[1] 佐渡
↑湖のように穏やかな両津湾へと入り込んで行く船窓。
向かって左が小佐渡山地、右は大佐渡山地、中央の低地は両津の街を置く国仲平野だ。
私の記念すべき離島デビュー戦となった新島神津島決戦から2ヶ月後の2013年5月末。
離島第二戦の舞台を日本海に浮かぶ本邦第二の巨島「佐渡島」に定めた私は、初めてカーフェリーに“ワルクード”を積み込み、2泊3日の佐渡島決戦へ挑んだ。
このレポートは、当サイトにおける最初の佐渡島内のレポートなので、ごく簡単にではあるが、渡航の様子を紹介しておく事にする。
とは言っても、ぶっちゃけ佐渡島には“離島感”が乏しい。
本州と佐渡島の距離は最短でも31kmほど離れており、この距離は十分離島的であるものの、いかんせん、浮かんでいる島が巨大過ぎるのである。
新潟港を出港する前から行く手の水平線上には細長い島影が横たわり、佐渡海峡の半ばに辿りつけばその島影は大陸の如く水平線に横たわる。
かの太宰治がかつて作品「佐渡」の中で、雪をいただく島影を見て“満州”と勘違いしたという話があるのも肯かれるほどだった。
さて、ゆったりしたフェリーに2時間半(最速のジェットフォイル船を選べば約1時間)揺られれば、そこは佐渡島である。
青信号に押し出されるように、ワルクードは暗い船室から明るい両津の街へ出る。
島の玄関口である両津は、どう見ても“日本の典型的な地方都市”にしか見えず、近場に自転車を降ろして郊外へと向かえば、そこには見渡す限りの広大な美田が広がっていた。
それは紛れもなく「新潟」の、あるいは「日本の典型的な農村」の風景に見えたのである。もちろん、背景の山も怪しく尖っていたりはしない。
これは海の向こうにある、もう一つの新潟県なんだなと思った。
そしてこれが、佐渡三日間を通じての総感想であった。
海あり山あり街あり鉱山あり、佐渡はもともと広大な新潟県の風景の縮図のようであった。
そういう意味で佐渡島には新島や神津島のような“新天地感”も薄く、最初の島旅の行き先をここにしなかったのは正解だったかも知れないとも思った。
それでは、佐渡は面白くなかったのか。
そんな無粋な質問をする人もまずいないと思うが、敢えて答えるならば、答えは「NO」である。
「新潟県」といえば、全国の中でも屈指の道路が面白いエリアじゃないか?
そんな新潟県をもう一つ
新潟県道45号 佐渡一周線はその名の通り、佐渡西部は真野湾から時計回りに海岸線を一周する路線である。
ただし、今のところ終点は島の南西部に設定されており、厳密に始点と終点が一致して「一周」しているわけではない。
そのため、終点は県道としては行き止まりになってしまうのだが、どうやら自動車でも海岸伝いに一周することは可能である。
終点から始点までの残りの区間については、道路が十分な整備を受けていないということで指定を受けていないらしい。
いまだ未通区間を残すものの、それでも主要地方道としては日本一の距離を誇り、延長は170km近い。
この先の未通区間が解消されれば、さらに数十km伸びるだろう。
今でこそ「佐渡一周線」という誇らしい名称が与えられているが、もちろんこれは当初から一周することを目指していたわけではない。
もともとは海沿いに点在する集落をつなぐ海岸の県道だったのが、最近になってひとくくりにされたのである。
元となったそれらの海岸の県道も、各所によってさまざまな変遷があるため、今回のレポートは要所要所を分けることにした。
今回紹介する北狄(きたえびす)隧道も、かつては「両津外海府佐和田線」とか、「両津鷲崎佐和田線」とかいった、
いわゆる佐渡北西部の海岸を進む路線に属していた。
佐渡島北西部は「大佐渡山地」と呼ばれるように山がちであり、おまけに日本海の季節風と波浪をまともに受けるために、海岸線には断崖絶壁が連続する。
そういう地形では、隧道無しでは海沿いの陸上交通はありえないわけだが、実際に交通に耐えるような隧道が築かれたのは大正や昭和中期になってからである。
というのも、当時の佐渡は舟運が大変に盛んであったため、時化のときは出られないといえども、手間のかかる道路開削工事よりも、
手軽にこさえることができた船に頼っていたからだ。
そのため、中には陸続きでありながら初めて自動車が通ったのが昭和40年代、なんていう集落もある。
まさに、「離島の又離島」という極限条件であった。
北狄隧道は佐渡金山の御膝元として栄えていた相川町の北方にある。
相川から北はそれこそ親不知もかくやという断崖の続く海岸で、陸の上を行こうとなれば、海岸段丘を登り詰め、
さらに山沿いの細道を行かなければならなかった。
明治の初頭、当時まだ金山も盛んであった島の重要
野崎鼻は羽茂地区にある岬である。ここには節理という状態の岩があります、ガイドブックにも載って無く、案内看板もないので、紹介しようと思います。
マピオン地図
節理というのは、簡単に言うと規則正しくひび割れた岩盤で、有名なのは福井県の東尋坊や九州は高千穂峡が柱状節理で有名ですね。
小木方面から赤泊方面へ県道45号を走っていると、おけさ柿のイラストが描かれた野崎トンネルがあります。その横に昔の野崎隧道が有り、その手前の旧道あとに車を止める事が出来ます。
旧野崎隧道の脇から野崎鼻の先に通じる小道が有ります。この小道は、旧野崎隧道が完成する前の旧旧道の道筋だそうです。今も通る人(釣り人?)がいるのでしょうか歩きやすいです。
手摺なんてないので落ちないように、海面までは4・5mあります。
小さな祠が有りました。
岩壁にへばりついた旧道、石積みはこの道が築かれた当時のものだろうか。
野崎鼻の先端
所々に昔の道の名残が残っている。
先端を回り少し行くと、ぷっつりと道の跡が無くなる。この日は穏やかだったが、時化の日になると波が打ち付けるのだろうか・・・
規則的な節理の先に、旧旧道の路盤と旧野崎隧道の羽茂方坑口が見える。
海に向かったって伸びる節理。これは柱状節理になるのでしょうか。
同じ岩系でもキリン岩や平根崎の波蝕甌穴群は案内板もあり、ガイドブックによっては書かれていたりもするのですが、野崎鼻は何の説明も無いのが残念でならないです。
佐渡にはこう言った何の案内も無い所が多々ありホント勿体無いと思うのです。
(2014年3月10日訪問)
2013/5/28 13:20 【現在地】
1行では表せないほど興奮した。
今まで沢山の海縁の隧道を見てきたが、ここまであからさまに海蝕洞と交差しているものは無かったはず。
人工的な隧道と天然の洞窟が、交差している。
たったそれだけのことなんだが、非常に珍しいものである。
冷静にこの光景を観察する。
海蝕洞の出口(入口?)は10mほど先にあり、そこはラッパの口のように広がっていた。波打ち際はさらに2〜30m先に見える。
隧道と交差している辺りの海蝕洞の断面は、幅が10m高さが8mくらいと目視され、その形状は不定形だ。
洞床は礫海岸のように丸い礫が大量に堆積しているが、洞奥に近付くにつれ落石と思われる大きな岩も多く見える。
ここまで波が侵入する事があるようで、ゴミが散乱していた。
そして、交差する路面は海蝕洞の洞床から3mばかり高い位置にあり、橋か築堤があったと考えられるものの、完全に失われていた。
橋台らしきものの痕跡が見られない、道の末端部。
だが、確かに人工的な路面が存在していたことは、岩盤の凸凹を埋めるように均されたコンクリートの断片によって感じ取れる。
ここにあったのは、橋ではなく暗渠だったような気がするが、確信はない。
いずれにせよ、ここにあった筈の道は、全く跡形も無くなっていた。
末端から来た道(隧道)を振り返って見る。
ここは、全長172mとされる戸中第一隧道の戸中側坑口から80mくらいの位置で、隧道のほぼ中間地点と思われる。
そして、最初にくぐった第二隧道を含めて、ここまでは完全な直線であったが、海蝕洞の先の洞口は、同じ直線上にない。少し山側に向かってカーブしているのである。
海蝕洞を利用する事で、当時は技術的に難しかった隧道内のカーブを実現させるというのは、明らかに狙ってそうしたものだろう。
ここまでの揺るぎなき直線も含め、しっかりとした技術に裏打ちされた隧道工事であったということが窺える。施工者はプロだ。
それでは、ボチボチ先へ進むことを考えようか。
まずは、この段差を降りて、海蝕洞の洞床に立つことからだ。
こ、これは……。
た、 高い…… やばいかも……。
………
とりあえず…
先に、こっちを見に行こうじゃあないか! (問題解決は後回しに)
海蝕洞の奥がどうなっているのかも、少しは気になるのでな。
おそらく、すぐに
第一から第三まで、長さ以外のスペックはほとんど一緒の大山隧道“三兄弟”。
だが、第二の長さ203mという数字はなかなか侮れないものがある。
これは深い闇が待ち受けていると言っても良いであろう。
ワクワクする。
ぜひとも踏破したいものであるが、不安は「アプローチの難しさ」という事前情報に尽きたのであった。
前置き(事前調査)の最後は、定番の旧版地形図である。
この大山“三兄弟”隧道は、歴代地形図にどのように表現されていたのであろうか。
←まず、昭和28年版。
見事である。
見事に、3本の隧道が一箇所に固まっている。
そして、全てを束ねるように振られた「 大 山 隧 道 」の注記が勇ましい。
昭和初期としては、随分奮発して隧道を多用したと感じられる。
