小笠原村

小笠原村

[1] 小笠原村 (おがさわらむら)

27.09438 142.191904

Webページ

[3] 小笠原村 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E6%9D%91

小笠原村(おがさわらむら)は、小笠原諸島にある東京都の村である。日本の最東端(南鳥島)と最南端(沖ノ鳥島)を含む。 小笠原諸島の30余りの島々を村域とするが、一般住民が居住しているのは父島と母島のみである。エコツーリズムで知られている。

[4] 小笠原諸島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E8%AB%B8%E5%B3%B6

日本の気候区分では「南日本気候」、ケッペンの気候区分では、聟島(むこじま)列島・父島列島・母島列島・西之島が温帯に、火山列島・南鳥島・沖ノ鳥島が熱帯に属するが、温帯に属する地域は一般的に亜熱帯とされる。それに併せて海洋性気候にも属する。年間を通じて暖かく、夏と冬の気温差は少ない。春 - 初冬にかけて台風の接近・影響を受けることが多い。梅雨前線はこの地の北に現れ、太平洋高気圧の支配下となるため、北海道と同様に梅雨が無いとされる[2]。

気象庁による有人観測施設は、父島気象観測所・南鳥島気象観測所(2か所とも高層気象観測も実施)、アメダスが母島(雨量のみ観測)に設置されている。なお、小笠原諸島には気象レーダーが設置されておらず、気象レーダーによる観測が行われていない[3]。また、2008年3月26日まで、日本全国で唯一気象に関する注意報・警報が発表されていなかった[4]。ただし、小笠原諸島周辺海域は現在でも地方海上予報区[5]の区域外であり、海上警報も発表されない。

[編集] 自然

詳細は「小笠原諸島の自然」を参照

1972年(昭和47年)10月16日に一部の島や地域を除き小笠原国立公園として、国立公園に指定された。小笠原諸島は形成以来ずっと大陸から隔絶していたため、島の生物は独自の進化を遂げており、「東洋のガラパゴス」とも呼ばれるほど、貴重な動植物が多い。しかし、人間が持ち込んだ生物や島の開発などが原因でオガサワラオオコウモリやオガサワラノスリ、アカガシラカラスバト、ハハジマメグロなどの動物やムニンツツジ、ムニンノボタンといった植物など、いくつかの固有種は絶滅の危機に瀕している。1980年(昭和55年)3月31日に国指定小笠原諸島鳥獣保護区(希少鳥獣生息地)に指定された(面積5,899ha、うち特別保護地区1,331ha)。周辺の海域では鯨やイルカが生息しており、それらを見るために島を訪れる人も多い。また陸上では、人間が持ち込み野生化したヤギも生息している。

2011年には世界遺産に登録された。その範囲は小笠原諸島の自然#世界遺産を参照のこと。

「小笠原村#名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事」も参照

[編集] 歴史

[編集] 年表

古第三紀 - 凝灰質砂岩・泥岩・石灰岩などの海底噴出物より形成される[6]。

北硫黄島には先史時代のものとみられる石野遺跡がある[7]。

[5] 硫黄島 (東京都) - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A1%AB%E9%BB%84%E5%B3%B6_%28%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%29

硫黄島(いおうとう)は、小笠原諸島の南端近くに所在する、東西8 km、南北4 kmの島である。行政区分上は東京都小笠原村に属し、東京都区部からは、南方におよそ1,200km に位置する。島内の最高峰は、摺鉢山(標高169 m)であり、硫黄島は周囲の島々と合わせて火山列島(硫黄列島)と呼ばれる列島を形成している。

現在は海上自衛隊と航空自衛隊の基地が置かれており、基地関係者以外の民間人の全島への立ち入りが制限されている。このため小笠原諸島に属しているが小笠原国立公園からは除外されている。

硫黄島は太平洋戦争の激戦地(硫黄島の戦い)として知られ、旧島民らの慰霊などのための上陸は例外として許される。

地形[編集]

父島からは300 km、本州、グアム島、南鳥島、沖縄本島から、それぞれ1,200 kmから1,300 km程度のほぼ等距離に位置する。島の大半は標高100 m前後の台地状の比較的なだらかな地形であるが、島の最南端に位置する最高所(標高169 m)の摺鉢山(パイプ山)は、その名の通り「すり鉢」を伏せたような形状をしている。活火山の火山島であり、地熱が高く、島の至る所で温泉(硫黄泉)が湧き出し、噴出する硫黄ガス(二酸化硫黄等)により、硫黄独特の臭いが立ち込めている。数千年前の海底火山の活動で海底に火山砕屑物が堆積し、それが隆起して誕生した島であり、過去数百年間の平均で、世界的にも珍しい年間約25 cmもの速度で、現在も急速な隆起活動が続いている。島西方にある釜岩はかつては一つの独立した島であったが、この急速な隆起活動により現在は硫黄島と地続きとなっている。

