている。最終氷期(ウルム氷期)には、上高地の上部に位置する槍沢と涸沢には山岳氷河が発達し、もっとも拡大した時期には氷河の末端が上高地最深部の横尾にまで達していたと考えられている。現在も氷河によって形成されたカール地形が残っている。気候は亜寒帯湿潤気候である。1月の平均気温は-7.7℃、最低気温は-20℃を下回り非常に寒さが厳しい。一方、8月の平均気温は19.7℃で日中でも22℃ほどにしかならず夏季はかなり涼しい。
[編集] 上高地の生物
梓川や大正池には渡りをしないマガモが住んでおり、ほとんどの個体は人を恐れない。ニホンザルも通年住んでおり、冬季は下北半島の北限ニホンザルよりも厳しい条件である当地で越冬する。
[編集] 外来種
もともと梓川や大正池にはイワナが優占種として生息していたが、1925年以降カワマス、ブラウントラウトが放流された。現在ではイワナとカワマス、ブラウントラウトの純粋種の他に、放流された3魚種の自然交雑種が生息し、イワナは優占種では無くなった[1]。自然交雑種のF1(雑種第1代)は雑種強勢の特長が現れるが、戻し交配を含むF2(雑種第2代)は繁殖力が極端に弱く雑種崩壊を起こし、純粋種の減少が進んでいる[2]。
上高地に生息するゲンジボタルが、人為的に持ち込まれた可能性が高いと、安曇野市が2010年11日に長野市で開いた研究会で民間の自然環境調査団体が発表した。ゲンジボタルは2000年ごろから梓川沿いの池で確認されるようになり、上高地の水温は年間通して10度以下で、ホタルの成育に適さないが、この池は温泉の影響
17:41
全長510mほどの釜トン。そのほぼ中間地点にあるカーブの外側の壁には、同じ形をした穴が二つ並んで開いていた。
人が出入りするには小さいが、いったい何の穴なのか?
右図の通り、現在地点は明らかに地中である。
先ほどの「明かり窓」のように、壁一枚で外に通じているとは思えない状況なのだ。
私とナガジス氏は、
一人一穴の体制で、ここに進入してみた。
おや、ナガジスさん。
四角い穴をしゃがみ歩きで通過すると、そこには立ち上がれるだけの空洞が現れた。
そして、そこではもうナガジス氏がニコニコしていた。
……ここは、どこ?
どこだ?!
ここも… 釜トンなのか??
やべー…
また洞内分岐だよ……。
我々が潜り抜けた二つの穴は、よく知られた釜トンと、その陰に存在している 知られざるもう一つの釜トン とを結ぶ、秘密の通路のようであった…。
両者を分ける隔壁は、分厚く堅牢なコンクリート製だ。
横穴は完全に抹殺出来たはずなのに、二つの穴が残されたのは何故だろう。
それはさておき、数十年分の排気ガスは穴を通じて“こちら側”にも充満していたのだろう。
素堀の岩盤は、煤によって真っ黒く変色している。
それはさながら火災現場のようである。
火災現場とのもう一つの共通点は、そこに何ら“生ある”者が無さそうだという点だった…。
目の前には、全く得体の知れない金属製の残骸が置かれていた。
明らかに“二つ穴”よりも大きく、今のように塞がれる以前に持ち込まれた“何か”であることは明らかだった。
そして、横穴は異様に狭かった。
立ち上がるともう、目線は明らかに天井に近かった。
目測であるが、 「幅2m、高さ2m」 程度と思われる。
周囲の壁はすべてコンクリートに覆われているものの、路面のみは未舗装で、拳大の瓦礫やコンクリートの破片、木片などが雑多に積まれていた。
ここは、明らかに“年季の入った廃隧道”の姿である…。
巨大な残骸の脇をかわすと、進路が開けた。
出口だ!!
なんと、この横坑は外へと通じていた。
推定される全長は、50mほどだ。
その進行方向はおそらく、壁の穴を抜ける前に歩いた直線を、ただまっすぐに延長した方向である。
そして、引き継がれているのは進行方向だけではなく、アノ道路トンネルの常識を覆す急勾配(15%)もまた、この横坑にそのまま繋がっている。
こ
上高地へやってきました。上高地の入り口「釜トンネル」の北側坑口から長野県道24号上高地公園線の旧道を下流方面へ向かって歩きます。旧道とは道路が新しいルートができた際に、それ以前に使われていた道路が使われなくなったことを表しています。旧道は車が全く通っていないので、道路の整備や管理が行き届かず、朽ち果てるままになっています。
現在地は釜トンネルの北側にある産屋沢橋から釜トンネルに沿って南へ続いている旧道を歩いています。上の地図には旧道のルートは書いてありません。新しい道路が完成すると、これまで使われなくなった道路は地図上から抹消されてしまうのです。ただ現実には朽ち果てた旧道として残っているので歩くことができます。
上高地公園線の旧道には巨大なスノーシェッドが覆いかぶさっています。平成7年に竣工した「釜上洞門」と呼ばれていて、「洞門」とは落石や雪崩から道路を守るためにある覆いのようなものです。覆いと行っても鉄筋コンクリート製の頑丈な造りとなっています。釜上洞門の入り口から振り返って上高地方面を撮影しています。
廃道の中の廃道。
皆様にとっての廃道とは、どんなイメージだろう。
草むした砂利道、苔の生えたアスファルト、ひび割れたコンクリート、消えかけた白線、色あせた道路標識、忘れられた路傍の石碑、照明の消えた真っ暗な隧道、落石に埋もれたガードレール、路面を奔る沢水、崩れ落ちた橋や路肩、草いきれのする藪、弱音、諦め、安堵とガッツポーズ…
ここには、それら考えられる要素のほとんど全てのものがある!
