初元

初元

初元 (漢)

[12] 元帝元号 (西暦紀元前48年から)。

初元 (晋)

[3] 越南史書 越史略 に、 孝武帝の初元元年七月なる日付があります >>1

[1] 越史略/卷上 - 维基文库,自由的图书馆, , https://zh.wikisource.org/wiki/%E8%B6%8A%E5%8F%B2%E7%95%A5%2F%E5%8D%B7%E4%B8%8A#%E6%AD%B7%E4%BB%A3%E5%AE%88%E4%BB%BB

杜惠度

瑗子也。義熈七年,永嘉太守盧循來奔,攻破合浦,徑向州治。晉帝以惠度為刺史。惠度率府兵擊破之於石碕,又與循戰於龍編南津,惠度以雉尾炬燒其船夾岸射之,循兵大潰,循溺水死。惠度取其屍,斬之,函首詣建康。孝武帝初元元年七月,林邑入冦,惠度擊破之,林邑乞降。惠度為政,民畏而愛之,城門夜開,道不拾遺。

[7] 初元元帝元号 (西暦紀元前48年から) にありますが、 まったく時期が違います。

[8] 義熈 (y~591) は安帝元号で、 が元年です。 義熙7年はです。

[4] 東晋孝武帝司馬曜元号

で、強いて言えば太元の誤りかもしれませんが、 時系列順だとすると義熈より前になるのはおかしいです。

[9] 近い時代の孝武帝として、 南朝宋第4代皇帝孝武帝劉駿がいますが、 元号孝建 (から) と大明 (から) です。 第1の元号という意味で孝建を指すとも言えますが、 不自然さは拭えません。

[10] 越史略 の該当部分とよく似た記述が 大越史記全書 にもあります。 >>2

[2] 大越史記全書/外紀卷之四 - 维基文库,自由的图书馆, , https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B6%8A%E5%8F%B2%E8%A8%98%E5%85%A8%E6%9B%B8%2F%E5%A4%96%E7%B4%80%E5%8D%B7%E4%B9%8B%E5%9B%9B#%E5%B1%AC%E5%90%B3%E6%99%89%E5%AE%8B%E9%BD%8A%E6%A2%81%E7%B4%80

辛亥晉義熙七年夏四月,永嘉太守盧循來奔。初,刺史杜瑗卒或云瑗本屬京兆。祖元守合浦,因居交趾。,晉帝以其子慧度為刺史代之。詔書未至,循攻破合浦,逕向交州。慧度率州府文武拒循于石碕,破之。循餘眾猶二千,李遜餘黨李脫等結集俚、獠五千余人以應循。庚子,至龍編南津。慧度悉散家財賞軍士,與循合戰,擲雉尾炬,焚其舟艦,以步兵夾岸射之。循舟艦俱燃,遂大潰。循知必死,先鳩妻子,召妓妾問曰:“誰能從我者?”多云:“雀鼠貪生,就死實難。”或云:“官尚當死,某豈願生?”循乃悉殺諸辭死者,因自投于水。慧度取其屍斬之,並妻子及脫等,函首送建康。

癸丑晉義熙九年春二月,林邑王范胡達寇九真,慧度擊斬之。

乙卯晉義熙十一年冬十二月,林邑寇交州,州將敗之。

庚申晉恭帝德文元熙二年,宋武帝劉裕永初元年秋七月,慧度擊林邑,大破之,斬殺過半。林邑乞降,許之。前後為所掠者,皆遣還。慧度在州,布衣蔬食,禁滛祠,修學校。歲饑以私祿賑給之。為政織密,一如治家。吏民畏而愛之。城門夜開,道不拾遺。慧度卒,贈左將軍,以其子弘文為刺史。是歲晉亡。

[11] 越史略 で 「孝武帝初元元年七月」 に掛けられていた記事は、 大越史記全書 では 「宋武帝劉裕永初元年秋七月」 () にあります。

[13] 初元は永初の誤りなのでしょうか?

メモ