火山噴火予知連絡会は宇宙航空研究開発機構との共同により、陸域観測技術衛星「だいち」の合成開口レーダーを用いた硫黄島観測データ(2006年11月11日と12月27日分)を解析した[1]。それによれば、11月11日観測時と比べて島が20 cm隆起[注 1]しており、硫黄島南東部にて数cmの隆起が確認された[1][注 2]。

硫黄島の南北には、それぞれ北硫黄島と南硫黄島があり、この三島で火山列島(硫黄列島)を構成する。三島とも同じ造りの海底火山の島であり、その体積は富士山を遥かに凌ぐ。

島名について[編集]

島名は、島の至るところで見られる成分の硫黄に由来する。

硫黄島の呼称は、戦前は島民と主に陸軍の間では「いおうとう

[6] 沿革|小笠原支庁, , http://www.soumu.metro.tokyo.jp/07ogasawara/guidance/history.html

アメリカ東インド艦隊司令官ペリーは日本へ来る途中、沖縄を経て父島二見港に寄港。島民のために(牛、羊、山羊)や野菜の種子を与え、石炭補給所用の敷地を購入した。

[7] 父島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%88%B6%E5%B3%B6

[編集] 概要

小笠原諸島最大の島であり、周囲の兄島、弟島などの島とともに父島列島を形成する。一度も大陸と陸続きになったことがない海洋島で、多くの固有種が存在する。島全体が小笠原国立公園に指定されている。東京都小笠原村の中心的機能を担う島であり、小笠原村役場はこの島に所在する。集落は島の北西部の大村地区が中心。島の西側に西に開けた二見湾があり、湾の北部に二見港がある。

1920年代から陸軍によって砲台などの軍施設が建設され、太平洋戦争の頃には更に増強が進み父島要塞となった。現在でも夜明山や衝立山などには軍施設・塹壕・砲台の跡、高射砲などの残骸が残っている。現在では、海上自衛隊の父島基地や宇宙航空研究開発機構(JAXA)の小笠原追跡基地、国土地理院のVLBI観測局などが設置されている。

面積:23.80km²

人口:約2,000人

[8] 硫黄島村 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A1%AB%E9%BB%84%E5%B3%B6%E6%9D%91

硫黄島村(いおうじまむら)とは、東京都小笠原支庁管内、硫黄島にかつて存在した村である。現在は小笠原村の一部。なお、島の呼び名は2007年に「いおうとう」に変更されている。

地理[編集]

詳細は硫黄島の項を参照。現在は海上自衛隊管理の航空基地が設置され、全域がその基地の敷地とされているため、旧島民らの慰霊や基地施設の工事などの例外を除き、一般民間人および自衛隊員以外の公務員が島に立ち入ることは原則禁止されている。

歴史[編集]

詳細は「硫黄島 (東京都)」を参照

沿革[編集]

1923年(大正12年)10月1日 - 小笠原諸島、青ヶ島への町村制の施行に伴い発足。[1][2]

1943年(昭和18年) - 東京都制を施行。

1944年(昭和19年)7月1日、7月12日、7月14日 - 3度にわたり島民の疎開が行われる。軍に軍属として徴用された者(約230名)を除く全島民が島を離れ、島民が生活を営んだ村の歴史は幕を閉じる。

1946年(昭和21年) - アメリカ合衆国軍の直接統治の下に置かれる。

1952年(昭和27年)4月28日 - サンフランシスコ講和条約により日本国政府の行政から分離され、硫黄島村廃止。アメリカ合衆国の施政権下に置かれ、引き続きアメリカ合衆国軍管理となる。これに伴い、各村役場は廃止され、役場の一般事務は東京都総務局行政部地方課分室で行われる。

1968年(昭和43年)6月26日 - 南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定発効により、アメリカ合衆国軍から返還、本土復帰すると同時に、小笠原支庁の旧5村が合併し、東京都小笠原村となる[3]。

変遷表

1940年

以前

昭和15年

4月1日

昭和27年

4月28日

昭和30年

4月1日

現在

[9] 沿革 | 小笠原村, , http://www.vill.ogasawara.tokyo.jp/outline/development.html

東京府出張所の行う行政に協議権をもつ会議所を設置し、議員15人を公選した。

外国人がすべて帰化した。

[10] 父島全体マップ | 小笠原村, , http://www.vill.ogasawara.tokyo.jp/sightseeing/information/

父島は、東京から南へ約1000kmに位置する小笠原諸島最大の島です。

竹芝桟橋よりおがさわら丸で25時間半で父島の二見港に到着します。

山には世界的に貴重な固有種、海には美しい珊瑚や熱帯魚、一年中イルカが泳ぎ、クジラも子育てにやってくる、多彩な魅力に溢れた南国の楽園、エコツーリズムの島です。

[11] 沖ノ鳥島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E3%83%8E%E9%B3%A5%E5%B3%B6

