[8] 呉元年は、 明の初代皇帝太祖 (朱元璋) が、 建国前年に呉王として用いた年号 (即位紀年) でした >>7, >>1。
[23] 西暦1366年12月己未に翌年を呉元年と定めたとされます。 >>22
[11] 翌年始にと建元されたたため、 1年しか用いられませんでした。 (即位は正月壬申朔乙亥なので、申から亥まで数日間だけ呉2年でした。)
刘三吾《敕赠开国辅运推诚宣力武臣荣禄大夫柱国同知大都督府事巩昌侯追封陕国公谥宣武郭公神道碑》:“洪武二十年冬十有一月己亥,。呉二年正月改洪武元年,
[20] 明の時代に編纂された実録は、 朱元璋之即位前を干支年で書いていました >>19。 は 「吳元年」 と書いていました >>19, >>21。 とそれ以後は洪武何年と明の元号で書いていました >>19。
丙午冬十二月戊申朔己未,是時,群臣皆上言:“一代之興,必有一代之制作。今新城既建,宮闕制度亦宜早定。”上以國之所重莫先廟社,遂定以明年為“吳元年”,命有司營建廟社,立宮室。甲子,
[3] 清の時代に編纂された明の正史 明史 の巻一は、 「至正四年」 () から 「二十七年」 () まで、 元の元号で書いていました。 >>2
[5] 巻二は、 「洪武元年」 () から明の元号で書いていました。 >>4
[7] 巻一に、
至正二十六年冬十二月,韓林兒卒。以明年為吳元年,建廟社宮室,祭告山川。
... とありました >>2。
[9] 明史は至正26年の次を呉元年とすることもできたはずなのに、 なぜか至正27年の扱いにしていました。 至正27年までは元が「正統王朝」だったとの清の認識を表すものでしょうか。
なお、明建国の1年前になる至正27年(1367年)、呉王を称していた朱元璋はこの年を元年とする在位紀年を建てている[1]。
1. ^ 『明史』巻1 本紀第1 太祖 至正二十六年十二月条:「韓林児卒。以明年為呉元年、建廟社宮室、祭告山川」
[12] 日本語版ウィキペディアの年号記事は、 元の「至正27年」を主としつつ、 朱元璋の「呉王元年」を併記していました。 >>13
[15] 中文版维基百科は、 「元至正二十七年」と 「朱元璋吴元年」 を併記していました。 >>14
[17] 現代の学術論文や歴史の解説等で明の出来事を説明する時は、 「呉元年」 を使うことが少なくないようです。
[120] 草創と守成いずれか難き |『明の太祖 朱元璋』檀上寛 | 万巻の書を読み 万里の路を行く, http://togoku.net/hongwu-emperor-danjo/
至正二七年六月、朱呉国の元号では呉元年(一三六七)六月のことであった。