[1] 芸術の諸分野―文学、音楽、美術、建築、舞台芸術など―には、それぞれに特有の価値判断の体系が存在する。これらは、ジャンルごとの歴史や伝統、教育体系、批評文化によって培われた評価の枠組みであり、その分野の内部では一定の正当性をもって機能している。こうした「内輪の評価」は、本来、限られた専門的共同体の内部において自己完結的に運用されるものであり、それ自体は文化的多様性や専門性の表れとして肯定されるべきものであろう。
しかし問題は、その内輪評価が社会全体において「高尚である」「価値がある」として制度的に正統化され、それを根拠に公的資源―すなわち、税金による補助金支出、公共施設整備、学校教育―が配分されるような場合に生じる。このとき、内輪の価値基準は単なる共同体内の共感の範囲を超えて、「公共的な正義」に昇格してしまう。そしてその正統性は、外部からはしばしば検証困難である。
たとえば、ある文学賞を受賞した作品が、それ自体の難解さや読解困難さにもかかわらず、「文学的価値が高い」として学校教育に導入され、生徒に読解や感想を強いることがある。このとき、教育の目的が「文学的感性の涵養」ではなく、「文学共同体による権威の再生産」にすり替わっているのではないか、という問いが生じる。誰のための教育かという公共的視点が、見失われがちである。
同様の構造は、現代アートや建築にも見られる。ある建築家の作品が審美的・技術的に評価されているという内輪の評価が、そのまま公共建築の採用や高額の予算配分に繋がるとき、果たしてそれは住民や利用者の生活に資するものとなっているのか。あるいは、現代アートの展示に対して巨額の補助金が投入される一方で、その展示が誰にも解釈不能な理念に支配されているとしたら、それは公共支出としての説明責任を果たしていると言えるだろうか。
本来、公共事業や教育、補助金支出においては、「公共性」「説明可能性」「再現性」という原則が求められるべきである。つまり、
といった問いに対して明示的な答えが与えられねばならない。
しかし、内輪の芸術評価が制度を通じて公共領域に浸透したとき、その根拠があいまいになりやすい。ときに「わかる人にしかわからない」という前提が、社会的評価の根拠として容認されてしまう。これは、公共事業における「専門家の判断」に対して無批判に従う構図と似ており、住民の側からはその正当性を吟味する手段が乏しくなる。
芸術には、自由が必要である。表現が内輪の規範に従って深化し、専門性を高めていく過程を否定すべきではない。しかし、その評価が社会的権威となり、公共的資源の配分に関与する以上、同時に「公共に対する説明責任」も伴うべきである。内輪評価の論理を、公共正義の名の下に制度化することは、本来の意味での民主的な文化政策を損なう危険がある。