鎌倉谷戸坂の切通(男坂切通)と鎖大師参道跡-2013年春
旅行時期 2013/03/23 - 2013/03/23 (2013/03/24投稿)
青蓮寺横にある谷戸坂の切通、別名、男坂切通を久し振りに訪れた。切通は短い長さではあるが、深く掘削され、両崖が切り立っている。現在は柵があり、通行禁止になっている。 柵の近くには掲示板があり、このあたりは宅地開発される予定のようだ。谷戸坂の切通、(男坂切通)を広げて4.5m道路が開設されるようだ。しかし、鎌倉市のホームページの「かまくら景観百選」の32番に掲載されている、「谷戸坂の切通」が破壊されるのを許可する鎌倉市当局も何を考えてのことか。 前回来たときには気が付かなかったのだが、谷戸坂の切通(男坂切通)の左には「鎖大師参道」と書かれた隧道(トンネル)があり、埋められている。山を掘削して西鎌倉小から青蓮寺横に県道304号線が開設されて坂道になっているが、それまではこの隧道(トンネル)が鎖大師参道であったらしい。その名残が県道から谷戸坂の切通(男坂切通)に通じる短い隧道(トンネル)のようだ。 また、谷戸坂の切通(男坂切通)の右手には古い街道が残り、尾根道には200mほど離れて2箇所の庚申塚がある。また、奥にある庚申塚から左に下る道は切通(女坂切通)になっており、青蓮寺(鎖大師)の門前に至る。すなわち、青蓮寺(鎖大師)への参拝道は戦前までは3本あったのだが、戦後の昭和32年(1957年)に県道が整備されて利用されなくなり、隧道(トンネル)は埋められ、谷戸坂の切通、(鎖大師の切通)は近年になって通行禁止になっているのだ。たった、幅200mの間の4本の道が造られていることころも珍しいであろう。 しかし、こうした谷戸坂の切通、(男坂切通)や「鎖大師参道」隧道(トンネル)跡も開発で完全に消滅してしまうようだ。 (表紙写真は谷戸坂の切通(男坂切通))
<<谷戸坂の切通>>
谷戸坂の切通は、手広の古道江ノ島道にある切通された部分です。切通しの部分は、10mほどの短い距離で、、単純に切通されていて、鎌倉の”七切通”のような軍事施設やまたその名残り(空洞、郭、平場、置き石、段差など)はありません。
単なる生活道路ですが、崖を深く切通してあり、両壁が狭い道に覆い被さるように迫る様子は迫力があります。鎌倉景観百選にも選ばれています。
現在は通行禁止ですが、上側(西鎌倉側)から切通しの様子が見ることができます。下側からは木々や草に遮られ見えませんでした。街灯のあとも残されており最近まで生活道路として利用されていたことがうかがえます。
鎌倉景観百選のページには「手広と腰越村、片瀬村を結んでいた旧道で、江戸末期に勾配をゆるやかにするため、手広村の村人が周辺から寄付を集めて切り下げ工事を行い、現在の姿になったそうです。車が行き交う県道のすぐ脇に、静かな古道のたたずまいを見せています。 」とあり、江戸末期以前はかなりの勾配があったと推測できます。今でもかなりの勾配ですので、以前は馬(軍馬)や荷車の通行は困難だったのではないでしょうか。
<<古道江ノ島道>>
深沢は古道鎌倉道上の道が通っていた所です。そこから分岐して腰越・江ノ島へ向かう道が古くからこの辺(手広)を通っていたと思われます。
また、江戸時代には東海道の戸塚宿から鎌倉・江ノ島方面へ向かう道が分岐していて、その道は山崎の巨福呂谷入り口付近で鎌倉方面の道と分岐し、そこから腰越・江ノ島方向に向かい、このあたり(手広)を通っていました。
これらの腰越・江ノ島へ至る道は、後の研究者や執筆者により”古道江ノ島道”と称されました。(よく古い道標に「右 江ノ島道」というような文字を見かけますが、これは方向(行き先)を表しているものです。) 古道江ノ島道の手広付近は古道の趣きがよく残っています。
<<もう一つの古道(女さか?)>>
谷戸坂の切通の道の東側にもう一つの古道が残っています。(”女さか”ともいうらしい)
手広側から上ると、すぐ切通された部分があり、こちらも”切通”と呼んでいいくらいです。谷戸坂の切通の道より勾配も緩く道幅もあり、馬(軍馬)や荷車も通せそうです。
道沿いには墓地があり、そこから深沢のまちがよく見渡せます。
道は掘割の道になり峠をこえます。傾斜の緩い畑の中の道になります
前回の青蓮寺石仏群があまりにもヒドイ事になってしまいました(笑)・・・あのページを見てガッカリしてこの近辺に寄り付かなくなる方々が増える様な事があると申し訳ないので、この辺にも見所ちゃんとあるよって事を証明する為に、今回ある物件を紹介したいと思います・・・
青蓮寺を出て右に曲がり県道304号線を江ノ島方面へと登って行きます・・・するとすぐに道の左側に怪しいトンネルが見えると思いますがこれはヤマノイハイツ手広というアパートの居住者用のトンネルで、今回の物件とはなんら関係ありませんのでスルーしましょう!
