沖ノ鳥島

沖ノ鳥島

[1] 沖ノ鳥島 (おきのとりしま)

20.4255555555556 136.081111111111

Webページ

[2] 沖ノ鳥島 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E3%83%8E%E9%B3%A5%E5%B3%B6

沖ノ鳥島(おきのとりしま)は、東京都小笠原村に属する、太平洋上に浮かぶ日本最南端の島(サンゴ礁)である。満潮時に沈まないのは東小島(ひがしこじま)、北小島(きたこじま)と呼ばれる2つの小島で、大部分は海面下にある。 日本は「海洋法に関する国際連合条約」(国連海洋法条約)発効に併せて制定した「排他的経済水域及び大陸棚に関する法律」(平成8年法律第74号)に基づき、沖ノ鳥島を中心とする排他的経済水域(Exclusive Economic Zone、略称:EEZ)を設定しているが、2003年以降、中華人民共和国(中国)及び大韓民国(韓国)の2か国から日本の主張に対する異議が申し立てられている(詳細は#地位に関する論争を参照)。

[3] 沖ノ鳥島とアマチュア無線, , http://homepage3.nifty.com/boumurou/island/sp01/extra/DX.html

※筆者はアマチュア無線については全く経験のない素人であり、本稿は様々な文献に基づいてまとめたものであることを最初にお断りしておきます。

アマチュア無線の世界には、アマチュア無線家(ハム)に対して、その交信した地域や局の数などをたたえて贈られる様々な「アワード」(賞)がある。その中でも、最も権威と人気があるといわれるのが、アメリカのハムの全国団体である アメリカ無線中継連盟 ( American Radio Relay League; ARRL )が発行している「 DX Century Club 」( DXCC )である。

DXCC は最初1937年(昭和12)に制定されたが、第二次世界大戦のため1940年(昭和15)にいったん中断され、1947年(昭和22)に再開された。このアワードは、世界の100以上の国・地域―― DXCC では「 エンティティ 」( entity ; 独立体)という――と交信した者に与えられる。ちなみに、「 DXCC 」の「 DX 」とは英語の「ディスタンス」( distance ; 距離、遠方)を無線用語風に略したもので、遠距離通信のことである。

なお、このエンティティの区分は DXCC 独自の規定に基づくものである。独立国はそのまま一つのエンティティ扱いを受けるが、同じ国の中でも、行政的に特別な扱いを受ける地域や、他の地域との距離が非常に離れた地域などは、 DXCC のルールによって別のエンティティとされることがある。たとえば日本の場合、2007年(平成19)7月現在、「日本」( Japan )のほか「小笠原」( Ogasawara )と「南鳥島」( Minami Torishima )が独立したエンティティとなっている。このため、エンティティの数は2007年7月現在で337もあり (*) 、 国連の加盟国数 (192)や ISO 3166 で定められている国名コードの数(244)よりもはるかに多い。またこの他に、かつては正式なエンティティとされていたが、様々な事情で廃止となったものが58あり、その中には「琉球諸島」( Ryukyu Is.; 沖縄)と「沖ノ鳥島」( Okino Tori-shima )も含まれている。

(*)

2007年12月14日にサン・バルテルミー島(カリブ海にあるフランス海外準県)が追加され、338になった(2010

[4] 幻想諸島航海記/[特別篇]沖ノ鳥島の謎――歴史篇 (2), , http://homepage3.nifty.com/boumurou/island/sp01/history2.html

日本と沖ノ鳥島との関わりはいつから始まったのか?