廃道の中の廃道とは、決して険しいだけの廃道だとは思わない。
ここには、演出過剰なほどに分かりやすい、“廃道の真景”がある。
それゆえ、以前執筆させていただいた『 廃道をゆく (イカロス・ムック)
』にも、巻頭企画としてこの道を紹介した。
この道を辿ることは、廃道の酸いも甘いも同時に体験することに他ならない。
同書にて一度紹介済みではあるが、本とネットでは表現方法も異なることであるし、今回はより詳細なレポートを作成したい。
都合により、このレポートの完結までには数日間の更新停止を数度挟むと思いますが、なにとぞ気長にお楽しみ下さい。
国道158号は、福井県福井市と長野県松本市を結ぶ約250kmの一般国道で、中部日本の内陸部を東西に連絡する路線である。
この地域には南北方向に走向する地溝および山脈が連続しており、路線内には険しい峠が複数ある。
そのなかでも、北アルプスの穂高連峰と乗鞍岳の間を越える岐阜長野県境「安房(あぼう)峠」は冬期閉鎖を余儀なくされる最大の難所であったが、平成9年に念願の安房トンネルが開通したことで長年の困難は解消された。
だが、この安房峠越えの道。
険しいのは峠だけではなかった。
むしろ、安房峠が飛騨国と信濃国の最短距離にありながら、歴史的には南方に大きく迂回する野麦峠の方が両国を結ぶ街道の本道とされて来たのは、安房峠そのものよりも、その信濃側(長野側)アプローチとなる梓川渓谷の、尋常でない険しさのためであった。
右の地図を見ていただきたい。
密に描かれた等高線の最も密なところ、さらに多数の崖の記号を従えて描かれているのが、梓川渓谷である。
どこまでが谷で、どこからが山腹なのかの区別は難しいが、稜線に対する谷の深さは1000mを下らない。
北アルプスの名を冠するに足る、極めて険しい山岳の描写だ。
そして、梓川の流れに寄り添う、一筋の道がある。
平成3年10月18日、
国道の現役の洞門が巨大な土砂崩れに呑み込まれ、あっという間に破壊されるという事故が発生した。
しかも、その模様は偶然にも、対岸の集落に住む安曇村役場職員によってビデオ撮影がされていた。
真新しいコンクリートの洞門が、落雷のような轟音とともにひしゃげ、無惨に崩れ落ちて行くショッキングな映像は、当日夕方のニュース映像にも使われており、ご記憶にある方もおいでだろう。
私もおぼろげながら見た記憶がある。
現在もこの映像は土木の世界において各種の解析に用いられているという。
これは、長野県松本市と福井県福井市を結ぶ国道158号上で、関東方面から上高地へと向かう玄関口の安曇村島々地区、「猿なぎ洞門」での出来事だった。
一歩間違えれば、昭和46年に静岡県の国道150号で発生した石部洞門崩落事故や、平成8年に北海道の国道229号豊浜トンネルでの崩落事故のような大惨事になっていただろう。
かくいう私も、かつて乗鞍への家族旅行の行き帰りに何度となく通った洞門だった。
自身にとっても思い出の地である猿なぎ洞門、そして乗鞍への再訪を、私は先日、実に十数年ぶりに果たした。
かつて私がオブローダーとしての資質を醸成させる、その重要な役割を果たした国道158号に、オブローダーとなった私がいろいろと返礼をするというのが目的だった。
詳しくはこのレポートの後に続くレポートで語ることになるだろうが、国道158号こそは幼い私が一番ワクワクする道だったのだ。
十数年ぶりの再訪。
当然、猿なぎ洞門も崩落事故によって廃止されたと思っていたのだが、実際の状況を確かめるのはこれが初めてである。
地図からそれらしい場所のあたりを付けた私は、いよいよ再開の朝を迎えた。
2008/9/9 6:00 【現在地】
ここは新旧道分岐地点… ではない。
目指す猿なぎ洞門は、直進した300mほど先にあるはずだ。
早くも、白っぽい崩壊斜面…この辺では「なぎ」という…が、見えちゃってる。
左の谷は上高地から流れてくる梓川だ。
ここではまず、 【この写真】 と同じアングルを目指すことにする。
撮影地は橋場集落ということであったが、そこはここから左の道を下って梓川を渡った対岸である。
右の地図を見て欲しい。
すでに問題の猿なぎ洞門は廃止され、危険区域をまるまる地中へ逃げる「
2008/7/2 13:12
現在地は、梓川筋最奥の集落である沢渡(さわんど)のはずれ。
これから本格的な山と谷の世界へと分け入っていく。
図中の現国道は、昭和44年に「山吹工区」として着工、同48年に完成した区間である。
したがって我々が辿る旧道は、旧道になって40年弱経過していることになる。
現在の地形図にも、この区間の旧道は破線で描かれており、途中にはそこそこ長い隧道まであるようだ。
早速だが、楽しみな区間だである。
いきなりの深い藪から始まったこの区間だが、幸いにして50mほど進むと視界が開けた。
そして、そこにはより鮮明なカタチで、現道と旧道の立体的な関係性が示されていた。
頭上を跨いでいるのは、現道の栂桜(つがさくら)橋。
緒元は不明だが、梓川筋でも有数の大型橋で、河床から30mほどの高みを越える、方杖ラーメン形式の鋼橋だ。
山吹工区の大工事としては、この栂桜橋と、それに続く新山吹トンネルが挙げられる。
旧道上には、まだクルマが通れていた時代(末期?)の遺物なのか、決壊した路肩を示すように赤いコーンが置かれていた。
スコンスコンッ
そんな破裂音を響かせながら、勢いよく橋を渡っていくクルマたち。
彼らには全く想像もつかないであろう谷底に、40年前の道はあった。
藪がいくらか浅いのは、ここにはまだ鋪装が残っているからだった。
僅かな踏み跡分だけを残しつつ、窒息寸前となった鋪装である。
この栂桜橋を潜ればすぐに隧道が現れる。
地図はそう教えていた。
否が応でも、我々の期待は高まった。
スコンスコンッ
13:19
スコンキター!スコンッ
…あります。
地図にある隧道くらい、あって貰わなきゃ困るんだけど、やっぱり嬉しい廃隧道発見。
しかもこれ、
なかなかどうして、
…凄いところにある。
ザーーーー!!! キター---! スコンスコン
坑口が、滝壺に…。
しかも、水の出所を見上げれみれば、…現道だし(笑)。
何を考えてこんなカタチになっているのか…。
水路の故障か何かでこんな風になっているのかも知れないが、ともかく前代未聞といっても良い光景だ。
哀れ、永遠の滝行を宿命づけられてしまった旧山吹隧道。
ほぼ無装飾に近いがアーチリングだけは鮮明な坑門や、1.5車線分しかない幅など、明らかに前世代的な作りである。
電線を仕込んでいた鉄管
初代ビジターセンター、
最後の越冬!
1970(昭和45)年6月にオープンした、初代・上高地ビジターセンターは2001年のシーズンをもって引退し、2代目に引き継がれる。半年に及ぶ長い越冬も今回が最後になる。
旧ビジターセンター
2000.01.20
冬の釜ヶ淵堰堤
昭和19年に竣工された、��釜ヶ淵砂防堰堤�≠ヘ、平成14年9月に「登録有形文化財」の登録を受けた。��アーチ式高堰堤�≠ニしてその後の手本となったとされ、上高地のシンボルともいえる。旧釜トンネルから、自然滝のように流れ落ちる様子が見えたが、新釜トンネルを利用するようになり、堰堤を眺めることは出来なくなった。残念…。
旧釜トンネルより
2000.01.27
ほぼ、結氷!
