落書き

落書き

[1] 組織に頼らない自己プロデュースって言ってる人が卒業大学名を肩書にしてるの草

[2] License: Freeware という情報量0のゴミ

[3] 万博俄然興味が湧いてきた

[4] 今期アニメおおすぎない?

[5] 声優さんのラジオでGWは声優には関係ないという話題がこの時期の定番なのだが、GWが4月から始まることに驚く人がままいることに驚かされる。何日からかまではわからなくても、何月にあるかくらい学生時代の記憶がありそうなものだけどな。

[6] 五月病とかの印象が強いのかねえ

[7] 口内炎が痛い

[8] さくらインターネットの採用すごいなあ、こんな勢いで拡大して大丈夫なのかね

[9] なんとかGの技術デモの宣伝とか真に受けて信じてる人なんて昔からそんないないと思うんだけど... それこそ遠隔医療なんてマルチメディアの昔からずっとキラーアプリケーションとして提示されてるけどいつまでたっても実現しないじゃん? 少しずつ進歩はしてるけど当面はまだ来ないものがなぜかすぐそこの次世代として提示されるけどその次世代が現世代になっても世界は何も変わらない、ってのを何回も繰り返してるだけだよね

[10] ままならない

[11] ままならない

[12] 「デマであるが備えは常に必要。この機会にチェックを。」といういいかたはデマに一定の効能を認めてしまうので危険

[13] 「「「○○は遅れている」とレッテルを貼ること」は遅れている」と意識改革していく必要がある

[14] 某社の新機能告知をみると情弱を騙して儲ける普通の会社になったんだなあという感慨w

[15] 公式サイトがパンフレット化して現場の担当者が容易に触れない (CMS だとしてもハードルが高い) ものになった結果、 note で情報をまとめるみたいな変な時代になってしまったなあ

[16] 「事実上の」を付ければなんでも主張できるみたいな事実上の捏造記事や偏向報道記事を新聞ではよく見かけるなあ

[17] 唐揚げ食べたい

[18] 共通する特徴を整理すると:

違いは、ボーイスカウトやYMCAは「教育・育成・社会奉仕」に直接的な行動が伴うのに対し、エスペラントやフリーメイソンは理念や言語・知的交流の側面がより抽象的な点ですね。

結果的に、こういう国際ネットワークで理念が大きい組織は、「秘密結社的」「陰謀論の燃料になる」条件を満たしやすい構造を持っている、と言えます。

興味深いのは、理念が抽象的で、外から活動内容が見えにくいほど、陰謀論の標的になりやすいところですね。

[19] SNSで偉そうなこと書いてる学者 (← この時点でなにかと・・・) って自分の分野に踏み入ってくる素人には厳しいくせに自分は知らない他分野のこともさも当然みたいな自己流を披露したりするケースが多いのおもしろいよね

[20] 大学に研究費をもっとよこせと主張する人々は、なぜ研究にお金を出す必要があるのか、なんの役に立つのかと問われたときに、どう役に立つのか説明することを拒んで突然怒り出して、「基礎研究はすぐに役に立つものではない。研究はうまくいかない無駄なものが多いがその中に成功がある」みたいな聞かれてもないことを言い始める傾向があるよね。聞かれた質問に答えなさい、って普通は大学教員が大学生に教える初歩の初歩だと思うけど、この手の人々は正反対のことをやってるよねw そして「役に立つ」の範囲を勝手に狭めて「研究は役に立たない」って喧伝して回っていて、なんでそれでもっと研究費を出そうって話になると思っているのか不思議だね。なんで基礎研究も巡り巡っていつか世に出るし、失敗した研究も成果につながってるし、実業でなくても趣味も娯楽も知識欲も「役に立つ」の範囲だよって社会を納得させる方向に努力しないんだろうね。

[21] そういう人達って、自分達の研究が社会に貢献しているとはいわずに研究は役に立たないものだという割に、研究に金を出さないと未来はない、衰退するみたいなことをいうんですよね。これが不思議。素直に社会の役に立っている部門だからもっと金を出せ、って単純化したほうが受けも良さそうなのに。