現在の道は陸を追われるように海上に移っているが、かつて陸上にあった時代といえども、ほとんど地表は与えられず(許されず)、薄暗い地中にやっと存在し得たようである。
もはや海岸線に居並ぶ「がけ」の記号を見るまでもなく、現地の険しい地形が目に見えるようだった。
また、隧道連続地帯の途中には、海と隧道とに周囲を挟まれた短い明かり区間が2箇所あるが、隧道が塞がれると、たちまちこれらの明かり区間は孤立する。
アプローチの難しさという情報は、そんな状況を予感させた。
←画像にカーソルオンで、今度は大正2年版を表示する。
こちらは隧道が存在せず、海岸線を迂回する標高125mの「 大 山 越 」が「荷車ノ通セサル道」として描かれている。
また、道の表記の太さも昭和28年版は県道を示しているが、大正2年版では里道の一種であり、車道化が行われる前のようであった。
今回の探索目標は大山隧道(第一〜第三)! レポートは南側の歌見集落から始めよう。
2013/5/27 11:03 【現在地(マピオン)】
今から約2時間半前の9:30に両津港へ入港し、佐渡への最初の一歩を刻んだ私は、それからすぐに港の近くの駐車場にクルマを収め、そこから自転車を出発させた。
もう今日は夕方までクルマに戻るつもりはなく、このまま島の海岸線を反時計回りに走る予定である。
そして順調に内海府海岸沿いの県道佐渡一周線を走ること14km(この途中で小規模な廃道区間を2箇所ほど探索済み)で、大川隧道前最後の足溜まりとなる歌見(うたみ)の集落へ到達した
(佐渡一周編その6からの続き)
外海府から佐渡最北端の地、鷲崎から南下する海岸線は内海府と呼ばれる。
佐渡の親不知と呼ばれた交通の難所が三つも四つも連続するような外海府とは異なり、断崖が海に直立するような箇所はあまりない。
とはいえ、所によってはやはり隧道なしでは自動車の往来ができないような場所もあり、鷲崎まで車道が開通したのは昭和40年代のことである。
それまでは鷲崎と両津を結ぶ航路によってかろうじて結ばれており、陸続きであるにもかかわらず、生活必需品などの輸送は船に頼っていたのだ。
内海府のその道の開鑿も、外海府と同じく大正時代に遡る。
外海府における海府道の工事が始まった大正2年、「県道馬首線」の予算六千円が県議会で計上され、
翌大正3年6月に両津市(当時は両津町)を起点として測量が開始された。
(あくまでも外海府と比較して、だが)地形が穏やかな馬首集落までの道は5年後の大正7年に到達し、さらに延伸されて北に進んでいった。
大正8年の県議会において馬首線は「海府線」として名称を改められ、その終点は佐渡最北端の地、鷲崎とされた。
これにて名実ともに外海府の「海府道」に繋がる、沿岸道路の開通を目指すことになる。
当初は10ヵ年継続事業として予算が計上されており、思うに10年での開通を目論んでいたようだ。
しかしながら、馬首のすぐ先の「鬼の面」と呼ばれる難所で一気にブレーキがかかり、さらにその先の隧道工事に6年も要したため、
予定の10年以上を経過した昭和5年になっても、海府線は鷲崎より程遠い黒姫という集落に達しただけであった。
さらに、黒姫集落より北は山塊が海に突き出た険しい場所が続き、さらに戦争の激化に伴って、工事は中断してしまった。
戦後もしばらく工事が再開されることはなく、かろうじてそれまで開通した区間を走るバスも昭和30年頃までは黒姫集落が終点であった。
工事再開には時間を要したが、昭和37年および40年に難所を避ける隧道(虫崎隧道、北小浦隧道)が完成した後は加速度的に工事が進んでゆくことになる。
その一方で、鷲崎からさらに奥に入った集落、願・北鵜島・真更川周辺の道は県道といえども磯を歩くようなところであり、
昭和39年に出された道路開削の陳情書は自衛隊による道路開削を求めるほど切実なものであった。(なお、当時自衛隊による道路
名 称 】 佐渡鉱山近代遺跡 戸地第一、第二発電所
【所在地 】 新潟県佐渡郡相川町戸地
【遺跡の立地 】
戸地第二発電所は、戸地川下流の海岸に近い県道(佐渡一周線)の、戸中トンネル戸地川入口より、約300メートル山側に入った所に位置する。江戸時代の地名は「戸地車町」
と称した。
【歴 史 】 戸地第一・第二発電所の水力の源は戸地川でありますが、この戸地川流域は慶長時代の初期より佐渡鉱山との関係が深く、佐渡鉱山大盛りの元和・寛永期の佐渡名奉行鎮目
市左衛門も、寛永4年7月に戸地の鉱山施設を視察に訪れ、事故死をした。
戸地川は全長5.2キロで、長さにおいては佐渡で17位、水量の豊かさでは6位、急流たる点では第1位(『金泉郷土史』)ということと、上流の方に「かっこめ鉱山」があっ
たこともあり、慶長10年代より相川鉱山から、人と物資が運び込まれ(「川上家文書」)、同19年には浦目付所も設置され、寛永3年(1626)から相川より鉱石を運び
(鶴子鉱山・相川鉱山とは、「馬道」という山道で往来した)、水車を建て粉成(こなし)は勿論、吹立てもしていた(「佐渡年代記」)。 寛永5年からは直轄粉威から請負粉成となり、
享保6年(1721)まで95年間続き、翌7年浦目付所も廃止となった。 この間数回の洪水で苦しんだとある。 これが現在「第二発電所」のある所の「戸地車町」(相川鉱
山より約12キ。)で、川の対岸にはここも鉱山に関係の深い「戸地炭町」(慶長年代に炭座が置かれた)があり、元和8年に佐渡一国の炭竃税(岩木拡「佐渡の炭かま」)を
取り扱った記録が残る。
戸地車町は度重なる洪水と、鏈粉成の中止により、また炭町は明治10年戸地村に合 併され、両町共消滅した。 鍵粉成に使用された石磨は、昭和20年頃まで戸地集落内に
300個余りあったが、現在は100個位しか残っていない。
当時日本第3位の落差を誇った第一発電所、いつも水車タービンの「ウーン」といううなり声が聞こえていました。
学友会の夏休み登山は低学年は第一発電所が定番で排水プールで泳いだり、水の冷たさに震えたり・・それは閉鎖されるまでの長期に渡って戸地の子供たちにとって忘れがたい思い出の場所でした。
鉄管の上空を荷物用(工事用)のワイヤロープが張ってあったり、又、命知らず?の大人が乗って頂上まで行ったり、戸地の中で異文
佐渡島の南岸にある廃隧道を紹介したばかりだが(←隧道レポ「野崎トンネル旧道」)、今日は佐渡シリーズの“第二弾”として、北岸の外海府海岸にある廃隧道をまた1本紹介しようと思う。
外海府海岸の広がりは相川から鷲崎まで約50kmに及び、この海岸線に沿って県道佐渡一周線が通じている。
この海岸線は、海の風景には事欠かない佐渡島の中でも、雄大な海蝕海岸が見せる奇景・絶景に関しては、他の追随を許さない。
当然、佐渡観光の重要な舞台ともなっているが、長らく陸路の発達に恵まれなかったため、観光客がその全貌を把握しうるようになったのは、昭和も終わりの頃である。
また、海岸沿いには多くの集落が点在するが、かつて佐渡県庁や佐渡郡役場が置かれたこともある相川だけが別格の都会で、他は全て漁村や農村という表現が相応しい小村である。
しかも相川から離れるほどに集落出現の頻度が減っていく。
今回紹介する鷹の巣トンネル(と旧道)がある場所は、この外海府海岸の中ではだいぶ相川寄りの位置(相川の中心部から約9km)で、県道佐渡一周線を相川からスタートした場合、最初に出会うトンネルである。
つまり外海府海岸にある隧道群の中では最も南に位置している。
上記の説明からして私がこの隧道を“外海府海岸隧道群の初級編”に位置付けようとしている意図が感じられるかも知れないが、それは確かに間違っていない。
だが、現実の探索の順序は全く逆であったことも書いておきたい。
私は平成25年5月末に行った佐渡島2泊3日探索の2日目に、外海府海岸を岩谷口から相川近くまで自転車を漕いでいる。
だから私にとってこの隧道は、ほぼ一日中見続けてきた外海府海岸の奇景と絶景を締めくくるという、“初級編”とは真逆のポストにあった。
結果、
私の外海府海岸の印象、全く思いがけない意外な“形(カタチ)”で締めくくられることに…。
2013/5/28 14:20 【位置図(マピオン)】
私が今回の佐渡島一周探索計画(実際は寄り道しすぎて3日間の行程では一周出来なかったが…)を実行するにあたっては、事前準備として旧版地形図と『道路トンネル大鑑』の突き合わせを行い、『大鑑』に記載されている佐渡島内のトンネル24本全ての現状を確認することを目標に据えていた。
そして現在、2日目の行程である外海府海岸における残トンネルは、以下の1本。
戸
まさしく想像を絶した光景である。
かつてここにあったであろう橋はどこにもなく、谷の向こうへは容易にはたどり着けない。
こちら側に崩落したと思われる巨大な岩塊がゴロゴロしているため、それを足場にしてここから"谷底"である洞窟の床面に降りていくことは不可能ではない。
一方で、向こう側はきれいなものであり、足場となるようなものが何もない。
対岸の坑口は洞窟の床面から2メートル以上の高さにある上、ややオーバーハング気味になっており、洞床から登ることは難しそうだ。
考えていても埒が開かない。
とにかく、洞床に降りてみよう。
洞窟内に降り、振り返って撮影。
なんというか・・・もう言葉にもならない。
自然の洞窟でありながら、まさにそれと融合したといえる驚愕の隧道だ。
何かしら、現実とは隔世の感を思わせる。
佐渡外海府は「秘境」とも呼ばれており、それも納得。