沖ノ鳥島(おきのとりしま)は、東京都小笠原村に属する、太平洋上に浮かぶ日本最南端の島(サンゴ礁)である。満潮時に沈まないのは東小島(ひがしこじま)、北小島(きたこじま)と呼ばれる2つの小島で、大部分は海面下にある。

日本は「海洋法に関する国際連合条約」(国連海洋法条約)発効に併せて制定した「排他的経済水域及び大陸棚に関する法律」(平成8年法律第74号)に基づき、沖ノ鳥島を中心とする排他的経済水域(Exclusive Economic Zone、略称:EEZ)を設定しているが、2003年以降、中華人民共和国(中国)及び大韓民国(韓国)の2か国から日本の主張に対する異議が申し立てられている(詳細は#地位に関する論争を参照)。

地理[編集]

東京から1,740km、硫黄島から720km、フィリピン海プレートのほぼ中央、九州・パラオ海嶺上に位置する、太平洋の絶海に孤立して形成された南北約1.7km、東西約4.5km、周囲約11kmほどのコメ粒形をしたサンゴ礁の島である。北回帰線の南に位置するため熱帯に属する。

干潮時には環礁の大部分が海面上に姿を現すが、満潮時には礁池内の東小島と北小島の2つの小島を除いて水没する。なお第二次世界大戦の前の調査では最大2.8mの北露岩を含めて6つの露岩が満潮時にも姿を現していたが、現在では北小島(北露岩から改称)と東小島(東露岩から改称)の2つのみである。1933年の記録では高さ2.25mの南露岩が記されているが、1938年に流失が確認されている。1968年に日本へ管轄権が返還された後も1982年以前は4つとされていた。

この島は過去100年あたり1cmという、地盤の沈下が極めて小さいことでも知られ、地球温暖化などに伴う海面の水位変化を調べるのに役立っている。ただし近年のGPS調査によると、沈降こそ無いものの、N70°W5.0cm/年(1年間に進む距離が、真北から西へ70度回った方向に5cm)で西北西に移動している事が確認されている[2]。

沖ノ鳥島周辺は海面と海底の海水の温度差が年間を通じて20℃程あり、海洋温度差発電にふさわしい条件が揃っている。

北小島[編集]

東京都小笠原村沖ノ鳥島1番地。旧称は北露岩。北緯20度25分31秒東経136度4分11秒に位置する。面積7.86m²。海抜は第二次世界大戦以前の海図では2.8mと記載されていたが

[12] 南鳥島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%B3%A5%E5%B3%B6

約20万年前 - 隆起して島となる。

1864年(元治元年) - アメリカの船(ハワイ王国の宣教師船という説もある)モーニングスター号が来訪。マーカス島と命名する。

1879年(明治12年) - 日本人が訪れる。

1896年(明治29年)6月30日 - 水谷新六が到達、母島より46人が移住し、集落に「水谷」と命名。

1898年(明治31年)7月24日 - 「南鳥島」と命名され、東京府小笠原支庁に編入される。

1902年(明治35年) - アメリカが領有を試みてハワイから軍艦を出航させるが、それを察知した日本も軍艦を派遣し、先に上陸して牽制。島で小競り合いが起こったが、最終的には和解して日本領が確定。

1933年(昭和8年) - 全島民が撤収、無人島になる。

1935年(昭和10年) - 海軍気象観測所開設。

1942年(昭和17年)3月4日 - 太平洋戦争中、ハルゼー中将麾下のアメリカ海軍の第16任務部隊(空母エンタープライズ旗艦)により、南鳥島は東京府内で初めて空襲を受けた。その後も1943年(昭和18年)8月31日など何度も空襲を受けた。

1943年(昭和18年)7月1日 - 東京都制施行(東京府廃止)。

1945年(昭和20年) - 日本を占領下に置いた連合国軍の一国であるアメリカ軍が占領。

1952年(昭和27年) - サンフランシスコ条約によって、アメリカの正式軍政下に入る。

1968年(昭和43年)6月26日 - アメリカより返還され、東京都小笠原村に属する。海上自衛隊南鳥島航空派遣隊が編成される。

1993年(平成5年) - ロランC局(南鳥島ロランC局)を管理していたアメリカ沿岸警備隊が撤収。海上保安庁が管理を引き継ぐ。

2006年(平成18年)9月1日 - 台風12号接近により、気象観測所職員全員が一時島外避難。

2009年(平成21年)11月1日 - 環境省が鳥獣保護区に指定。

2009年(平成21年)12月1日 - ロランC局(南鳥島ロランC局)廃止に伴い海上保安庁職員が撤収。

2010年(平成22年)5月18日 - 南鳥島などの離島の保全を目的とした低潮線保全・拠点施設整備法案が衆議院を全会一致で通過。5月26日、参議院で全会一致で可決・成立し、一部規定を除き6月24日施行。

