河内職

河内職

[1] 河内国司 - Wikipedia ( 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%86%85%E5%9B%BD%E5%8F%B8>

称徳天皇の勅によって、河内国は神護景雲3年(769年)から、西京(由義宮とも。河内国若江郡八尾木村(八尾市弓削)に建設された離宮)が定められたために河内国を改めて河内職とした。これにともない、それまでの国司(守・介・掾・目)から河内職の長官(大夫)・次官(亮)・判官(大進および少進)・属に改められた。この時の長官には藤原雄田麻呂(百川)、次官に紀広庭、大進に河内三立麻呂(法王宮職大進からの兼任)、少進に高安伊賀麻呂がそれぞれ任じられた。しかし、翌4年(770年)に称徳天皇が死去するとすぐに河内職は河内国に復され、存続期間をわずかに10ヶ月で終えた。

[2] 女帝と僧侶の夢の都 - 紀行歴史遊学 ( 版) <http://gyokuzan.typepad.jp/blog/2014/02/%E9%81%93%E9%8F%A1.html>

まずは『続日本紀』神護景雲三年(769)10月30日条を読んで確かめよう。

甲子。詔以由義宮(ゆげのみや)爲西京(にしのきょう)。河内國爲河内職(かわちしき)。賜高年七十已上者物。免當國今年調、大縣(おおかた)若江(わかえ)二郡田租、安宿(あすかべ)志紀(しき)二郡田租之半。又當國犯死罪已下、並從赦除。

由義宮を西京として位置付け、河内国を格上げして河内職という特別行政区とする。70歳以上の者に記念品を下賜する。河内国の今年の調と大県・若江の2郡の田祖、安宿・志紀の2郡の田祖の半分をそれぞれ免除する。罪を犯した者を赦免する。高齢者を敬い、民を慈しみ、罪を犯した者を許す、王者としての振舞いである。

当時、中国の唐王朝では複都制が採られており、長安に加え洛陽や太原を陪都としていた。河内国の弓削の地は「由義」の好字に改められ、平城京に対する「西京」に位置付けられた。我が国における複都制である。

河内国を特別行政区に格上げし、人民に恩徳を垂れた王者とは誰か。また何故に河内国弓削の地だったのか。それは称徳天皇が道鏡を愛していたからである。道鏡はこの地、弓削氏の出身であった。上の記事に続いて、弓削一族が高位を授けられたことが記されている。

[3] 河内職・和泉監 ( 版) <http://homepage1.nifty.com/kitabatake/kani130.html>

称徳天皇の河内由義宮行幸のために重要地化した河内国の特別行政職。

[4] 河内職(かわちしき)とは - コトバンク (,世界大百科事典内言及 著, 版) <https://kotobank.jp/word/%E6%B2%B3%E5%86%85%E8%81%B7-1294518>

769年宇佐八幡宮神託事件の直後,10月に天皇は道鏡の出身地,若江郡弓削郷に由義宮と号する離宮を建て,ここに行幸した。河内国を河内職と改め,特別行政地域とし,その長官河内大夫に藤原雄田麻呂(後の百川(ももかわ))を任命した。