日本においては、明治維新以前にこの珊瑚礁の存在が知られていた形跡は全くない。

※近藤富藏 (1805-1887) の『八丈実記』に「琉球沖鳥嶋」「琉球国沖ノ鳥島」という地名が見える (『八丈実記』第2巻(緑地社 1969), pp.213-214, 248-250) が、これは「琉球国」の「沖ノ鳥島」ではなく「琉球国沖」の「鳥島」の意であろう。この島は嘉永3(1850)年に「長門国フシマガリ浦」の「浮亀丸」という船が漂着したとされる火山島である。近藤富蔵は一つしかない鳥島を複数存在するものと錯覚しており、おそらくこの島も実際には伊豆諸島の鳥島そのものではないかと思われるが、少なくとも現在の沖ノ鳥島でないのは明らかである。

1888(明治21)年に刊行された、亞、若、扁都禮[撰]/横尾東作[訳]『南洋群島 独案内』という本の pp.8-11 に、「ドウグラス礁一名パルシービラ」のことが記載されている。おそらく日本における最も初期の紹介例のひとつであろう。なおこの本は、イギリスの地理・水路学者A・G・フィンドリー (Alexander George Findlay, 1812-1875) による『北太平洋水路誌』第2版 ( A directory for the navigation of the North Pacific Ocean , 2nd Edition. 1870) の抄訳で、翻訳者の横尾東作 (1839-1903) は明治期の南進論の立役者の一人である。

この書物が出た頃、日本政府はこの海域の島々に対し、次々と日本の領土への編入を宣言している。すでに小笠原諸島は1876(明治9)年に領有が宣言されていたが、1885(明治18)年には大東諸島の領有が宣言され、その後、火山(硫黄)列島(1891)、南鳥島(1898)、沖大東島(1900)、中ノ鳥島(1908=不存在)と続いている。

しかし、この珊瑚礁と日本との関係が始まるのはかなり遅く、第一次世界大戦以後まで待たなければならない。

1914(大正3)年7月に第一次世界大戦が始まると、日本は連合国側に立ってドイツに宣戦布告し、同年10月、ほとんどどさくさにまぎれるような形で、当時ドイツ領だったマリアナ・カロリン・マーシャルなどのミクロネシアの島々を無血占領する。

[6] 幻想諸島航海記/[特別編]沖ノ鳥島の謎/【資料集】1930年代の沖ノ鳥島と観測所工事, , http://homepage3.nifty.com/boumurou/island/sp01/observatory.html

1939(昭和14)年から1941(昭和16)年にかけて、沖ノ鳥島に灯台および気象観測所を設置するための工事が実施されました。これは沖ノ鳥島の軍事基地化を前提としたものだともいわれていますが、基盤工事を終えた段階でアジア太平洋戦争が勃発したため、完成に至らぬまま中断されています。その後、この基盤は半世紀近くにわたって放棄されていましたが、1988(昭和63)年に海洋科学技術センター(JAMSTEC、現・海洋研究開発機構)がこの基盤の上に無人の気象観測タワーを設置し、1991(平成3)年まで気象観測を行いました(以後は、観測装置を建設省の設置した作業基地に移設し、現在まで観測を続けています)。また1990(平成2)年から1993(平成5)年にかけて基盤の修復・整備工事が行われています。そして2005(平成17)年には、海上保安庁が2006(平成18)年度中に沖ノ鳥島に無人灯台を設置することを決定しました。

ここでは、この昭和初期の工事と、この工事が行われた時期の沖ノ鳥島に関する資料を紹介しています。本篇の「歴史篇 (2) まぼろしの沖ノ鳥島灯台・気象観測所建設計画とは?」ともあわせてご参照ください。

[7] 幻想諸島航海記/[特別篇]沖ノ鳥島の謎――歴史篇 (1), , http://homepage3.nifty.com/boumurou/island/sp01/history.html

沖ノ鳥島は、いつ、誰が発見したのか?(その1)

トーレ 1543年8月~10月

1543年、スペインのルイ・ロペス・デ・ビリャロボス (Ruy Lopez de Villalobos, ?-1546) は、部下の ベルナルド・デ・ラ・トーレ ( Bernardo de la Torre ) に命じて北太平洋を探検させた。トーレの指揮するサン=ファン (San Juan) 号は、8月26日にフィリピンのミンダナオ島の南端にあるサランガニ島を出航し、北太平洋でいくつかの島を発見している。これがどうも現在の小笠原諸島か火山列島にあたる島々らしい。「らしい」というのは、この航海の内容には不明確な点があり、トーレが見た島が具体的に現在のどの島なのか今ひとつはっきりしないからである。

