[8] 弘徳 (旧字体: 弘德) は、日本の私年号の1つです。
[154] 用例が2点報告されています。
[155] 関係するかもしれない用例が1点報告されてます。
[44] 大正時代や昭和時代初期の諸書は日付部分だけの部分引用であり、 果たして実見した者がどれだけ居たのかは不明です。 (元々誰か見て伝えた人はいるはずですが。)
[53] 銘文の全体が紹介されたのは、おそらく >>40 が最初です。ただし記録からの引用で、 実見したのかは不明です。
[55] 十六所神社内の住吉社には、至德三年銘があります。 >>1 /29
[69] 宝性院宥快は、 貞和元年から応永23年にかけて活躍した人物です。 >>30
[70] 叡山文庫本吽字義聰抄奥書に「宝性院融快談」とあります。 一般的に学問僧は高僧となる頃講説が多くなります。 >>30
[20] 大正時代以来、至德元年に比定する説が通説となっています。 干支年、著者の年代、媒体の様式が根拠となっています。
[23] 異説はあるものの、通説を覆すだけの説得力はありません。
[114] ただし、十分に研究し尽くされているとは言えず、 用例の徹底的な調査や最新の編年学説に基づく年代推定などを通して、 通説を固めていく作業が今後求められるところです。
[115] 発生理由については、公年号不採用案流出説、改元デマ説などがあるものの、 いずれも物証に欠けます。不採用案が発信源だとしても、 決定した公年号に不満を持つ者が意図的に私年号として使ったことがあり得るのかなど、 議論の尽くされていない論点は多々あります。
[116] 月日まで特定された用例が京都と奈良という畿内の寺院でいくつも検出されている、 という貴重な事例であり、発生と伝播、利用者層の広がりなども考察の甲斐がありそうです。
[122] 南北朝時代の政情不安定な情勢下とはいえ、京都周辺で少なくても2ヶ月にわたって用例が見られる点は、 慎重に考える必要がありそうです。
[158] の奈良県の一覧表は、 >>31 を紹介して弘德は至德の誤りだろうとしています。 >>157
[33] 大正時代の複数の書籍は、 >>31 を紹介して弘德は至德の誤りだとし >>12, >>9、 室町時代初期の大修理の際のものだと説明しています >>12。 推定の根拠は述べられていません。
[63]
大正14年の書籍に、
棟木銘「
[61]
日本私年号の研究所引国宝目録が「
[34] 昭和2年の論文は、 >>31 を紹介して弘德は室町時代初期の至德の修繕を意味するのではないか、 研究を要する、と述べています。 >>4 断定せず留保していますが、弘德と至德の関係が説明なく唐突に結び付けられるのは、 先行する書籍と同じです。
[36] あるいは先行文献による通説が念頭にあるため、 飛躍したやや不自然な説明になっているとも思われます。 なお、鎌倉時代の様式の建築であることも述べられています。
[35] 昭和4年の論文は、 >>31 を紹介しておそらくは至德の誤りだろうと述べています。 >>11 そのこと自体の根拠は示していませんが、 鎌倉時代末期の建築で室町時代の特徴も見られ、 至德前後そのものの様式だとしています。
[37] もっとも、鎌倉時代から室町時代との判定はともかく、 至德前後そのものという判断は弘德 = 至德説に引きづられているようにも感じられます。
[38] 昭和6年の書籍は、 >>31 を紹介して至德の誤りだろうと述べています。 吉野からも京都からも離れた辺境で、 改元直後なので、誤って伝えられたと考えられ、 前後の甲子年では字が違うし時代も離れすぎている、 としています。 >>13
[39] 昭和8年の複数の書籍は、 >>31 を紹介し、その時の再建だろうとしています。 >>10, >>167 それがいつを指すかの説明はありません。
[45] 昭和15年の黒田昇議の論文は、 >>31 とその >>40 の銘文を紹介し、 弘德という年号は存在しないものの、 本殿の様式が鎌倉時代末期であるので、 至德と解するべきと思われる、 としています。 >>5
[46] 昭和16年の辞典は、 >>31 を紹介し、銘文がよく造営年代を示す、としていますが、 肝心の造営年代がいつ頃なのかの解説がありません。 >>17
[48] 昭和19年の書籍は、 >>31 を紹介し、その時の再建と思われるとしていますが、 それがいつかは述べていません。 >>14
[51] 昭和21年の天沼俊一の書籍は、 >>31 を紹介し、弘德という年号はないが、元年が甲子年なのは至德だから、 そう仮定して吉野時代としておいた、様式と差し支えない、 と説明しています。なお大正元年11月1日に「調べた」とのことです (>>49)。 >>15
[103] 昭和18年の目録は、 >>66 を掲載しています。 >>102 他の元号年には比定年を付けていますが、 弘德には何も書かれていません。
