硫黄島

硫黄島

[1] 小笠原諸島硫黄島 (いおうとう)

24.7863619696988 141.317310333252

Webページ

[2] 硫黄島 (東京都) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A1%AB%E9%BB%84%E5%B3%B6_%28%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%29

硫黄島(いおうとう)は、小笠原諸島の南端近くに所在する、東西8 km、南北4 kmの島である。行政区分上は東京都小笠原村に属し、東京都区部からは、南方におよそ1,200km に位置する。島内の最高峰は、摺鉢山(標高169 m)であり、硫黄島は周囲の島々と合わせて火山列島(硫黄列島)と呼ばれる列島を形成している。 現在は海上自衛隊と航空自衛隊の基地が置かれており、基地関係者以外の民間人の全島への立ち入りが制限されている。このため小笠原諸島に属しているが小笠原国立公園からは除外されている。 硫黄島は太平洋戦争の激戦地(硫黄島の戦い)として知られ、旧島民らの慰霊などのための上陸は例外として許される。

[3] 小笠原諸島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E8%AB%B8%E5%B3%B6

日本の気候区分では「南日本気候」、ケッペンの気候区分では、聟島(むこじま)列島・父島列島・母島列島・西之島が温帯に、火山列島・南鳥島・沖ノ鳥島が熱帯に属するが、温帯に属する地域は一般的に亜熱帯とされる。それに併せて海洋性気候にも属する。年間を通じて暖かく、夏と冬の気温差は少ない。春 - 初冬にかけて台風の接近・影響を受けることが多い。梅雨前線はこの地の北に現れ、太平洋高気圧の支配下となるため、北海道と同様に梅雨が無いとされる[2]。

気象庁による有人観測施設は、父島気象観測所・南鳥島気象観測所(2か所とも高層気象観測も実施)、アメダスが母島(雨量のみ観測)に設置されている。なお、小笠原諸島には気象レーダーが設置されておらず、気象レーダーによる観測が行われていない[3]。また、2008年3月26日まで、日本全国で唯一気象に関する注意報・警報が発表されていなかった[4]。ただし、小笠原諸島周辺海域は現在でも地方海上予報区[5]の区域外であり、海上警報も発表されない。

[編集] 自然

詳細は「小笠原諸島の自然」を参照

1972年(昭和47年)10月16日に一部の島や地域を除き小笠原国立公園として、国立公園に指定された。小笠原諸島は形成以来ずっと大陸から隔絶していたため、島の生物は独自の進化を遂げており、「東洋のガラパゴス」とも呼ばれるほど、貴重な動植物が多い。しかし、人間が持ち込んだ生物や島の開発などが原因でオガサワラオオコウモリやオガサワラノスリ、アカガシラカラスバト、ハハジマメグロなどの動物やムニンツツジ、ムニンノボタンといった植物など、いくつかの固有種は絶滅の危機に瀕している。1980年(昭和55年)3月31日に国指定小笠原諸島鳥獣保護区(希少鳥獣生息地)に指定された(面積5,899ha、うち特別保護地区1,331ha)。周辺の海域では鯨やイルカが生息しており、それらを見るために島を訪れる人も多い。また陸上では、人間が持ち込み野生化したヤギも生息している。

2011年には世界遺産に登録された。その範囲は小笠原諸島の自然#世界遺産を参照のこと。

「小笠原村#名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事」も参照

[編集] 歴史

[編集] 年表

古第三紀 - 凝灰質砂岩・泥岩・石灰岩などの海底噴出物より形成される[6]。

北硫黄島には先史時代のものとみられる石野遺跡がある[7]。

[4] 硫黄島の戦跡2, , http://www.iwojima.jp/battle2.html

3.戦跡を訪ねて(その2)

さらに島の東部の地下壕に入る。このあたりの地下壕は島の中央部をめぐっての激戦が繰り返されたところであり、地下壕の入り口 付近の岩には無数の銃弾・砲弾の破片が突き刺さっている。中は先ほどのよりさらに暑い。硫黄ガスの臭いもさらに強烈である。懐中電灯を使ってもガスのため に奥の方が見えない。写真を撮るにも絶えずレンズの曇りを拭わなければならず、難渋する。このあたりの地下壕は特に入り組んでおり、迷路のようになってい る。また、内部の至る所に日本兵の生活、戦闘の跡を示す品々が残っていた。

