まずは『続日本紀』神護景雲三年(769)10月30日条を読んで確かめよう。
甲子。詔以由義宮(ゆげのみや)爲西京(にしのきょう)。河内國爲河内職(かわちしき)。賜高年七十已上者物。免當國今年調、大縣(おおかた)若江(わかえ)二郡田租、安宿(あすかべ)志紀(しき)二郡田租之半。又當國犯死罪已下、並從赦除。
由義宮を西京として位置付け、河内国を格上げして河内職という特別行政区とする。70歳以上の者に記念品を下賜する。河内国の今年の調と大県・若江の2郡の田祖、安宿・志紀の2郡の田祖の半分をそれぞれ免除する。罪を犯した者を赦免する。高齢者を敬い、民を慈しみ、罪を犯した者を許す、王者としての振舞いである。
当時、中国の唐王朝では複都制が採られており、長安に加え洛陽や太原を陪都としていた。河内国の弓削の地は「由義」の好字に改められ、平城京に対する「西京」に位置付けられた。我が国における複都制である。
河内国を特別行政区に格上げし、人民に恩徳を垂れた王者とは誰か。また何故に河内国弓削の地だったのか。それは称徳天皇が道鏡を愛していたからである。道鏡はこの地、弓削氏の出身であった。上の記事に続いて、弓削一族が高位を授けられたことが記されている。