2011年(平成23年)3月31日 - 南鳥島港湾保全管理所の仮庁

[13] 西之島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E4%B9%8B%E5%B3%B6

西之島(にしのしま)は、小笠原諸島の島(無人島)。1973年に付近の海底火山が噴火し、新島(西之島新島)が誕生、後に西之島と接合し、一体化した陸地となった。そのため、現在の「西之島」の呼称は、西之島新島とあわせた陸地全体を指す。行政区画は、東京都小笠原村。

地理[編集]

東京の南約1,000km、父島の西約130kmにある。火山列島(硫黄列島)と同一火山脈に属し、付近は海底火山活動が活発である。西之島火山体は海底から計測すると比高4,000mにもなる大火山であるが、海面に出ているのはその最上部にすぎない。

1973年から1974年にかけての噴火により新島ができるまでの西之島(旧島)は、面積0.07km²、東西650m、南北200mの細長い島だった。現在は、噴火とその後の侵食と堆積によって新島と一体化。1970年代は、新島と旧島に挟まれた「コ」の字型の湾をもつ島だったが、堆積作用によって、1982年には湾口が閉じて完全に一体化。円形の島になった。なお、1999年時点での新島部分の面積は、0.25km²。

現在は新島と旧島は完全に一体化している。島の周囲は波の浸食を受けて断崖となっており、上陸は難しい。

自然[編集]

西之島は海洋島であり、噴火後まだ時間が経過していないため、植物相は貧弱でスベリヒユ、オヒシバ、イヌビエ、グンバイヒルガオ、ハマゴウ及びツルナの6種しか確認されていない[1]。これらの多くは、種子の海流散布を行う植物である。アカオネッタイチョウやアオツラカツオドリ、オオアジサシ、オーストンウミツバメ、カツオドリ、オナガミズナギドリ、セグロアジサシなどの12種類の鳥類の生息、そのうち9種類の繁殖が確認されている[1]。その他にはアリやクモ、カニの生息が確認されている[1]。このため、2008年8月1日に国指定西之島鳥獣保護区(集団繁殖地)に指定されている(面積29ha、全域が特別保護地区)。

歴史[編集]

西之島に井戸水はない上に農耕にも適さないため、遭難船の漂着者を除いて、人が居住していた記録はない。ただし、西之島に産出しない半深成岩でできた、石の面に見える長さ23cmの石が、東海大学の調査隊によって採取されている[2]。

約1000万年前 - 火山活動により島が誕生。

1702年 - スペインの帆船ロザリオ号が発見し、「ロザリオ島」と命名。

1801年 -

[14] 小笠原関係戸籍事務所 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E9%96%A2%E4%BF%82%E6%88%B8%E7%B1%8D%E4%BA%8B%E5%8B%99%E6%89%80

小笠原関係戸籍事務所(おがさわらかんけいこせきじむしょ)は、米軍占領下の小笠原諸島の戸籍事務を管掌した日本の法務府(現在の法務省)東京法務局の出張所である。

概要[編集]

1952年(昭和27年)4月28日のサンフランシスコ講和条約発効に伴い、戸籍事務を扱っていた「小笠原島各村役場事務取扱所」が廃止されたため、小笠原諸島に本籍を有する者の戸籍事務を管掌させるため、同日設置された。

1965年(昭和40年)からは、当時千代田区丸の内にあった東京都庁内に移転した。復帰直前の1968年(昭和43年)4月4日に、小笠原諸島在住の欧米系住民の22年間にわたる身分関係記録がアメリカ合衆国大使館を通じて送付され、戸籍簿に転記された。

復帰後も、小笠原村の役場機構が未整備であったため存続し続けた。1979年(昭和54年)に初の村長選挙が行われ、公選の村長が就任したことで、戸籍事務を機関委任する必要が出たため、同年6月1日をもって廃止された。

関連項目[編集]

戸籍

法務省/法務局

小笠原諸島

小笠原村

[15] 西之島新島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E4%B9%8B%E5%B3%B6%E6%96%B0%E5%B3%B6

西之島新島(にしのしましんとう)は、1973年に小笠原諸島で形成された陸地(島)。西之島隣接海域で発生した火山の噴火によって形成された。当時は「新島ブーム」とマスコミに報道され、大きな話題となった。後に西之島と接合し、ひとつの島となった。行政区画は、東京都小笠原村。

なお、このように既存の領海内に自然現象で新たに島が出現した場合は、国際法上自動的に領海の所属国に帰属し、「先占(実効支配)」の必要性はない。西之島新島の場合も自動的に日本の領土として認定されている。

地理[編集]

東京の南約1,000km、父島の西約130kmにある。火山列島(硫黄列島)と同一火山脈に属し、付近は海底火山活動が活発である。西之島火山は海底から計測すると4,000mにもなる大火山であるが、海面に出ているのはその最上部にすぎない。