[2] 昭和28年、大規模な解体修理が行われました。詳細な調査が行われて報告書が作られました。 >>1
[56] >>31 については、弘德と読めるが、そのような年号はなく、干支年から至德の誤記と考えたい、 としています。 >>1 /29
[201]
昭和時代の日本国奈良県の歴史研究者田村吉永は、
日本國奈良県生駒郡富雄村大字中
(昭和の大合併により奈良市中町)
の雲仙寺裏山の十六所神社中央社殿の棟木の墨書に
「棟上雲仙寺十六所造営
[26] 田村吉永は「勿論」>>18 私年号だとしています。 >>18, >>200
[25] 天沼工学博士は、この社殿の調査の記録で、 弘徳元年とし、至徳の誤かとしました。 >>18
[27] そのためか国宝目録でも建立が至徳となっています。 >>18
[28]
社殿の蟇股に「文安五年
[29] 田村吉永は、より前の至徳()では絶対になく、 だと考えて良いとしています。 >>18
[79] 昭和42年の日本私年号の研究は、 次のように述べています。 >>30
弘は南朝の弘和があり、
徳は北朝の南北朝時代末期に多く、
総じて公家的性格が強い、
発想者の立場を公家と解した点の裏付けとなる >>112[6]
昭和50年代には、好德を弘德の異表記と考える説が提唱されました。
[58] 昭和49年の書籍は、 >>31 を紹介し、 弘徳は私年号で、至徳の誤りか、と説明しています。 本殿は吉野朝時代としています。 >>16
[141] 日本私年号の研究巻末一覧表は、 弘徳の比定年を至徳元年 = 元中21年としていました。 >>7 正しくは元中元年です。 この誤りを千々和到系の一覧表の初期のものは引き継いでいますが、 後のものは訂正されています。 >>142
[123] 千々和到は、公年号の1字置き換え私年号の実例の1つともしています。 >>142
[144] 所功の一覧表は1384年頃としています。なぜ曖昧にしたのかは不明です。 >>142
[145] 日本語版ウィキペディアの表には初期から掲載されています。 >>143
[152] その他、辞書類や一般で私年号として、あるいは弘德銘の紹介の一部で、 至德説が言及される事例がしばしば見られます。 >>146, >>147, >>149, >>148, >>176, >>177
[156] の SNS の投稿で、 弘徳は 「徳を弘める」 の意味だとするものがあります。 >>148 根拠は不明です。断定的に書かれていますが、 漢字の字義に基づく投稿者の個人的な見解の可能性があります。
本殿の棟木銘に「上棟弘徳元年 甲子 十月十三日」とあり、弘徳は私年号で至徳元年(一三八四)にあたる。蟇股には文安五年(一四四八)の墨書があるものもあり、住吉神社にも至徳三年の棟木銘がある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」
(読みは他の項目から)
ついで84年(元中1∥至徳1)叡山・南都の一部僧侶の使用にかかる弘徳,88年(元中5∥嘉慶2)大和の一部に見られた永宝はいずれも,北朝において年号勘申を担当した公家たちの対立を背景として,正年号に対する不満から生まれたものと推測されている。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
私年号 異説 元年相当公年号(西暦) 継続年数 典拠・備考 弘徳 - 元中元年/至徳元年(1384年) 不明 奈良市十六所神社棟木銘、叡山文庫蔵『般若心経秘鍵抄』奥書
[117] 時系列 :
[151] 令和度の新年号予想で弘徳が挙げられることもわりとあったようです。
[171] 児島高徳の没年について、 >>168 は一説に弘徳二年十一月の説があると書いています。
[172] これがその出典通りなのか、誤植なのか不明です。
[173] 児島高徳については、 >>168 の時代には非実在説が有力になってきていましたが、 その後また実在説が通説化しています。 >>170 しかし生没年には諸説があります。
[174] 三宅氏正伝記等は弘和2(1382)年11月24日死去としているとのことです。 >>169, >>170
[175] 南朝の弘和と北朝の永徳は元年が同じですし、 あるいは高徳に引きづられた誤記または誤植なのかもしれませんが、 至德とも近接しているのは気になります。
[162] 神国島根 : 島根の観光資料, 岡山俊信, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1034743/1/18?keyword=%E5%BC%98%E5%BE%B7 (要登録)
[163] >>162 は毛利元就が弘德元年に白鹿城を攻めた時に洗合山に陣営を築いた、 と書いています。