文元

文元

[25] 文元は、 日本の異年号の1つです。

用例

[2] 昭和7年、 日本国埼玉県北葛飾郡幸手町の上野勇は、 板碑を収集しました。 >>1

日時事例

[19] 収集品は昭和7年9月・10月当時上野勇宅に持ち込まれたように読めます >>1 が、その後の所在は不明です。

[22] 昭和時代後期の板碑の悉皆的な調査の報告書でも、 これらの板碑群らしきものは見つけられません。 >>21

[20] 上野勇は郷土史家で、この他に埼玉県久喜市栗橋の伝静御前墳墓で得られたという板碑を所蔵していたようです >>17, >>18 が、これもその後の文献に見えず現在の所在は不明です。

[23] >>12 は、一目で見渡せるほどの小さな墓地を2,3分探し回るうち、 墓石に寄り掛かっているのを見出し、持ち出して井戸で洗浄して読もうと試みたものです。 >>1

[24] それでも文字ははっきりせず、 「七月」とだけは読め、 年号は 「文元二年」 らしい、とされます。 >>1 七月は確実であるものの、文元二年はそれより確実性が劣るということでしょうか。 他にも文字があったかもしれませんし、ないかもわかりません。

諸説

[36] 用例は板碑1例のみ知られていますが、実物は現所在不明であり、 拓本なども知られていません。

[37] しかも文字は不鮮明らしく、文元との判読も確定されたものではありません。

[38] 報告者は地元の地域史団体に参加していたようで名前が幾度か見えます >>17, >>18 ので、あるいは当用例のことを紹介したり、記事を投稿したりしたこともあったかもしれませんが、 確かな記録はこれまで見つかっていません。

[39] 確実な初出は昭和47年の書籍であり、自身の発見から40年が経過しています (>>27)。

[40] 報告者以外による言及も未発見です。

[41] 公年号に一致するもの、類似するものがなく、異年号の可能性も指摘されつつも、 根拠とできるものはなく、どうとも断言されていません (>>27)。

[42] 実物の再発見や追加の史料が出現しない限り、現状の情報だけでは何とも判定しかねます。

研究史

[26] 昭和7年、 上野勇が板碑を探索していたところ、 >>12 を見出だし、持ち出して調査しました。 >>1

[27] 昭和7年付日記 (刊行) は、 次のように述べています。 >>1

[31] その報告が実際に書かれたかは不明で、それらしきものは見つかっていません。

[33] なお、 >>6 については、子は年の略か、と推測しています。 >>1

[34] たしかに仮名表記で撥音無表記などで「ね」となることは考え得ないことではありませんが、 類例は知られていません。 東洋の日時表示, 年の字 は戊申で、子年ではありません。 あるいは年の草書系の字形を子と誤読したものかもしれませんが、 実物も拓本もなく検証不能です。

[32] 令和時代に至るまで、私年号研究の文脈で紹介された事例は知られていません。

関連

[35] 南北朝時代の年号不採用案に文元があったとされます。

メモ