粛宗二年

粛宗二年

[2] 肅宗元号月名を廃止し、 年始を改正しました。

[3] 6ヶ月に満たずに元に戻されました。 三正

[1] 当時のことを、後世には即位紀年として、 肅宗元年、2年と数えられます。

[4] 当時の年始に従えば元年しかないはずですが、 現在の年始 (寅正) に従う表や実装で数えると元年と2年に分かれます。 (y~1847)

[17] 例えば兩千年中西曆轉換は 「唐肅宗元年(歲次辛丑)」 「唐肅宗2年(歲次壬寅)」 と数えています。 when.exe も同じです >>18。 (y~1847)

[7] に当たります。

[13] 年始が改正されたことを踏まえて整合性を考えれば元年である (y~1846) というべきですが、 元年、2年と分ける数え方 (y~1847) だと1年ずれます。

[60] ただし肅宗即位は西暦756年です。

[21] その他実装での扱いは三正参照。

[14] 上元 (唐肅宗) - 维基百科,自由的百科全书 ( 版) https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%85%83_(%E5%94%90%E8%82%85%E5%AE%97)

上元二年九月二十一日去年号,称元年,以建子之月为岁首。[1]

[19] 宝应 (年号) - 维基百科,自由的百科全书 ( 版) https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E5%BA%94_(%E5%B9%B4%E5%8F%B7)

宝应元年四月十六日乙丑改元,并恢复寅正。(参看上元)。四月二十日唐代宗即位沿用。

[15] 去上元年號大赦文 - 维基文库,自由的图书馆 ( 版) https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%8E%BB%E4%B8%8A%E5%85%83%E5%B9%B4%E8%99%9F%E5%A4%A7%E8%B5%A6%E6%96%87

自今已後,朕號唯稱皇帝,其年但號元年,去上元之號,其以今年十一月為天正歲首,使建丑建寅,每月以所建為數。

[16] 玉真公主 - 维基百科,自由的百科全书 ( 版) https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E7%9C%9F%E5%85%AC%E4%B8%BB

唐肃宗元年(762年),公主逝世,唐肃宗元年建巳月[9]十二日(即唐代宗寶應元年,762年四月)

《旧唐書 本纪第十 肃宗》:「上天降宝,献自楚州,因以体元,叶乎五纪。其元年宜改为宝应,建巳月为四月,余月并依常数,仍依旧以正月一日为岁首。」

[6] 慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その31- | 拝島大師, 2018年12月20日, http://haijimadaishi.com/nyoirin/%E6%85%88%E8%A6%9A%E5%A4%A7%E5%B8%AB%E5%86%86%E4%BB%81%E8%AE%83%E4%BB%B0%E3%80%8C%E5%85%A5%E5%94%90%E6%B1%82%E6%B3%95%E5%B7%A1%E7%A4%BC%E8%A1%8C%E8%A8%98%E3%80%8D%E7%A0%94%E7%A9%B6%EF%BC%8D-26/

『新唐書』巻三七、地理志に、「上都、初め京城といい、天宝元年(玄宗、742年)西京といい、至徳二載(粛宗、757年)中京といい、上元二年(761)復た西京といい、粛宗元年(762)上都という」とある。いずれにしても唐都長安のこと。なお、粛宗元年とは粛宗が崩御して、廟号を粛宗と称した初め年で、新皇帝は代宗、四月に改元して宝応元年となった。

[11] 資治通鑑/卷222 - 维基文库,自由的图书馆, , https://zh.wikisource.org/wiki/%E8%B3%87%E6%B2%BB%E9%80%9A%E9%91%91/%E5%8D%B7222

肅宗文明武德大聖大宣孝皇帝下之下上元二年(辛丑,公元七六一年)

九月, 壬寅,制去尊號,但稱皇帝;去年號,但稱元年;以建子月為歲首,月皆以所建為數;

冬,十月,

建子月,壬午朔,

肅宗文明武德大聖大宣孝皇帝下之下寶應元年(壬寅,公元七六二年)

建丙月,甲申,

建卯月,辛亥朔,

建辰月,庚寅,

建巳月,庚戌朔,

甲子,制改元;復以建寅為正月,月數皆如其舊;赦天下。

五月,庚辰,

[8] 1 初期の火薬の発見, , http://koukisya.web.fc2.com/kayaku1.htm

陳国符教授は近年考証により「孫真人丹経」が唐粛宗元年から3年にかけて(758年~760年)に完成していたらしく、時代が100年近くずれていることが分かった。

[9] 761年 - 维基百科,自由的百科全书, , https://zh.wikipedia.org/wiki/761%E5%B9%B4

唐上元二年、二年(九月去年号)