1973年に西之島火山が噴火し、西之島新島が形成された。その後、西之島(旧島)と接合したため、陸地としての実態は西之島と一体である。現在、「西之島新島」および「新島」と特に呼ぶ場合は、この時の噴火により形成された陸地の範囲(旧島を除く範囲)を指すことが多い。

1999年時点での新島部分の面積は0.25km²、最高標高は15.2mである。また、旧島部分を含めた西之島全体の面積は0.29km²、最高標高は25mである。

島の周囲は波の浸食を受けて断崖となっており、上陸は難しい。島には雑草やコケ類が生えている。火山噴火が終息後、漂着した種子からグンバイヒルガオが繁殖、セグロアジサシやカツオドリが飛来するなど動植物も確認されている。周辺は好漁場となっているが、座礁事故も起こっている。

歴史[編集]

1973年(昭和48年) - 4月に変色水が確認された。同年5月30日西之島の東方600mで海底火山の噴火があり、同年9月11日に新島が出現、同年12月21日に「西之島新島」と命名された。

1974年(昭和49年) - 3月には新島と旧島が接続。馬蹄形の形状となる。東海大学の調査隊が上陸。

1975年(昭和50年) - 新属新種のニシノシマホウキガニが発見されたが、その後、島内では絶滅した(他海域で再発見)。

1982年(昭和57年) - このころには湾口が閉じて湾が湖になり、釣鐘型の形状となる。

参考文献[編集]

青木斌・小坂丈予編 『海底火山の謎:西之島踏査記』 東海大学出

[16] (1/2) 一般人は絶対行けない、南の孤島硫黄島の求人 携帯・ネット不可での勤務に耐えられるのか : J-CASTニュース, , http://www.j-cast.com/2014/07/14210461.html

東京から約1200キロ南に浮かぶ硫黄島(東京・小笠原村)は、太平洋戦争末期の「硫黄島の戦い」で知られる孤島だ。自衛隊の基地があるため、事実上関係者以外は立ち入りできない。

そんな硫黄島勤務の「求人」が、ハローワークに出ている。携帯電話やインターネットが使えず、通信手段は公衆電話か手紙のみ。娯楽設備もない。耐えられるのだろうか。

通信手段は「公衆電話」か「手紙」のみ

この求人は一般財団法人・防衛弘済会によるもの。仕事は「自衛隊員食堂の調理業務」の請負で、基本給として18万3000円から18万5000円、離島手当として4万円。あわせて約22万円が月給となる。

労働時間は朝、昼、夕で実働8時間。休日はシフト制を組んでいて、3か月に1回、6日間の「特別休暇(帰省あり)」も用意されている。年齢や学歴は不問だが、調理師免許が必要だ。硫黄島隊員食堂が勤務地となるが、日本最東端の「南鳥島」への応援勤務もあるという。

それ以外にも普通の求人では、およそ目にかかれない記述が並ぶ。

「入間基地から自衛隊機で赴任(無料)」

「現地通信手段は公衆電話か手紙(携帯/インターネット不可)」

「銀行ATMはありませんが給与日に希望者は現金を送金します」

「リゾート気分で渡島しますと勤務に耐えられませんので理解してください」

珍しい求人に、ツイッター上は、

「お金使わないし貯まりそう」

「自衛隊以外でも硫黄島に行けるのか。調理師の免許があったら応募したかも」

「硫黄島の求人、ネットさえ使えたら応募しちゃうレベルだけどそもそも料理できないし関係なかった」

などと話題になっている。

(続く)

[17] 鵜渡根島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B5%9C%E6%B8%A1%E6%A0%B9%E5%B3%B6

経緯 - 北緯34度28分21秒、東経139度17分38秒

面積 - 0.4km²

外周 - 3.3km

標高 - 210m

その他の情報[編集]

かつてはニホンアシカの生息地の一つだった。

この島周辺には大きなサメが住み着いている。

御蔵島から利島に移り住んだミナミハンドウイルカが当島周辺や式根島、新島等にも住み着いている。

この島は今では無人島であるが、明治時代には養蚕を営む人が住んでいたので、島には今も神社があり、そこに祭られている神鵜渡根后明神がこの島の由来にもなっている。

本島には磯場が点在し大型の、尾長メジナ、イシダイ、イシガキダイ、モロコ、カンパチ、ヒラマサ、マグロ、カジキ、イサキ、シマアジなどが釣れ、釣り人が渡船を使ってしばしば上陸する。しかしこの周辺の海域は時化やすく、年に50回くらいしか渡礁できない。

[18] 嫁島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AB%81%E5%B3%B6

嫁島(よめじま)は、東京都小笠原村に属する無人島。聟島列島の最南端の島で、父島列島から最も近い位置にあり、父島の北約50kmにある。面積0.81km²。小笠原国立公園に含まれている。季節的漁業者の停泊地として用いられている。