早朝の気温が氷点下17度まで下がっていた日、大正池の9割近くが氷結していた。ここまで冷え込むと、「寒い」というよりは、「痛い」としか感じ取れない。
大正池
2000.01.27
— 『日本三代実録』(873年)
が残されており、「愛宝山(あぼうやま)」と呼ばれその当時から霊山として崇拝されていた[17][18]。平安時代から室町時代にかけて古歌で「位山」と呼ばれ、1645年(正保2年)頃に乗鞍岳と呼ばれるようになったとされている[注釈 2][17][18]。1829年(文政12年)の『飛州誌』では、「騎鞍ヶ嶽」と記されていた[11]。飛騨側から眺めた山容が馬の鞍のように見えることから、「鞍ヶ嶺(鞍ヶ峰)」と呼ばれていた[12][19]。日本には同名の乗鞍岳が複数あり、「乗鞍」は馬の背に鞍を置いた山容に由来している[20]。信州では最初に朝日が当たる山であることから「朝日岳」と呼ばれていた[注釈 3][17][21]。最高峰の剣ヶ峰の別称が、「権現岳」[注釈 4][21]。魔王岳と摩利支天岳は円空が命名して開山したとされている[21]。1963年(昭和38年)11月に乗鞍国民休暇村(休暇村乗鞍高原)の開設に伴い、番所平と金山平と呼ばれていた周辺一帯が乗鞍高原と呼ばれるようになっていった[22]。南北に多数の峰が連なることから「乗鞍連峰」と呼ばれることもある[6]。
火山・地勢[編集]
日本の火山としては富士山、御嶽山に次ぐ高さである[23]。乗鞍岳は乗鞍火山帯に属し、複数の火山が南北に並ぶ複合火山である。千町火山体(せんちょうかざんたい、128-86万年前に活動した古期乗鞍火山)と烏帽子火山体、四ッ岳火山体、恵比寿火山体、権現池・高天ヶ原火山体(32万年前に活動を開始した新期乗鞍火山)で構成されている[9][23][24]。古い火山体の千町火山体と烏帽子火山体では、浸食と崩壊が進んでいる[24]。新期の火山体は山頂付近に分布する火山体や山腹に分布する溶岩ドームと溶岩流からなる大規模な成層火山。剣ヶ峰の噴火での直下西に権現池の火口湖が形成された[19]。約9000年前に現在の乗鞍岳の山容が形成された[25]。
山頂部は南北6 km、山体は北の安房峠から南の野麦峠まで南北15 km、東西に30 km、山域の面積は約250 km2と裾野が広いのが特徴で[23]、北アルプスの中では最も広い山域を持つ[19]。乗鞍高原などの8つの平原がある。火山湖と堰止湖の12の池があり、山頂直下西にある権現池は、日本では御嶽山の二ノ池に次いで2番目の高所にある湖沼。
2008/7/2 10:23 【現在地(別ウィンドウ)】
この「新入山トンネル」だが、
実は 「しんにゅうやま」ではなく、
「にゅうにゅうやま トンネル」 と呼ぶ。
…と、読者の一人がコメントを下さった(大笑) ←座布団全部上げます。
動と静。
1面2相を一洞に宿した入山隧道。
いま、県道に供された「静」の坑口より脱出なる。
そこにあるものは、我々と、皆様のご想像通り……。
信濃川水系最大の湖、 梓湖(あずさこ)だ。
奈川渡ダムによって貯留された水の総量は1億2300万立方メートルもあり、これは同じ長野県の諏訪湖の2倍の容量である。(アーチダムとしては、全国6位の貯水量)
こうして目前にすると、確かに巨大だ。
しかし、この湖の膨大な水量は湖面の大きさより、その深さによるところが大きい。
沈んでいる谷の深さは、このダム堤体付近で湖面から数えて120mを超えている。
湖の平面形は平仮名の「く」の字を逆さにした形で、ダムはその頂点にある。
向かって左の腕が奈川で、沿う道は境峠を越えて木祖村(県道26号)や、野麦峠を超えて飛騨高山方面(県道39号)へと通じる。
右の腕は梓川の本流で、沿うのは国道158号。安房峠を頂点に飛騨方面へ通じる。
いずれの腕も、上流5km以上にわたって細く長く、そして深い湖水を連ねている。
前回の最後に、「未発見の廃道」を匂わせる記述をしたが、その謎解きは取りあえず後回しにして、少し周辺を確かめてみよう。
その中にも、いろいろとこの「入山隧道」の過去を思わせるものがある。
新入山の西側坑口から出ると、湖面を望む丁字路になっている。
左折方向にも、私にとって思い出の深い“オイシイ隧道”たちが並んでいるが、今回は右折だ。
こちら側も、国道158号と合流するまでの約150mが県道26号に指定されている。
新入山隧道の坑口前の様子。
左写真は、木祖側から坑口へ接近した際に目にする青看。右折して隧道へ侵入することは出来ないことが、シンプルに表現されている。
遠方に見える建物は、道路左がレストハウス、右が「梓川テプコ館」という東電のPR施設だ。
そして、昭和40年代らしくシンプルな作りの坑門。
こちら側からは進入出来ないので、お馴染みの「トンネルナンバーのプレート」も取り付けられてはいない。
代わりに、進入禁止の規制標識が
釜ヶ渕堰堤(かまがふちえんてい)は、長野県松本市安曇(旧南安曇郡安曇村)、信濃川水系犀川の上流部(梓川)に建設されたダム。高さ29メートルの積石アーチ式コンクリート砂防ダムである。国の登録有形文化財。
[編集] 概要
1915年、焼岳の噴火による大量の泥流が犀川上流部(梓川)をせき止めてられて大正池が誕生した。この堆積した土砂の流出を防ぎ、上高地の景観と犀川流域の保全を目的に、大正池の河口直下に建設されている。かつては県道沿いに上高地に向かう途中に見ることができたが、県道の崩落事故が度重なったため2005年に新しい釜トンネルに付け替えられ、ほとんど人目に触れることはなくなった。
[編集] 歴史
1936年(昭和11年)に着工し、1943年(昭和18年)に釜ヶ渕堰堤本体工事が、翌年昭和19年に下流側の本副堰堤工事が竣工した。内部の構造は主に玉石を埋め込んだ粗石コンクリートで、表面は現地の石を加工した築石を用いている。梓川流域ではこの堰堤の着工に先立ち、1932年(昭和7年)に国の直轄砂防工事が始められており、当初は梓川沿いの山腹工や、沢渡周辺の川への小規模な砂防工事が行われた。2002年(平成14年)8月、国の登録有形文化財に登録。
[編集] 関連項目
ダム
日本のダム
アーチ式コンクリートダム
治山
砂防
上高地
釜トンネル
[編集] 外部リンク
国土交通省 - 河川局 - 砂防部 - 登録有形文化財に登録された歴史的砂防施設 - 釜ヶ渕堰堤
上高地公式Website - 釜ヶ渕堰堤
座標: 北緯36度12分51.15秒 東経137度36分54.11秒 / 北緯36.2142083度 東経137.6150306度