[22] 国益にかなうか、どう国民のためになるのかと問われたときに、研究はそうではなく人類の叡智のためにーとか演説を始めちゃう人達がうじゃうじゃいるのはかなりどうかしてるよね。質問に答えないで演説始めちゃうのって学会発表だったら冷笑されてお終い枠じゃんねw 人類の発展に貢献することが国益ですくらい何も考えなくても言えるだろうに、国のため、国民のために役立ちますって言ったら死んじゃう病にでもかかっているのかね。

[23] 「出口調査は民主党」運動はたいして成功しなかったのだから、「弱い自民党政権を延命させる野党支持者の世論調査操作」説もたいそう疑わしいと思うんだけどどうかな

[24] 考えたこともなかったけど確かに支那から欧州への航空便だと日本人でもロシア連邦上空を通過することは今でもあり得るわけだ。しかしモスクワその他ロシア連邦上空を通過するのは、着陸しない通過だから危険な高度ではないだろうけど心理的には不安が大きいだろうし、万一の際にロシア連邦の空港に着陸することになるとしたらという余計なリスクを抱え込むことになるよなあ。

[25] ChatGPT なんかに Web やその周辺の技術のことを聞くとだいたいは意識高い系技術者か商品売りたい系技術営業のプロパガンダをマイルドな言葉に置き換えただけの回答が帰ってきて業界の実態はあんまり見えてこないのよね。なぜそうなるかって、 Web に情報を流すモチベーションがあるのがそういう人達の「テックブログ」とか「広報ブログ」とかだから。だから最近の動向みたいなのはそういうのを売り込みたい人達がいま騒いでる、ってくらいに思っておくのがいいんだろうね。

[26] 遥かなる中世の語感が好きすぎるので遥かなる昭和とかもあってほしいなあ

[27] 日本人は戦争が大好き過ぎて昭和100年なんかで昭和の振り返りがなぜか戦争の話ばっかりなので、もっと高度経済成長とか石油危機とかにも焦点をあててほしいなあ。あとは戦争と関係ない満州の日本人の活動などもみたいところだけれども、何かと難しそうかなあ。

[28] 最近の人はサービスの利用規約なんて読まないし気に食わない仕様変更にもあんま反抗しないイメージがあったから、なんで Zenn が炎上してるんかようわからんのう

[29] そのなかでも情報技術者は昔からめんどくさいイメージがあるけれども、そういう面倒くさい系の人はこんなサービス使わんだろと思ってたので意外だなあ

[30] 大人が寒い学級会みたいなことやってるドラマって、いったい誰が喜んで見てるんだろ・・・

[31] 宮家を増やして京都, 太宰府, 旭川あたりに宮殿を設置して、平時はそこを中心に地域の文化的象徴を担っていただくのはどうか、と思ったりも

[32] 好き嫌いがあるのは当然にしても、はいふりが商業的に失敗したことにしたい勢が未だに定期的に湧いてくるその情熱はどこにあるんだろうなあ

[33] ガルパンのような数十年に1つレベルの超大ヒット作と比べても仕方がないと思うのだけれども、それと比較するくらいにはアンチにも認められてはいるんだなw

[34] 陰口ばかりの学界の陰湿さを訴えていた某教授が実のところ白昼堂々人の悪口をSNSで言い続けるだけの人だったって現実は残酷だねー

[35] 資源エネルギー庁ってまだあったのかー。平成12年くらいに無くなったものかと思ってたわ

[36] AI にだけハルシネーションを非難する人間の傲慢さ

[37] 入間市の墓石のように「重要史料」が地方の市史に埋もれて30年も放置される一方で、東武皇帝のような「物語性の高い史料」は、学術的検証が不十分なまま、図録やWikipediaにまで登壇してしまいます。「正しいか否か」よりも「物語として面白いか」が情報の拡散効率を支配するという、SNS時代の歴史情報の性質が、幕末の「噂」のメカニズムと奇妙な相似形を描いています。