現在は無人島だが、戦前は住民が暮らしており、1907年の調査では人口6人、1918年の調査では人口20人を数えていた。住民が定住するまでは森林が分布していたと考えられているものの、定住やかつての住民が飼っていたヤギが野生化したことで植生破壊が行われていた。このため、東京都によって元来の環境を取り戻すため、ヤギの駆除が行われ、2001年に根絶が達成された[1]。現在はウドノキ林のような元来の植生の回復が図られている[2]。

植物種としてコゴメビエなどが存在する。海鳥類ではクロアシアホウドリが生息するほか、2013年にはコアホウドリの繁殖が確認されている[3]。2000年にはアホウドリが営巣し抱卵していることが確認されているが、その後は確認されていない[4]。

註[編集]

^ “ノヤギ”. 小笠原自然情報センター. 2014年3月19日閲覧。

^ “小笠原の自然環境の保全と再生に関する基本計画”. 環境省. p. 18 (2007年3月). 2014年3月19日閲覧。

^ “コアホウドリの新たな繁殖場所(小笠原諸島嫁島)の確認について”. 東京都 (2013年5月27日). 2014年3月19日閲覧。

^ “アホウドリの小笠原における営巣確認について”. 環境省 (2000年12月27日). 2014年3月19日閲覧。

[19] NHK NEWS WEB 小笠原諸島で遺産価値に関わる危機, , http://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2015_0625.html

小笠原諸島で遺産価値に関わる危機

6月25日 17時31分

小笠原諸島が世界自然遺産に登録されて4年です。多くの固有の動植物が生息し豊かな生態系がある小笠原ですが、今、「世界遺産の価値にかかわる危機」と指摘されるほどのある異変が起きています。首都圏放送センターの中本史記者が解説します。

遺産決め手のカタツムリ

東京から南におよそ1000キロ離れた小笠原諸島。人が住んでいる父島や母島、それに無人島も合わせると30余りの島々からなり、緯度はほぼ沖縄と同じで年間を通して暖かい場所です。

小笠原諸島は島が出来てから一度も大陸とつながったことはなく、生き物たちが独自の進化を遂げていて、ここでしか見られない固有の動物や植物が600種類近くに上っています。中でも貴重なのが「カタマイマイ属」と呼ばれるグループのカタツムリたちです。

「カタマイマイ属」は、土の上に住むものは焦げ茶色、木の上に住むものは葉っぱの色にあわせた緑色というように、環境に合わせて殻の色や形を進化させてきました。古代から絶滅した種類は少なく、20種が今も生息しています。多様な進化の過程が生きている種類でみられることから、世界でも貴重なものだと評価され世界遺産の決め手の1つになったのです。

しかし、この「カタマイマイ属」が今絶滅の危機に陥っていることが分かったのです。

カタマイマイの危機

今回、カタマイマイの最も重要な生息地である兄島に、特別に国の調査に同行して入りました。

人が定住したことがなく小笠原特有の生態系が最も維持されている兄島。人の手が入っていないので険しい山が立ちふさがり、道なき道を上っていきます。歩くこと3時間、小さなカタマイマイを見つけることができました。大きさ2センチ弱の土の上にすむ茶色いカタマイマイです。しばらくすると、木の上にすむ緑がかったキノボリカタマイマイを見つけることができました。

しかし、4時間を超えて行った調査で見つかったのはたった4匹でした。調査していた研究者に聞くと世界遺産登録前はそこかしこにいたとのことでした。環境省が毎年行っている調査の結果でもカタマイマイの減少は如実に分かります。調査地点によっては4年前の6分の1に減ったところや、一匹もいなくなった場所もあります。

何が起こっているのでしょうか。

犯人は外来生物

兄島での調査では、生きているカタマイマイがほとんどいなかった

[20] 港区 (東京都) - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%AF%E5%8C%BA_%28%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%29

概要 [ 編集 ]

企業が本社を最も多く構える区の一つであり、いわば日本のビジネスの中心である。 東京23区 の中央からやや南東寄りに位置している。特に、 虎ノ門 ・ 新橋 ・ 芝 をはじめとしたオフィス街では、経済活動が非常に活発である。 青山 ・ 赤坂 などの商業エリアや、 六本木 などの歓楽街、 麻布 ・ 白金台 などの住宅街、 汐留 ・ 台場 などの大規模開発地区があり、さまざまな表情をもっている。 東宮御所 ・ 迎賓館 (赤坂離宮)をはじめとして 芝公園 ・ 白金台 の 自然教育園 など緑地帯が豊富な自然環境である。駐日大使館や外資系企業も数多く立地しており、外国人居住者も人口の約1割を占める。 江戸時代は広大な武家屋敷と町人町が存在する街で、 文京区 と同様の混在した街であった。

人口 [ 編集 ]