カーブを過ぎると坂の頂上になりますがその手前に左に入る道がありますので、そこへ入ります!
向かいにある赤い建物(中華一番)を目印にして下さい・・・どーやら工事中の様ですね・・・
宅地造成で今回の物件も無くなってしまうって話も耳にした事がありますが・・・大丈夫かな?
ちょっとドキドキしながら進んで行くと目的地に到着であります!
青蓮寺の本尊:「木造弘法大師坐像」は、鎌倉時代特有の裸形彫刻の一つ(国重文)。
足の関節が鎖で繋がれているような細工が施されているため、自在に動かせることから「鎖大師」と呼ばれる。
「大師様を信仰する人と大師様が、鎖のように強いご縁で結ばれますように」との願いが込められているという。手指の爪は水晶でできている。
四臂の木造十一面観音立像は鎌倉時代の作。
その5からの続きです。
国道418号 達原トンネル廃道 その1
国道418号 達原トンネル廃道 その2
国道418号 達原トンネル廃道 その3
国道418号 達原トンネル廃道 その4
国道418号 達原トンネル廃道 その5
それではここから先は、資料でこの道路とトンネルの状況を振り返ってみましょう。
まずは地形図で、被災前とトンネル開通後を比較します。
国土地理院発行 1:25000 「横道」 (平成13年7月発行) より引用
こうしてみると、海集落の周辺はかつての堰止湖の名残りなのか川幅が広いですが、崩壊区間では急激に川幅が狭くなっています。
そのことにより、豪雨時には恐らくこの渓谷部分に急激に大量の水が集中し、崩壊しやすい地質の地山からの地すべりと相まって、土石流となって圧倒的な破壊力で道を押し流して行ったものと思われます。最後の崩壊の箇所は上流から比べると川幅はいくらか広がっていますが、地形的にちょうど川の流れが突き当たるような形になっているため、水流の直撃を受けて削り取られたのでしょう。
国土地理院 地理院地図より引用
現在の状況です。薄く赤いラインを引いた部分が達原トンネルです。
旧道については比較的状態よく残存している下流側の廃道区間は道として描画されていますが、崩落地で何の予兆もなく途切れてしまっています。
トンネルを達原側から海側へ入ってすぐの状況です。
最近の高規格なトンネルにしてはカーブがきついように思えます。地形図からもわかるように、トンネルは下流側最後の崩壊部分を避けるような線形を描いています。
達原側坑口と海側坑口には約70mの比高差があるため、平均7%の片勾配となっています。
壁に水平に取り付けられた消火器と路面を比べると、そこそこの上り勾配になっていることが分かるかと思います。
上矢作町では、豪雨災害の翌年2001年に、 その2 で引用した「恵南豪雨災害記録誌」を編纂していたため、2008年発行の「上矢作町史」では豪雨災害については記録誌の内容を要約するに留められています。
また、「道路・交通」の項でも町内の他の改良区間については紙面を割いて紹介していますが、本道については言及されていません。しかし、トンネル開通時の写真だけは掲載されていたので引用いたします。
上矢作町史 通史編(2008年3月 上矢作町史編纂委員会編 岐阜
2008/6/27 11:46 【現在地】
隧道より脱出した私は、改めて周囲を観察してみた。
すると坑口向かって右手の茂みの中に、一基の石碑を発見した。
前回、坑口左側に常夜灯らしきものの残骸を見つけているが、右側にも遺物発見ということになる。
こいつめ〜。
私に小出しの情報を与えて、何が目的だー?
はたして気になる石碑の正体は?!
“堅牢地神塔”
うおわぁあ!!
これまた、興奮しちまったよ!