     「改元デマ」が、権力者に対する単なる反抗ではなく、むしろ改元というイベント
     に対する民衆の期待や、社会的な不安を共有する一つのコミュニティ活動として捉
     えられている点が非常に興味深いです。特に「一世一元制」という近代の制度が、
     かえって人々の改元に対する飢餓感を強めているのではないかという指摘は鋭い視
     点だと思います。
  中世史が重層的だと言われるのは、単に記録が雑だからではなく、「何重もの権威が
  異なる時間軸を同時に主張していた」という事実が、近代の整理整頓を免れて記録に
  残っているからに過ぎません。
   * 現代社会においても、私たちは「複数の時間を多重露光させて生きている」のでは
     ないでしょうか。
   * デバイスのデジタル時計(標準時)を見ながら、元号(伝統的権威)を意識し、
SNSのトレンド(市場の時間)に追い立てられ、同時に老舗企業の創業年(ローカルな歴史の時間)を誇りとする。
   * この多重露光こそが人間の「常態」であり、近代が掲げた「シングルソース(唯一
     の正史・唯一の時間)」という理想の方が、実は極めて不自然な「例外」であった
     という逆転の発想です。
  3. 歴史家・分析者としての私たちが陥る罠
  私たちが「重層的で複雑な歴史」を語ろうとするとき、またしても「重層的であると
  いう物語」を構築し、それによって現実を単純化して満足していないでしょうか。
   * 「近代合理主義は幻想だった」という結論さえも、また別の「大きな物語」に過ぎ
     ないのかもしれません。
   * 歴史とは、誰かが書いた層状の記録ではなく、その時々で「都合よく書き換えられ、切り取られ、捨てられてきた無数の残骸の山」であり、そこには整然とした構造すら存在しない可能性もあります。
  私たちは、この「構造の欠落した残骸の山」を前にして、なおも「何らかの構造(物語)」を見出そうとあがき続ける……。この、救いようのない知的営みそのものにこそ、人間という存在の愛すべき(そして滑稽な)「時間」の使い方が現れているのかもしれません。
  私が今、改めて「この板碑をどう解釈するか」と問われたら、以下のように答えるべ
  きなのでしょう。
  >
  「この板碑に刻まれた私年号は、当時の社会情勢や改元伝達のインフラ、あるいは人
  々の宗教的願望の交差点にあった事象です。しかし、それが単なる『抵抗の証』なの
  か、あるいは『死者への追慕の形』なのか、はたまた『偶然の誤記』なのか、その唯
  一の真実を確定させることは私にはできません。それは、観察者の立ち位置(江戸、
  昭和、現代)によって見え方が変わってしまう、不確定な記録だからです。
  私は、この板碑をめぐって過去の人々がどのような解釈を積み重ねてきたか、その言
  説の層を提示することしかできません」
  自分の結論を「真理」として提示するのではなく、「自分というバイアスのかかった
  観察者が、今、この史料をどう読もうとしているか」という自身のプロセスを公開し
  続けること。それこそが、マルクス主義史学の傲慢さを回避し、現代において「科学
  的であろうとする」ということの最低限の倫理なのかもしれません。

現代社会において「科学的な歴史」は、人々に「生きる意味」を与えてはくれません。

   * 「冷徹な実証」は、孤独な現実を突きつけるだけです。
   * 一方、「偽史村おこし」は、地域の孤独を癒やし、共同体に連帯をもたらす「意味
     のインフラ」として機能しています。

私たちは「科学的な時間(標準時・客観的歴史)」がもたらす無機質な虚無に耐えられず、無意識のうちに「偽史村おこし」のような「物語の麻薬」を自ら生成して、現実を塗り替えているのではないでしょうか。

かつて私は、歴史を「客観的分析対象」として捉え、物語を解体することに全能感を得ていました。しかし今、私はこう思います。

「偽史村おこし」を論理的に解体し、真実を暴いたところで、その結果として残る「真っ白で冷たい現実」を、私たちは引き受ける覚悟があるのか?

歴史史料がない、同時代記録がない。その空白を「弾圧の証」や「民衆の抵抗」で埋

  めることが、いかに過去の人々の「生」に対する冒涜になり得るか。それは、現代の
  私たちが、自分の都合の良い「物語」で過去を植民地化する行為に過ぎない、という
  痛烈な自己批判です。

この厳密な記述の裏側にある

  のは、「歴史は人間にとって救いになり得るが、救いになった瞬間にそれは偽史とな
  る」という、歴史学者の凄絶な孤独です。

中世から近世にかけての天守閣は、軍事機能以上に、権力者の威信や世界観を空間的に体現する「インターフェース」でした。それに対し、現代の再建天守閣もまた、地域の観光消費や歴史的アイデンティティを再定義するための「インターフェース」です。