[21] 中ノ鳥島 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E3%83%8E%E9%B3%A5%E5%B3%B6

中ノ鳥島 (なかのとりしま、 英 : Ganges Island )は、 北緯30度05分 東経154度02分  /  北緯30.083度 東経154.033度 座標 : 北緯30度05分 東経154度02分  /  北緯30.083度 東経154.033度 に存在したとされる 幻の島 。別名「 ガンジス島 」。また、近傍には「ガンジス礁」もあったとされる。

自然科学 の観点から見れば実在したとは考えられないが、 日本 の 領土 として正式に認定されていた時期がある点で、世界各地の「幻の島」「 伝説の島 」とは一線を画する。

海図 等では「中ノ鳥島」の表記が用いられたが、日本政府の発する 命令 ( 政令 ・ 省令 等)では「 中鳥島 」の表記が多く用いられた( 日本国憲法 下での 官報 掲載例は前者2件、後者27件)。

概歴 [ 編集 ]

1907年 ( 明治 40年)8月、 東京市 小石川区 諏訪町(現在の 東京都 文京区 後楽 )の 山田禎三郎 が、 東京府 小笠原島 から560 哩 の位置に 島嶼 を発見、上陸して 探検 、 測量 まで試みた。

東京府知事 阿部浩 から 内務大臣 原敬 に宛てて提出された「新島嶼ノ行政区割ニ関シ上申」に付属する「小笠原島所属島嶼発見届」によると、 島 は外周1 里 25 町 (約6.67 km )、面積64万3700 坪 (約2.13 km² )、 サンゴ礁 と思われる 植生 もあった。また、島には 鳥の糞 が積もってできる 燐鉱石 で覆われており、これは当時、 火薬 原料や 肥料 として重要視されるものであった。

山田はこの島を開発するため日本による 領有 を訴え、翌 1908年 (明治41年)7月22日に 閣議決定 により「中ノ鳥島」と名付けられ、日本領に編入された [1] 。山田が発見した島は、海図の「ガンジスアイランド」に相当すると届けられたが、当時の 海軍省 水路部 が記した『日本水路誌』には 北緯30度47分 東経154度15分  /  北緯30.783度 東経154.250度 ) に「ガンジス島」があるとされ、「其ノ位置ニハ多少ノ差異アルニ依リ他日確定スルノ必要アルヘキ」と所在が未確定ながら「帝国ノ版図ニ属スヘキハ論ナキ」と日本領に組み込むのは当然とされた。

しかし、中ノ鳥島はそれ以来再び発見すること

[22] 幻想諸島航海記/[特別篇]沖ノ鳥島の謎――歴史篇 (3), , http://homepage3.nifty.com/boumurou/island/sp01/history3.html

アメリカ占領時代の沖ノ鳥島

日本が戦争に敗れた後、東京都小笠原支庁に属していた島々――広義の小笠原諸島、すなわち小笠原諸島(小笠原群島・西之島・火山列島)および南鳥島・中ノ鳥島・沖ノ鳥島――は、1946(昭和21)年1月29日の連合国最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) の覚書(SCAPIN-677「若干の外廓地域を政治上・行政上日本から分離すること」)により、日本の施政権から切り離され、 GHQ/SCAP の直接統治下に置かれることとなった。1952(昭和27)年4月28日に対日平和条約(サンフランシスコ講和条約)が発効し、日本が独立した後も、この島々は引き続きアメリカの占領下に置かれた。なお、東京都小笠原支庁はこのときいったん廃止されている。

なお、1955(昭和30)年、日本は米軍より南方定点観測のために沖ノ鳥島観測所の復活建設を勧告されたが、これは費用の関係で実現しなかったという (『沖ノ鳥島災害復旧工事誌』、須田皖次「沖の鳥島夢物語」) 。かといって、アメリカが独自にこの珊瑚礁をどうこうした、ということも特になかったようである。費用の点もさることながら、敗戦により(少なくともタテマエ上は)軍備を放棄し、しかも南洋群島を失った(1947年より国際連合信託統治領としてアメリカが統治)日本にとって、たとえ気象観測に極めて役に立つとはいっても、戦前の計画をそのまま続けるメリットは実のところほとんどなくなってしまった、と考えるべきではないだろうか。須田は、その回想録を

台風監視の立場からいうと南方定点観測の外に、更にこの観測所が出来たらそれこそ鬼に金棒となりましょう。或はあのボロ船の観測船上で危険におびえながら台風観測をやるよりも、むしろ沖の鳥島の観測所を復活する方が余程賢策かもしれません。この夢が実現すれば気象観測以外に灯台、無線電信の業務が始まる外、安全な漁港も出来ましよう。更に熱帯海産生物の実験場が出来、世界最大の天然水族館も造れましよう。日本からこの島へ観光船が出るようになつたら、それこそ無人、無樹木のアトール 〔環礁〕 も世界有数のユトピアーになりましよう。この夢を五島慶太さん 〔1882-1959。東急グループの実質的な創立者〕 か堤康次郎さん 〔1889-1964。西武グループの実質的な創立者。箱根・伊豆の観光開発などを巡る二人のライヴァル関係は有