松本市安曇の上高地へ向かうには、かつては恐ろしいほどに急で、狭く暗い旧釜トンネルを通った。そのトンネルを抜け、続くロックシェッドの間から見える
のが釜ケ渕堰堤だ。梓川の土砂流下を抑える高さ29メートルの壁は、ごう音とともに大瀑布(ばくふ)をつくり、晴れた日はエメラルドグリーンに輝く渕まで
演出する。動と静がつくる迫力ある光景を前に、これから挑む頂を思い、一層胸を高鳴らせた岳人も多かっただろう。
◇
釜ケ渕堰堤を背にして、左方向で今も噴煙を上げる焼岳は、大正4(1915)年の噴火で大正池を出現させるほど、大量の土砂を噴出した。流域は広範囲で
土砂災害に悩まされるようになった。そこで昭和7(1932)年、国直轄の砂防工事が始まった。その要が梓川の峡谷部、釜ケ渕に造られた釜ケ渕堰堤だっ
た。
メーンの本堰堤は高さ29メートル、幅79メートルの国内最初期、最大級の石積みアーチ式堰堤で、18年に完成した。内部に玉石を埋め込んだ粗石コンク
リート造りで、表面に現地の石を加工した築石を張り、頑丈な造りにした。全体は大きく6ブロックで構成されている。断面にすると下の段を凹形に、上の段を
凸形にし、下段には大きな石も並べて接合部をさらに強化した。釜ケ渕ならではの丁寧な技法と評価されている。
コンクリートの材料にする岩石や砂利は現地で調達し、トロッコで運搬した。セメントは松本電鉄島々駅まで貨車で、その先はトラックに積んで運び、現場で
練り合わせた。工事には機械を駆使したが、人力に頼るところが大きかった。戦時下で国内労働力が足りず、過半数は朝鮮半島からの労働者だったという。残さ
れた工事写真の中には、きゃしゃな足場を頼りに、大自然に立ち向かう小人のような作業員の姿が写ったものもあり、土石流の危険や厳しい寒さとも戦いながら
の命がけの作業だったことがうかがえる。この完成以降、上流でも工事が可能になり、梓川流域の砂防体制は強化され、噴火で失われた一帯の緑も回復の兆しが
見え出した。
◇
「今の技術でも完成までは当時と同じくらいの期間がかかるのではないか」。国土交通省北陸地方整備局松本砂防事務所の古山利也建設専門官は、平成18年
夏の豪雨災害後の補修なども担当し、その都度、堰堤に詰め込まれた先人の知恵と工夫に驚かされてきたという。
平成14年に国の登録有形文化財になった。堰堤は土
立秋 会長に聞け!!~第3回 上高地の水について聞け!!~2009年08月07日 (金)
上高地に梓川や大正池、明神池がなかったら どんなに寂しい事でしょう。 上高地にとって”水”は欠く事のできない要素です。 という事で今回は”上高地の水について聞け!!”です。 NPG:大正池は小さくなっているって言いますが、 昔はどんなもんだったんですか? 昔は田代橋あたりまで池尻が来てたんだ。 大体、ダメなんだよ。河床があがるとか、大正池が小さくなるとか いう問題があるけどね。 昔(大正池の堰堤が出来る以前)はどんどん土砂が 流れてったのに・・・ 大正池に水が必要だからって今はせき止めてるけどね、 私は大水が出たら一緒に流しちゃえって思うんだ。 でも、水の蓄えが必要だから貯めておこうとせき止めちゃう、 それで土砂が堆積してっちゃう。 ここらで1m以上(河床が)上がってんじゃないか、昔からすると。 それでね、今、中の湯の売店がある所(釜トンネルの入り口に ある)では、逆に河床が1.5mも低くなっちゃってんだよ。 だって、上高地から土砂が流れていかないんだから。 河川管理の難しい問題なんだよね。 もう少し、川の生命を考えた時に下に(土砂を)流してやんのが 原理だよね。 更に昔ね、新潟港(※1)が焼岳の石が流れてきて 港を埋めちゃって困るってんで、 新潟県知事から是非一つ砂防をってんで産屋沢の堰堤(※2)を 作る事にしたんだ。 昭和12年から初めて20年で完成したんだ。 それで上高地はこれだけ堆積が進んだって事だね。 それで更に下流域の穂高やなんかのワサビ田では水不足(※3) っていう問題も起きているんだ。 そういう事も考えるとやっぱり(土砂は)どんどん流すべきだよね。 ※1 新潟港:梓川は信濃川として日本海に注いでいる。 ※2 産屋沢の堰堤:釜ヶ淵堰堤の事。上高地の土砂を留めて いる。 ※3 わさび田の水不足:上流で土砂が留まるので下流域では 川が深くえぐれる。 深い溝になるので川に水が集中し、川周辺のワサビ田の 水が不足してしまう。 NPG:田代池の水も実は飲めるって聞いたんですが 本当なんですか? 飲めるさぁ!!上高地の水は基本的にどこだって飲めるよ。 だって下水が全然流れ込んでないじゃないか。 ところで、この下水管理は全部私がやったもの
右図は、安曇三ダムと通称される梓川に連なる3つのダムを中心とした、松本市安曇地区(旧安曇村)のマップである。
3つのダムは、東京電力が昭和30年代以降に開発したもので、主に発電、次いで農業水利と洪水頂設に用いられている。
最も下流の稲核(いねこき)ダムから水殿ダムをへて奈川渡ダム、そしてその上流端である沢渡まで、水面高低差200mを付けながら、梓川には約15kmも湖が連続していることになる。
ダム有るところに、廃道あり。
このセオリーはこの場所でも生きている。
梓川の本流に平行する国道158号はもちろん、奈川渡で南に分かれる県道26号、そして前川渡で分かれる県道84号のいずれにも、当然のように水没を喫した廃道が存在する。
おいおい紹介していくことにもなるだろう。
だが、私にとってこの国道158号の梓川筋は、単に廃道を巡って終わりという、行きずりの場所ではない。
日本中の道の中でも、ここの現国道には殊更おおきな思い入れがある。
右の地図にも描かれているが、奈川渡ダムの周辺はとにかくもの凄いトンネル連続地帯になっていて、明かり区間よりもトンネルの占める距離の方が長いほどなのである。
そして、これらのトンネルが
…幼かった私の心に
…二度と治らぬ病を
…暗くて狭い隧道への飽くなき憧憬を
…植え付けてしまった。
旧安曇村内の国道158号関連のレポートとしては、最も松本寄りの 「猿なぎ洞門(橋場地区)」 を公開済である。
次は水殿ダムから奈川渡ダムまでの区間をお伝えしたいと思う。
いよいよ、我がオブ心の故郷、トンネル連続地帯にも掛かるレポートになるだろう。
これは、今回のレポート範囲のダムが出来る前の地図。
ちょうどこの地図が描かれた昭和28年に、従来は県道「松本船津線」であった梓川沿いの道が、二級国道158号「福井松本線」へ昇格したのであった。
地図を見ても分かるとおり、この区間には当時隧道はひとつも無かった。
そして、奈川渡付近では谷底を通っていた。
