南鳥島(みなみとりしま)は、小笠原諸島の島。本州から1,800 km離れた日本の最東端としても知られている。行政上は東京都小笠原村に属する。 日本の島としては唯一日本海溝の東側にあり、日本で唯一太平洋プレート上にある。さらには、日本の実効支配の及ぶ島では唯一、他の島と排他的経済水域を接していない島でもある。別名、マーカス島(マーカスとう、Marcus Island)。
南鳥島気象観測所
南鳥島気象観測所では
地上気象観測
高層気象観測
大気バックグランド汚染観測
日射放射観測
オゾン観測
遠地津波観測
などの観測を行っています。
観測所での業務を運営するため、本土から2〜3ヶ月交替で職員を派遣しています。
南鳥島案内
南鳥島は東京より南東へ約1862km、珊瑚礁でできた小さな島です。
北緯24度17分、東経153度59分に位置するこの島は日本の最東端として知られています。
島はほぼ正三角形に近い形で、その一辺の長さはおよそ2km、標高は最高地点でも約9mほどしかありません。
島に常駐しているのは、気象庁職員と海上自衛隊南鳥島航空派遣隊及び関東地方整備局東京港湾事務所南鳥島港湾保全管理所です。
※南鳥島気象観測所は、人員・物資輸送等の面から防衛省の協力のもと運営されています。
南鳥島(マーカス島)について
(平成10年3月、小島豊明氏撮影)
南鳥島は東京より東南へ約1950km、珊瑚礁でできた小さな島である。北緯24度18分、東経153度58分に位置するこの 島は日本の最東端としても知られている。島はほぼ正三角形に近い形であり、その一辺の長さはおよそ2km、標高は最高地点でも20mほどである。
昭和11年から16年に、日本海軍はこの島に2本の滑走路を設置した。開戦時に配置されていた兵力は海軍将兵約350名であった。そして戦局 が悪化してきた昭和18年3月、さらに島の防備が強化されることになった。当初、陸軍は海軍基地の守備には海軍陸戦隊を充てるべきだと主張したが、海軍の 兵員不足により陸軍部隊の派遣が決まった。昭和18年9月1日の初空襲以来、防備は次第に強化され、昭和19年夏には坂田善市大佐(戦傷死?)率いる混成 独 立第3連隊(歩兵3個大隊、野砲・戦車・通信中隊など2070名)が配属された。海軍部隊も強化され、南鳥島警備隊司令・松原雄太少将の下には15cm水 平砲2門や8cm高角砲3門を主力とした800名近い兵力が配属された。
南鳥島では地上戦こそ行われなかったが、昭和19年5月以降しばしば空襲にさらされ、終戦までにのべ779機が来襲した。日本軍は高角砲や機 関砲で応戦、相当の損害を与えたものの、248名の死傷者を出した。19年10月9日には米艦隊の艦砲射撃も行われ、日本軍も15cm砲で応戦して1隻を 撃沈したとの記録があるが、米側に損害の記録はない。
そして硫黄島陥落後になると本土との連絡・補給も絶たれ、食糧不足から数十名の兵士が栄養失調などで死亡した。戦死・戦病死者の合計は191名となって いる。
終戦になり米軍が降伏勧告に来たとき、守備隊の食料はほぼ尽き果てていた。しかし、降伏の交渉にあたった海軍部隊副官・中村虎彦中佐の対応ぶ りに感服した米司令官は守備兵に最大限の配慮で応え、守備兵は昭和20年9月、日本本土に復員した。この終戦時の中村中佐の活躍については、 吉田俊 雄「指揮官たちの太平洋戦争」(光文社NF文庫) をぜひ参照されたい。
なお、記録の上では坂田連隊長は「戦傷死」となっているが、一方で「部下の将校に射殺された」との話が伝わっている。食糧不足が窮めて深刻になったた め、ある尉官が連隊長に島からの撤収を進言したとこ
南鳥島近くの日本の排他的経済水域内で、深さおよそ5500メートルの海底に、希少な金属、レアメタルを含んだ「マンガンノジュール」と呼ばれる資源が大規模に存在することを海洋研究開発機構や東京大学などのグループが発見し、将来の国産資源の開発につながる成果として期待されています。
原子力発電所から出る、いわゆる「核のごみ」をめぐり、国の海洋研究開発機構が、深さ5000メートル規模の地下に処分する、新たな技術の可能性を探る基礎的な調査研究を太平洋の南鳥島で行うことを検討していることがわかりました。
本州から1,800 km離れた日本の最東端の島。小笠原諸島に属し周囲6km 、最高標高9m。動画に出てくるアメリカ沿岸警備隊は、平成5年に電波航法施設ロランC局の管理を海上保安庁に移行した際、南鳥島から撤収したとのこと。
その海上保安庁も平成21年にロランC局の廃止に伴い撤収し、現在は、海上自衛隊、気象庁、国交省の方が常駐している。