数ヶ月に渡り地下壕を掘り、 こ こに立てこもって生活し、戦った兵士たちの苦労は戦場を知らない我々には想像もつかない。地下に潜って隙を見て反撃を加える日本軍に対し、米軍は地下壕を 一つ一つ、徹底的に火炎放射器、爆薬で攻撃して回る「コルク抜き戦法」を取った。火炎放射器の火が届かない、深く入り組んだ壕については、入口から黄リン やガソリンを流し込み、点火して焼き尽くす方法を採ったり、ブルドーザーで入口を塞いで生き埋めにすることもあった。重砲弾の直撃を受けたり、地下壕で戦 死した将兵の多くは未だに遺体も発見されておらず、戦死者のうち、遺骨が収集されたのは平成18年3月現在で8551柱、4割程である。損傷が激しいた め、身元が判明して遺族の元へ還った遺骨は80柱にも満たない。なお、先の大戦における海外戦没者(硫黄島と小笠原を含む)は約240万人、うち日本に 還った遺骨は約124万柱である。

後になって元基地工事の関係者から話を聞いていたとき、「80年代半ば頃、地面を掘り返していたら地下壕跡があり、遺体1体を発見した。その遺体は地下 壕の高温のためミイラ化しており、最期の苦悶の表情が見てとれた。その凄まじい形相に、遺骨収集に慣れていた人でさえ立ちすくんだ」との証言もあった。

[5] (1/2) 一般人は絶対行けない、南の孤島硫黄島の求人 携帯・ネット不可での勤務に耐えられるのか : J-CASTニュース, , http://www.j-cast.com/2014/07/14210461.html

東京から約1200キロ南に浮かぶ硫黄島(東京・小笠原村)は、太平洋戦争末期の「硫黄島の戦い」で知られる孤島だ。自衛隊の基地があるため、事実上関係者以外は立ち入りできない。

そんな硫黄島勤務の「求人」が、ハローワークに出ている。携帯電話やインターネットが使えず、通信手段は公衆電話か手紙のみ。娯楽設備もない。耐えられるのだろうか。

通信手段は「公衆電話」か「手紙」のみ

この求人は一般財団法人・防衛弘済会によるもの。仕事は「自衛隊員食堂の調理業務」の請負で、基本給として18万3000円から18万5000円、離島手当として4万円。あわせて約22万円が月給となる。

労働時間は朝、昼、夕で実働8時間。休日はシフト制を組んでいて、3か月に1回、6日間の「特別休暇(帰省あり)」も用意されている。年齢や学歴は不問だが、調理師免許が必要だ。硫黄島隊員食堂が勤務地となるが、日本最東端の「南鳥島」への応援勤務もあるという。

それ以外にも普通の求人では、およそ目にかかれない記述が並ぶ。

「入間基地から自衛隊機で赴任(無料)」

「現地通信手段は公衆電話か手紙(携帯/インターネット不可)」

「銀行ATMはありませんが給与日に希望者は現金を送金します」

「リゾート気分で渡島しますと勤務に耐えられませんので理解してください」

珍しい求人に、ツイッター上は、

「お金使わないし貯まりそう」

「自衛隊以外でも硫黄島に行けるのか。調理師の免許があったら応募したかも」

「硫黄島の求人、ネットさえ使えたら応募しちゃうレベルだけどそもそも料理できないし関係なかった」

などと話題になっている。

(続く)

[6] 硫黄島村 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A1%AB%E9%BB%84%E5%B3%B6%E6%9D%91

硫黄島村(いおうじまむら)とは、東京都小笠原支庁管内、硫黄島にかつて存在した村である。現在は小笠原村の一部。なお、島の呼び名は2007年に「いおうとう」に変更されている。

地理[編集]

詳細は硫黄島の項を参照。現在は海上自衛隊管理の航空基地が設置され、全域がその基地の敷地とされているため、旧島民らの慰霊や基地施設の工事などの例外を除き、一般民間人および自衛隊員以外の公務員が島に立ち入ることは原則禁止されている。

歴史[編集]

詳細は「硫黄島 (東京都)」を参照

沿革[編集]

1923年(大正12年)10月1日 - 小笠原諸島、青ヶ島への町村制の施行に伴い発足。[1][2]