まあ、ここは普通の人間が好んで訪れるような場所ではないが・・・
かたや隧道は写真の左右に伸び、かたや洞窟はまだ奥に続いていた。
といっても奥行きはさほど長くなく、交差地点からも数メートル程度。
洞窟の入口から見れば、全体での奥行きは10メートル強といったところか。
そして、これが目指す"対岸の"隧道である。
さまざまな資料に目を通したが、この戸中第一隧道が、二本の隧道から成っているということは記載されていない。
公式には谷を挟んだ全体でひとつの隧道であり、延長174メートル、幅3.4メートル、高さ3.8メートルと記されている(佐渡相川の歴史)。
私が進入した側の延長は100メートルにも満たなかったであろうから、ちょうど半分くらいのところに、このような谷があることになる。
さて、予想通り、ここから目の前の坑口に這い上がることは無理のようだ。
カメラの位置からも分かるとおり、隧道は見上げる高さにある。
垂直飛びと懸垂を駆使すれば可能かもしれないが、オーバーハングなので足をかける場所がない。
困った。
佐渡島イエーイ。日本海に浮かぶ佐渡島に、二ツ亀という小さな島がある。島というかでかい岩。上の写真でわかると思うが、島といってもほぼ陸続きになっており、繋がっているへその緒みたいなスペースは海水浴場なのだ。
この二ツ亀、遠くから全体を写した写真ならよく見かけるが、気になるのはあの中の様子だ。眺めるだけだった富士山にいつか登った時のように、あの写真の場所で泳いでこようではないか。
ということで、せっかくだから写真だけでも見ていってください。
昭和33年、稲刈りも終わり秋も深まった11月の土曜日の放課後、小学校の運動場で誰かが追いかけられていた。
ジグザグに逃げていたがやがて捕まり首を捕まえられて頭を叩かれていた。
追い掛けていたのは戸地部落の6年の「しず」、追われていたのは戸中部落の5年の「てつお」であった。戸地部落と戸中部落の戸数はほぽ同じ80戸程で両集落の子供たちの通う相川町立北小学校は戸地の外れにあった。
そこから50mの所に佐渡最高峰「金北山」1171mに源を発して流れている戸地川があり、佐渡金山に電力を供給するために、中流には落差270mを誇る第一発電所、下流の小学校の対岸には落差60mの第二発電所が作られていた。
江戸時代に第二発電所の付近に水車小屋があり大きな石臼が回り佐渡金山から海上輪送された金鉱石の「こなし」がされていて集落もそこに車町があり現在の集落と2分されていた。
江戸時代の終わり頃、今までにない大洪水となり車町は跡方もなく海に流出してしまいその後、
現在の部落に集約された。
第二発電所の黒い水路管の100m位下流の所に余った水を放出する滝があり、今日も白い水しぶきを上げていた。
北小学校のグラウンドは狭く、50mのかけっこのタイム測定はこの滝の横のトロッコのレールが引いてあったコンクリートの狭い通路で行ったりもした。
その滝の10m下流に橋と トンネルの入り口があった。橋の手前に「杉山製材所」があり、丸太の製材や、「かまぼこ板」や、冬学校等で使う燃料の「ばいた(薪)」
等を作っていた。子供たちは製材所の中や、おがくず捨て場やその周辺でよく遊んだ。
下流は戸地川の河口の浜「カラ間」で、今日は少し波があり、小石の岸に白いしぶきが舞っていた。海岸段丘はストートに海の上まで伸び、そこから垂直に60mの絶壁となって落ち込んでいた。
戸中部落はその絶壁の向う側に位置し、海岸段丘の下と海との僅かな隙間に集落があり又、人家は段丘の崖の中腹にまではい上がっていた。段丘の延長上に国
の天然記念物に指定された波触甌穴群のある平根崎が長い岬を日本海に突き出していた。
戸地部落と戸中部落の人々の往来はトンネルがすべてであった。
長さは 250m程で電気はついてなく、中は岩盤がむき出しで、地下水が染み出てきて常に道路はどろんこ状態であった。
100mほど進むと海よりにぼっかり穴が
鹿ノ浦隧道西側坑口。
やや奥まった場所にある抗門はなかなか迫力がある。
昭和一桁の竣工だけあって、抗門の重厚さも見事だ。
それだけに、中途半端な封鎖が惜しい。
扁額には右書きで「鹿ノ浦隧道」と彫られているが、長年の風雪によってその凹凸は判別不可能の一歩手前まで来ている。
なにしろ、西に向いた斜面の中腹という、日本海の季節風が直撃するような場所にあるのだから、これも致し方ない。
文字の左側のスペースには竣工年などが記載されていたと思われるが、こちらは全く判別不能であった。
ポータルの石組みもだいぶ痛みが進んでおり、たとえこの隧道が十分な幅員があって放棄されなかったとしても、
原型をとどめた状態で供用されることはなかったであろう。
(佐渡一周編その4からの続き)
大正2年より相川町中心部から北進を続けた海府道=現在の県道は、大正7年頃に戸中隧道を開通するも、
技術面の難航が予想されたそこより先の難所(鹿ノ浦隧道&南片辺トンネル参照)を開鑿することができなかった。
そのため、その区間を後回しにして、難所を挟んだ先を先行して行うことになり、大正6年から工事が進められた。
南片辺から今回紹介する大倉隧道までは海岸段丘の下に細長い平地が続き、比較的工事の進捗は順調であったようだ。
その距離は14〜15kmほどもあるが、大正14年には隧道の手前、大倉の集落にまで達した。
しかしながら、予算の関係で、集落に達した時点で海府道の工事はストップしてしまう。
なお、このとき工事が止まった理由はもうひとつあると思われる。
というのも、大正14年の時点で、すでにこの場所に隧道が掘削されていたからである。
それが、本稿の主役、大倉隧道だ。
隧道が開鑿される以前は、人々は波打ち際を歩いていた。
その場所を人は「大倉走(わし)り」と呼び、すでに紹介した「戸中の洞屋」、
「四十二曲り」、この先にある「関の銚子口」と並び、佐渡外海府きっての難所であったという。
断崖絶壁の下を行く様はここでも「佐渡親不知」の異名をとり、人々は恐怖した。
その難所を避けるためにこの地に隧道が開鑿された。
それは大正よりも前、明治45年のことであった。
当時盛んであった鉱山の技術を用い、二つの隧道をくりぬいたといわれる。
すなわち、大正14年に海府道がこの地に達したとき、その隧道がそこにすでにあったのだ。
明治時代に造られた隧道はその後何回かの改修を施されたといい、海府道の工事においても、改修を受けることになっていたのだろう。
しかしながら、それだけの予算がつかず、とりあえず明治の姿のままにとどめ、工事がストップしたというわけだ。
その後工事が再開するのは、先の四十二曲りの区間に手がつけられた、昭和初期である。
ただし、現在の県道は明治時代に端を発する大倉隧道も避け、平成3年、陸側に巨大なトンネルを開通させている。
かつての明治隧道の姿や、如何に。
南片辺トンネルからおよそ15km、目立った難所らしいところもなく快走してきた。
所要時間は40分ほどであったから、荷物満載のブロックタイヤMTBにしてはずいぶ
国営佐渡農業水利事業の基幹施設の一つである「外山ダム」は、平成23年11月1日より安全性等を確認するための試験湛水(※1)を実施しています。
このたび、外山ダムは3月6日に満水になりました。
満水位状態を2週間保持した後、順次水位を低下させ試験湛水を終了します。
今回、以下の日程で「外山ダム満水状況」の見学会を開催しますので、見学をご希望される方は外山ダム管理棟にお集まり下さい。
※1:試験湛(しけんたん)水(すい)
ダムに水を貯めてダムの安全性等を確認すること。
【日時】
平成24年3月16日(金曜日)14時集合(14時00分~15時00分)
平成24年3月18日(日曜日)10時集合(10時00分~11時00分)
【集合場所】
佐渡市上川茂773番地3外山ダム管理棟内
位置図(PDF:129KB)
【実施内容】
堤体からの外山ダム湖面の眺望、管理棟内の見学(雨天決行)
【担当】
〒952-0206佐渡市畑野甲533番地
北陸農政局佐渡農業水利事業所
工事第一課田中、石田、網本
TEL:0259-66-4440
小木に近い「野崎鼻」にある野崎トンネルの海側には旧道の廃隧道がある。写真のように塞がれているのだが、その右に道形がある。ここからだとよくわからないが、正面に立つと…
片洞門! しかも、いまにも表面がごそっと落ちてきそうなひび割れだらけ。恐ろしい。道幅は1車線、果たして「道路」だったのかどうかはわからないが、わざわざ片洞門にしているくらいだから車両交通はあったのだろうと思う。
そこを抜けると、石垣の内側が全部なくなったような光景に出くわした。2m以上の深さがある。写真右には石垣があるので、ここは人為的に手が入っている場所だ。路床がすべて洗い流されてしまったのか? ここは海面から数m上だが、海面近くには釣り人がいた。
ここは切り通しだったのだろうか。その向こうには路面のようなものが。ここで引き返す。
片洞門を逆から。新道の護岸の素晴らしさよ。2段階で波を跳ね返すようになっている。左には高さ10mを超えるワッフル壁面。
標高三・六メートル、と「日本一低い山」を標ぼうする東かがわ市松原の御山(みやま=白鳥の松原内)に八日、千人目の登山者が訪れた。予想を上回るペースでの大台達成に、発案した地元ボランティアグループ・こま犬会(浦上洋一会長)などは大喜びだ。
