[8] 景初 (y~1376) は、 魏の元号の1つです。
[1] 景初四年は魏の元号である景初の第4年です。 西暦240年にあたります。
[2] 改元によって実在しないはずの延長年号です。
[3] 日本列島で出土した紀年銘のある銅鏡に、 景初四年銘のものがあります。 日本古代の日時
[6] 広峯15号墳 (日本国京都府福知山市) 出土斜縁盤龍鏡に、 「景初四年五月丙午之日」 とあります。 >>5 五月丙午
[7] 持田古墳群 (日本国宮崎県西都市) 出土といわれる辰馬考古資料館所蔵斜縁盤龍鏡に、 「景初四年」 とあります。 >>4, >>5
また、反論側に連なる意見として、「景初は本来4年まで存在したが、魏晋革命に関連して紀年が書き改められ、本来の景初4年は正史では景初3年として記録されるに至った」とする説もある[7]。また、景初3年1月1日に明帝が崩御しているため、その翌年が改元せずそのまま景初4年となることはありえないという意見もあるが、景初4年が存在しなければ先帝の命日に正月の祝賀行事を行うことになり、不孝となる。魏朝が景初3年12月の翌月を閏の「後12月」としたのも、新帝の正月と先帝の一周忌を一か月ずらすために景初3年に後12月を制定せざるを得なかった、という経緯がある。
また、反論側に連なる意見として、「景初は本来4年まで存在したが、魏晋革命に関連して紀年が書き改められ、本来の景初4年は正史では景初3年として記録されるに至った」とする説もある[7]。
また、景初3年1月1日に明帝が崩御しているため、その翌年が改元せずそのまま景初4年となることはありえないという意見もあるが、景初4年が存在しなければ先帝の命日に正月の祝賀行事を行うことになり、不孝となる。魏朝が景初3年12月の翌月を閏の「後12月」としたのも、新帝の正月と先帝の一周忌を一か月ずらすために景初3年に後12月を制定せざるを得なかった、という経緯がある。
平勢隆郎は、魏書明帝紀には景初改暦時に伴う正月の変更(青龍4年は11月で終わるため)によって本来は存在しない筈の青龍4年12月の記事が実際には存在していることなどを指摘して、景初改暦の際にその暦元として採用された壬辰と同じ辰の年(丙辰)である前年の青龍4年(西暦236年)に遡及させて景初元年としたものの、その後魏晋革命の影響によって元に戻されたために正史の記事に混乱が生じたり、正史に基づけば本来はある筈のない「景初4年」銘の三角縁神獣鏡が存在したりする(同説に基づけば、景初は4年まで存在するため)とした説を唱えている[1]。