[1] 西陣
西陣(にしじん)とは京都府京都市上京区から北区にわたる地域の名称。「西陣」という行政区域はない。高級絹織物の西陣織発祥の地であり、など織物産業が集中する地域である。
西陣学区は入り組みの多い複雑な形をしていますが,概略の位置を示せば,堀川通以西・浄福寺通以東・五辻通以北・寺之内通以南です。応仁元年(1467)応仁の乱が勃発し,山名宗全の邸宅(現山名町)が一方の拠点となり,同年5月細川勝元方の軍勢と激烈な戦闘を行いました。この時山名邸の一帯が,東方の細川方に対する西の陣という意味で「西陣」と呼ばれ,室町時代の終わり頃「西陣」が地名として使われ定着しました。 歴史的には西陣の概念は,ほぼ南北は中立売通から鞍馬口通まで,東西は室町通から千本通まで,一辺が約1キロメートルのほぼ正方形の範囲としています。応仁の乱が終わった後一面の焼野原となっていた陣地跡が次第に旧に復し,「西陣・機(はた)織の町」として成長しいていったのです。
特記事項:略歴
1901年9月 牧野省三が買収・千本座開館
1912年9月 日活が買収
1950年前後 千本日活館と改称
1963年6月 閉館
1964年 日活が売却
千本座(せんぼんざ)は、かつて存在した日本の映画館である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12]。正確な成立時期は不明であるが、京都府京都市上京区千本通一条上ル東側にあってもともと大野座(おおのざ)と呼ばれていた芝居小屋を牧野省三が1901年(明治34年)に買収して改称、同年9月に改めて開館した[1][2][4][12]。1912年(大正元年)9月、日活に買収され、第二次世界大戦後の1950年(昭和25年)前後に千本日活館(せんぼんにっかつかん)と改称した[1][2][13][14][15]。同館の館主であった牧野が、同館の俳優を使用して「日本初の時代劇映画」と呼ばれる『本能寺合戦』を製作・監督したことから、「劇映画発祥の地」として知られる[3]。
同館の跡地の近隣に現存する映画館である千本日活(かつての五番街東宝)とは異なる[2]。
沿革[編集]
明治時代 - 大野座として開館[2]
1901年9月 - 牧野省三が買収して千本座と改称[1][2][12]
1912年9月 - 日活が買収[2]
1950年前後 - 千本日活館と改称[2][13][14]
1963年6月 - 閉館
1964年 - 日活が売却[15]
データ[編集]
所在地 : 京都府京都市上京区千本通一条上ル東側 泰童片原町665番地[10][11]
現在の現在の「ハイツ千本一条」および「無印良品千本」の位置[16][17]
北緯35度1分37.23秒東経135度44分33.4秒
経営 : 牧野省三 ⇒ 京都土地興行(日活) ⇒ 日活
構造 : 木造二階建
日本造り、間口8間半(約15.45メートル)、奥行14間(約25.45メートル)、うち舞台奥行4間(約7.27メートル) - 1901年開館時[1]
観客定員数 : 1,200名(1927年[6])、625名(1942年[10]・1943年[11])
概要[編集]
牧野省三の時代[編集]
明治時代、正確な成立時期は不明であるが、京都府京都市上京区千本通一条上ル東側、泰童片原町665番地に大野座(おおのざ)と呼ばれていた芝居小屋が存在した
応仁の乱激戦の地 山名宗全邸宅跡碑付近図を見てみると 近くに「応仁の乱激戦の地」があることが分かった。 堀川通りを北上し宝鏡寺を右折した先にある模様。行ってみることにした。 宝鏡寺 「寶鏡寺門跡」の碑が建つ。由緒ある寺院のようだ。時間なのか門は開いていなかった。 高札の解説があるのでそちらを見てみる。 「宝鏡寺 六棟」解説 尼寺の門跡寺院のようだ。江戸時代以降に始まる臨済宗の寺院のようだ。 調べると春と秋に特別公開があるとのこと。人形の寺としても知られているようだ。 「舊百々御所」 石碑を横から見ると「旧百々御所」と書かれてあった。 日野富子の木像があるとのこと。 日野富子は足利8代将軍義政の正室、義政が弟義視に跡を譲る事を決めた後に義尚を生み、将軍の後位継承を巡って争う原因ともなる。応仁の乱にも絡み、後の明応の政変にも絡んだ。様々な形で政治に絡み悪影響を及ぼしたことから悪妻とも呼ばれた。 宝鏡寺から激戦の地跡へ 宝鏡寺の壁が続く 「応仁の乱激戦の地 百々橋の合戦跡」 「百々橋の礎石」 宝鏡寺を東に進む地図で示していた場所に出る。それらしい場所。立札解説もある。 「百々橋の礎石」立札解説 東軍の細川勝元と西軍の山名宗全とが数度にわたり合戦を行ったとある。 百々町と宝鏡院東町との間にかつては小川がながれていたとのこと。百々橋はこの川に架かる橋だったようだ。 