1943年(昭和18年) - 東京都制を施行。

1944年(昭和19年)7月1日、7月12日、7月14日 - 3度にわたり島民の疎開が行われる。軍に軍属として徴用された者(約230名)を除く全島民が島を離れ、島民が生活を営んだ村の歴史は幕を閉じる。

1946年(昭和21年) - アメリカ合衆国軍の直接統治の下に置かれる。

1952年(昭和27年)4月28日 - サンフランシスコ講和条約により日本国政府の行政から分離され、硫黄島村廃止。アメリカ合衆国の施政権下に置かれ、引き続きアメリカ合衆国軍管理となる。これに伴い、各村役場は廃止され、役場の一般事務は東京都総務局行政部地方課分室で行われる。

1968年(昭和43年)6月26日 - 南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定発効により、アメリカ合衆国軍から返還、本土復帰すると同時に、小笠原支庁の旧5村が合併し、東京都小笠原村となる[3]。

変遷表

1940年

以前

昭和15年

4月1日

昭和27年

4月28日

昭和30年

4月1日

現在

[7] 沿革|小笠原支庁, , http://www.soumu.metro.tokyo.jp/07ogasawara/guidance/history.html

アメリカ東インド艦隊司令官ペリーは日本へ来る途中、沖縄を経て父島二見港に寄港。島民のために(牛、羊、山羊)や野菜の種子を与え、石炭補給所用の敷地を購入した。

[8] 石野遺跡 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%87%8E%E9%81%BA%E8%B7%A1

北硫黄島は東京の南約1000キロに広がる 小笠原諸島 に属する、三島で構成される 火山列島 の一番北側にある島である。西方には 沖縄本島 などから構成される 南西諸島 があり、南方には マリアナ諸島 などが属する ミクロネシア がある。一方、東側は遠く ハワイ諸島 の北西にある ミッドウェー島 まで島らしい島はない。小笠原諸島は他の陸地から離れた場所に位置しており、これまで大陸や大きな島と地続きとなったことがない 海洋島 に分類されるが、小笠原諸島の有史以前の文化は、北の日本列島、西の沖縄諸島、南のミクロネシアのいずれかから伝えられたものと考えられている [1] 。

北硫黄島は火山活動によって形成された火山島で、南北約3.5キロ、東西約2キロ、面積は5.57平方キロメートルの南北に長い楕円形をしている。標高792メートルの榊ヶ峰を筆頭に島の中心部の南北に山が並び、海岸の多くは急峻な 海食崖 であり、島全体としても急峻な地形が多く平坦な場所は少ない。その中で島の中心部から流れ出す沢が海に注ぐ場所には小規模ながら 扇状地 が見られ、緩斜面を形成している。戦前に集落があった島東部の石野村や北西部の西村は、そのような扇状地部分に形成された [2] 。

北硫黄島周辺の海では、北東部と西部を除き幅約100メートル程度の 裾礁 があり、特に石野村と西村付近の沿岸部は裾礁が発達している。中でも旧石野村沿岸の裾礁には切れ目が存在し、大きな入江がない外洋の島であるため接岸が困難である北硫黄島の中では、波を遮る効果がある裾礁に囲まれ、しかも小船が通れる切れ目がある旧石野村は最も接岸が容易な場所であった。石野遺跡は接岸が最も容易で扇状地の緩斜面がある、北硫黄島の中では最も居住に適していると考えられる石野村付近にある [3] 。

島の発見と開発の開始 [ 編集 ]

1543年 、 スペイン 船サン・ファン号は3つの島から構成される火山列島を発見した。この時点で火山列島は無人島であったとされ、そのため石野遺跡は16世紀以前のものであると考えられている [4] 。 16世紀 後半以降、火山列島はフィリピンからメキシコへ向かうスペインの ガレオン船 航路に近かったため、北硫黄島の目撃情報も散見される [5] 。

1876年 ( 明治 9年)、日本政府は小笠原諸島の領有を諸外国に通知し認められた [

[9] (2/2) 一般人は絶対行けない、南の孤島硫黄島の求人 携帯・ネット不可での勤務に耐えられるのか : J-CASTニュース, , http://www.j-cast.com/2014/07/14210461.html?p=2

余暇はテニス、水泳、釣り…「駆け足」も!

