[1] 元号その他の紀年法を含む日時制度は、 社会生活の基本であり、 当事者間の共通理解を必要とします。 従って日時制度の制定と運用は、度量衡等と並んで、 共同体としての国家の統治の基礎といえます。
[278] 歴史的には、独立した権力を有する東洋の各国がそれぞれの元号を定め、 その領域で並行して使われていました。元号の制定権は独立した国家権力の象徴であり、 元号を使うことはその政府を支持する(勢力下にある)ことを意味していました。
[279] 政府が分裂したり、弱体化したりすると、国内でも複数の元号が使われることがありました。
[368] 日本では、元号は天皇により定められています。
ただし実際の改元の判断や新元号の決定の過程には、
幕府等その時々の政権が介入しています。
現在は国会の議決により成立した元号法に基づき、
内閣が政令で定めることになっています。
政令の公布は天皇の国事行為なので、
改元手続きの最終段階を天皇が担う制度は日本の歴史を通じて一貫しています。
[88]
第二次世界大戦の終戦後に日本の国政に介入した GHQ
は、
改元に関する新しい法律の制定を妨害することで、
日本政府から元号制定権を奪おうとしました。
しかしその数十年後、国民的な議論を経て
元号法が制定され、
日本が独立国として改元権を有することが再度明らかにされました。
[386] 中国の属国だった朝鮮は、歴史上のほとんどの期間、
独自の元号を定めることができませんでした。
というのも新羅の時代、独自の元号を用いていたことを宗主国の唐に咎められ、
それ以後支那の元号を用いなければなりませんでした。
下関条約で独立が承認され、
ようやく元号の制定権を得ました。
[51]
日中両属だった琉球王国は、中国の元号を主として使っていました。
琉球藩時代には日本政府から日本の元号だけを使うように要求されながらも拒んでいました。
沖縄県時代にようやく日本の元号となりました。
米国統治時代には米軍から西暦の利用を強制されましたが、
日本復帰に伴い再び日本の元号が使えるようになりました。
[91] 遼 (契丹) の保護国だった北漢は、 建国当初旧王朝の元号「乾祐」を使い続けましたが、 西暦957年に「天会」に改元しました。 遼の皇帝はこれを批判する書類を送付しました >>40 普及版 p.205 (長編巻四乾徳元年閏十二月丙子条), >>141。 ただし了承を得なかったことで非難されましたが、 独自元号については問題ではなかったのだろうとされています >>40 普及版 p.205 (>>92 PDF p.11), >>140 PDF p.11 (長編巻四乾徳元年閏十二月丙子条)。
[149] 十六国夏の年号について PDF p.13
[159] 「天王」は仏教尊崇の胡族国家の王名:甘懐真「東アジアにおける四~六世紀の「治天下大王」と年号」 - 聖徳太子研究の最前線, https://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/f1a9be46de5dcc132c28ffc969a9364b
[114] 漢以来建元 (改元) は皇帝が実施していました。
[115] 三国時代初期の魏黄初3(222)年10月、 呉王の孫権は、 改元して黄武元年としました。 (皇帝即位は黄武8(229)年で、改元して黄龍元年。) 王位で最初の建元とみられます。
[116] 五胡十六国時代最初の 304年10月、 漢王の劉淵は、 建元して元熙元年としました。 (皇帝即位は元熙5(308)年で、改元して永鳳元年。北漢。その後国号を改め前趙。) 劉淵は匈奴であり、 非漢民族王朝の元号の最初の建元とみられます。 王位での建元の初例とされることもあります >>118。
[119] 趙王10(328)年2月、 後趙の石勒は、 趙天王を称すとともに、 太和元年と建元しました。 (皇帝即位は太和2(329)年。) 天王位での建元の初例とみられます。
[121] 北涼の前段階に当たる政権の 使持節・大都督・龍驤大將軍・涼州牧・建康公の段業は、 397年に神璽元年と建元しました。 >>118
[120] 西涼の護羌校尉・秦涼二州牧・涼公の李暠は、 西暦400年庚子、 庚子元年と建元しました。 李は、 東晋中央政府に対して建元の理由を説明しました >>118 (晋書巻87, p.2261)。 それによると、 地理的に離れていることもあって東晋の統治が及んでいなかったが、 日付制度は必要だったため地方政権でありながら建元したものであり、 周辺の異民族国家と違って漢民族国家であるために元号が必要と認識されていたようです。
[82] 元号の制定が独立国の有する権限であるということは、 その実施、つまり国民が国家の元号を利用することが統治の行き届いていることを表しています。
[84] これが顕著にみえるのが戦乱の時代で、
例えば支那の三国時代や五胡十六国時代には勢力の独立の度合いをはかることができますし、
日本の南北朝時代には南朝と北朝の元号の切り替え時期によりいつ誰がどちらの勢力に属していたかを知ることができます。
