[6] 平安時代の花山天皇の退位の日について、 寛和2年6月22日とするものと寛和2年6月23日とするものがあり、 明治時代から昭和初期の歴史家の間で議論になっていましたが、 現在では23日午前2時頃とされています。 当時の日界の午前3時より前で古くは22日丑刻と書かれたものが、 後に日界が0時となって当世風に23日と書き改めたものと混在するようになったと考えられています。 >>7 p.15
[9] この混乱は未だに後を引いています。 Wikipedia はこの日を 「寛和2年6月23日(986年7月31日)」 としています >>8 が、 23日はユリウス暦の、 グレゴリオ暦のです。 括弧内の西暦換算値は 22日のものを引いているようです。 (主要な旧暦換算表でこの周辺の日付の西暦対応は一致しているので、 旧暦計算方法の差ではないとみられます。)
[10] かつての暦本では、 望 (満月) が夜半を過ぎていても、 日の出前であれば、 前日を望の日としました (退望)。 宣明暦時代は進朔と退望の両方があり、 貞享暦で進朔は廃されましたが、 退望はその後も続けられました。 >>11
[14] 後愚昧記 (三条公忠の日記) の応安5(1372)年1月4日条に、
後に聞く、 今暁梶井宮
入滅すと云々。 無品法親王恒鎮、 故一品式部卿恒明子、
... とありました。 愚管記 (近藤道嗣の日記) の応安5(1372)年6月1日条?には、 応安5年1月3日丑刻没とありました。 >>98 pp.185-186
日本で確実な一日のはじめは、『三代実録』の元慶元年(877年)4月の日食のとき、丑寅の境(午前3時)を日の変わり目とするがごとき記述があるようだ。
天武10年9月17日(681 白鳳21)に火星が月に隠れたという記録は、実は18日の午前2時のことである。日の変わり目が午前3時であった証拠であろう、という。
それ以前の日本の一日のはじめについて、斉藤は述べていない。確実な資料がないのだろう。
余談ですが、昔の人は一日の始まりを夜明けと考えていました。ですから今で言う「未明」(午前3時頃とか)というのは前の日に含まれます。よく赤穂浪士の討ち入りは元禄十五年十二月十四日と言われますが、実際に討ち入りが行われたのは翌日の夜が明ける直前の午前四時頃。今の感覚で言えば十五日未明ということになります。
しかし、暦の計算上では現在と同じく午前0時を一日の始まりとしていました。一日を十二等分して「子・丑・寅…午・未…戌・亥」と十二支の名をつけていたことはよく知られています。「正午」「午前」などの言い方で今も残っている「午の刻(正午の前後」は、だいたい太陽の南中時間(太陽が真南にくる瞬間)というので分かっていましたので、そこから一日のちょうど半分(12時間)ずれた時刻を「子の刻」とし、それが暦の上では一日の始まりとなります。
零時、十二支文化圏ではいわゆる「子の刻」に日が変わる、とするのは近代の概念で、以前は限られた知識層(たとえば本居宣長が、家族に自分が未明に亡くなった場合には、命日は翌日である旨をわざわざ注意している)以外は、翌日の日の出をもって日が変わると考えるのが一般的であったことに注意。
一日のはじまりは昔は、夜明けからとされていました。
1740年の暦のことわり書きに天文方 渋川 則休、猪飼 豊次郎の
連名で 世の中は夜明けを一日の始点としているが、夜中の子の刻
が正しいので、知らしめるべしとの記述があります。
天文関係者は夜中が始点と認識していたようですが、一般には
夜明けと思われていたことがわかります(文献4)。
『大宮神社古記録抄』には「廿三日夜子丑剋大地震ヨルヒル入」とあり、夜中の0時から2時あたりに地震が発生したことになるが、当時の一日の境界は3時頃とするのが慣習とされていたため[2]、今日の暦法では享徳3年11月24日(ユリウス暦1454年12月13日)と解釈される[3]。
江戸時代に生きた人たちも結構このあたりは混乱して使っていたようで、暦
の上では日付が変わったはずの正子(夜九ッ)~明け六ッ前に起こった事の
記録を、前日の日付で記入しているということがかなりあったようです。
江戸時代の学者として有名な本居宣長は細かなことが気になる人だったらし
く、もし自分が亡くなった時刻が正子以降であったら、日付が変わっている
ので命日を間違えることがないようにといった注意書をわざわざ書いて残し
ています。わざわざこんなことを書き残こしていたということは裏を返せば、
それほどよく間違えられていたいう証拠でもありますね。
先日やっと『日本史小百科 暦』という本に「一日の始点」の項があるのを発見した。これによると江戸時代も正式には午前零時をもって日付の変わり目としていたが、一般には夜明け(明け六つ)を一日の始まりと見なしていたという。幕府の天文方は元文五年(一七四〇年)、宝暦五年(一七五五年)の暦に断り書きを付して、夜半をもって一日のくぎりとすることを人々に知らしめようとしたが、あまり効果はなかったらしい。
享和元年(一八〇一年)に没した本居宣長も生前、自身が夜中に亡くなった場合にそなえて「前夜の九ツ(注・零時)過より、其日之夜之九ツ迄を、其日と定むべし、譬(たと)へば、晦日の夜九ツ過よりは、来月朔日(ついたち)にて、朔日の夜九ツ迄、朔日なり」とわざわざ書き残しているそうだ。