ここは明らかに奈川渡ダムによって水没しているであろうが、一方でその下流の水殿ダムは、必ずしも旧道に影響しなかったかも知れない。
地図を見る限り、水殿ダムから下流の稲核ダムにかけての道は、ダムが出来る以前からかなり高い山腹に付けられていたようだ。
続いて、現在の地形図を見てみよう。
今回
[編集] アクセス
鉄道・バス:アルピコ交通上高地線新島々駅より上高地行き路線バスで約45分で中の湯バス停へ。(あるいは松本バスターミナルから高山濃飛バスセンター行き特急バスで約75分。冬季は特急バスのみ。)バス停前の「中の湯売店」からは旅館の送迎車を利用。なお、朝は1回だけ旅館から大正池までの送迎がある。
マイカー:安房峠へ通じる国道158号の旧道沿いにある。ただし、冬季(概ね毎年11月中旬から翌年4月下旬頃)は、旅館へ通じる区間を含む旧道が閉鎖されるため、岐阜県(平湯温泉)側および長野県側双方から旅館まで直接マイカーで乗り入れることができない。このため冬季間は中の湯バス停前の「中の湯売店」から旅館に電話をかけ、安房峠道路の中ノ湯インターチェンジの旧道接続部にあるゲート(中の湯ゲート)を開いてもらう必要がある。
[編集] 泉質
硫黄泉(旅館)
鉄泉(卜伝の湯)
[編集] 温泉地
一軒宿の「中の湯温泉旅館」が存在する。上高地観光の拠点になるほか、焼岳登山の中の湯コースの登山基地としても利用価値が高い。近年は閉山後の上高地を徒歩で釜トンネルを通って訪れる人の基地として使用される例も増えている。
一軒宿はかつて、国道158号と上高地への県道の交差点近くに旅館が存在した。2005年6月まで交互通行だった釜トンネルの信号待ち中、梓川の対岸に存在した旧中の湯温泉の露天風呂に入浴する浴客は、上高地への車窓名物の一つだった。しかし、安房トンネル工事が原因の水蒸気爆発により、安房峠途中の現在地へ移転を余儀なくされる。移転後の現在地からは穂高連峰が遠望できる。
かつての中の湯温泉旅館の場所に近い釜トンネル入り口付近には、中の湯売店と、洞窟風呂である「卜伝の湯」が残る。「卜伝の湯」は30分単位の貸切りとなっており、入浴希望の宿泊者は予約時間に合わせて旅館から送迎車に乗って入浴に行くことになる。卜伝の湯への日帰り入浴は中の湯売店でも受け付けており、空き時間さえあれば外来入浴もできる。
旧旅館があった梓川沿いの場所は、崖地のあらゆる所で温泉が湧出しており、一帯は湯気と温泉の匂いに包まれている。旧中の湯の源泉とは別の野湯も多く存在する。沢渡温泉の源泉も当地にある。但し、旧中の湯の源泉とは別の安房トンネル工事の際に発見された源泉を利用している。旧中の湯の源泉は、現旅館にポンプで汲み上げられるも
去る平成14年5月17日に、文化庁の文化審議会において、安曇村中ノ湯の「釜ヶ渕堰堤」を国の登録有形文化財に登録するよう、文部科学大臣に向け答申が行われました。
「釜ヶ渕堰堤」は、昭和17年の竣工以後、およそ60年あまりもの長きにわたって、上高地の急峻な山々に囲まれた広い谷間を流れる梓川を災害から守り続け、いまも現役で梓川の砂防を担っています。なお、アーチ式砂防堰堤として登録有形文化財に登録されるよう答申されるのは全国で初めてです。
なお平成14年9月3日に登録有形文化財として登録されました。
−釜ヶ渕砂防堰堤の概要−
○所在地 長野県南安曇郡安曇村4460
○施工時期 昭和11年(1936年)着工
昭和17年(1942年)竣工
○規模・構造等
・堰堤の効果 貯砂量210万m3
・調整量 約26万m3
・堰堤の大きさ 高さ29m 長さ79m
体積約10,986m3
・構造 粗石コンクリート(法面は練石張)
○文化財登録にあたっての推薦理由等
1)国土の歴史的景観に寄与している。
落水が天然の滝のようにも見え、石積みのパターンやアーチ式の形状も周囲の景観と調和しており、景観的に評価が高い。また、上高地のランドマークとして、建設当初より来訪者に親しまれている。
2)造形の模範となっている。
わが国における初期のアーチ式堰堤であり、その形態や構造、先端的な築造技術は、その後のアーチ式堰堤の手本になったと考えられる。なお、本堰堤は、日本土木学会によっても「重要な近代土木遺産」としてその保存が望まれている。
駅周辺[編集]
梓川
一軒の民家
松本電鉄バスの車庫
廃線跡は新島々から先の車止以遠にある。線路は車止の向こう数mほど延びており、途中で途切れている。その先はあぜ道か私道まで確認できるが、用地の大半が田畑などに転用されており、残りは草木に覆われ、過去に何回かの大雨や嵐などの災害で地形が変わっており、面影はほとんど見ることができないのが現状である。島々跡地は現在バス車庫(屋根無し)に転用され駅の痕跡は確認しにくい。
歴史[編集]
1921年(大正10年)10月に部分開通した筑摩鉄道は、1922年(大正11年)9月26日に島々駅まで延伸開業して全通した。鉄道免許は、梓川上流の「竜島」まであったが、着工することはなく、島々駅が終着駅となった。北アルプス登山や上高地・乗鞍高原観光への出発拠点駅として有名になる。しかし、観光客・登山客の増加に伴い、周辺に平地の少ないこの駅では、これらの乗降・乗換客に対応するバス・ターミナル用地の確保が困難であった。そこで、旧赤松駅にこの機能を移すことにして、1966年(昭和41年)10月1日には旧赤松駅を新島々駅に改称し、その新駅にバス・ターミナルを新設、島々駅は無人駅になった[2]。1983年9月28日に台風による土砂災害のために線路上に砂礫が堆積し運行が不能になった。復旧工事をすることなく、そのまま1985年1月1日に正式に廃止となった。駅舎は新島々駅近くの国道を挟んで向かい側に移設され、観光シーズン限定で観光案内所として現在も使われている。内部には赤松(現新島々) - 島々の線路敷設工事の写真などが展示されている。
隣の駅[編集]
松本電気鉄道
上高地線
新島々駅 - 島々駅
脚注[編集]
^ 島々の集落は島々駅のあった場所から西へ2kmほど離れている。
^ 松本電気鉄道株式会社社史編集委員会『曙光-80年の歩み』松本電気鉄道株式会社、2000年3月25日
関連項目[編集]
日本の鉄道駅一覧
廃駅
冬の上高地はつい最近までは私のような者が立ち入れる場所ではなかった。
一昔前は「孤高の人」にもあるように、はるか手前の沢渡から約20Kmもの道のりを歩いて向かっていたのであった。
それが、平成9年に安房トンネルが開通したおかげで、1年中松本―高山間が開通し、それにより冬でも中の湯まではバスで行くことが可能になった。