記念登山者は、市内在住のカメラマン、ジョン・サンドンさん(三九)=米・ミネソタ州出身=と長女のまさみちゃん(三つ)。浦上会長から一〇〇〇、一〇〇一号の登山証(縦十・五センチ、横二十一センチ)と記念品が手渡された。
同グループが、地元で御山として親しまれる山の標高が著しく低いことに着目、遊び心も加えて地域を活性化しよう、と着手した運動。昨年十一月末から登山証を発行、七カ月余りで大台を達成。当初五百枚でスタートした登山証は、千枚を増刷した。
登山証の問い合わせは白鳥神社〈0879(25)3922〉。
私的標本とは、ヘタな釣り、マイナーなアウトドア遊び、悪い意味での男の料理、生きるための挑戦などの個人的記録です。
トップ
サイトマップ
私的標本について
お問い合わせ・原稿依頼は unaki@hyouhon.com まで
仕事記事
釣り
アウトドア
おでかけ
料理レシピ
コラム
Flash
ブログ
亀本さん
7/17(日)山形県朝日村でまたバンジージャンプ
本日の予定は、10:30から朝日村の月山あさひ博物村でバンジージャンプ。なぜって前回飛んだバンジージャンプが思いのほか楽しくて、もう一回ピョーンと飛びたかったから。今回はバンジーの前準備として「完全自殺マニュアル」を読んでしっかりイメトレしてのチャレンジだ。
二日酔いと睡眠不足と旅の疲れでへばっている同行者を叩き起こし、有無をいわさずバンジーに連れ出す。というか、もう遅刻決定の時間じゃん。さあさあさあさあ顔を履いてパンツを持って荷物を洗って出発するのだ。あああ、私焦ってますね。あああ、昨日壊れたアウトドアテーブルが今日になってもやっぱり畳めない。壊れたものは仕方がない。ゴメンナサイゴメンナサイ、いつみさんジュンさんゴメンクダサイと謝りながらみんなで強く踏みしめ、いろいろな部分からパキパキと悲鳴がするテーブルを力づくで無理矢理畳む。さあ、バンジーだ。ああ、もう九時過ぎだあ。
[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。
こういうことだ。
つまり、海食洞をこの隧道は挟んでいた。
早い話、トンネルの中にトンネルがあるということだ。
狂ってる。
そして、多分此処には昔橋が架かっていたと思われる。
橋が架かっていたと思われる所に線を引いてみた。
残念ながら佐渡の荒波に橋は持って行かれたのか、遺構は何も無かった。
とりあえず仕方ないので降りる。
海食洞を撮影してみたがとにかく天井が高い。
蝙蝠が数十匹この中へ逃げていった。
でもこれは登れそうにないな…
なんか岩に人工的な亀裂が入ってるのは何なんだろう。
とりあえず外に出てみることにした。
海食洞全景。
ほぼ中央部を隧道中の橋が横切っていたことになる。
この海岸は両脇を断崖に囲まれ、この隧道がなければ陸路からのアプローチはないということになる。
すぐ脇にも海食洞があった。
あ。
この海食洞は行けなかった残りの部分に繋がっていた…
写真左部の光が差し込んでいる所が海食洞だ。
しかし、この光景に一瞬足が竦んだ。
天然モノクロームの世界が此処に拡がっていた。
此処には白黒以外存在しない世界が出来ていた。
橋の反対側はこんな感じだった。
洞門はこちら側に比べて広くとられているようだった。
また大量の蝙蝠が頭上を飛び交う中、戸地集落方面の出口まで行く。
この閉塞感。
言葉に出来ない芸術が此処にあった。
囚人になった気分だ。
外に出てみたらその瞬間川で降りることができなかった。
よく見ると対岸に橋脚跡と思われる箇所が。
他全箇所で確認できなかった隧道銘板が漸く発見できた。
この入り口の一瞬だけコンクリで作られているようだった。
そして、銘板上部の岩肌。この島は化け物だ。
(クリックすると拡大します)
全く違う場所から撮影したトンネル全景。
クリックすると説明付きで拡大します。
おまけ。
蛇見たばっかだったのでリアル蛇に見えた…汗
【参考資料】
相川郷土史事典より
>戸地ー戸中間道路については、戸中トンネル開通以前、山道か浜道(引潮のとき)のため、波浪による遭難者が多かったが、明治十年から昭和五年(一九三○)にかけて、四回にわたる掘削工事により、長さ二一四メートルのトンネルが完成。その後拡張工事が進み現
概要[編集]
路線名の通り、佐和田地区を起点として佐渡島を海岸線に沿って外周し、小木地区西端の沢崎鼻付近に至る主要幹線道路。海岸線沿いには主要港湾や中小の漁港がある他、景勝地など観光拠点も豊富。しかし断崖を抜ける箇所等、幅員が非常に狭隘な箇所が多く、順次バイパス化などが施されている。
路線距離は167.2kmで、日本一長い主要地方道である。
路線データ[編集]
本線(google マップ)
起点:佐渡市窪田字砂原[要出典](窪田交差点=国道350号交点)
終点:佐渡市椿尾[要出典]
距離 : 167.1633km
路線状況[編集]
重複区間[編集]
新潟県道81号佐渡縦貫線(梅津船場町 - 夷二ノ町)
国道350号(夷二ノ町 - 両津支所前、木野浦 - 小木町)
バイパス[編集]
集落を抜ける箇所など幅員が狭隘な箇所や、落石の恐れのある危険箇所などで、バイパス化などの改良工事が行われている。
外海府海岸南道路
鹿ノ浦バイパス
外海府海岸北道路
内海府海岸道路
黒姫バイパス
東海岸道路
前浜北道路
柿野浦バイパス
別名・通称[編集]
本線(窪田 - 沢根)
沢根街道(さわねかいどう)(窪田 - 沢根)
七浦海岸線(ななうらかいがんせん)(沢根 - 相川下戸)
地理[編集]
通過する自治体[編集]
新潟県佐渡市
接続路線[編集]
国道350号(窪田交差点)
新潟県道31号相川佐和田線(沢根)
新潟県道31号相川佐和田線(相川下戸交差点)
新潟県道463号白雲台乙和池相川線〈大佐渡スカイライン〉(相川大間町)
新潟県道81号佐渡縦貫線(高千)
新潟県道81号佐渡縦貫線(梅津船場町)
国道350号(夷二ノ町交差点 - 両津支所前交差点)
新潟県道65号両津真野赤泊線(両津支所前交差点)
新潟県道319号赤玉両津港線(河崎)
新潟県道319号赤玉両津港線(赤玉)
新潟県道181号多田皆川金井線(多田)
新潟県道65号両津真野赤泊線(赤泊)
新潟県道81号佐渡縦貫線(大橋)
国道350号(木野浦 - 小木町)
関連項目[編集]
新潟県の県道一覧
交通に関する日本一の一覧
広島県道204号安登停車場線 - 日本一短い都道府県道
外部リンク[編集]
新潟県:道路建設課
新潟県:佐渡地域振興局 地域整備部
外海府の城
*外海府地区は、大佐渡の北西側に位置しており、平野部が少なく、険しい海岸段丘が海辺近くまで迫ってきているため、要害性には事欠かない。田畑が少ないので、多くが漁村であった。現在は海岸沿いに道が付いているが、昔は村と村との行き来を船によって行っていたという。それぞれの村はまさに陸の孤島であった。ここには戦国時代、石花将監がおり、河原田本間氏の配下となって、海府地区を掌握していた。
石花(いしげ)城(相川町石花字城之腰)
吉井殿の代官石花殿の城。吉井殿は代官飛木惣右衛門にこの地を与え、彼が石花氏を名乗るようになったという。(「佐渡古代記」)外海府地方の大半はこの石花氏の勢力圏であった。海岸段丘先端部。郭、土塁、空堀。石花氏は戦国末期には藍原氏から独立し、雑田本間氏に属していたと考えられている。石花の海岸に臨む比高58mの台地上の立地で、先端近くの兵五郎畑と呼ばれている畑地が主郭、その隣にもう一郭、さらに台地下に向かって数段の腰曲輪がある。
石花城は「石花北」のバス停のすぐ東側の海岸段丘上にあった。この上は大規模な耕地整理が行われた模様で、現状では写真の通り、一面の水田地帯となってしまっている。中央部のややこんもりしたところが城の名残であるのかもしれないが、他にこれといって遺構らしきものは目に入らない。
大倉城(相川町大倉字城の平)
石花氏に属した土豪梶原氏の城。この梶原氏は梶原源太の子孫といい、江戸時代に梶原家は本陣も勤めたという。現在も梶原家の所有となっている。外海府北部の大倉走りと呼ばれる海岸上の岬の上の立地である。この岬の標高は高く、比高100mほどの切り立った崖上である。三崎の突端部の一郭と空堀を隔てた二郭からなり、城址は畑地となっている。
写真の大倉トンネルの真上が城址である。
小川城(相川町上小川)
石花氏の配下の小川殿の城であった。小川集落の背後の台地上であったらしいが、場所がよく分からない。「島ん城」と呼ばれている地で古井戸があったという。
北狄(えびす)城(鎌倉どん・相川町北狄字城の上)
尖閣湾で有名な揚島遊園のすぐ東南にある標高50mほどの台地上にある。金泉中学校のすぐ南側である。台地上には「屋敷」「鉄砲塚」といった小字名があり、その辺りに数郭が残っている。また「鎌倉」といった名も残り、「鎌倉どん」と呼ばれる殿様がいたと言
でんでんむしの岬めぐり
草木もなびく佐渡の岬めぐり中。自称『岬評論家』でんでんむしの日本全国津々浦々突端出っ張りコレクション。電車とバスときどきタクシーとレンタサイクルでってスゴくない? 年表もね。
高杉晋作をはじめ明治維新に活躍した多くの弟子を育て、数え30歳で刑場の露と消えた長州の志士・吉田松陰。
江戸に留学中、ロシアの船が北方の海に出没することを知った松陰は、その防備状況を確かめるべく、脱藩覚悟で東北へ旅立った。嘉永4年(1851)の旧暦12月、弱冠22歳の時である。