では硫黄島とは、どんなところなのだろうか。海上自衛隊と航空自衛隊の基地があり、基地関係者以外の立ち入りは制限されているため、生活環境についての情報は少ない。

海上自衛隊に電話してみると、広報室内に硫黄島での勤務経験者がいないため、5年ほど前に勤務を終えた人からの「伝聞」になるとしながら、日ごろの過ごし方について困惑気味に教えてくれた。テレビはあるがBS放送のみで、休暇の時にDVDを大量購入する事もあったという。なお現在働いている人数は非公表としている。

ネットの個人サイトには、空自が2007年に制作したというパンフレットが転載されている。その「余暇」の項目を見ると、

「駆け足、テニス、水泳(プール)、釣り、果物等(バナナ、ミカン、パイナップル、パパイヤ、唐辛子等)の採取、天体観測、露天風呂、天然サウナ、ゴルフ、バードウォッチング、ホエールウォッチング、野外バーベキュー、音楽バンド演奏など」

と書かれていた。娯楽設備には乏しいが、自然を目いっぱい楽しむのには良さそうだ。

[10] 小笠原村 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E6%9D%91

地理[編集]

東京都本庁から小笠原村本庁である父島までは、約1,000 km離れている。

山: 父島の最高峰は名前の無い山(326m・中央山ではない)、母島の最高峰は乳房山(463 m)

河川

八ッ瀬川

歴史[編集]

「小笠原諸島#歴史」および「小笠原支庁#歴史」も参照

1940年(昭和15年)4月1日 - 普通町村制の適用により、東京府小笠原支庁の父島に大村・扇村袋沢村が、母島に沖村・北村が、硫黄島に硫黄島村が設置される[3]。

1943年(昭和18年)7月1日 - 東京都制施行。(東京府廃止)

1946年(昭和21年) - アメリカ合衆国軍の直接統治の下に置かれる。

1952年(昭和27年) - サンフランシスコ講和条約により、5村は日本国政府の行政から分離され廃止。アメリカ合衆国の施政権下に置かれ引き続きアメリカ合衆国軍管理となる。これに伴い各村役場は廃止され、役場の一般事務は東京都総務局行政部地方課分室で行われる。

1953年(昭和28年)4月28日 - 小笠原支庁廃止[4]

1968年(昭和43年)6月26日 - 南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定発効により、アメリカ合衆国軍から返還、本土復帰すると同時に小笠原支庁の全村が合併し、東京都小笠原村となる[5]。小笠原総合事務所(国の機関)[5]、東京都小笠原支庁および小笠原村役場の行政機関設置。

1979年(昭和54年)

4月22日 - 村議会議員および村長の設置選挙

4月23日 - 村政確立(それより前は東京都小笠原支庁長が小笠原村長職務執行者であった)

行政区域変遷[編集]

変遷の年表

小笠原村村域の変遷(年表)

月日

現小笠原村村域に関連する行政区域変遷

[11] 幻想諸島航海記/日吉沖ノ場(南日吉海山), , http://homepage3.nifty.com/boumurou/island/08/hiyosiokinoba.html

南硫黄島南東海上・1977年1月

1977(昭和52)年1月9日(日)。

前年2月に突如発覚して日本を震撼させ、ついには田中角栄元首相の逮捕にまで至ったロッキード事件が、依然として政財界を揺さぶり続け、また、新聞の社会面では、新宿の「火曜日の放火魔」や、青酸入りコカコーラによる無差別殺人事件が世を騒がせていた頃のことである。

この日午後2時半頃、海上保安庁水路部に、日本航空オペレーション・センターより、「午前11時5分頃、羽田発グアム行日航941便の清水靖司機長が、南硫黄島南方の太平洋上で、新島の誕生が推定される変色海域を見た」という旨の報告が入ってきた。

日航・清水靖司機長の話 問題の海域は海面が明るい黄緑色で、周りの深いブルーの海とはっきり違ってみえた。最初に陣内健次副操縦士がみつけ、私も含め乗員三人が確認した。晴れてはいたが、薄くもやがかかった天候で、高度も一万メートルあり、細かいことはわからなかった。この海域では海底火山の活動が活発ときいていたので、もしやと思い、日航のオペレーションを通じて海上保安庁に連絡した。 (『朝日新聞』1977年1月10日附朝刊「新島?変色水域を発見」)

