嘉隆︀

嘉隆 (日本)

[2] 嘉隆は、 日本の異年号の1つです。

用例

[22] 1例のみ知られています。

日時事例

[19] 仙台叢書本の原本日本国宮城県宮城郡国分大倉村 白木長吉郎 所蔵といわれています >>18, >>16 が、その根拠と思われる 仙台叢書御國浄瑠璃本總解題には次のようにあります。 >>3

又其 原本は。文化四年宮城郡國分大倉村。白木長吉郎とい へる者が。昔の和樣流の筆跡なれは。不明の部分少か らさるを。百万考察して書きまとめたれは。宜しく之 が諒察を賜へ。

諸説

[23] 嘉隆︀越南の元号にありますが、文脈からみて全くの別の元号と考えられます。


[24] 日本嘉隆︀は1例のみ知られています。浄瑠璃作品 鞍馬破り の終盤で常盤が書いたとされる立札の日付が嘉隆︀2年丙午とされます。

[25] 本作は史実の源義経とそのである常盤を題材としたもので、 舞台の鞍馬寺もその所縁の地でありますが、 確実な史料で史実と確認できる出来事ではありません。

[26] 本作とほぼ同内容の異本と思われるものがありますが、 そちらでは嘉応2年庚寅となっています (>>7)。 嘉隆︀本と嘉応本の関係は不明です。

[27] 本作はよく知られた常盤問答の一系統とされます。 常盤問答 には非常に多くの相違点を持つ諸本が知られておりますが、 それら諸本の大部分は立札云々に相当する部分を欠いているようです。


[28] 常盤御前の生年は、 確実な史料がないものの、 平治物語 の記述からとされています。

[29] これに基づくと、常盤の28歳はとなります。

[30] また、文中で牛若が7歳とありますが、 源義経の生年がなら、 ちょうど永万元年に7歳となります。

[31] 従って、本作の原伝承が本来想定していた時期はだった可能性が高いものの、 嘉隆︀2年丙午、 嘉応2年庚寅のどちらとも干支年が一致しません。

[32] とすると、 牛若は12歳、 常盤は33歳となり、 本作の年齢とは相違します。

[33] この付近の丙午年です。

[34] は、 牛若 = 源義経は28歳、 常盤は49歳となります。

[35] は本作の時期としてまったく成立しませんが、 この年に常盤源頼朝方に捕縛され、それが信頼できる最後の史料となっており、 このことと丙午年とされたことがまったく無縁でも無いかも知れません。

[37] 一応理由の付けられる丙午年が原形で嘉應は「嘉○」 で時代が概ね合う公年号に校訂した結果とも捉えられますし、 時代が概ね合う嘉応が原形で嘉隆に転じたとも捉えられ、 どちらが原形だったのか (あるいは他の原形があったのか) は現段階では判断が付きません。

[36] 2月25日は、本作にも登場する北野天満宮の縁日すなわち菅原道真の命日です。 3月3日は上巳節であり、女性の鞍馬参詣権という本作の主題とも関連付け得ます。 こうした背景がこれらの日付の伝承に関与した可能性はありますが、 確証はありませんし、どちらが原形かも明らかではありません。

[38] 嘉隆という私年号が当時実在したというべき根拠は他にありませんし、 伝承・作品の何らかの必要から作られたと考えるべき事情も見当たりません。 意図的に作られた元号という考え方を完全に否定できる根拠は無いものの、 現状ではその可能性は高くないと評するのが妥当でしょう。

研究史

[20] の書籍は、 >>17 を紹介して、 「隆︀二 (マ ヽ ) 」 (明朝体) と注釈しています。 >>18, >>16

[10] の書籍は、 >>11 を紹介して、 鞍馬破り の「私の見た」「原作」 は誤字・欠字・当字・方言が入り混じり、 歴史的・仏説的にも出鱈目が多いとして、 その例として嘉隆などという年号は存在しない、 としています。 >>1

[21] 令和時代に至るまで、私年号研究の文脈で紹介された事例は知られていません。

関連

日本前近代文芸の日時

メモ