淳仁を連れ出せなかった仲麻呂は、自派の皇族中納言氷上塩焼(新田部親王の子)を同行して「今帝」と称して天皇に擁立し、自分の息子たちには親王の位階である三品を与えた。また、奪取した太政官印を使って太政官符を発給し、諸国に号令した。ここに、2つの朝廷が並立したことになる。
天平宝字8年(764年)9月に押勝が武装叛乱に追い込まれると(藤原仲麻呂の乱)、押勝により天皇候補に擁立されて「今帝」と呼ばれた、押勝の敗走に伴い孝謙上皇方が派遣した討伐軍に捕らえられ、近江国で押勝一家とともに殺害された。