この時の航海で、トーレは、フィリピンのタンダヤ (Tandaya) 島(不詳、レイテ島またはサマール島か)を出発し、そこから「東方」に「200リーグ」ほど航海した「北緯16度」の地点で一つの「小島」を発見し、「 アブレオホス 」( Abre Ojos ; Abreojos, Abriojos などとも綴る。「眼を開け」の意)と命名している。なお、ここでいう「リーグ」はおそらくスペイン・リーグ、すなわち「レグア」 (legua) であろう。1レグアは約4.2kmだから、200レグアは約840kmとなる。

トーレは、そこからさらに「東」に「26リーグ」 (約110km) 航行した「北緯16度ないし17度」の地点に「二つの大きな高い島」を発見し、「ラス=ドス=ヘルマナス」(Las Dos Hermanas; 「二人姉妹」の意)と命名している。そして、さらに「北東」に船を進め、「300リーグ」 (約1260km) 進んだ「北緯25度ないし26度」の地点に三つの島を発見し、そのうち一つが火山島であったことから「ロス=ボルカネス」(Los Volcanes; 「火山」の意)と命名している。タンダヤの港から「500リーグ」 (約2100km) の地点である。さらにそこから「北東」に「30リーグ」 (約126km) 進んだ地点で、10月2日に彼は島をもう一つ発見し、「フォルファナ」 (Forfana) と命名している。サン=ファン号はそこからさらに「北東」に進み、10月18日に、タンダヤから「700リーグ」 (約

[8] 沖ノ鳥島港湾工事事故 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E3%83%8E%E9%B3%A5%E5%B3%B6%E6%B8%AF%E6%B9%BE%E5%B7%A5%E4%BA%8B%E4%BA%8B%E6%95%85

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沖ノ鳥島港湾工事事故 (おきのとりしまこうわん こうじじこ)とは、 2014年 3月30日 に 東京都 小笠原村 沖ノ鳥島 で発生した 港湾 工事 の 事故 である。

沖ノ鳥島において 五洋建設 が請け負った港湾整備事業で、作業中に 桟橋 がひっくり返り、作業員16人が投げ出された。事故当日に5人の 死亡 、2人の 行方不明 、4人の軽傷が確認された。この工事は独占的に 漁業 や 海底資源 の 開発 ができる 排他的経済水域 の維持を目指し、 中華人民共和国 も意識するという国策工事だった [1] 。行方不明になっていた2人も後に遺体で発見され、この事故による死者数は計7人となった [2] 。

国土交通省 による 7月2日 の中間報告によれば、桟橋の補強などにより重量が設計よりも増したうえ、もともと桟橋上にあった クレーン の設置場所が中心からずれていて不安定になったことが、事故の原因となった [3] 。

出典 [ 編集 ]

^ “沖ノ鳥島で事故、5人死亡・2人不明 桟橋の工事現場” . 朝日新聞 . ( 2014年3月30日 ). オリジナル の 2014年3月30日 時点によるアーカイブ。 2015年9月9日 閲覧。

^ “最後の1人か、遺体発見 沖ノ鳥島事故” . 産経新聞 . ( 2014年4月20日 ). オリジナル の 2014年4月20日 時点によるアーカイブ。 2015年9月9日 閲覧。

^ “補強で重量増やクレーンずれ不安定に 沖ノ鳥島の桟橋転覆” . 日本経済新聞 . ( 2014年7月2日 ) 2015年9月9日 閲覧。

[9] 小笠原諸島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E8%AB%B8%E5%B3%B6

日本の気候区分では「南日本気候」、ケッペンの気候区分では、聟島(むこじま)列島・父島列島・母島列島・西之島が温帯に、火山列島・南鳥島・沖ノ鳥島が熱帯に属するが、温帯に属する地域は一般的に亜熱帯とされる。それに併せて海洋性気候にも属する。年間を通じて暖かく、夏と冬の気温差は少ない。春 - 初冬にかけて台風の接近・影響を受けることが多い。梅雨前線はこの地の北に現れ、太平洋高気圧の支配下となるため、北海道と同様に梅雨が無いとされる[2]。