また幕末に日本各地で私年号や延長年号が残されていることで、
中央政府の統治能力が低下していたことを確認できます。
[113]
現代日本でも、
日本政府に反対する思想を持つ人は、
日本の元号の利用を拒否したり、
排斥したりしています。
あるいは独自の紀年法を使う人もごく少数ですが、確認されています。
[306] このように元号の選択は政治的で宗教的な行為であったりします。
しかしこれは実は暦法全般に言えることでもあります。
[234] 元号の分裂にはいくつかのパターンがあるようです。
[550] 属国が宗主国の元号を用いるようなケースを別にすると、
外交や貿易を除き、他国の元号を使うことは基本的にありません。
[52] 基本的には自国の元号を使い、 私年号も利用者は国内の一部住民にとどまっていたとすると、 世界的に見れば元号が複数使われていたとしても、 それらが併記されることは多くありません。 例外的には次のような事例があります。
[152] 元号を使っていても支配を示さないとされる事例: 越南の元号
[202] 中華王朝が他国の建元を非難した例: 新羅の元号, 越南の元号
[241]
大韓民国初期、大韓民国では檀君紀元、朝鮮民主主義人民共和国では西暦と書き分けて出版した事例
[242]
21世紀の大韓民国、主体の利用が政治問題となった事例
[64] 『皇明恩綸録』の一部校注 - jaas081004_ful.pdf, http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/63357/1/jaas081004_ful.pdf#page=3
木氏土司が清朝に帰順するのは,順治16年(1659)(南明の暦では永暦13年)で(『木氏宦譜』: 53),『木氏宦譜』では,それ以前の元号は南明政権のものが用いられている。
[147] huibao_043.pdf, https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/78853/huibao_043.pdf#page=3
[170] >>168 >>169 和製の刀で明国輸出のためか明の元号の銘がある事例
[195] 今日の歴史, 小林鶯里, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1225287/1/28
歴史上の出来事の年号が並べられている。 欧米の出来事は西暦で、何年。 日本の出来事は元号何年。元号のない時代は誰々帝何年、 たまに誰々天皇何年や紀元何年 (皇紀)。 海外でも西暦紀元前は皇紀になっている。 中国の出来事は採られていないが、孔子誕生は本朝紀元何年と皇紀で書かれている。 稀に日本なのに西暦になっている。
[228] 6_KJ00000133720.pdf, https://www.jstage.jst.go.jp/article/tak/6/4/6_KJ00000133720/_pdf#page=7
[57]
新羅は独自の元号を廃し、
唐への恭順の意を示しました。
[49] 平将門の乱で平将門が建元しなかったため、 独立の意思はなかったと評する説があります。 >>617, >>618
[58]
オウム真理教は独自の元号を定めていました。
建国後に施行する憲法案にまで記載していました。
にも関わらず、
破防法適用手続きでは、
日本の元号ではなく西暦にかわるもので、
国家転覆の意図はなかったと釈明しました。
年号は、為政者にとって時間を支配していることを示す重要なツー ルでした。その年号を用いている範囲ことが、支配している領域を 意味しましたから、その使用、不使用を巡っては様々なエピソード を生みました。 しかし年号は、為政者がほしいままに操れるものではありません
でした。為政者に徳が不足していれば社会が乱れるとされ、自然災 害までもが徳の無さに結び付けられたのです。為政者は改元によっ てリセットできることを期待し、人びともまたそれを待望しました。 そして、人びとの改元への期待は、時として、自ら年号をつくり出 しました。それは公年号のように流布することまでありました。
[268] これは元号と為政者と住民の関係性をよく説明しているなあ。
[269] 元号というものの説明ではしばしば「時の支配」という側面が強調され、 国だけでなく時間まで支配したがる強欲な支配者とネガティブなイメージを描く人もいるけれど (その極端な例が元号廃止と天皇制廃止を主張する人たち)、 為政者が国土と国民の隅々まで支配しきれていないのと同じように、 時間も隅々まで支配することはできていないというのは本当は抑えておかないといけないポイント。
[270] そして地理的な統治が為政者から住民への一方的な「支配」ではなく住民も必要としている (例えば経済システムや行政サービスはなくてはならないし、 日頃意識されることはないけど、それらの基盤となるのは度量衡の統一である) のと同じように、 時間的な統治も一方的な「支配」ではないということは、 もっと十分よく理解される必要があろう。