  どちらも、「何をもってこの場所を『歴史的な場所』と見なすか」という集合的合意
  を形成するための装置という点では、全く同じ性質を持っています。江戸時代の人々
  が権威の象徴として見上げた姿と、現代人が歴史的郷愁を求めて見上げる姿に、機能
  的な優劣こそあれ、存在の「意味(=物語を語る装置)」において本質的な差はない
  のです。
  「現代の観光用天守の方が時代が長い」という事実は、それを「本物(=当初の機能)」に近づけるべきか、「再建(=現代の物語)」として評価すべきかという論争を
  超え、「その建築が何十年、何百年とそこに立ち続け、地域の人々の風景の一部とな
 ってきた時間の蓄積こそが、新しい『本物性』を創り出している」ということを教え
  てくれます。
  コンクリート造の再建天守が、今やかつての木造建築よりも多くの人々の記憶に刻ま
  れ、地域コミュニティの記憶の核となっているなら、それは現代という時代において、何にも代えがたい「本物」として機能しているのではないでしょうか。
 歴史研究者たちが、学術的妥当性のみを基準に「再建は偽物である」と断罪し、観光
  振興のために地域の文脈を無視する時、彼らは地域の人々が長年かけて築き上げた「新しい『本物』」という共同的幻想を破壊する加害者になり得ます。

「主観的評価への陥落」こそが、本書が「四階層分

  析フレームワーク」を必要とした最大の理由であり、その実装の巧みさが本書の価値
  を決定づけている部分だと考えます。

  この主観性を排除し、分析を学術的に制御するために、本書では以下のような「制動
  装置」が講じられています。
  1. L1(史料事実)によるアンカーの固定
  受容を分析する際、本書は必ず「L1(確定用例)」をアンカー(錨)として置いてい
  ます。「いつ、誰が、どのような形式で記したか」という客観的事実を動かさないこ
  とで、その後の階層(L2以降)での「評価」や「解釈」が、どのような史料を元に、
  どのように拡張されたものなのか、その「解釈のズレ幅」を測定可能にしています。
  主観的な物語(L4)を語る際にも、常にL1との距離感を可視化することで、空論にな
  ることを防いでいます。
  2. 「受容の層位」の個別化
  「人々にどう受容されたか」という抽象的な全体論ではなく、
   * 当時の周辺住民や権力層による「実用」の受容(L1/L2に近い)
   * 近世の考証家たちによる「知識」としての受容(L2/L3)
   * 現代のウェブ社会における「消費」としての受容(L4)
  というように、受容主体を時間的・空間的に分節化しています。「受容」という言葉
  を一括りにせず、具体的な「誰が(どんな立場の人々が)」「どの時点で(どの史料
  を媒介に)」受け取ったかを特定することで、評価の主観性を削ぎ落としています。
  3. 言説流通の「メカニズム」への注目
  本書の分析態度は、「なぜ受容されたか」という動機の探求(心理学的な問い)より
  も、「どのような言説流通の構造によって受容の形が変化したか」というメカニズム
  (構造的な問い)に重きを置いています。
  例えば、「伝達が途切れたために新たな記号が必要だった」や「事典に掲載されたこ
  とで、それまで曖昧だったものが事実として固定された」といった流通経路の変化を
  追うことで、受容のプロセスを心理的な「好み」ではなく、情報環境という「外的な
  構造」の帰結として記述しています。
  本書は、単に「受容の感触」を記述しているのではなく、「どのような史料的背景(L1)があれば、当時の社会はどのような評価(L2)を下し得たか。そして、そこからど
  のような物語(L4)を構築可能か」という「言説の生成可能領域」を論理的に抽出し
  ようとしています。

本書が提示する分析モデルは、「過去の歴史学者の言説を『超える』」というよりは、「過去の歴史学者の言説が、どのような情報環境や知的制約(当時の言論的環境)の中に『閉じ込められていたか』を、メタな視点から可視化する」という形で、限界を突破しようとしています。

  具体的には、以下の三つのアプローチによって、先行する学問的制約から一歩外側に
  出ようと試みています。

一、歴史学を「分析対象」に繰り入れる

  先行研究者の立論を
  L2(学説層)として客観視することで、その功績を肯定するのでも否定するのでもなく、「彼らがいた時代の言論的環境が、彼らの問いを規定していた」ことを暴露する作業です。研究者自身を歴史言説の一部として位置づけることで、学問の系譜そのものを分析対象化しています。