この変色水域は直径約10kmに達していたという。清水機長はその位置を「北緯23度54.06分・東経142度18.07分」と報告している。この報告を信じるならば、問題の海域では水面のごく近くで海底火山の活動が起きており、すでに新島を形成している可能性もある、ということになる。だが、海上保安庁水路部では当初、この報告に少々疑問を抱いていた。というのも、該当位置は伊豆諸島・火山(硫黄)列島からマリアナ諸島へと続く火山帯からは外れており、その上、2000m以上の深海であって、もし海底火山が存在していたとしても、その活動が水面に現れることはまずありえないからである。

しかし、翌10日午前3時に海上保安庁羽田航空基地を飛び立った観測機YS-11A・LA701は、午前6時40分に現地に到着し、変色水域が確かに存在していることを認めた。ただし、その位置は北緯23度30.4分、東経141度54.3分で、最初の通報位置からは南西に約60kmもずれていた。火山列島の南端である南硫黄島からさらに南南東に約90km、東京からは約1400kmの地点である。観測の結果、この海底火山は、新島形成まではいかないも

[12] 沿革 | 小笠原村, , http://www.vill.ogasawara.tokyo.jp/outline/development.html

東京府出張所の行う行政に協議権をもつ会議所を設置し、議員15人を公選した。

外国人がすべて帰化した。

[13] 尚巴志(しょうはし)の墓|沖縄の裏探検, , http://ameblo.jp/quox-umiyamagusuku/entry-10484642039.html

読谷(よみたん)村の伊良皆(いらみな)旧集落の通称サシチムイにあります。米軍の黙認耕作地帯の中です。 巴志は1372年に南部地方の佐敷(さしき)に産まれます。 巴志は隣地の大里(おおざと)グスクを攻略して勢力をつけると、当時の中山王であった武寧(ぶねい)の政治が乱れているのを理由に武寧を討ちます。 その後、父の思紹(ししょう)を中山王へ即位させて自らは山北王を討伐します。 1421年に思紹が死去して、翌年51歳で王位を継いで在位期間中に山南王を滅ぼし、単独王統による初めての統一国家を樹立して、初代琉球国王となりました。 1430年、明(中国)の皇帝から皮弁服(ひべんふく)や王御冠(たまんちゃーぶい)が送られ、巴志は正式な琉球国王と認められます。翌年には皇帝より『尚姓』を賜ります。 尚姓は国王以外に名乗る事を許さない姓でした。 尚巴志は1439年6月1日に死去し、墓は首里グスク近くに建てられたとされています。神号は『勢治高真物(せじたかまもの)』とされました。 1469年、重臣だった内間 金丸(うちま かなまる)が当時の王、尚徳の政治に反発してクーデターに成功します。 尚巴志の墓が破壊されると聞き付けた旧臣の平田子(ひらたしー)と屋比久子(やびくしー)が、墓から尚巴志の遺骨を持ち出して読谷山(ゆんたんざ、現 読谷村)へ隠し現在の場所へ葬りました。 墓には三代王の尚忠(しょうちゅう)、四代王の尚思達(しょうしたつ)も葬られています。 王墓の手前を右に上がって行くと、尚巴志の骨を隠した忠臣平田子の墓があります。 『サシチムイ』は『佐敷森(さしきもり)』の意味に変換できますが、尚巴志の産まれ育った当時の佐敷と似ていたのでしょうか。 近辺は集落の跡が色濃く残り、草木を押し広げて進むと井戸跡があったりします。 金丸は尚巴志の王統を滅ぼした後、名を『尚円(しょうえん)』と改めます。 統一国家を継続する為に尚姓を利用した智謀高い策士でした。 尚巴志がどんな気持ちで眠っているのかは伺い知れません。

[14] 中ノ鳥島 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E3%83%8E%E9%B3%A5%E5%B3%B6

中ノ鳥島 (なかのとりしま、 英 : Ganges Island )は、 北緯30度05分 東経154度02分  /  北緯30.083度 東経154.033度 座標 : 北緯30度05分 東経154度02分  /  北緯30.083度 東経154.033度 に存在したとされる 幻の島 。別名「 ガンジス島 」。また、近傍には「ガンジス礁」もあったとされる。