翌年3月、彼は熊本藩士宮部鼎蔵とともに津軽半島に達した。『東北遊日記』に「真に好風景なり」と書かれているのは、中里の十三湖岸の景色のことだ。
3月5日、2人は小泊から海岸沿いに北上し、途中から山道に入る。当時津軽藩は旅人がこの道を通ることを禁じて道をつくっていなかった。谷間をのぼり、
膝まで水に漬かりながらあちら側、こちら側と沢を幾度も越えてようやく算用師峠の頂上に至る。嶺を下ると、2、3尺も雪が残っており、雪の中を歩き、さら
に雪解け水が大流となっている川を何度も渡って、「困苦太甚し」という苦行の末に、やっと三厩の海岸に出たという。
昭和43年、「松陰先生足跡踏破の会」(代表・漆畑直松氏)が発足した。当時は松陰が歩いた頃と同じような道なき道で、会は広く青少年に呼びかけてこの
道を辿る行事を行った。一方、道の整備を県に陳情し、現在は「みちのく松陰道」と名付けられた12キロのハイキングコースとして、整備されている。踏破の
会はその後「青森県歴史の道整備促進協議会」に発展し、活動している。会長の塚本恭一氏(中里町長)は、「命を捨ててまでも国を想うという松陰ゆかりの道
を、多くの人に知ってほしい」と語る。
緑深い算用師峠。ブナやヒバなどの木もれ日がさす小道には、ガクアジサイや深山特有のサンカヨウなどの野草が生い茂り、虫の音が響いていた。
(協力…漆畑直松氏)
●松陰は弘前からこの地へ入り、平舘から舟で青森方面に向かった。
●みちのく松陰道へは、青森市から車で約1時間10分(国道280号経由)。五所川原市から車で約1時間30分(国道339号→県道鰺ケ沢蟹田線→県道今別蟹田線経由)
若き吉田松陰が、後に池田屋事件で客死する宮部鼎蔵とともに津軽の地を訪れたのは、嘉永5年(1852)の旧暦3月初めである。小泊から算用師峠を越え
て三厩の海岸に出るが、その途中詩作している。「去年今日発巴城(去年の今日巴城を発し)…」で始まる詩文は、昭和41年竜飛崎に建立された「吉田松陰詩
碑」に刻まれている。
ORIG: 96/10/01 REV1: 97/07/17 format 図版のこと追記
REV2: 97/08/31 図版は「目井浦」とのこと REV3: 97/10/12 ご指摘にも応えて
島根半島に「十六島」と書いて「ウップルイ」と読む半島・集落があります。
この地名の語源・語義に就いて、以前から興味を持っていましたので、調べてみた事を
まとめて見ましたので、各位のコメントを頂戴できれば幸いです。
0.出雲風土記・楯縫郡の所で「於豆振」(オツフリ)と出ているのが
「十六島」(ウップルイ)とされている。(岩波日本古典文学大系の風土記ではP177)
これに関して、読者の方から、岩波も採用している「於豆振」との表記は不確実であり、
必ずしも「オツフリ」ではない、とのご指摘を頂きました。ありがとう御座います。このご指摘が
意味するところは、現行の呼称「ウップルイ」が風土記の「オツフリ」に溯れるのか、に就いては疑問が
ある、と言うことで、即ち、「ウップルイ」呼称がどこまで溯れるのかは判らない、と言う意味で
あります。しかし、いつから始まったのか現在に至るまで「ウップルイ」と呼ばれているのは事実
なので、これの語源探索自体には意義があります。
同ご指摘によると、先達のご研究の中で広く支持されているものは、要約しますと、
金関丈夫氏の説で、その「十六島名称考」(『考古と古代』所収)にて、『風土記』の記事は
「許豆埼」であろうとされ、加藤義成氏の『修訂 出雲国風土記参究』で、
「定説とすべき」とされていることの由です。
さしづめ、「於豆振」は誤記で「許豆振」が正しいのであろう、ということかと思います。いずれにせよ、
其の地がウップルイと呼ばれてきていることには変わり無く、小生の興味としての、ウップルイの語源、
語義は相変わらず不明、ということかと思います。また、「許豆」の語義に就いて
考えた所を下記に追記しておきます。
一つのアプローチは、「オツフリ、が古く、ウップルイ、が新しい。つまり、
ウップルイの語源は、オツフリである。としてオツフリの更なる語源を
求める」ことでしょう。
もう一つは「実は、その地名は昔からウップルイと言っていた筈だ、それを
『於豆振』と漢字を宛てたに過ぎない。だから、ウップルイの語源を求める」
ということになりましょうか。
1.オツフリ の語源
第1
開港:1978年5月20日
航空機発着回数:208,704回(2012年)日本第2位(1位は東京国際空港(羽田)
航空旅客数:32,793,596人(2012年)日本第2位(1位は東京国際空港(羽田)
国内線 3,236,265人
国際線 29,557,331人
うち日本人 16,455,065人
うち外国人 7,396,734人
うち通過客[1] 5,705,532人
航空貨物取扱量:1,952,207トン(2012年)日本第1位
空港敷地面積:940ha(計画1,080ha)
滑走路
A滑走路:16R/34L, 4000×60m(16R・34LともILSを装備 16RはCatⅢb)
着陸帯 ‐ 4120×300m
B滑走路:16L/34R, 暫定2500×60m(16L・34RともILSを装備)
着陸帯 ‐ 2620×150m(暫定。当初計画 2620×300m)
誘導路:延長 約25.5km 幅30m(一部23m、暫定計画を含む。計画延長は約34.2 km、計画幅は30m)
航空保安無線施設
ILS 4式 (計画 ILS 6式)
VOR/DME 2式(Aラン・・成田VORDME、Bラン北総VORDME)
エプロン:面積 約218ha (計画面積は約260ha)
スポット:137スポット(工事により一部閉鎖中のものを含む) (計画は143スポット)
運用時間:24時間
利用時間:6:00 - 23:00 (例外24:00)(人間の生活時間帯に制限)
誘導路の延長・エプロンの面積の推移は「誘導路の延長とエプロンの面積の推移」参照
空港機能[編集]
日本を代表する空の玄関口(ハブ空港)の一つであるが、歴史的経緯(成田空港問題)により、開港後35年以上経過した2014年現在も、建設計画自体が完了していない。開港後の拡張工事も進まず、騒音問題から23時〜6時(JST)の離着陸禁止や[2][3][4]、東京都区部からのアクセス時間の長さ、国内線乗り入れ便数の極端な少なさなどの問題もあり、羽田空港の再拡張や再国際化や24時間運用が進められた。これに対し、成田空港も京成成田空港線の開業によるアクセス向上や、発着枠の拡大、23時~24時の例外的離着陸容認などで、競争力を高めようとしている[4]。
1992年の第2ターミナル完成に伴い、管制塔からの航空機視認性が悪化するため新たな
開港:1978年5月20日
航空機発着回数:208,704回(2012年)日本第2位(1位は東京国際空港(羽田)
航空旅客数:32,793,596人(2012年)日本第2位(1位は東京国際空港(羽田)
国内線 3,236,265人
国際線 29,557,331人
うち日本人 16,455,065人
うち外国人 7,396,734人
うち通過客[1] 5,705,532人
航空貨物取扱量:1,952,207トン(2012年)日本第1位
空港敷地面積:940ha(計画1,080ha)
滑走路
A滑走路:16R/34L, 4000×60m(16R・34LともILSを装備 16RはCatⅢb)
着陸帯 ‐ 4120×300m
B滑走路:16L/34R, 暫定2500×60m(16L・34RともILSを装備)
着陸帯 ‐ 2620×150m(暫定。当初計画 2620×300m)
誘導路:延長 約25.5km 幅30m(一部23m、暫定計画を含む。計画延長は約34.2 km、計画幅は30m)
航空保安無線施設
ILS 4式 (計画 ILS 6式)
VOR/DME 2式(Aラン・・成田VORDME、Bラン北総VORDME)
エプロン:面積 約218ha (計画面積は約260ha)
スポット:137スポット(工事により一部閉鎖中のものを含む) (計画は143スポット)
運用時間:24時間
利用時間:6:00 - 23:00 (例外24:00)(人間の生活時間帯に制限)
誘導路の延長・エプロンの面積の推移は「誘導路の延長とエプロンの面積の推移」参照
空港機能[編集]
日本を代表する空の玄関口(ハブ空港)の一つであるが、歴史的経緯(成田空港問題)により、開港後35年以上経過した2014年現在も、建設計画自体が完了していない。開港後の拡張工事も進まず、騒音問題から23時〜6時(JST)の離着陸禁止や[2][3][4]、東京都区部からのアクセス時間の長さ、国内線乗り入れ便数の極端な少なさなどの問題もあり、羽田空港の再拡張や再国際化や24時間運用が進められた。これに対し、成田空港も京成成田空港線の開業によるアクセス向上や、発着枠の拡大、23時~24時の例外的離着陸容認などで、競争力を高めようとしている[4]。
1992年の第2ターミナル完成に伴い、管制塔からの航空機視認性が悪化するため新たな
現在の広島空港は、1993年(平成5年)10月29日に開港した。開港当初の所在地は豊田郡本郷町だったが2005年3月22日の市町村合併で三原市になった。
