◇平清盛(1118〜1181)
平安時代末期の武将で最高権力者。忠盛の長男で、父の死後、武門の棟梁としての地位を継ぐ。 父同様、鳥羽上皇の近臣として昇進するが、
保元の乱では後白河天皇方の中心的な武力として活躍した。 さらに平治の乱では熊野詣から引き返して源義朝を倒した。
以後、全国的な軍事警察権を掌握し、仁安2年(1167)には従一位太政大臣に至った。
翌年出家して摂津福原に別荘を造営し、そこに移って京都の政界からは引退する。しかし、
以後も平家一門の家長として発言権を維持しつづけ、大事には上洛して存在感を見せつけた。
清盛は当初、妻の妹で後白河上皇最愛の后であった平滋子(建春門院)を仲立ちとして、 後白河上皇の院政とは協調的な関係にあったが、
安元2年(1176)に滋子が没すると、両者の対立が表面化した。治承元年(1177)には、 清盛打倒の謀議の発覚で院の側近を処刑 (鹿ヶ谷事件)。
同3年に院の政策に反発してクーデタを決行、後白河院を鳥羽殿に幽閉した。 清盛は娘徳子の生んだ
安徳天皇を即位させ、本格的な平氏政権が発足するが、一方で後白河幽閉や強引な政治手法に対し、反発も強まってゆく。
治承4年、以仁王の乱が起こり、それを機に内乱状態が全国に広がり、各地で武士が挙兵した。福原から還都した後、反乱への対応につとめたが、
治承5年熱病にかかり、 64歳で没した。なお、『平家物語』などに白河法皇の落胤であったと記されているが、その昇進が異常なスピードであったことからも、
その可能性は高いと見られる。
→関連リンク 源平特集-人物解説
◇上皇
退位した天皇のこと。このころは幼い天皇に代わり、その直系尊属である上皇や法皇(出家した上皇)が政治に積極的に関与していた。
その中でも天皇家の家長を治天(治天の君)といい、退位した治天が政治の実権を握っている政治のあり方を院政という。
◇保元の乱
保元元年(1156)7月、天皇家・摂関家の内部対立から京都で起きた兵乱。久寿2年(1155)、近衛天皇が危篤状態に陥ると、後継の地位をめぐって、
近衛の異母弟・崇徳上皇の皇子である重仁を推す勢力と、崇徳の同母弟の雅仁親王の皇子である守仁を推す勢力が対立した。
近衛の生母である美福門院得子は、崇徳が治天となることで、自らの影響力が低下することを恐れ、近衛が没すると、鳥羽にはた