自然科学 の観点から見れば実在したとは考えられないが、 日本 の 領土 として正式に認定されていた時期がある点で、世界各地の「幻の島」「 伝説の島 」とは一線を画する。

海図 等では「中ノ鳥島」の表記が用いられたが、日本政府の発する 命令 ( 政令 ・ 省令 等)では「 中鳥島 」の表記が多く用いられた( 日本国憲法 下での 官報 掲載例は前者2件、後者27件)。

概歴 [ 編集 ]

1907年 ( 明治 40年)8月、 東京市 小石川区 諏訪町(現在の 東京都 文京区 後楽 )の 山田禎三郎 が、 東京府 小笠原島 から560 哩 の位置に 島嶼 を発見、上陸して 探検 、 測量 まで試みた。

東京府知事 阿部浩 から 内務大臣 原敬 に宛てて提出された「新島嶼ノ行政区割ニ関シ上申」に付属する「小笠原島所属島嶼発見届」によると、 島 は外周1 里 25 町 (約6.67 km )、面積64万3700 坪 (約2.13 km² )、 サンゴ礁 と思われる 植生 もあった。また、島には 鳥の糞 が積もってできる 燐鉱石 で覆われており、これは当時、 火薬 原料や 肥料 として重要視されるものであった。

山田はこの島を開発するため日本による 領有 を訴え、翌 1908年 (明治41年)7月22日に 閣議決定 により「中ノ鳥島」と名付けられ、日本領に編入された [1] 。山田が発見した島は、海図の「ガンジスアイランド」に相当すると届けられたが、当時の 海軍省 水路部 が記した『日本水路誌』には 北緯30度47分 東経154度15分  /  北緯30.783度 東経154.250度 ) に「ガンジス島」があるとされ、「其ノ位置ニハ多少ノ差異アルニ依リ他日確定スルノ必要アルヘキ」と所在が未確定ながら「帝国ノ版図ニ属スヘキハ論ナキ」と日本領に組み込むのは当然とされた。

しかし、中ノ鳥島はそれ以来再び発見すること

[15] 幻想諸島航海記/[特別篇]沖ノ鳥島の謎――歴史篇 (1), , http://homepage3.nifty.com/boumurou/island/sp01/history.html

沖ノ鳥島は、いつ、誰が発見したのか?(その1)

トーレ 1543年8月~10月

1543年、スペインのルイ・ロペス・デ・ビリャロボス (Ruy Lopez de Villalobos, ?-1546) は、部下の ベルナルド・デ・ラ・トーレ ( Bernardo de la Torre ) に命じて北太平洋を探検させた。トーレの指揮するサン=ファン (San Juan) 号は、8月26日にフィリピンのミンダナオ島の南端にあるサランガニ島を出航し、北太平洋でいくつかの島を発見している。これがどうも現在の小笠原諸島か火山列島にあたる島々らしい。「らしい」というのは、この航海の内容には不明確な点があり、トーレが見た島が具体的に現在のどの島なのか今ひとつはっきりしないからである。

この時の航海で、トーレは、フィリピンのタンダヤ (Tandaya) 島(不詳、レイテ島またはサマール島か)を出発し、そこから「東方」に「200リーグ」ほど航海した「北緯16度」の地点で一つの「小島」を発見し、「 アブレオホス 」( Abre Ojos ; Abreojos, Abriojos などとも綴る。「眼を開け」の意)と命名している。なお、ここでいう「リーグ」はおそらくスペイン・リーグ、すなわち「レグア」 (legua) であろう。1レグアは約4.2kmだから、200レグアは約840kmとなる。

トーレは、そこからさらに「東」に「26リーグ」 (約110km) 航行した「北緯16度ないし17度」の地点に「二つの大きな高い島」を発見し、「ラス=ドス=ヘルマナス」(Las Dos Hermanas; 「二人姉妹」の意)と命名している。そして、さらに「北東」に船を進め、「300リーグ」 (約1260km) 進んだ「北緯25度ないし26度」の地点に三つの島を発見し、そのうち一つが火山島であったことから「ロス=ボルカネス」(Los Volcanes; 「火山」の意)と命名している。タンダヤの港から「500リーグ」 (約2100km) の地点である。さらにそこから「北東」に「30リーグ」 (約126km) 進んだ地点で、10月2日に彼は島をもう一つ発見し、「フォルファナ」 (Forfana) と命名している。サン=ファン号はそこからさらに「北東」に進み、10月18日に、タンダヤから「700リーグ」 (約