北硫黄島は東京の南約1000キロに広がる 小笠原諸島 に属する、三島で構成される 火山列島 の一番北側にある島である。西方には 沖縄本島 などから構成される 南西諸島 があり、南方には マリアナ諸島 などが属する ミクロネシア がある。一方、東側は遠く ハワイ諸島 の北西にある ミッドウェー島 まで島らしい島はない。小笠原諸島は他の陸地から離れた場所に位置しており、これまで大陸や大きな島と地続きとなったことがない 海洋島 に分類されるが、小笠原諸島の有史以前の文化は、北の日本列島、西の沖縄諸島、南のミクロネシアのいずれかから伝えられたものと考えられている [1] 。
北硫黄島は火山活動によって形成された火山島で、南北約3.5キロ、東西約2キロ、面積は5.57平方キロメートルの南北に長い楕円形をしている。標高792メートルの榊ヶ峰を筆頭に島の中心部の南北に山が並び、海岸の多くは急峻な 海食崖 であり、島全体としても急峻な地形が多く平坦な場所は少ない。その中で島の中心部から流れ出す沢が海に注ぐ場所には小規模ながら 扇状地 が見られ、緩斜面を形成している。戦前に集落があった島東部の石野村や北西部の西村は、そのような扇状地部分に形成された [2] 。
北硫黄島周辺の海では、北東部と西部を除き幅約100メートル程度の 裾礁 があり、特に石野村と西村付近の沿岸部は裾礁が発達している。中でも旧石野村沿岸の裾礁には切れ目が存在し、大きな入江がない外洋の島であるため接岸が困難である北硫黄島の中では、波を遮る効果がある裾礁に囲まれ、しかも小船が通れる切れ目がある旧石野村は最も接岸が容易な場所であった。石野遺跡は接岸が最も容易で扇状地の緩斜面がある、北硫黄島の中では最も居住に適していると考えられる石野村付近にある [3] 。
島の発見と開発の開始 [ 編集 ]
1543年 、 スペイン 船サン・ファン号は3つの島から構成される火山列島を発見した。この時点で火山列島は無人島であったとされ、そのため石野遺跡は16世紀以前のものであると考えられている [4] 。 16世紀 後半以降、火山列島はフィリピンからメキシコへ向かうスペインの ガレオン船 航路に近かったため、北硫黄島の目撃情報も散見される [5] 。
1876年 ( 明治 9年)、日本政府は小笠原諸島の領有を諸外国に通知し認められた [
防衛省は21日、日本最東端の南鳥島(東京都小笠原村)で活動している海上自衛隊の部隊を報道関係者に公開した。
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桜が散ったら急に気温が高くなってきましね。どうも、いづやん( @izuyan )です。
五島列島旅の第二十七回をお送りします。無人島である野崎島、そこに今も建ち続ける「旧野首教会」を見るという旅の大きな目標は達成されたわけですが、まだ島を離れるまでは時間があります。
無人島にダム?
「旧野首教会」の撮影と見学を済ませて、さらに島の西側に向かいます。斜面を登って道を進むと、海が見えてきたと思いました。が、最初に見えてくるのは大きな池です。これ、実はれっきとした「ダム」なのです。
無人島にダム・・・? まあそう思いますよね。僕も思いました。
しかもこのダム、島が無人になってから作られたものだそうです。それって無駄では?と思いたいところですが、このダムの水は海底の送水管を通ってお隣の有人島、小値賀島の農業かんがい用水として使われているそうです。
喫茶タートルのトムさんにちらっとお聞きした、島に来る移住者は農業従事者が多い、ということとも無関係ではないでしょう。水資源確保はどの島でも重要な課題だからです。
それにしても、やはり知らないと島でいきなりダムが現れたら面食らいます。ダムのすぐ向こうには海が見えるのもまた不思議です。
海側の斜面には土砂流出を防ぐためか、ネットのようなものが敷かれていました。
ダムの横を回って、下り坂を行くと「野首港」にたどり着きます。船が着いた野崎港より新しい係接岸のようです。後で聞けばチャーター船が時おり泊まることもあるそうです。休憩所もあったりして、ここだけ見ると無人島には見えません。
「こんなところまでキュウシュウジカが!」と思ったら、ただのモニュメントでした。
日の光が海の底に届いて、目がさめるような景色が広がっています。夏場だったら確実に泳ぎたくなる海です。
海を前に残されたキリシタン墓地跡
その場で国土地理院の地図を見ると、この野首港周辺にもかつては建物があったようですが、おそらくダム建設の時に撤去されたのでしょう。往時のことを伝えるものは何もないように思えました。
と、海から山の方に顔を向けると、海岸そばの灌木の中に石の十字架が立っているのが目に入りました。
「キリシタンの墓だ・・・」
思わずつぶやいてしまいます。
よくよく見ると、その周りにも灌木に覆い尽くされかけた墓石が見え隠れしています。浮足立った足取りで近づこうとしますが、灌木
[26] この記事はSuikaWiki Worldでに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933230034