なるほど、天保十四年に著された『吾佛の記』の「夜半を過ぎたれば・・・」という、妙に説明くさい文章も、滝沢家の後裔が先祖の命日を思いあやまることを慮ったものだろう。
結局この〈午前零時をもって日の変わり目とする〉習慣が根づくのは、明治五年十二月三日=明治六年一月一日をもって太陽暦が施行されたさいに、一日を二十四時間に分割する定時法がはっきり法制化されてからのようである。
慶応三年(一八六七年)に生まれ明治三十年から『金色夜叉』の連載をはじめた紅葉が、「浜路くどき」を十七日、十八日どちらととらえていたかは定かではないが、対牛楼ほかの描写からいっても『八犬伝』世界の時間は零時始点で動いている。「十七日の夜」と言いきってしまったのは、私の注意不足と不勉強のせいである。全くもって、ごめんなさい。
参考:広瀬秀雄『日本史小百科 暦』(近藤出版社、1978年)
暁九つの「暁」も、時間帯を表す古い言葉だ。一般的には夜半から明け方までとされる。小林賢章・同志社女子大特任教授は「枕草子」などを読み解き、平安時代には日付が変わる午前3時から同5時ごろを指し、男女の思いが交錯した時間と分析する(著書「『暁』の謎を解く」)。
「天武天皇十年九月葵丑(17日),螢惑月に入る」(681年11月3日)の記述がある.計算すると,11月4日未明に月齢17.3の月に火星が非常に接近した記録(食ではない)である.当時の1日の境は午前3時頃なので,11月3日の記録でも間違いではない.
昔は、1日の考え方が現在と異なり、日の出から日の入りまでを1日と考えていました。
日没から新しい日(次の日)と考え、31日(大晦日)に神前にお供えした物を日没と同時にお供えをさげ、夜なべで調理し、朝日が昇る頃にはおせち料理が完成し、家族がそろって「あけましておめでとうございます」の挨拶で新年を迎えるのです。
[82] 一日は夜から始まる? - 歴史 [締切済 - 2015/02/01] | 教えて!goo ( ()) http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8899077.html
ところが、日本では幕末まで、伝統的に、深夜0時に日付が変わるという考え方はありませんでした。
そもそも、正確な時計が普及しなければ、カウントダウンなどできるはずがありません。
正午は太陽が南に昇った時ですから、目で見て分かりますが、深夜0時は目で見てわからないのです。
では、日本ではいつ日付が変わると考えられていたのでしょうか。
それは、ある一瞬で日が変わるのではなく、一定の時間をかけて日が変わるとされてきました。
具体的には、日が落ちてから暗くなるまでの間が、日付の移行時間です。
つまり、暗くなったら新年ということになります。
深夜0時ではなく、18時頃には年が明けたことになります。
だから、夕方に食べる蕎麦が、「年越し蕎麦」になるのです。深夜0時をまたいで食べるのが年越し蕎麦ではありません。夕方に普通に頂けば、それは年越し蕎麦なのです。
お正月料理は正月に食べる所が多いが、柏崎では大晦日から食べるのが一般的である。
何故、元旦でなく大晦日なのだろうか?
それは室町時代半ばごろまで、1日の始まりは太陽が西に沈む夕暮れからで、次に沈むまでを1日とした。つまり日没をもって日付の変り目としていたのである。
そこで大晦日は日没後は日付が変わって正月になったので、晩に正月料理を食べていた、といった風習の名残りからきている。
例えば、昭和20年(1945)ごろまで日本では、人の年齢を「数(かぞ)え年」で計算していたが、この「数え年」の数え方は、正月になると全国民が一斉に年をとる方法であった。
この時の正月は大晦日の晩で、大晦日を「年取り」または「年取りの晩」などと言っていた。
このような「年取り」も、日没をもって日付の変り目とした考え方の名残りからきている。
また、この「日付の変り目は日没」とする考えは、遠く西欧のユダヤ暦や教会暦にもあり、クリスマス・イブが、クリスマスの前夜を意味するのも、日没で新しい日が始まったクリスマスの日の始まりの晩とした名残りからきているといわれている。
(「日付の変り目は日没」とする考えは西欧にあったのではなく、西欧の考え方が中国を経て日本に伝わったのが事実のようである)
本来おせち料理は、現在の暦で言う大晦日の夜に食べ新年を迎えると言うのが本来の一般的な習わしだったそうですが、道外では、おせちは正月へ、大晦日は年越しそばと明確に区別されるようになりました。日没で一日が始まる時代の伝統が、北海道ではそのまま残ったというわけです。
旧暦では日没によって1日が始まるので、12月31日の日没をもって「正月」がスタートします。
そのため大晦日の晩は、旧暦だと既に正月になっているのですから、おせち料理を食べても問題ないわけです。理屈が通っていますね。
北海道と東北地方には、この旧暦における「年取り膳」の風習が根強く残っているのですね。
[3] 現代日本では30時間制のように早朝を日界とする便宜的な表記が使われることがあります。