竹田街道に通じる勧進橋は、かつて会姓寺橋(かいしょうじばし)、銭取橋(ぜにとりばし)とも呼ばれた。
◆歴史年表 江戸時代、1633年、竹田村の百姓より架橋の願書が出される。また、同年、私設の板橋が架かり、橋詰に小屋があり通行人から一銭の通行料を取ったことから、俗称として「銭取橋」と呼ばれたともいう。(「奥田家文書」)
1864年、6月27日、禁門の変の際に、長州軍入京に対して幕府諸隊は橋東詰の九条河原に、新撰組は橋下に布陣している。(「幕府諸隊宿陣図」)。土方歳三、永倉新八、沖田総司、武田観柳斎が出陣したという。ここで20日以上宿陣を張る。
1867年(1866年とも)、6月22日(旧暦)、新撰組5番隊組長・武田観柳斎は、近藤勇との酒宴後、伏見の薩摩邸に帰る途中、橋を渡り切ったところで暗殺された。新撰組の剣術指南役・斎藤一、武田と親しかった篠原泰之進により、背後から大袈裟により斬殺されたという。
近代、明治30年代(1897-1906)、京電が路線拡張し、勧進橋が架橋され市電が川を渡っていた。
1947年、架け替えられる。
◆武田観柳斎 江戸時代後期の新撰組隊士・武田観柳斎(?-1867)。出雲国母里藩士の子。医学生ともいう。脱藩後、江戸・甲州流軍学(長沼流)を修める。1863年新撰組に参加。1864年副長助勤、のち五番組組長、文学師範、軍事方。1864年池田屋事件では古高俊太郎を捕縛する。御陵衛士・伊東甲子太郎、薩摩藩と接触を企てたとされる。武田は尊攘派であったため新撰組除隊後に暗殺されたともいう。ただ、隊士により油小路竹田街道で暗殺されたともいう。詳細不明。
◆市電 勧進橋の南詰、鴨川の東を走る竹田街道に市電の勧進橋電停があった。
京都市電稲荷線(1904-1970)は、日本最初の営業電車路線として開業している。当初、京都電気鉄道伏見線、その後京都市電稲荷線になる。京都市電唯一の専用軌道(勧進橋-稲荷)で、途中に電停はなかった。
勧進橋 架設年1947年 橋種 3径間連続鋼プレートガーター 橋長88.7m 幅員19m
*参考文献 『京の橋ものがたり』『京都新選組案内』『新選組大事典』
旧前川家