[3] 齋藤勵 (斎藤励) は、 明治時代の歴史学者でした。
[4] 、 鳥羽藩の斎藤恒太郎の長男として生まれました。 >>1
[5] 明治34年、 日本中学校を卒業し第一高等学校に入学しました。 >>1
[6] 明治38年7月、 第一高等学校を卒業し、 東京文科大学に入学しました。 東京文科大学では国史学を専攻しました。 >>1
[7] 明治42年7月、 東京文科大学を卒業し (文学士の学位を取得)、 大学院に進学しました。 大学院では支那文化が日本の王朝時代に与えた影響を研究しました。 >>1
[9] 史学会の委員を4年間務め、 史学雑誌 に貢献しました。 >>1
[10] 日本中学校で英語を、 錦城中学校で国語を教えていました。 >>1
[12] 晩年は療養のため葉山や小田原で過ごしました。 小田原では 相模風土記 などの文献と古老の物語や実地調査によって小田原地方を研究しました。 >>1
[13] 斎藤は、 平安時代に興味を持ちながらも陰陽道には予備知識を持ちませんでした。 卒業研究として萩野由之教授に相談したところ、 苦笑しながら賛成されました。 >>1
[14] 斎藤は明治40年の夏頃から研究を始めました。 当時はまだ 古事類苑 方技部も未出版で、 材料の収集にも労力がかかりました。 >>1
[18] 明治41年の春、 卒業論文提出が迫っていましたが、 内容に満足できず延期を決断しました。 >>1
[19] 中断を経て明治41年9月に再開、 明治42年2月頃には大枠がかたまり、 4月末に卒業論文 王朝時代に於ける陰陽道一斑 を脱稿しました。 >>1
[15] 斎藤の死後、 貴重な研究成果として出版されました。 王朝時代の陰陽道 と改題されました。 「一定の期限内に稿を終へざる可らざりし」未定稿のため体裁が不適切な部分がありましたが、 最低限の編集のみ加えられました。 >>1
[16] 校訂者龜井高孝の凡例には「大正四年一月」、 序には 「大正四年一月十八日」 とあります。>>1
[17] 關世男の跋には 「大年四年一月」とあります。 >>1
[20] 奥付には、 「大正四年一月廿八日印刷 大正四年二月一日發行」 とあります。 >>1
[23] 陰陽道に関する最初のまとまった著書であり >>22、 >>2 と >>22 に再刊されました。