当時、付近ではこの橋を通るしか渡る手立てがなかったのだとか。このためここが激戦地になったようだ。 現在残っているのは橋の礎石ということらしい。周辺を見てみる。 柱石 柱石と思われる。その隣には手水石のようなもの。 水が張ってある。奥を見てみると礎石らしきものがあった。 ベンチが置かれているが柵があり進めそうになかった。 全部礎石なのかどうなのかはイマイチ分かりにくい。 全景としてはこうなる。 宝鏡寺からここへの道は「百々ノ辻」といったらしい。東西の往来はここにあった橋に集約されていたのだろう。 このため応仁の乱では激戦になったと考えられてる模様。実際にはここだけではなくこの周辺一帯が激戦地だったと思われる。ちなみに「百々橋」は「どどばし」と読む。安土城下にも同じ名前の橋があり同じ読み方をするようだ。何か関係があるのだろうか? 百々橋は別の場所に移築されているとのこと。 百々橋の移築先は京都市洛西竹林公園内とのこと
西陣のPRセンターとして連日大勢の人々に親しまれております。
西陣織会館の展示場を作品・商品の展示会及び研修会、会議、講演会、
カルチャー教室など催し物、会合、集会にご利用いただけます。
メインストリート堀川通に面し車の乗り入れはスムーズ、
バスや地下鉄の利用も便利です。
●展示場・会議場
展示場・会議場
広さ
床式
西陣織会館にて貸し会場及びカルチャースクール等を運営致しております。
西陣産業振興株式会社
設立年月日 昭和36年4月13日
資本金 9,000万円
事業内容
(1)不動産の貸与、貸店舗及び展示場の運営
(2)カルチャースクールの運営
(3)駐車場の設置とその運営
(4)その他西陣産業の振興のためにする事業
役 員 代表取締役社長 渡邉隆夫
(西陣織工業組合 理事長)
京都西陣織会館カルチャースクールは下記所在地にて開催中です。
█ 西陣産業振興株式会社
〒602-8216
京都市上京区堀川通今出川南入
TEL 075-431-2255
FAX 075-414-1521 URL
http://www.nisijinss.co.jp
█ 交通のアクセス
期間
2011年7月〜9月(全9回)
7/4、11、25 8/1、8、22、29 9/5、12
月曜日13:30〜15:30
講師
杉本晃則(漆芸家)
内容
割れたり欠けたりした陶磁器を、漆を使って接着・補修し、その部分に金銀粉を蒔き付けて装飾する修理技法です。本物の漆を使います。漆カブレが心配な方はご相談下さい。割れたり欠けたりした陶磁器を10個程度ご持参下さい。
かぶれにくいNOA漆を使用します。また実用的な強度が必要な場合にはエポキシパテや陶磁器用接着剤を併用する方法もあり、平行して作業します。
場所
西陣織会館
京都市上京区堀川通今出川南入
交通アクセス http://www.nishijin.or.jp/kaikan/access.html
バスが便利です。市バス9、12、51、59、201、203、101、102番
「堀川今出川下車すぐ」
駐車場100台 300円/時間
受講料
27,000円
材料費
10,000円
材料費に含まれるもの
ヘラ、強力粉、砥の粉、漆、テレピン、菜種油、アルコール、手袋、筆、真綿、耐水研磨紙、金粉、エポキシパテ、陶磁器用接着剤、マスキングテープ、毛棒等
個別に持参していただく材料
ティッシュペーパー 1箱
ウェス(古い綿Tシャツを10cm角程度に切ったもの)
竹串 2本
カッターナイフ 1個
綿棒 1ケース
雑巾又は古タオル 2枚
セロハンテープ 1巻
輪ゴム(巾1cmくらいで割れた陶磁器を固定出来る程度のもの。ない場合にはセロハンテープで代用します。)
割れたり欠けたりした陶磁器 10個程度
服装
汚れてもよい服装をご準備下さい。上から長袖シャツを羽織る程度でも構いません。腕カバーがあればご用意下さい。100円ショップで購入可能です。
「食いだおれ」の大阪、「着だおれ」の京都と言われるように、京都の衣文化には伝統があり、この西陣織会館では、そのひとつ『西陣織』の史料の展示や、着物ショーが催されています。 また、直接伝統に触れることのできる体験教室もあり、ことに外国の観光客の方が多く訪れる観光スポットとなっています。
きものショーの舞台や、食事処「おのみやす」、京都のお土産処「味のれん」、西陣織のできる工程の展示がされています。
左上の写真のように、きものショーは見学者でいっぱいになるので、車いすで見たい場合は、ショー開始時間より早めに場所取りをすることをお勧めします。
[16] この記事はSuikaWiki Worldでに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933419455