当空港(地図)は、最新の推計人口が118.6万人で県内1位の広島市(地図、安芸地方、県庁所在地、政令指定都市)と46.1万人で同2位の福山市(地図、備後地方、中核市)のほぼ中間に位置している。ただし、広島市からは岩国錦帯橋空港(地図)、福山市からは岡山空港(地図)も利用圏内にある。また駐車場も当空港の場合全ての駐車場が有料なのに対し、岡山・岩国錦帯橋の両空港とも条件さえ満たせば無料で利用できる(詳しくは両空港の公式サイトを参照)。これらの要素が重なるため、両都市の需要の全てを取り込めていない。
標高が高いために気象条件(主に霧)の制約を受けやすく、年間75便が欠航していた[1]。欠航便や目的地変更便を解消するため、2008年6月5日より計器着陸装置(ILS)をカテゴリーIIIaの運用を開始し、年間2便まで欠航便が減少した[1]。また、1年後の2009年6月4日にはもっとも精度が高いカテゴリーIIIbの運用を開始した[1]。ILSは滑走路西側からの進入に対して設置されているので、羽田空港など東側から飛来する便は、快晴時など条件が良い時を除いて広島空港上空をオーバーパスし東広島市上空で180度旋回の後RW10に西側から着陸進入するルートが優先的に使用されている。このルートは大回りになるため、悪天候時と快晴時では到着時刻に10分以上差が出ることがある。
年間利用客数は、開港時には最大でも300万人と予想されており、国内2,304,342人、国際348,826人(2012年度)[2]。中国・四国地方の中では利用客数が最も多く、中国地方で2番目に多い岡山空港と比較しても2倍以上である(→中国地方#空港)。2006年にはターミナルの旅客処理能力を500万人程度まで高める事業の一環として、搭乗橋が新たに追加増設された。
新幹線のぞみの誕生・500系・700系・N700系の導入後、広島駅 - 東京駅間では航空機と新幹線は時間距離ではほぼ同等となっており、また、2003年(平成15年)10月の品川駅の開業もあって、利用シェアの航空機対新幹線は62%対38%(2002年)を航空機ピークとして、55%対45%(2005年)、51%対49
リスト
空港の一覧
東京国際空港(とうきょうこくさいくうこう、英語: Tokyo International Airport)は、東京都大田区羽田空港にある空港である。 国際航路に必要な飛行場として、空港法4条で法定されている。 通称は羽田空港(はねだくうこう、英: Haneda Airport)であり、一般的な日常会話の中では「ハネダ」と呼称されることが多い。 このため、飛行機の搭乗案内では単に「羽田行」などと表示されることがある。
ただし、国際線では、東京のもう一つの玄関口である成田国際空港(成田空港)(千葉県成田市)との区別を明確にするために、「東京(羽田)」と表記されることもある。また、搭乗券の行先欄には「TOKYO」と表記される。
また、当空港敷地一帯の町名も「羽田空港」になっているが、これは 当空港周辺の旧町名「羽田町」に由来する。
2010年10月21日に国際線ターミナルが開業し、同年10月31日から国際線定期チャーター便として運航されてきた便は定期便に格上げされた。
1931年8月25日に「羽田飛行場」として開港以来、日本最大かつ東京、首都圏を代表する空港である。
2010年1月現在、国内線主体でありながら利用者数は世界でも有数の規模を有する。全日本空輸と日本航空、スカイマークなどの国内線ハブ空港である。ただし、純粋な国内線専用空港だったことは一度もない。詳細は「国際線の就航状況」の節を参照。
年間の航空機発着回数は約38万4000回、航空旅客数は約6,670万人[2]でそれぞれ国内最大(2位はいずれも成田国際空港)。航空貨物取扱量は約84.4万トン[2]で国内第2位(1日あたり約2246トン。1位は成田国際空港)。
滑走路は以下の4本。A滑走路とC滑走路は平行滑走路のオープンパラレル配置で、同時離着陸が可能である。南風の好天時にはB滑走路とD滑走路でLDA (Localizer-Type Directional Aid) を使用した同時進入が行われる。
A滑走路 (16R/34L): 3000 m×60 m、北風時着陸用および南風時離陸用、34L側にILS設置
B滑走路 (04/22): 2500 m×60 m、南風時着陸用、22側にILS設置
C滑走路 (16L/34R): 3360 m×60 m[1]、北風時離着陸用および南風時離陸用、34R側
乗り合わせたタクシーの車内。目白付近で運転手は自信ありげに言った。
「角栄邸から新潟の実家まで、3回曲がれば着くんですよ」
まさかと思った。目白から新潟まで300キロ近くあるはずだ。いくら田中角栄が建設行政ににらみがきいたと言っても遠すぎやしないか。かといって彼の言葉を完全に否定する論拠を僕は持ち合わせていなかった。
後日、東京から新潟へ行く用事があったので実走して、確かめることにした。午前7時、レンタカーで角栄邸の前から出発する。死後20年あまり。相続税のため物納されたため、通り沿いに延々と続く塀はもはやない。石造りの塀と鉄門扉がビルと公園の間にかろうじて通りに面している。「田中」と記された表札がなければそこがかつての角栄邸だとは気づくはずがない。
一路西へ。車はすぐに学習院大学、続いて目白駅の前を通る。駅前は二車線で沿線は繁華街になっている。早朝だが通行量は多い。
6キロ走ったところ、豊島区の南長崎一丁目の交差点で右折する。通りは目白通りのままだ。出発から30分ほどで関越道の練馬インターチェンジにさしかかった。目白通りの3車線のうち2車線が高速へつながっていて、そのまま高速に入った。
車は快調に北上していく。谷あいを選んで走行しているからか、緩やかに蛇行するようになった。
関越トンネルに入ったところで、角栄の発言が頭をよぎった。
「三国峠をダイナマイトでふっとばせば越後に雪は降らない。そしてその土を日本海に運べば佐渡と陸繋ぎになる」(初出馬のときの演説)
事実、このトンネルは谷川岳の真下を10キロ以上にわたって貫いている。
そうした発言や後の「日本列島改造論」からわかるように、角栄は自らの選挙区、新潟三区への社会基盤整備に熱心だった。特に昭和30年代後半は公共事業の山ともいえるほどの郷土の大改造を施した。国道17号線の三国トンネルの開通に始まり、上越線の複線化、清水トンネルの完成。
角栄の行動力の原点とも言える裏日本ルサンチマン。それを克服するために霞ヶ関のエリートを手玉に取り、東京への復讐を果たしていったのかも知れない。関越自動車道の完成はその集大成ともいえるのだろう。昭和60年に全線が開通している。
北陸道へ入り、10キロあまりで西山の出口にさしかかった。高速を出ると、目の前には田んぼがあり背後が山になっているいかにも米所といった田舎の風景が広がっていた。
歌川(安藤)広重の六十余州名所図会(え)
奥 州とも呼ばれた陸奥の国は六十余州の最北東端に位置し、山形・秋田以外の東北地方全域にあたる。
陸奥 松島風景 富山眺望之略図
最 上川は出羽三山(月山、湯殿山、羽黒山)を囲繞し、山形盆地を流れ、大石田上流の基点・隼などの恐ろしい難所をこえ、
庄内・最上境の連山板敷山の北を流れて酒田の海に入る。
出羽 最上川 月山遠望
常 陸(ひたち)国は関東平野の東北隅に位置して、西は下野(しもつけ)、南は利根川が流れる下総(しもうさ)、
北は奥州へつらなる磐城(いわき)の諸国があり、東は太平洋に面している。
常陸 鹿嶋大神宮
下 野(しもつけ、ほぼ現在の栃木県全域)の「裏見滝」は日光市の荒沢川にあり、滝の裏側から流れ落ちる飛瀑を眺めることが出来る滝で、
「華厳滝」「霧降滝」とともに日光三名瀑のひとつに数えられます。
下野 日光山 裏見ノ瀧
こ のあたりは昔、毛野(けぬ)とよばれる国であったのが分割して上毛野と下毛野となり、その後国名から「毛」が抜け(!)、上野、下野となったのだけれど、
音には「こうずけ」「しもつけ」と「け」が残っているのです。
榛名山(はるなさん)は山岳信仰の対象とされた山で、山頂にはカルデラ湖と榛名富士がある。妙義山、赤城山とあわせて上毛三山と呼ばれる。
上野 榛名山 雪中
千 葉県鴨川市にある内浦湾は別名「鯛の浦」とも呼ばれ、世界有数の鯛の群生地として国の「天然記念物」に指定されています。
貞応元年(1222)2月16日が日蓮聖人が安房の小湊(あわのこみなと)に生まれました。小湊には日蓮聖人生誕にゆかりの誕生寺があります。
安房 小湊 内浦
上 総(かずさ)の国は現在の千葉県の房総半島の北部にあたる。
伝承に拠れば「矢さしか浦」というのは矢指浦で、古名は玉の浦というが源頼朝の命令で1里ごとに矢を指したので矢指浦の名が付き、
またその矢が99本に達したことから「九十九里浜」と呼ばれるようになった。
浜の中央、どちらから数えても49本目となる場所(山武市蓮沼)には箭挿(やさし)神社が今も残る。
上総 矢さしか浦 通名九十九里
下 総(しもうさ)国は、南に上総ご境を接し、平野が広く開け、その他国との分界が難しく、武蔵・上野・常陸の諸国と分れたのは、
大体河の流れによったも
大阪国際空港付近の空中写真。(1985年撮影の6枚から合成作成)。
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真) を基に作成。