私が四季を通じて初めて上高地へ入ったのは2003年末であった。登山を始めて2年ほどであったが、冬の穂高に魅せられ、勿論登ることは不可能であっても、この目で見たい衝動を抑えきれずに、無謀にも単独で初めてのスノーシューとともに釜トンネルを抜けた。
冬に上高地に入ったことがあれば、皆「釜トンネル」には思い入れがあると思われる。
今年「釜上トンネル」が開通し、昨年までの「釜トンネル」はその役目を終えた。この点はブログにも以前載せた通りである。
私はこのトンネルが怖いけれど大好きなので、繰り返しになるが、画像をアップしたい。
↑ 薄暗い天井には裸の蛍光灯と今にも落ちそうな氷柱。時々、ピキーンと氷柱が地面にたたきつけられる音だけがトンネル内に響く。足元は凍結している部分もあり、様々な意味で恐ろしい。
愛称「釜トン」は、心霊トンネル(スポットではない)・・?、
この様な釜トンネルは、断崖絶壁の深く切れ込んだV字峡谷の梓川に沿って、昭和の初期に長期間を要して手掘りで堀すすめられたという。
なんでもトンネルの建設は、某半島の人達の強制労働で掘り進められ、工事は昭和8年に貫通したという。
この時、事故死した作業員の人達が大勢埋まってるという噂もある。
又、昭和初期までは、冬期間に遭難、凍死した登山者の死体を収容した際、春から夏の間に松本市側に移送する時まで、トンネル内に一時保管することもあったという。
こんな理由によるのどうか、釜トンネルは「幽霊の出るトンネル」、「釜小僧が出るトンネル」などと「筋金入りの心霊スポット」などと言われる。
トンネル内で、いるはずのないアルピニストが後をついてきたとか・・、
トンネルの中ですれ違いざま幽霊が体の中をつき抜けていったとか・・、
グループの人数を確認すると必ず1人増えているとか・・、
目撃例は枚挙にいとまがなかったという。
或る松本電鉄バスの上高地線を受け持つ運転手は、「このカーブの壁にライトに照らされて、遭難者の顔が浮かび上がんだぞ−・・」とか・・、
「 特に、上高地からの最終バスは薄暗くなって車内は私ひとりになるわけですよ。 上高地側で信号待ちをしていると、ときたま、トンネルの入口のコンクリートが赤く光って見えるときがあるんです。 たぶん、信号機の赤の色だとは思いますけどねぇ、でも不気味ですよ、本当に。 釜トンネルの中では絶対にルームミラーは見ません。もし、乗せてもいない誰かが乗っていたら、と思うと恐くて後を見ることはできません 」
などと話している。
平成25年3月27日(大安吉日)に、松本市安曇地区上高地地先で本年2月20日から掘削を開始していた釜ヶ渕排水トンネルが貫通しました。
工事受注者の㈱岡谷組、その協力会社、発注者である松本砂防事務所の関係者が見守る中、15時00分に最後の発破が行われ15時05分に貫通が確認されました。
この工事は、摂氏マイナス20℃にもなる極寒の中での施工であり、幾度か掘削機械等の故障が発生しましたが、無事故無災害で予定通り掘削し貫通させることが出来ました。
今後は、巻立て及び底版コンクリート、トンネル出入り口の処理(坑門工)を施工し、トンネル全体として今年の秋頃の完成を目指しています。
本工事の施工箇所にある釜ヶ渕堰堤は、施工当時(昭和19年竣工)の先端的な建設技術と、景観と調和した形態が評価され、平成14年9月に文化庁の登録有形文化財として登録されています。
釜ヶ渕堰堤は、長年にわたり上流からの土砂流出を調整し、梓川流域を守ってきた砂防堰堤ですが、厳しい気象及び度重なる洪水により、現在は老朽化が著しい状況にあります。
その為、松本砂防事務所では、釜ヶ渕堰堤の補強を実施するために梓川の流水の仮回し用のトンネルとして、釜ヶ渕堰堤の右岸側(下流に向かって右側)の山に全長約135mの排水用トンネルをNATM工法にて施工するものです。
データ
名称
釜ヶ渕堰堤
指定等区分
国登録有形文化財
指定年月日
平成14年8月21日
種別
治山治水
所在地
安曇4460付近
所有者
国
時代区分
昭和時代
付加事項
所属カテゴリ
テーマ
登録文化財
テーマ
明治から現代
地域
安曇地区
分野
建造物
地図
クリックして詳細地図を開く
解説
昭和初期最大級の砂防堰堤
上高地に向かう途中の梓川渓谷に、登録有形文化財「釜ヶ渕堰堤」があります。
この堰堤は、初期のものとしては最大級の練石積アーチ式砂防堰堤です。昭和11年(1936年)に着工され、昭和18年7月に本堰堤が、昭和19年12月に下流側の第一副堰堤が竣工しました。本堰堤は高さ29.0m、長さ79.0mで、内部の構造はコンクリートを主体として玉石を埋め込んだ粗石コンクリート、堤体の表面は現地の石を加工した築石(間知石:角錐型に加工した石材)を用いた練石積コンクリート構造です。
かつては、上高地に向かう途中、釜トンネルを抜けると、ロックシェッドの間から見えるこのダムの雄姿に目を奪われたものでした。しかし現在は、ロックシェッドを迂回する新しい釜トンネルが開通し、車窓からは目にすることができなくなっています。
ページの先頭へ
全員で11名。斜度11%、約1.3KMのトンネルを歩く。旧釜トンネルと比べて舗装は
バッチリ。昔は旧トンネルはお化けが出るとのもっぱらの噂で松電のボンネットバスが
ウーウーうなりをあげて素掘りのトンネルを走る時に気味の悪さを感じたものだが
今はそんなカケラも無い。
国の登録有形文化財に指定された松本市安曇の砂防ダム「釜ケ渕堰堤(えんてい)」が昨年7月の豪雨で破損していたことが分かり、管理する国土交通省松本砂防事務所は来年度、当時の工法を使って復元する。同堰堤は、上高地入り口付近の梓川に1944(昭和19)年に造られ、手作業による美しい石積みが特徴。堰堤上部の2カ所で石積みがはがれている。
同堰堤は、高さ29メートル、長さ79メートルのコンクリート製。摩耗を防ぐため、表面を石積みで覆ってある。水が流れ落ちる中央部約24メートルのうち、2、3メートルずつ2カ所で石積みがはがれ、へこんだようになっている。
上高地では昨年7月15日から5日間で計500ミリ以上の降雨を記録。直後の調査で破損が見つかった。
内部のコンクリートに損傷はなく、堰堤が崩れる恐れはないが、同事務所は当時の文献などを調べ、現地の石を破損部分の形に加工して復元する。費用は調査費を含め数千万円を見込む。
同堰堤は、国内の砂防ダムで初めて上流側に曲線を描く「アーチ式」で造られた。資材使用量が少ないメリットがあるとされるが工事は難航し、8年をかけて戦時中に完成。2002年8月に登録有形文化財に指定された。同事務所は「険しい地形で水量も多いので工事は難しい。文化庁とも相談し、補修方法を慎重に検討したい」としている。