[10] 762年 - 维基百科,自由的百科全书, , https://zh.wikipedia.org/wiki/762%E5%B9%B4

唐肅宗元年,寶應元年

[20] 守常ブログ データー集 ( 版) http://www.u4ren6.com/Moritsune/Moritsune.html

ところが同じ『新唐書』巻二十七下、暦志第十七下の最後に、

至粛宗時、山人韓穎上言、大衍暦或誤・帝疑之、以穎為太子宮門郎、直司天台。

又搊益其術。毎節増二日。更吊至徳暦。起乾元元年用之、訖上元三年。

とあり、至徳暦が乾元元年(758)から上元三年(762)まで用いられたとしている。

ところが同じ『新唐書』巻六本紀第六では、上元二年に、上元の号を去ってただ元年と称し、十一月を以って歳首となし、(上元2年11月を)元年建子月、(同12月を)建丑月、(以下順に)建寅月、建卯月、建辰月、建巳月とよんだが、建巳月の甲寅(5日)に聖光天帝(玄宗)が崩じ、乙丑(16日)に宝応元年と改元し、再び正月を歳首とし、建巳月を四月とした。そして丙寅(17日)夜皇帝(粛宗)が崩じたと記しながら、すぐ次の代宗の伝記では、粛宗は丁卯(18日)に崩じ、代宗が己巳(20日)に即位したと記す等、同じ書物の連続した2ぺ一ジでありながら矛盾がある。

『旧唐書』では粛宗は2ヵ所にわたって丁卯に崩じたと記してあるから、こちらが正しいと思う。

大分脱線したが、いずれにしても上元三年という年紀はないので、先の記述はあまり正しい表現ではないが、八暦の中に至徳暦が入らなかったのは、大衍暦と比べてあまり変りばえがしないからか、実際には使われなかったのかのどちらかだと思う。

[12] 守常ブログ データー集, , https://u4ren6.org/Moritsune/Moritsune2.html

ところが同じ『新唐書』巻六本紀第六では、上元二年に、上元の号を去ってただ元年と称し、十一月を以って歳首となし、(上元2年11月を)元年建子月、(同12月を)建丑月、(以下順に)建寅月、建卯月、建辰月、建巳月とよんだが、建巳月の甲寅(5日)に聖光天帝(玄宗)が崩じ、乙丑(16日)に宝応元年と改元し、再び正月を歳首とし、建巳月を四月とした。そして丙寅(17日)夜皇帝(粛宗)が崩じたと記しながら、すぐ次の代宗の伝記では、粛宗は丁卯(18日)に崩じ、代宗が己巳(20日)に即位したと記す等、同じ書物の連続した2ぺ一ジでありながら矛盾がある。

『旧唐書』では粛宗は2ヵ所にわたって丁卯に崩じたと記してあるから、こちらが正しいと思う。

大分脱線したが、いずれにしても上元三年という年紀はないので、先の記述はあまり正しい表現ではないが、八暦の中に至徳暦が入らなかったのは、大衍暦と比べてあまり変りばえがしないからか、実際には使われなかったのかのどちらかだと思う。

[18] suchowan's UniWiki Calendar/When/Exe/暦説明/本編/中国/日付の異同と表記, http://www.hosi.org/u/wiki.cgi?Calendar%2FWhen%2FExe%2F%E6%9A%A6%E8%AA%AC%E6%98%8E%2F%E6%9C%AC%E7%B7%A8%2F%E4%B8%AD%E5%9B%BD%2F%E6%97%A5%E4%BB%98%E3%81%AE%E7%95%B0%E5%90%8C%E3%81%A8%E8%A1%A8%E8%A8%98#i2

[5] なお李氏朝鮮にも粛宗がいました。 朝鮮半島の紀年法

[22] KJ00000077926.pdf, , https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/72885/1/KJ00000077926.pdf#page=16

[23] >>22 引用文に「[寶應]」を補っているが (等しいが) 厳密には正しくない。 #page=27 にはそのことに言及があるので敢えてそうしているらしい。

[24] 舊唐書/卷196上 - 维基文库,自由的图书馆, , https://zh.wikisource.org/wiki/%E8%88%8A%E5%94%90%E6%9B%B8/%E5%8D%B7196%E4%B8%8A#~:text:=肅宗元年

肅宗元年建寅月甲辰,吐蕃遣使來朝請和,敕宰相郭子儀、蕭華、裴遵慶等於中書設宴。將詣光宇寺為盟誓,使者云:蕃法盟誓,取三牲血歃之,無向佛寺之事,請明日須於鴻臚寺歃血,以申蕃戎之禮。從之。寶應元年六月,吐蕃使燭番、莽耳等二人貢方物入朝,乃於延英殿引見,勞賜各有差。而劍南西山又與吐蕃、氐、羌鄰接,武德以來,開置州縣,立軍防,即漢之笮路,乾元之後,亦陷於吐蕃。寶慶二年三月,遣左散騎常侍兼御史大夫李之芳、左庶子兼御史中丞崔倫使於吐蕃,至其境而留之。

>>22 の大元の出典的なもの