撮影時点では、後年に供用開始された新 管制塔 やW9高速脱出 誘導路 はまだ存在していない
大阪国際空港 (おおさかこくさいくうこう、 英 :Osaka International Airport)は、 大阪市 の北西13 kmの 大阪府 豊中市 、同 池田市 、 兵庫県 伊丹市 にまたがる 会社管理空港 である。 大阪空港 (おおさかくうこう)あるいは 伊丹空港 (いたみくうこう、 英 :Itami Airport)の通称でも知られる。かつては名実ともに 国際空港 であったが、現在は日本の国内線の 拠点空港 (基幹空港)として運用されている。近隣の 関西国際空港 ・ 神戸空港 とともに 関西三空港 のひとつである。
概要 [ 編集 ]
敷地は、 大阪府 の 豊中市 と 池田市 及び 兵庫県 伊丹市 の2府県3市にまたがり、空港ターミナル及び事務所は豊中市に、滑走路は池田市と伊丹市にまたがる。 [2] 、 空港ターミナルビル 、 大阪モノレール線 大阪空港駅 、 エプロン 付近で府県・市の境界が複雑に入り組んでおり、各市の 飛地 も無数に存在する( #空港建設以前 を参照)。 警察署 は 大阪府警豊中警察署 と 兵庫県警伊丹警察署 の両者が常駐し、他の旧第1種空港にあるような 空港警察署 は設置されていない。
大阪市 ・ 神戸市 ・ 京都市 などからなる 京阪神都市圏 のほぼ中心に位置するために、利便性が高く( #交通 を参照) 関西圏 の国内線の基幹空港として利用されている。また、 オフィス街 へのアクセスの良さから、特に ビジネスマン の需要が高くなっている [3] 。国際線は1994年9月3日まで発着していたが、翌9月4日に開港した関西国際空港に移転した後は就航していない。施設規模は、関西国際空港の開港前は関西地方で最も大規模な空港であったが、現在は関西国際空港の方が大きい [注 1] 。2010年3月現在、当空港を利用した国際運航は、 中古 機体の売却による フェリーフライト や外国 要人 の 専用機 など、非営業用の発着が中心である。
正式名称の大阪国際空港の他に、一般的に 大阪空港 (おおさかくうこう、英: Osaka Air
路線 [ 編集 ]
第一航空 (DAK)
那覇空港
粟国 - 那覇線は南西航空(現 日本トランスオーシャン航空 )より路線を引き継いだ 琉球エアーコミューター (RAC)が長らく ブリテン・ノーマン アイランダー (BN-2)により運航していたが運航乗務員の定年退職や、それまでに今後使用する デ・ハビランド・カナダ DHC-8 に対応した1200mへの滑走路拡張工事が間に合わないことを理由に 2009年 6月1日 をもって運休となった。 [ 要出典 ]
しかし第一航空の就航手続きが間に合わなかったため、6月4日から17日まで粟国村によるRACのチャーター便運航 [2] [3] が行われ、 6月19日 より第一航空がRACの路線を引き継ぐ形で定期便を就航した。
アクセス [ 編集 ]
粟国村中心部や粟国港フェリー乗り場から空港までは徒歩約40分から45分。
粟国村内各地と空港を結ぶ村営コミュニティバス「アニー号」が運行されている。
脚注 [ 編集 ]
歴史 [ 編集 ]
1934年9月 - 日本海軍の飛行場として建設 [2] 。
1963年 - 滑走路 を整備。滑走路長は1,323mとされた。
1970年 - 民間の定期航空路線が開設(那覇線)。 YS-11 が就航する。
1973年2月 - 前年の沖縄県本土復帰による設置許可(第三種空港) [2] 。しかし、滑走路長の定義を 航空法 に照らすと800mしかないことが判明(従来は米国法に準拠していた)。このため、YS-11は発着できなくなる。
1997年7月 - 滑走路長1,500mの新南大東空港が完成、旧空港を廃止し移転 [2] 。
1998年3月 - 新南大東空港を南大東空港に改称 [2] 。
施設 [ 編集 ]
2013年GW後半旅(その2)は、新潟帰りに富山の街中で自然に癒される☆
旅行時期 2013 / 05 / 05 - 2013 / 05 / 06 �( 2013/05/28投稿 )
GW後半は、新潟に帰省。 2日目は、義母プロデュースの、SLばんえつ物語号にて3時間の会津若松への旅に行き、八重の桜の舞台に足を踏み入れて来ました♪帰りは一路ナゴヤへ・・・だとなんだか疲れるので、帰り道に一泊、ということで、今回は3日目から富山へ。もともと、砺波チューリップ祭りがお目当てでしたが、、さて、どうなったでしょうか。 スケジュールと街に大満足!おいしい海の幸、水と緑と乗り物(笑)もある富山は魅力的。また再訪したいです! なんと、出発時のドタバタによりデジカメを忘れる大失態!携帯とスマホ(夫)で、伝わるかわかりませんが、旅行記作成してみました。 1日目 新潟到着。県立植物園にて友人と再会 2日目 SLばんえつ物語号にて会津若松へ 3日目 新潟出発。富山到着後、富岩運河環水公園のスターバックスで一息&散策。 かんぽの宿富山泊 4日目 富山市内観光(水上バス、最新型路面電車、白エビ丼)後、帰宅
1938年 ( 昭和 13年) 11月 、陸軍次官・内務省次官から 東京府 知事へ飛行場建設への協力を申し入れた。 12月18日 、調布尋常高等小学校で飛行場建設予定地の説明会を開催した。
1939年 (昭和14年) 1月16日 、「東京調布飛行場」の建設が告示され、 3月20日 に東京府知事が逓信大臣に飛行場の設置許可を申請した。 4月22日 、地鎮祭が挙行され、建設工事が開始された。 5月30日 には飛行場予定地の買収が完了し、建物、竹木類の撤去・伐採終了した。
1940年 (昭和15年) 3月30日 、陸軍省・逓信省航空局・東京府で調布飛行場設置に関する協定を締結した。
開設 [ 編集 ]
1941年 (昭和16年) 4月30日 、竣工式が行われ、現在の位置に東京府により公共用 飛行場 として開設された。そのときの名称は「東京調布飛行場」で、これが現在の「東京都調布飛行場」の前身である。開設当初は現在の 滑走路 とほぼ同じ位置のメイン滑走路(全長1000 m・幅80 m)とメイン滑走路の南端近くで交わる東西方向の横風用滑走路(全長675 m・幅80 m)との合計2本のコンクリート舗装滑走路が存在した。
戦時中 [ 編集 ]
太平洋戦争 中は,もっぱら 帝国陸軍 が使用した。特に, 1942年 (昭和17年)の ドーリットル空襲 後は帝都防空拠点として重要視されるようになり、南は現在の 味の素スタジアム のあたり、西は現在の 警視庁警察学校 のあたりまでそれぞれ拡張され、未舗装の滑走地帯となった。
第二次世界戦争末期は、首都圏に飛来する ボーイング B-29 爆撃機などを撃退するために 戦闘機 隊が配備された。中でも有名なのは 三式戦闘機 を装備した 飛行第244戦隊 で、京浜地区の空襲のたびに出動しB-29に体当たりするなどして戦果を挙げているが、 沖縄戦 が始まると同戦隊は 特攻作戦 支援のために 九州 へ移動したため、調布飛行場には 偵察機 だけが残された。
アメリカ軍による占領 [ 編集 ]
第二次世界大戦の敗戦後の 1945年 (昭和20年)9月、調布飛行場は日本を占領下に置いた 連合国 軍の主力である アメリカ軍 によって接収された。舗装滑走路は飛行場として使用され、戦時中に拡張された未舗装の西側地区は当初、アメリカ軍の水耕農場(人糞堆肥を用いない衛
大分県央飛行場 (おおいたけんおうひこうじょう)は、 大分県 豊後大野市 大野町田代にある 飛行場 。 大分県央空港 (おおいたけんおうくうこう)とも呼ばれる。
概要 [ 編集 ]
1988年に始まった 農林水産省 の 農道離着陸場 整備事業(通称:農道空港)のひとつとして建設され、 1992年 に豊肥地区農道着離陸場(空港種別では 場外離着陸場 )として開業 [1] 。1997年に人員輸送も可能な「その他の飛行場」に格上げされ、現在の名称に変更された [1] 。
京浜地区 への高付加価値の農作物の供給、及び、それによる農業の振興・地域の活性化が目的とされた。京浜地区まで直接飛行できる航続距離の飛行機は離着陸できないため、農産物は近隣の 大分空港 を経由して 羽田空港 まで運ばれる。
旅客輸送に関しては、一時期 九州航空 が大分空港との間に週3便の定期便(使用機材・ セスナ172 スカイホーク )を運航していたが、現在は定期便はなく [1] 、大分空港や 福岡空港 、 鹿児島空港 など近隣の空港への貸切飛行や遊覧飛行が主である。
また、大分県 防災ヘリ 「とよかぜ」( 川崎BK117C-1 )の運航基地となっているほか、 日本文理大学 航空宇宙工学科が空港に隣接する敷地に県央空港エクステンション・キャンパスを設置し、エンジン運転や整備実習を実施している。(空港とは高低差があり、滑走路やエプロンとは繋がっていない)
2004年 2月には「県央フライングクラブ」が設立され、運航会社である九州航空所有の機体を使用しレジャー飛行及び訓練飛行などを行っている。2014年6月22日より「大分フライングクラブ」に名称を変更した。
施設 [ 編集 ]
エプロン:コミューター用3バース、防災ヘリ用1バース、小型機用6バース
航空管制:大分県央フライトサービス 130.8MHz
ターミナル施設:格納庫290m²、旅客ターミナルビル