気象庁による有人観測施設は、父島気象観測所・南鳥島気象観測所(2か所とも高層気象観測も実施)、アメダスが母島(雨量のみ観測)に設置されている。なお、小笠原諸島には気象レーダーが設置されておらず、気象レーダーによる観測が行われていない[3]。また、2008年3月26日まで、日本全国で唯一気象に関する注意報・警報が発表されていなかった[4]。ただし、小笠原諸島周辺海域は現在でも地方海上予報区[5]の区域外であり、海上警報も発表されない。

[編集] 自然

詳細は「小笠原諸島の自然」を参照

1972年(昭和47年)10月16日に一部の島や地域を除き小笠原国立公園として、国立公園に指定された。小笠原諸島は形成以来ずっと大陸から隔絶していたため、島の生物は独自の進化を遂げており、「東洋のガラパゴス」とも呼ばれるほど、貴重な動植物が多い。しかし、人間が持ち込んだ生物や島の開発などが原因でオガサワラオオコウモリやオガサワラノスリ、アカガシラカラスバト、ハハジマメグロなどの動物やムニンツツジ、ムニンノボタンといった植物など、いくつかの固有種は絶滅の危機に瀕している。1980年(昭和55年)3月31日に国指定小笠原諸島鳥獣保護区(希少鳥獣生息地)に指定された(面積5,899ha、うち特別保護地区1,331ha)。周辺の海域では鯨やイルカが生息しており、それらを見るために島を訪れる人も多い。また陸上では、人間が持ち込み野生化したヤギも生息している。

2011年には世界遺産に登録された。その範囲は小笠原諸島の自然#世界遺産を参照のこと。

「小笠原村#名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事」も参照

[編集] 歴史

[編集] 年表

古第三紀 - 凝灰質砂岩・泥岩・石灰岩などの海底噴出物より形成される[6]。

北硫黄島には先史時代のものとみられる石野遺跡がある[7]。

[10] 小笠原村 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E6%9D%91

地理[編集]

東京都本庁から小笠原村本庁である父島までは、約1,000 km離れている。

山: 父島の最高峰は名前の無い山(326m・中央山ではない)、母島の最高峰は乳房山(463 m)

河川

八ッ瀬川

歴史[編集]

「小笠原諸島#歴史」および「小笠原支庁#歴史」も参照

1940年(昭和15年)4月1日 - 普通町村制の適用により、東京府小笠原支庁の父島に大村・扇村袋沢村が、母島に沖村・北村が、硫黄島に硫黄島村が設置される[3]。

1943年(昭和18年)7月1日 - 東京都制施行。(東京府廃止)

1946年(昭和21年) - アメリカ合衆国軍の直接統治の下に置かれる。

1952年(昭和27年) - サンフランシスコ講和条約により、5村は日本国政府の行政から分離され廃止。アメリカ合衆国の施政権下に置かれ引き続きアメリカ合衆国軍管理となる。これに伴い各村役場は廃止され、役場の一般事務は東京都総務局行政部地方課分室で行われる。

1953年(昭和28年)4月28日 - 小笠原支庁廃止[4]

1968年(昭和43年)6月26日 - 南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定発効により、アメリカ合衆国軍から返還、本土復帰すると同時に小笠原支庁の全村が合併し、東京都小笠原村となる[5]。小笠原総合事務所(国の機関)[5]、東京都小笠原支庁および小笠原村役場の行政機関設置。

1979年(昭和54年)

4月22日 - 村議会議員および村長の設置選挙

4月23日 - 村政確立(それより前は東京都小笠原支庁長が小笠原村長職務執行者であった)

行政区域変遷[編集]

変遷の年表

小笠原村村域の変遷(年表)