隧道のとなりに「“堅牢”地神塔」って、なんてお似合いなんだろう!
今回初めて調べて知ったのだが、堅牢地神というのは仏教の神の一柱で、文字通り大地を堅牢ならしめる神(女神)であるそうだ。
まさに土木工事の守り神のように聞こえるが、一般的には農耕の神として信仰されていて、神奈川県や群馬県などに多く祀られているという。
とはいえ今回この場所に限っては、やはり豊作祈願よりも、隧道の安全を願って安置されたのではないかと思うし、そうであって欲しい!
次に注目したのが、台座石に刻まれた文字だ。
そこから本碑建立の経緯や時期が判明するのではないかという期待があった。
が、だめ。
台座石には「世話?人」として「當(当)村」(ないしは「寄附」)の人名が20ばかり列記されているのみで、建立年は書かれていない。
ちなみに世話人筆頭は「内海」某という人物であった。
せめてこれが寄付者の名簿で金額でも書いてあれば、そこから年代が予想出来たかも知れないが…。うむぅ…。
【解読してやろうという方は、こちらから原寸大画像をダウンロードして下さい】
立地的にみて、この堅牢地神塔が隧道と何らかの関係を持っている可能性は高いと思うが、決定的な証拠は掴めず。
というか、どの碑(いしぶみ)も読みにくいよぉ(涙)。
念のため隧道の直上にも上ってみた。
隧道の土被りはわずかであり、洞床との高低差は6m程度であろう。
地中の隧道をイメージした状態で、地表をその出口方向へ向かって進むと、まもなく予想どおりの光景にぶち当たった。
県道304号の切り立った法面に、行く手を阻まれる。
おそらく隧道も内部は多少下っていたのであろうが、県道はそれよりもだいぶ勢いよく下っているので、高低差が想像以上に膨らんでいた。
結構怖い。
そして県道の向こう側には、本編初回の写真に山門が登場し、隧道の扁額にも名を掲げられた「鎖
鎌倉の切通しの一つ「手広 谷戸坂の切通し」をご紹介します。
いわゆる「鎌倉七口」とは別の切通しですが、原型のよく残っている道の一つ。
かまくら景観百選に選定されています。
観光化されていないためひっそりとしていますが、あじさいなど季節によって変わる要素もあり飽きさせません。
切通しの正体は江ノ島道
この古道の正体は、文献不明ながら藤沢から江ノ島に抜ける「江ノ島道」の脇街道で、戸塚宿から江ノ島を結んでいたようです。
少し距離を離して女坂と男坂があり、見事な切通しと掘割が見られます。
男坂は尾根道への直登コースで距離は短いが傾斜が急。
女坂は迂回ルートになり距離は伸びますが、傾斜はゆるいです。
謎なのが2本も必要かということで、メインルートでもなく、大仏の切通しの傾斜を考えると男坂でも急すぎるというわけでもないので、2本の必然性が感じられません。
道の形態としては、女坂の方が稜線を通ることから「かまくら道」の要素が強いので古そうではあります。
手広は暴れ川と言われた柏尾川の流域であり、深い沼地が広がっていたそうで、このあたりもヒントになるかも。
男坂のほうが道幅が細く、少ない交通量を想定しているようにも思えます。
男坂の隣には廃止になった鎖大師参道(隧道)があるのですが、男坂があればあえて必要のない参道なのでこれまた成立時期が気になるところ。
女坂入り口(手広側)
手広交差点から西鎌倉方面へ歩き、鎖大師正門の道路向こうにある細道(斜面沿い)を進むと見つかる。
西鎌倉側の入り口よりは見つけやすいので、こちらから登ることをおすすめ。
写真にある草生した階段が入口です。
女坂 切通し部分
閑静な住宅地から登ると、いきなり蛇行した切通しに。
入り口のやぐらには現役のお墓あり。
女坂 切通し部分
女坂が維持されてきた理由の一つは墓地の存在でしょう。
切通し以外に到達できる道がありません。
女坂 掘割部分
切通しを抜けると大規模な掘割にたどり着きます。
ほぼ直線コース。
七口と遜色ない規模であることから、かつての交通量の多さが想起されます。
女坂 石碑群(年代は江戸時代から昭和まで)
なぜか男坂側にはない石碑群。
年代は豊富です。昭和になってからも造られていたことが意外です。
女坂 稜線の光景
女坂の最上部は畑になっています。
車道からは見えないの
[12] この記事はSuikaWiki Worldでに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054521835363