[23] 沖ノ鳥島港湾工事事故 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E3%83%8E%E9%B3%A5%E5%B3%B6%E6%B8%AF%E6%B9%BE%E5%B7%A5%E4%BA%8B%E4%BA%8B%E6%95%85

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沖ノ鳥島港湾工事事故 (おきのとりしまこうわん こうじじこ)とは、 2014年 3月30日 に 東京都 小笠原村 沖ノ鳥島 で発生した 港湾 工事 の 事故 である。

沖ノ鳥島において 五洋建設 が請け負った港湾整備事業で、作業中に 桟橋 がひっくり返り、作業員16人が投げ出された。事故当日に5人の 死亡 、2人の 行方不明 、4人の軽傷が確認された。この工事は独占的に 漁業 や 海底資源 の 開発 ができる 排他的経済水域 の維持を目指し、 中華人民共和国 も意識するという国策工事だった [1] 。行方不明になっていた2人も後に遺体で発見され、この事故による死者数は計7人となった [2] 。

国土交通省 による 7月2日 の中間報告によれば、桟橋の補強などにより重量が設計よりも増したうえ、もともと桟橋上にあった クレーン の設置場所が中心からずれていて不安定になったことが、事故の原因となった [3] 。

出典 [ 編集 ]

^ “沖ノ鳥島で事故、5人死亡・2人不明 桟橋の工事現場” . 朝日新聞 . ( 2014年3月30日 ). オリジナル の 2014年3月30日 時点によるアーカイブ。 2015年9月9日 閲覧。

^ “最後の1人か、遺体発見 沖ノ鳥島事故” . 産経新聞 . ( 2014年4月20日 ). オリジナル の 2014年4月20日 時点によるアーカイブ。 2015年9月9日 閲覧。

^ “補強で重量増やクレーンずれ不安定に 沖ノ鳥島の桟橋転覆” . 日本経済新聞 . ( 2014年7月2日 ) 2015年9月9日 閲覧。

[24] 石野遺跡 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%87%8E%E9%81%BA%E8%B7%A1

北硫黄島は東京の南約1000キロに広がる 小笠原諸島 に属する、三島で構成される 火山列島 の一番北側にある島である。西方には 沖縄本島 などから構成される 南西諸島 があり、南方には マリアナ諸島 などが属する ミクロネシア がある。一方、東側は遠く ハワイ諸島 の北西にある ミッドウェー島 まで島らしい島はない。小笠原諸島は他の陸地から離れた場所に位置しており、これまで大陸や大きな島と地続きとなったことがない 海洋島 に分類されるが、小笠原諸島の有史以前の文化は、北の日本列島、西の沖縄諸島、南のミクロネシアのいずれかから伝えられたものと考えられている [1] 。

北硫黄島は火山活動によって形成された火山島で、南北約3.5キロ、東西約2キロ、面積は5.57平方キロメートルの南北に長い楕円形をしている。標高792メートルの榊ヶ峰を筆頭に島の中心部の南北に山が並び、海岸の多くは急峻な 海食崖 であり、島全体としても急峻な地形が多く平坦な場所は少ない。その中で島の中心部から流れ出す沢が海に注ぐ場所には小規模ながら 扇状地 が見られ、緩斜面を形成している。戦前に集落があった島東部の石野村や北西部の西村は、そのような扇状地部分に形成された [2] 。

北硫黄島周辺の海では、北東部と西部を除き幅約100メートル程度の 裾礁 があり、特に石野村と西村付近の沿岸部は裾礁が発達している。中でも旧石野村沿岸の裾礁には切れ目が存在し、大きな入江がない外洋の島であるため接岸が困難である北硫黄島の中では、波を遮る効果がある裾礁に囲まれ、しかも小船が通れる切れ目がある旧石野村は最も接岸が容易な場所であった。石野遺跡は接岸が最も容易で扇状地の緩斜面がある、北硫黄島の中では最も居住に適していると考えられる石野村付近にある [3] 。

島の発見と開発の開始 [ 編集 ]

1543年 、 スペイン 船サン・ファン号は3つの島から構成される火山列島を発見した。この時点で火山列島は無人島であったとされ、そのため石野遺跡は16世紀以前のものであると考えられている [4] 。 16世紀 後半以降、火山列島はフィリピンからメキシコへ向かうスペインの ガレオン船 航路に近かったため、北硫黄島の目撃情報も散見される [5] 。

1876年 ( 明治 9年)、日本政府は小笠原諸島の領有を諸外国に通知し認められた [

履歴

[27] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054526812397

メモ