月日

現小笠原村村域に関連する行政区域変遷

[11] 幻想諸島航海記/日吉沖ノ場(南日吉海山), , http://homepage3.nifty.com/boumurou/island/08/hiyosiokinoba.html

南硫黄島南東海上・1977年1月

1977(昭和52)年1月9日(日)。

前年2月に突如発覚して日本を震撼させ、ついには田中角栄元首相の逮捕にまで至ったロッキード事件が、依然として政財界を揺さぶり続け、また、新聞の社会面では、新宿の「火曜日の放火魔」や、青酸入りコカコーラによる無差別殺人事件が世を騒がせていた頃のことである。

この日午後2時半頃、海上保安庁水路部に、日本航空オペレーション・センターより、「午前11時5分頃、羽田発グアム行日航941便の清水靖司機長が、南硫黄島南方の太平洋上で、新島の誕生が推定される変色海域を見た」という旨の報告が入ってきた。

日航・清水靖司機長の話 問題の海域は海面が明るい黄緑色で、周りの深いブルーの海とはっきり違ってみえた。最初に陣内健次副操縦士がみつけ、私も含め乗員三人が確認した。晴れてはいたが、薄くもやがかかった天候で、高度も一万メートルあり、細かいことはわからなかった。この海域では海底火山の活動が活発ときいていたので、もしやと思い、日航のオペレーションを通じて海上保安庁に連絡した。 (『朝日新聞』1977年1月10日附朝刊「新島?変色水域を発見」)

この変色水域は直径約10kmに達していたという。清水機長はその位置を「北緯23度54.06分・東経142度18.07分」と報告している。この報告を信じるならば、問題の海域では水面のごく近くで海底火山の活動が起きており、すでに新島を形成している可能性もある、ということになる。だが、海上保安庁水路部では当初、この報告に少々疑問を抱いていた。というのも、該当位置は伊豆諸島・火山(硫黄)列島からマリアナ諸島へと続く火山帯からは外れており、その上、2000m以上の深海であって、もし海底火山が存在していたとしても、その活動が水面に現れることはまずありえないからである。

しかし、翌10日午前3時に海上保安庁羽田航空基地を飛び立った観測機YS-11A・LA701は、午前6時40分に現地に到着し、変色水域が確かに存在していることを認めた。ただし、その位置は北緯23度30.4分、東経141度54.3分で、最初の通報位置からは南西に約60kmもずれていた。火山列島の南端である南硫黄島からさらに南南東に約90km、東京からは約1400kmの地点である。観測の結果、この海底火山は、新島形成まではいかないも

[12] ロッコール島 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%B3%B6

位置 [ 編集 ]

北緯57度35分48.12秒西経13度41分18.96秒 座標 : 北緯57度35分48.12秒 西経13度41分18.96秒 。 スコットランド の ノース・ウイスト島 西端部の、マニッシュポイント ( Manish Point ) の西方沖合約368kmに位置する。

概要 [ 編集 ]

海面から突出した塔状の 岩 (高さ約23m、直径27m)で、それ自体に利用価値はないが、それに伴う 領海 および 排他的経済水域 (EEZ) の面積とその海洋 資源 は莫大であると考えられたため、 イギリス のほか、 アイルランド共和国 、 デンマーク ( フェロー諸島 の一部として)、 アイスランド が 領有 権を主張していた。

しかし、 1982年 に採択、 1994年 に発効した「海洋法に関する国際連合条約( 国連海洋法条約 )」には、121条3項に「人間の居住又は独自の経済的生活を維持することのできない岩は、排他的経済水域又は 大陸棚 を有しない」と規定されており、イギリスは、ロッコール島は条約第121条3項に基づき漁業水域の限界のための有効な基点ではないと判断して政策転換を図り、ロッコール島の排他的経済水域と 大陸棚 に関する主張を放棄した [1] 。上記の領有権を主張する国との紛争を解決するために領有権を放棄したという説もある。

前述の理由から、現在はロッコール島はどの国の領土にも属していない。 公海上に存在する岩 、と見なされている。

ウェーブランド事件 [ 編集 ]