前回の写真の地点からほんの少し先に進んだところ。
ダム湖が見えてくるようになりました。
裾花ダム(すそばなだむ)によって作られたこの人造湖は「裾花湖」といいます。
裾花川は戸隠連峰(長野新潟の県境に位置する山々)を源流とし、この地を通って長野市内を通って犀川へ合流、そこから千曲川へ入り、新潟県で信濃川と合流し日本海に流れます。
犀川は上流は梓川と名前を変え、長野県の有名観光地「上高地」から流れています。
裾花川は長野市内を流れていることもあり、洪水などの水害が起きた場合の被害は甚大なものでした。1949年(昭和24年)には裾花川が氾濫、長野市内の大半が浸水したといわれています。
そのため裾花川上流にダムを建設、中部電力の末端に位置する長野市以北への電力供給を安定させるため発電所を建設する計画が発足、1962年(昭和37年)より建設が開始され、1969年(昭和44年)に完成している。
路盤はところどころ崩落しながらも、安全に人が通れるレベルの広さはちゃんと確保してある。
廃道といえど、この場所はまだ死んでいなかった。
ここでこのダムにまつわる長話をもう一つ。尺稼ぎ?知らない子ですね
この裾花ダムには失意のまま廃線を迎えた鉄道路線が一部水没しています。
名前を「善光寺白馬電鉄」と言います。
名前の通り、長野市(善光寺)と白馬村を結ぶ鉄道として1919年(大正5年)に計画、その後第一次世界大戦の不況のため、線路敷設許可が下りたのは1927年(昭和2年)4月のことだった。
路線が開業したのはそれから9年後、1936年(昭和11年)11月22日のこと。南長野駅〜善光寺温泉東口駅の5.8キロが開業した。それから1942年(昭和17年)12月17日に裾花口駅まで延伸された。これは現在の裾花ダム付近に作られている堰付近であると推測される。
しかし善光寺白馬電鉄の栄光はここまでであった。裾花口から先は山岳地帯となり、かつ資金が集まらなかったため工事は難航。裾花口まで開業して1年後の1944年(昭和19年)1月10日。太平洋戦争下の企業整備に伴い運行が休止されてしまった。
やがて終戦を迎え、戦後になっても長い間休止されたままだったこの路線は、自治体による復活運動が行われたり、国鉄による「信越西線」としての開業などが検討されるも、どれも実現には至らなかった。
行ってきました。
当初は志賀高原に行くつもりでしたが、この日は東側の天候が良くなかったので比較的天気の良い西側へ行くことに。先日の「福井県にタッチ」の続きで荘川〜白川郷方面へ行くことにしました。
安房峠越えで岐阜県入り
安房峠を下る途中から見た乗鞍岳
平湯温泉スキー場前から見た槍ヶ岳
平湯温泉スキー場は少しだけ紅葉しはじめていました。
旧道を登って平湯峠
乗鞍スカイライン頂上は午前11時現在で9℃
ちょっと気温高めですね。
ここからR158で高山、中部縦貫自動車道で飛騨清美JCT、東海北陸自動車道で荘川IC。ここで高速を降ります。
昼になったので荘川町のソバ屋「蕎麦正」に入ります。
このときは新そばまつり期間中でした。
新そば旨かったです。
さあ、R156白川街道に入ります。ここは4年前のZZR一泊ツーリングで通りました。今回は逆方向の北上ルートです。
岩瀬橋が見えてきました。
注意標識
この先が難所であることを予告しています。
岩瀬橋
岩瀬橋を渡った先は直角カーブ
大量の注意標識。さあ、難所の始まりです。
荘川桜
御母衣湖の水没地区から移植した桜の木です。
尾上橋
渡ったところから振り返る
この橋も渡ったところは直角カーブです
この先2本目のトンネル「尾神2号トンネル」の中は補強付き
今はこのように照明が付いていますが、以前は無かった。暗い中でいきなり出っぱりが現れる怖いトンネルでした。大型車の運転手はさぞびっくりしたでしょう。
トンネルを抜けて振り返って撮影
少し行くと1999年開通の福島保木トンネル(全長1106m)と旧道
もちろん右側の旧道に進みます。
旧道に入って最初のトンネル「福島保木第1トンネル」
トンネルを抜けても洞門が続き、次は「福島保木第2トンネル」
ここも抜けても洞門が続き、次は「福島保木第3トンネル」
トンネルに横窓がついています
横窓から外の壁を見るとボロボロ
作ってから50年以上経ちますからねぇ
洞門の上に登るハシゴがあります
湖面を見おろす
この水面下数十メートルには、白川街道の難所「福島歩危」がありました(詳しくはコチラ)
トンネル名の福島「保木」は「歩危」から来ているんですねー。まさかトンネル名に「歩危」なんてコワい名前つけられませんから。
途中明かり区
中南信を中心とした日帰り温泉(立寄り入浴)、昔なつかしい共同浴場をメインテーマに、町並み散策や湧水めぐりを気ままにお伝えしてます。
今日は名勝差切峡に位置する村営の日帰り温泉、差切峡温泉「坂北荘」を紹介します。
昭和52年に宿泊施設を備えた保養施設としてオープンし、現在は地域に密着した日帰り入浴施設となっている。
差切峡温泉へ向かう道筋。小さなトンネルが幾つも続く。
やがて差切峡へと辿り着く。せっかくなので、湯に浸かる前に景観を眺める。
差切峡を過ぎると直ぐに「坂北荘」へと着く。こちらが外観。
さっそく入湯。
浴室設備は外観から想像した以上に整っており、浴槽は広く、サウナに水風呂も完備する。ただ、湯船からの景観が望めないのは多少残念。
この時期、水風呂と湯船を交互に浸かる心地よさ。
湯は裏山から引き込む12.6度Cの単純硫黄冷鉱泉。
無料の休憩所がある。懐かしいアイスボックスも健在。
【場所】長野県東筑摩郡筑北村坂北9828
【電話】0263-66-2223
【入浴時間】10:00~20:00(受付19:30)
【休館日】木曜日
【入館料】大人400円(中学生以上)、小人200円(小学生)
※筑北高齢村民者は200円
【温泉の成分】
1.源泉名/差切峡温泉
2.泉質/単純硫黄冷鉱泉(弱アルカリ性低張性冷鉱泉)
3.泉温/12.2度C (気温25度C)
4.湧出量/16.1リットル/分
5.知覚的試験/ほとんど無色透明、硫黄味・微硫化水素臭を有す
6.引湯方法/-
7.給湯方式/-
8.加水/-
9.加温/-
10.入浴剤・殺菌剤/-
【交通】
国道19号線沿いの山清路峡から車で10分ほど。
「坂北荘」のHPは こちら 。
(訪問日:平成24年8月19日)
2008/9/9 6:50
でかい!
間近で見ると、洞門は巨大だった。
そして、それ以上に入口を塞いでいる岩の大きいこと!!
