頼朝伝説と堀部安兵衛の新宿区早稲田、太田道灌の面影橋、砦のような造りの寺社など、遠い昔の古鎌倉街道に想いを寄せて観てきましたが、ここ金乗院前も街道色の濃い地であり、深い歴史に彩られています。
古鎌倉街道を行く1(新宿区編)
古鎌倉街道を行く2(豊島区前編)
宿坂(江戸名所図会より)。残念ながら観音堂は今はない。
宿坂
中世の頃、「 宿坂の関 」と呼ばれる所が、このあたりにあった。この坂の名が、宿坂道と残っているのは、おそらくそれにちなむものと思われる。
“宿坂の関”は鎌倉街道の道筋にあったものといわれ、したがって、ここ宿坂はその街道上の地名と考えられる。古地図によると、鎌倉街道は現在のこの道より、やや東寄りに位置していたが、一応ここも鎌倉街道の名残りといえよう。
今から三百年ほど前、このあたりには樹木が生い茂り、昼なお暗く、くらやみの坂道として狐狸の類がとびはねて、通行人を化かしたなどという話もいまに伝わっている。
説明書きには「 現在のこの道より、やや東寄り 」と書いています。明治の地図で見ると、
明治41-42年(1908-09年)1万分の1測図。 ブルーライン が古鎌倉街道。
東側( 赤矢印 )に崖があり、そちらの方に蛇行していたのでしょう。
東の崖上から宿坂を見る。
江戸名所図絵を見ても坂はクネクネしています。宿坂西隣りの「のぞき坂」は上下通行車道としては都内ナンバーワンの急坂。
のぞき坂坂上より
同じ目白台地を登る宿坂も、かなり急なので少しカーブしながら登っていたということでしょう。
金乗院の裏門あたりに「 宿坂の関 」と茶屋があったと云います。
宿坂の関は関東お留の関の一つ。中世には、四ツ谷、三軒茶屋、品川、千住などにも関があったと伝えらています。
また今は無き 姿見橋 の由来になった刑場もこの辺りにあったと云いますが、江戸以前、後北条氏の頃の話で場所の特定もできず、今では単に言い伝えとして残るだけの怖い話です(姿見橋=罪人の後ろ姿を見送る)。
金乗院門前の読めない碑
金乗院門前のこの碑、「むせる」?
またまた出現した読めない崩し文字。ということでいつものように歴史のFBグループに質問するとなんと、「 はせ寺 」と読むとのこと。長谷寺?金乗院なのに長谷寺とはこれ如何に?
そうです。ここには太平洋戦争の戦災(昭和20年、1945年5月)にあった