1997年 に環境保護団体「 グリーンピース 」が、油田開発に対する抗議活動の一環としてロッコール島に小屋を建て、 占領 した。彼らはロッコール島を グローバル・ステート・オブ・ウェーブランド と名づけて独立国家の樹立を宣言したが、イギリス政府に無視された。

脚注 [ 編集 ]

[13] 蘇岩礁 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E5%B2%A9%E7%A4%81

蘇岩礁 (そがんしょう)は、 東シナ海 沖合に存在する 暗礁 。蘇岩礁は 中華人民共和国 における呼称であり、 大韓民国 では、この暗礁を 離於島 (イオド)、 波浪島 (パランド)と呼称している [1] (但し、領土とは考えていない [2] )。英語名は ソコトラ岩 (Socotra Rock) である。

東シナ海 の 黄海 寄りに位置し、 ユーラシア大陸 の大陸棚上に存在する。現在、 韓国 と 中国 が共同管理する暫定経済水域内にある。離於島(蘇岩礁)は、 干潮 時にもその岩頂が海面下4.6mの海中にある 暗礁 である。両国は、互いが「自国のEEZ内にある水中暗礁」であると主張している。

韓国が、この暗礁を基礎に海上へ海洋調査施設を建設したため、中国は韓国に対し、一方的な建設を中止するよう抗議している [3] 。

歴史 [ 編集 ]

中国の古書『 山海経 』( 前475年 - 前221年 成立)に「東海之外、大荒之中、有山名曰猗天蘇山」と記載されている。この蘇山とは蘇岩礁のことであるとされる。

近代に入って、この岩礁を初めて確認したのは、 1900年 の英国船ソコトラ号 (Socotra) である。この岩礁は、中韓間の中間線の韓国側に位置しており、 1952年 に韓国により 李承晩ライン が発表された際には、岩礁は発表した韓国領海内に位置していた。

1910年 - 英国の軍艦 HMS Waterwitch によってその深度が5.4m以下であることが測量される。

1938年 - 大日本帝国 政府が離於島を測量する。観測施設を設立する計画は、 第二次世界大戦 の勃発によって中断される。

1951年 - 韓国海軍 と韓国登山協会が " 대한민국 영토 이어도 "(大韓民国の領土離於島)と書かれたブロンズの記念碑を設置。

1952年 - 韓国は 李承晩ライン を宣言。離於島を含む海域を自国領海として宣言するも中国、日本を含む周辺各国に承認されず。

1963年 5月1日 - 中国遠洋運輸公司上海分公司の汽船躍進号が青島港を出航して下関港を目指して出航し、航海途中で沈没した。当初、 魚雷 3発を受けたと報告された。その後の調査ではその座標位置から、原因は離於島であると分かったが、危うく国際問題になるところだった [4] 。

1970年 - 韓国の水中資源開発法によって離於島

[14] 「五島列島」旅 その27(野崎島) 野首集落のキリシタン墓地跡 | ISLAND TRIP(アイランドトリップ), , http://www.islandtrip.jp/2016/04/220801.html

桜が散ったら急に気温が高くなってきましね。どうも、いづやん( @izuyan )です。

五島列島旅の第二十七回をお送りします。無人島である野崎島、そこに今も建ち続ける「旧野首教会」を見るという旅の大きな目標は達成されたわけですが、まだ島を離れるまでは時間があります。

無人島にダム?

「旧野首教会」の撮影と見学を済ませて、さらに島の西側に向かいます。斜面を登って道を進むと、海が見えてきたと思いました。が、最初に見えてくるのは大きな池です。これ、実はれっきとした「ダム」なのです。

無人島にダム・・・? まあそう思いますよね。僕も思いました。

しかもこのダム、島が無人になってから作られたものだそうです。それって無駄では?と思いたいところですが、このダムの水は海底の送水管を通ってお隣の有人島、小値賀島の農業かんがい用水として使われているそうです。