空港へのアクセス [ 編集 ]
バス [ 編集 ]
大野竹田バス
三重町駅 発着便(大野行き)で大野町田中バス停下車
脚注 [ 編集 ]
台風で自宅浸水、福知山市を提訴 「リスク伝えず販売」
米田優人、横山健彦
2015年10月31日08時41分
京都府福知山市が宅地を造成して販売する際、浸水リスクを知りながら購入希望者に伝えなかったのは不当だとして、2年前の台風で浸水被害を受けた住民3人が30日、家の修繕費や慰謝料など計約2千万円の損害賠償を市に求め、京都地裁に提訴した。住民の弁護団によると、自治体が開発した宅地の浸水リスクをめぐって行政の説明責任を問う訴訟は初めてという。
住民3人は2009~10年、市が石原(いさ)地区に造成した土地を買って自宅を建てた。13年9月、台風18号の大雨で近くの由良川と支流があふれ、床上70~130センチの浸水被害を受けた。
死者を出した04年の台風23号でも、地区の一帯は浸水。市は06年、浸水の危険度を示す「防災ハザードマップ」を市内の全世帯に配ったが、地区で新たに土地を購入した住民らは受け取っていなかった。一帯は2~3メートルの浸水リスクがあることが示されていた。
国は04年から由良川流域で堤防の整備を進めているが、まだ完成していない。住民側は「市は以前から浸水リスクが高い地域と認識していたのに、かさ上げなどの対策をとらず宅地を販売した」と指摘。「リスクを知らせず販売したことは売り主としての説明義務に違反する」と訴える。
市危機管理室の担当者は取材に「転入届を出す前の人へのハザードマップの配布は水防法で規定がなく、必ず渡しているわけではない」と話している。
伊佐セメント工場は、工場だけでなく、石灰石の鉱山でもある。とにかくそのスケールがデカイので見て欲しい。
熊本空港 (くまもとくうこう、 英 : Kumamoto Airport )は、 熊本県 上益城郡 益城町 にある 空港 。国際航空輸送網又は国内航空輸送網の拠点となる空港として 空港法 第4条1項5号に該当する空港として政令で定める空港 [1] に区分されている。愛称は 阿蘇くまもと空港 [注 1] 。
概要 [ 編集 ]
熊本市 から北東へ約20kmの 阿蘇山 の山麓にある。 空港ビル は益城町にあるものの、 滑走路 のほとんどは 菊池郡 菊陽町 にある。
空港周辺が霧の多い場所であるため、 ILS カテゴリーIIIb(CATIII-b)で運用しており、(規定以下の横風・機体側の装備・操縦士の保持資格が整えば)自動着陸が可能である。
年間利用客数は、国内3,009,611人、国際45,826人(2013年度) [3] 。 福岡空港 、 鹿児島空港 に次ぐ九州3位となっている。
国の一般会計からの繰り入れを考慮しない営業損益は、2011年度より黒字に転じた [4] [5] 。
陸上自衛隊 の 高遊原分屯地 を併設し、また民間機と 滑走路 を共用しているため、自衛隊機の発着も見ることができる( CH-47J(A) 、 OH-6D 、 UH-1 などの ヘリコプター が多い)。
空港ラウンジ は以下のとおりである。
サクララウンジ - JAL 上級会員専用ラウンジ
ANAラウンジ - ANA 上級会員専用ラウンジ
ASO - クレジットカード ・有料ラウンジ
歴史 [ 編集 ]
1960年 4月1日 - 熊本飛行場(熊本市健軍町)供用開始(滑走路長1,200m)。 北緯32度48分30秒 東経130度45分58秒 / 北緯32.808432度 東経130.766240度
1971年 4月1日 - 現在地に移転。熊本空港供用開始(滑走路長2,500m)。
1972年 12月 - 全日空熊本乗員訓練所開所。
1977年 - 滑走路長3,000mに延伸、供用開始。
1983年 4月1日 - 国際線ターミナル供用開始。
1995年 9月 - カテゴリーIIIa運用開始( 釧路空港 とともに日本初)。
1999年 8月1日 - くまもと未来国体 にあわせて国内線ターミナル増築オープン。
1999年 9月30日 - 全日空熊本乗員訓練所閉所。
2006年 4月13日 -
律令時代 [ 編集 ]
概説 [ 編集 ]
律令時代 の東海道は、東海道の諸国の 国府 を駅路で結ぶもので、各道に派遣された官人が諸国を巡察する為に整備された路を指す。律令時代に設けられた七道の一つで、中路である [2] 。律令時代の東海道の道幅は、中世や江戸時代の道より広く、より直線的に建設された。
その一方で、当時は大河川に橋を架ける技術は発達しておらず、 揖斐川 ・ 長良川 ・ 木曽川 ・ 大井川 ・ 安倍川 ・ 富士川 ・ 多摩川 ・ 利根川 (当時)といった渡河が困難な大河の下流域を通過するため、むしろ東山道の山道の方が安全と考えられていた時期もあり、東海道が活発になるのは、渡河の仕組が整備された 10世紀 以降のことと考えられている [3] 。
中世に大半が改廃されたため、当時の正確な道筋については議論されているが、おおむね以下のような経路を通っていた考えられている。
畿内から近国まで [ 編集 ]
首都 が 飛鳥 に置かれた時期には、 大和国 の 宇陀 が、東海道方面への入口だったと考えられているが、その後、 平城京 に遷都されると、平城京から 平城山 を北上し、木津から木津川の谷間を東へ入って 伊賀国 に入り、 鈴鹿山脈 と 布引山地 の鞍部を 加太越え で越えて 伊勢国 へ、 木曽三川 を下流域で渡って 尾張国 津島 へ、 名古屋市 を通り、 三河国 と続いていったと考えられている。およそ、現在の 国道163号線 ・ 国道25号線 ・ 国道1号 に沿ったルートであった。
ただし、木曽三川の下流部は古来より水害が激しく、実際には船による移動に頼っていたと考えられ、あるいは 飛鳥 や 平城京 から 鈴鹿峠 を経由してそのまま伊勢国の港から 伊勢湾 を横断する海路が用いられる事も多かったとみられている。だが、その一方でこうした船には馬を同伴させることが出来ず、東国から馬に乗ってきた旅行者は三河国か尾張国で馬を他者に預けて伊勢国に向かう船に乗る必要が生じたが、帰途時に馬の返還を巡るトラブルなどもあった(『日本書紀』大化2年3月甲申条)。このため、徒歩や馬で旅を続けようとする人の中には、本来は認められていなかった尾張国府から北上して美濃国にある東山道の 不破関 に出る経路も用いられていた。伊勢湾を横断する海路と東山道に出る脇道の存在は、江戸時代の 七里の渡
メンバーのMEIが、青海と青梅をまちがえて、今、八王子にいます。
急いで向かっていますが❶回目のステージは間に合いません。
楽しみにしてくださっていた方、申し訳ございません。
YUKINAとKAHOで頑張りますので、応援よろしくお願い致します。
xckb的雑記帳
15年ほどWeb日記をつけ続けていたのですが2012年で一旦休止、1年半ほど休んで新天地でぼちぼちのんびりまた始めてみることにしました。
さて、先日から私を悩ませていた、 JR東日本 にまつわる不思議な現象にやっと解決がついたため、少しまとめてみたい。私は鶴見に引っ越してきて何年も経ち、ずっと品川駅・ 鶴見駅 間を含む定期で通勤しているのだが、最近やっと、この定期はとても不思議な性質を持つということに気がついたのだ。まず、この 区間 界隈のJRの路線図を抜き出してみたい(実際には品川にはさらに山手線や 東海道新幹線 も走っているがここでは省略する)。問題の品川駅と 鶴見駅 をピンクで塗っておこう。 (追記)あ、 尻手駅 から 浜川崎駅 方面に伸びる 南武支線 を書き忘れていた。申し訳ないけれども論旨に影響はないので、このままにしておく。 この 区間 を含む定期券で、追加料金無しで途中下車できる駅はどこだろう。常識的に考えて見ると、次の図で水色で塗った、 大井町駅 、 大森駅 、 蒲田駅 、川崎駅となるだろう。 しかし実際は違うのだ。この定期券で途中下車できるのは、次の図の水色で塗られた駅なのである。つまり、上で挙げた4駅に加え、なぜか 横須賀線 の 西大井駅 、 武蔵小杉駅 、 新川崎 駅でも「途中下車」ができるのだ(特に 東急東横線 にも乗り換えできる 武蔵小杉駅 はデカい)。しかしそもそも、 横須賀線 は 鶴見駅 にホームなどは持っておらず、 新川崎 の次の駅はずっと先の 横浜駅 なのである。 この、 東海道線 ・ 京浜東北線 経由の、「品川駅・ 横浜駅 間」を含む定期券で、西大井、武蔵小杉、 新川崎 でも途中下車できるというのは、よくネットに情報が書かれているのだけれども、そちらのほうはまだ納得ができる(品川駅・ 横浜駅 間では 東海道線 と 横須賀線 は同一視するという特例と解釈できる)。 たとえばこういうブログがあったりするけれども、よく読むとちょっと誤解があるようで、結論的にもちょっとおかしい。
pengin.hatenablog.jp 実際には、 横浜駅 を通過せずとも、たとえば品川駅・ 新子安駅 間の定期でも、あるいは 鶴見線 に乗り換えて品川駅・ 国道駅 間の定期でも、 横浜線 に乗り換えて品川駅・ 大口駅 間の定期でも、全て西
[62] この記事はSuikaWiki Worldでに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24343926422860672