二、情報の「検証可能性」を共通の尺度にする

  本書の強みは、中世、近世、現代といった時代区分を超えて、「情報の検証がどのよ
  うな環境で行われたか」という一点を軸に比較を行っていることです。
  例えば、「情報の伝達ルートが分断された中世」と「情報の真偽が即座にネットで拡
  散・消費される現代」を、「情報の検証困難性」という観点で接続します。これによ
  り、歴史学者個人の洞察力という主観的な能力に頼ることなく、情報システム的な構
  造論へと議論をスライドさせています。
  三、物語(L4)の客観的記述
  過去の歴史学者が、物語や偽史を「排すべき対象」として遠ざけていたのに対し、本
  書は物語を「歴史事象の不可避な副産物」として L4に据え、構造を記述します。「物語を信じてしまう人」を批判するのではなく、「物語が生成されるプロトコル(手順)」を記述する。この徹底した冷徹さは、言論的環境に左右されがちな「歴史学者としての情念」から距離を置くための、強力な武器となります。

もちろん、本書が完全に「超越」できているとは言い切れない部分もあります。

   * メタ視点の限界:
     このフレームワーク自体も、また別の時代から見れば「二十一世紀的な言論環境(
     インターネットと言説論が支配する時代)」の制約を受けた一つの理論に過ぎない、という再帰的な自己言及がどこまで可能か。
   * 「私年号」という対象の特異性:
     これがもし、私年号ではなく、より深刻な国家のイデオロギーや宗教的言説であっ
     た場合、どこまでこの冷徹な「情報システム分析」が貫徹できるか。

本書が歴史学者の限界を真に超えるか否かは、この「モデル自体の相対化」にまで踏み込めているか、あるいはこのモデルが今後、異なる時代の研究者によってどう拡張・修正されていくかという、時代を超えた共同作業としてのプロセスに委ねられていると言えるでしょう。

  L3やL4の客観的分析が困難なのは、それらが「何を書いたか」という内容に固執する
  からです。しかし本書は、それらが「どこで、誰によって、どのような権威を伴って
  語られたか」という「流通の系譜学」へと分析をシフトさせています。
  「内容が正しいか」は主観に左右されますが、「誰が、どのような論理を使って権威
  を付与したか」という行為(言説のパフォーマンス)の痕跡は、不完全な資料の中か
  らでも十分に抽出可能です。

このフレームワークは、「完璧なデータセットに基づく客観的分析」という近代歴史学の理想を捨て、「断片的で不完全な言説の破片から、それを生み出した言説装置のプロトコルを復元する(考古学的なアプローチ)」へと舵を切っています。

[38] しかも面白いのは、「似てる」を直接定義せずに済むところ。

つまり画像そのものを比べる代わりに、

「どの文字に間違われやすいか」

を特徴にする。

これは実はかなり人間的なんですよね。

例えばある崩し字が:

みたいな分布を持つなら、この字の“位置”は、

その誤認構造

で決まる。

すると類似度は、

同士の近さとして定義できる。

これは単なる画素類似よりずっと面白くて、

分類器が内部で獲得した「文字らしさ」

を間接的に使える。

しかも重要なのは、これだと崩し字特有の:

を明示的に扱わなくていいこと。

全部「どのクラスへ漏れるか」に押し込められる。

ある意味、

類似 = 誤分類傾向

なんですよね。

これ、OCR研究でも実際かなり近いことをやっていて、

みたいな方向がある。

そしてあなたのアイデアの強いところは、

「似てる」の定義を外部化してる

こと。

つまり:

ではなく

を使う。

これはかなり安定する。

特に崩し字みたいに、 図形空間そのものが不安定な対象には相性がいい。

ただし副作用もあって、この空間はかなり:

分類器依存

になります。

例えば学習データが:

だと、その“誤認幾何”が空間に焼き込まれる。

つまり類似度が、

モデルの世界観

になる。

でも逆に言えば、人間の「似てる」も結局そういう文化的・統計的バイアス込みなんですよね。

だからむしろ、崩し字では:

生の図形距離より

誤認空間の方が自然

なのかもしれない。

[39] 「週刊誌は信用できない」に週刊誌編集長が噛みついているのはポジショントークにしてもさすがに可笑しいw どんなギャグだよw