喫茶タートルのトムさんにちらっとお聞きした、島に来る移住者は農業従事者が多い、ということとも無関係ではないでしょう。水資源確保はどの島でも重要な課題だからです。

それにしても、やはり知らないと島でいきなりダムが現れたら面食らいます。ダムのすぐ向こうには海が見えるのもまた不思議です。

海側の斜面には土砂流出を防ぐためか、ネットのようなものが敷かれていました。

ダムの横を回って、下り坂を行くと「野首港」にたどり着きます。船が着いた野崎港より新しい係接岸のようです。後で聞けばチャーター船が時おり泊まることもあるそうです。休憩所もあったりして、ここだけ見ると無人島には見えません。

「こんなところまでキュウシュウジカが!」と思ったら、ただのモニュメントでした。

日の光が海の底に届いて、目がさめるような景色が広がっています。夏場だったら確実に泳ぎたくなる海です。

海を前に残されたキリシタン墓地跡

その場で国土地理院の地図を見ると、この野首港周辺にもかつては建物があったようですが、おそらくダム建設の時に撤去されたのでしょう。往時のことを伝えるものは何もないように思えました。

と、海から山の方に顔を向けると、海岸そばの灌木の中に石の十字架が立っているのが目に入りました。

「キリシタンの墓だ・・・」

思わずつぶやいてしまいます。

よくよく見ると、その周りにも灌木に覆い尽くされかけた墓石が見え隠れしています。浮足立った足取りで近づこうとしますが、灌木

[15] 石野遺跡 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%87%8E%E9%81%BA%E8%B7%A1

北硫黄島は東京の南約1000キロに広がる 小笠原諸島 に属する、三島で構成される 火山列島 の一番北側にある島である。西方には 沖縄本島 などから構成される 南西諸島 があり、南方には マリアナ諸島 などが属する ミクロネシア がある。一方、東側は遠く ハワイ諸島 の北西にある ミッドウェー島 まで島らしい島はない。小笠原諸島は他の陸地から離れた場所に位置しており、これまで大陸や大きな島と地続きとなったことがない 海洋島 に分類されるが、小笠原諸島の有史以前の文化は、北の日本列島、西の沖縄諸島、南のミクロネシアのいずれかから伝えられたものと考えられている [1] 。

北硫黄島は火山活動によって形成された火山島で、南北約3.5キロ、東西約2キロ、面積は5.57平方キロメートルの南北に長い楕円形をしている。標高792メートルの榊ヶ峰を筆頭に島の中心部の南北に山が並び、海岸の多くは急峻な 海食崖 であり、島全体としても急峻な地形が多く平坦な場所は少ない。その中で島の中心部から流れ出す沢が海に注ぐ場所には小規模ながら 扇状地 が見られ、緩斜面を形成している。戦前に集落があった島東部の石野村や北西部の西村は、そのような扇状地部分に形成された [2] 。

北硫黄島周辺の海では、北東部と西部を除き幅約100メートル程度の 裾礁 があり、特に石野村と西村付近の沿岸部は裾礁が発達している。中でも旧石野村沿岸の裾礁には切れ目が存在し、大きな入江がない外洋の島であるため接岸が困難である北硫黄島の中では、波を遮る効果がある裾礁に囲まれ、しかも小船が通れる切れ目がある旧石野村は最も接岸が容易な場所であった。石野遺跡は接岸が最も容易で扇状地の緩斜面がある、北硫黄島の中では最も居住に適していると考えられる石野村付近にある [3] 。

島の発見と開発の開始 [ 編集 ]

1543年 、 スペイン 船サン・ファン号は3つの島から構成される火山列島を発見した。この時点で火山列島は無人島であったとされ、そのため石野遺跡は16世紀以前のものであると考えられている [4] 。 16世紀 後半以降、火山列島はフィリピンからメキシコへ向かうスペインの ガレオン船 航路に近かったため、北硫黄島の目撃情報も散見される [5] 。

1876年 ( 明治 9年)、日本政府は小笠原諸島の領有を諸外国に通知し認められた [

履歴

[22] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933339661

メモ