こんなものがゴロゴロと落ちてきたのでは、さしもの剛構造物、コンクリート洞門も破壊を免れなかった。
この洞門、見ても分かるとおり、決して古いものではない。
土砂崩れが起きたのは平成3年だが、全長30mの猿なぎ洞門が完成したのは、昭和59年である。
しかも、事故当時はちょうど、洞門を高山側へさらに30m延長する工事中であった。
洞門を破壊した崩壊現場である斜面を見上げる。
まるでスプーンで掬ったような、土砂崩れ跡の特徴的な地形がくっきりと残っている。
しかし、それでも崩壊斜面はコンクリートの真新しい吹きつけで覆われていた。
よくもあんな所で工事したものである。
いつも思うが、高所作業の人たちは本当に、すごい。
道は復旧されることなく廃止されたが、この崖の対岸には集落があるわけで、崩れっぱなしで放置というわけにも行かなかったのだろう。
なお、前編では崩壊の模様が録画および放送されたと書いたが、その映像の一部が 「社団法人 斜面防災対策技術協会 富山県支部」 サイトで見ることが出来る。(“サンプル映像”の最後にちょこっと入っている)
洞門の高さと同じほどもある大岩の脇から、猿なぎ洞門の内部へ進入を試みる。
こりゃ…ひどい…。
洞門が原形を留めている部分でも、内部まで大量の土砂が侵入しており、とても無事とは言えない状況。
舗装されているはずの路面は、少しも見ることが出来ない。
なお記録によると、30mの洞門のうち高山側(こちらは松本側)の10mは、土砂と一緒に川まで押し流されてしまったという。
だから、ここに残っているのは20m足らずということになる。
そして、私はこの時点で、 ある信じがたい異変に気付いてしまった。
目の錯覚だと思いたかったのだが…。
お、おお、 恐ろしすぎる……。
これが、崩れ落ちた大岩を支えている坑門部分。
表面には細かな傷や、コンクリートが剥離した跡が無数にある。
とても四半世紀を経ただけのコンクリート構造物とは思えない傷み方である。
ちなみに銘板は存在しない。
現役当時の写真を見る限り、この洞門に扁額はなく、道路標識と同じタイプの金属製の銘板が取り付けられていた。
その残骸も見られないが、
前に、長野県松本市にある奈川渡ダムそばの国道158号、「入山トンネル」の東口坑口前で、右の隧道を発見したのを覚えているだろうか。
そのときのレポはこちら→【 道路レポ 国道158号旧道 水殿ダム〜奈川渡ダム (第5回) 】
その場所はこちら→ 【周辺地図(別ウィンドウ)】
それは、人が立って入るのがやっとと言うくらいに狭い、明らかに人道用の隧道である。
写真に出口は写っていないが、長さはかなり短くて、覗き込むと向こうの光が20mくらい先に見える。
しかし、入り口には施錠された鉄格子が填められていて、進入はできない。
この閉ざされた隧道は、こんな異様な場所にある。
国道の直角コーナーの先にあるにしてはあまりにも目立っていない。
周りに存在感のある標識や看板が多すぎるためだが…。
ドライバーに危険な錯誤を起こさせかねない正面の隧道にはスッコンデいてもらいたい。
それが松本工事事務所の本音であろう。
そんなマイナーな隧道だが、一度見つけてしまうと… もう駄目。
ここを通るたび、カーブの先から目が離せなくなった。
いつも、その先が気になってしまう。
しかも、この隧道は最新の地形図にしっかり描かれていたりする。
もちろん、徒歩道としてだが…。
地形図から、隧道の先の景色を想像してみた。
国道脇の隧道を抜けると、そこには一棟の建物がある。
道はそこから上り坂になって、すぐにもう一本の隧道が現れる。これは最初の隧道よりもさらに短いものだ。
左はカーブして、水殿ダムの水面上130mという急な山腹を横切る。
そしてやがて道は、奈川渡ダム堤体へ吸い込まれる…。
おそらく中間部から先では、全国有数の規模を誇る奈川渡ダムの巨大な堤体を、今まで体験したことのないアングルで望むことが出来るだろう…。
きっとすばらしい眺めがこの道にはある。
だが、ダム堤体に突っ込んでいくような立地を見る限りにおいて、この道の正体は一般道路ではない。
ダムの作業用通路…。
現役ダムの作業道は、私といえどさすがに立ち入ることがはばかられる領域。
でも、あの塞がれた坑門には、あってしかるべき警告文が見られなかった。
それは不審なことである。
謎の道……
少なくとも、現時点においてこの道の正体は謎。
これは、 「奈川渡ダムの謎の道」 だ…。
2008/9/8 16:58
約2
【周辺地図(別ウィンドウ)】
このレポートは、「 道路レポート 国道158号 水殿ダム〜奈川渡ダム 」の続編である。
nagajis氏とタッグを組んで梓川筋の隧道・旧道・廃道を手当たり次第に攻略する旅は、その重要な経由地である奈川渡ダムに到達後、少し寄り道をすることにした。
ターゲットは、奈川渡で国道158号より分岐して旧奈川村から木祖村方面へ繋がる県道26号「奈川木祖線」にある、4本の隧道たちだ。
水殿ダムから奈川渡ダムまでの区間にも5本の隧道があったが、ダムへのもう一つの接近路である県道26号にある隧道は4本。
由来もダム工事に関する路線の付け替えということで前者と共通する。
なお、前回レポートの冒頭でも語ったとおり、私にとってこの一帯は、 “トンネルではない「隧道」への目覚め” のエリアである。
特に我が家では、毎回この県道26号から梓川筋へ入っていた憶えがある。17.8年も前だから、当時は長野自動車道も未完成で、東京方面からの入路として必ずしも松本経由は最短ではなかったのかも知れないし、ハンドルを握る親父の好みだったのかも知れない。(帰りはいつも松本経由だったので)
ともかく、今回の探索では最後に遭遇することになるだろう「角ヶ平隧道」こそ、幼少の私にとって、 なぜだか分からないが興奮する隧道達との出会いと再開の場所 であった。
そこは、今日の ヨッキれんの原点 であるといっても、決して過言ではないはずだ。
大人になって初めて… 十数年ぶりの再会。
果たして隧道は、どうなっているのだろう。
地図を見る限り、当時と同じで5本健在であるようだが…。
ナガジスさん、すまないね〜。 俺の思い出拾いにつきあわせちゃって…。
「 イイヨイイヨー 」
読者さんにも、すまないね〜。
2008/7/2 10:24
県道26号の起点は、入山隧道内部の洞内分岐地点と、そこから約200m離れた奈川渡ダム交差点の、合計2箇所あることになる。
だが、そう厳密に考えなくても、起点から約200mほどで両者は合流する。前回紹介した、新入山隧道の坑口前の交差点で。
左の写真は、そこからさらに100mほど南へ進んだ地点だ。
早速、県道26号として1本目の隧道が見えている。
右に広がる広大な水面は、これでほぼ満水位の梓湖だ。
この湖面は、かつての梓川の右支流奈川を5k
上高地 の河童橋ー明神池間を歩いてきたときの様子を 4回に亘りブログアップしてきた。 “上高地でサルが出たあ~~(^_-)-☆” “上高地・・・河童橋から明神池へ” “上高地・・・明神池から河童橋へ” “上高地・・・河童橋と明神池の間で見た花” その中で “ 大正池 の水や枯れ木について昔とずいぶん違っている” そのような趣旨のコメントを幾つか頂戴した。 Saas-Feeの風は2009年に初めて上高地を歩いた時 「 大正池 とはこんなものだったのか」と 絵や写真で見てきた光景との違いに 少し期待外れの感を持っていた。 改めて6年前に撮った 大正池 の写真を眺めると やはり池底が露出しているし枯れ木は少ない。 このときのことを“いい色ひろば”にブログアップしていたが ブログサイトがサービスを中止したので記事は消滅した。 だがサイトが全記事をCDに収納してくれていたので復元はできる。 この日に撮った写真とサイトからのCDとを調べると 大正池 から河童橋まで歩いたことについては ブログアップしていなかった。 “ 大正池 ー釜ヶ渕堰堤ー 大正池 ”の記事を 少し修正して以下に添付する。 なかなか信州に出かける機会が無かったのだが 5月26日(2009年)に初めて上高地を歩いてきた。 バスを降りたところが大正池ホテルのそば さっそくカメラを取り出して大正池をパチリ 青空ではないことが残念だが 穂高連峰がはっきりと見えている。 天気が好くて、そしてさざなみが無ければ 湖面には“逆さ穂高連峰”がきれいに見えるだろうな。 こちらは焼岳 心なしか赤っぽい~ 赤く見えることから焼岳と聞いているから そのように見えるのか。 大正池は大正4年の焼岳の大爆発によって起きた土砂の流れが 梓川を堰き止めて出来た湖で 当時はもっと大きかったそうだ。 写真5枚をつないでパノラマ風にしてみた。 バスが大正池ホテルのそばに到着する少し前に “釜トンネル”を通っていて そのそばには“釜ヶ渕堰堤”があるというので そこまで行ってみることにした。 実はそちらは最終目的地である河童橋(約4km先)とは 逆方向になるのだけれど・・・。 バスで走っていると3分くらいの距離だったと思うのに しばらく歩いても釜トンネルの気配すらしない。
[60] この記事はSuikaWiki Worldでに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933237907