[16] 熊本内陸部に「液状化の帯」 全長5キロ、「旧河道」か:朝日新聞デジタル, , http://www.asahi.com/articles/ASJ535GVDJ53ULBJ004.html

熊本県などの一連の地震で、熊本市内陸部の長さ約5キロ、最大幅100メートルの細長い範囲に、地盤の液状化による被害が集中していることが地盤工学会の現地調査でわかった。現在は住宅地で地表からは見分けがつかないが、かつて川が流れていた「旧河道」とみられる。土砂が堆積(たいせき)した場所に沿って「液状化の帯」が生じた可能性があるという。

学会調査団の村上哲・福岡大教授(地盤防災工学)らは4月22日~5月1日、液状化の現地調査を実施。熊本市では南区を中心に、地中から噴き出した砂が建物の周囲や道路などに広がる「噴砂」を確認した。建物が沈み込んで大きく傾いたり、逆に建物の周囲が最大75センチ沈下したりした場所も見つかった。中には、応急危険度判定で立ち入り「危険」を示す赤い紙が貼られている住宅も多数あった。

発生地点は海岸から約8キロの内陸部。阿蘇から有明海へ流れる白川と加勢川に挟まれた幅約50~100メートルの帯状のエリアに集中していた。地元の河川に詳しい大本照憲・熊本大教授(河川工学)によると、この範囲は川の氾濫(はんらん)で運ばれた土砂が堆積してできた「自然堤防」という地形とほぼ重なり、白川の旧河道の可能性があるという。江戸時代の絵図では郡の境界にほぼ該当し、「川が郡界として利用されていた可能性が高い」とみる。

[17] 「五島列島」旅 その27(野崎島) 野首集落のキリシタン墓地跡 | ISLAND TRIP(アイランドトリップ), , http://www.islandtrip.jp/2016/04/220801.html

桜が散ったら急に気温が高くなってきましね。どうも、いづやん( @izuyan )です。

五島列島旅の第二十七回をお送りします。無人島である野崎島、そこに今も建ち続ける「旧野首教会」を見るという旅の大きな目標は達成されたわけですが、まだ島を離れるまでは時間があります。

無人島にダム?

「旧野首教会」の撮影と見学を済ませて、さらに島の西側に向かいます。斜面を登って道を進むと、海が見えてきたと思いました。が、最初に見えてくるのは大きな池です。これ、実はれっきとした「ダム」なのです。

無人島にダム・・・? まあそう思いますよね。僕も思いました。

しかもこのダム、島が無人になってから作られたものだそうです。それって無駄では?と思いたいところですが、このダムの水は海底の送水管を通ってお隣の有人島、小値賀島の農業かんがい用水として使われているそうです。

喫茶タートルのトムさんにちらっとお聞きした、島に来る移住者は農業従事者が多い、ということとも無関係ではないでしょう。水資源確保はどの島でも重要な課題だからです。

それにしても、やはり知らないと島でいきなりダムが現れたら面食らいます。ダムのすぐ向こうには海が見えるのもまた不思議です。

海側の斜面には土砂流出を防ぐためか、ネットのようなものが敷かれていました。

ダムの横を回って、下り坂を行くと「野首港」にたどり着きます。船が着いた野崎港より新しい係接岸のようです。後で聞けばチャーター船が時おり泊まることもあるそうです。休憩所もあったりして、ここだけ見ると無人島には見えません。

「こんなところまでキュウシュウジカが!」と思ったら、ただのモニュメントでした。

日の光が海の底に届いて、目がさめるような景色が広がっています。夏場だったら確実に泳ぎたくなる海です。

海を前に残されたキリシタン墓地跡

その場で国土地理院の地図を見ると、この野首港周辺にもかつては建物があったようですが、おそらくダム建設の時に撤去されたのでしょう。往時のことを伝えるものは何もないように思えました。

と、海から山の方に顔を向けると、海岸そばの灌木の中に石の十字架が立っているのが目に入りました。

「キリシタンの墓だ・・・」

思わずつぶやいてしまいます。

よくよく見ると、その周りにも灌木に覆い尽くされかけた墓石が見え隠れしています。浮足立った足取りで近づこうとしますが、灌木

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