五島列島

五島列島

[1] 五島列島

Webページ

[2] 五島列島 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%B3%B6%E5%88%97%E5%B3%B6

五島列島 (ごとうれっとう)は、 九州 の最西端、 長崎港 から西に100kmに位置し、北東側から南西側に80km( 男女群島 まで含めると150km)にわたって大小あわせて140あまりの島々が連なる 列島 [1] [2] 。全島が 長崎県 に属し、人口は約7万人となっている。自然海浜や海蝕崖、火山景観など複雑で変化に富んだ地形で、ほぼ全域が 西海国立公園 に指定されるなど豊かな自然景観を有している。島々には多くの カトリック教会 が点在し、「 長崎の教会群とキリスト教関連遺産 」の世界遺産登録を目指す取組みが進められていて、五島観光のひとつとして注目されている。 昭和 時代には、 東シナ海 で操業する漁船団の先端基地として栄えた。近年漁獲高は減少しているものの、いまも漁業が重要な産業であり、海産物が名物である。

「五島列島」とは学問的な呼び名であり、会話の中ではあまり使われない。地元や九州地方では単に「五島」と呼ぶことが多い。

長崎県 に属する五島列島は九州本土の西に位置している。全域が 西海国立公園 に指定されており、北東側から 中通島 、 若松島 、 奈留島 、 久賀島 、 福江島 の五つの大きな島およびその周辺の小さな島々からなる。中通島の北にある 宇久島 、 小値賀島 と周辺の島々は現在の行政区域としては五島市・上五島町とは違う 佐世保市 、 北松浦郡 小値賀町 に属するが、歴史的つながりや地理的まとまりの他、 フェリー ・ 貨物船 航路、警察の管轄区域などが上五島と共通していることから五島列島の一部とみなされることが多い。

国際水路機関 による定義では、最も南西の福江島西端が 日本海 と 東シナ海 の境界とされている [3] 。ただし、一般的には五島列島周辺の海域を「日本海」と呼ぶことはほぼ皆無で、「五島列島は東シナ海に浮かぶ島々」と紹介されることがほとんどである [4] 。

長崎県には非常に多くの島があるが、五島列島は多くの島々が本土や他の島とは少し離れた位置に密集しており、「五島」と総称されるまとまりを形作っている。島々は連なった山々が海に沈み高い部分だけが残って 溺れ谷 となった複雑な リアス式海岸 線をもつ地形である。

五島列島は北東から南西に長く伸びているため、全体を大きく二つに分けて、五島最大の 福江島 を中心とする南西の島々を「 下五島 (

[3] 『島旅 五島列島(小値賀諸島)・野崎島編 ~ 王位石・沖ノ神嶋神社 & 旧野首教会 ~』 [五島列島]のブログ・旅行記 by つきこさん - フォートラベル, , http://4travel.jp/travelogue/10957348

島旅 五島列島(小値賀諸島)・野崎島編 ~ 王位石・沖ノ神嶋神社 & 旧野首教会 ~

旅行時期 2014/11/21 - 2014/11/25 (2014/12/07投稿)

今回、小値賀島に決定したのには野崎島の存在がかなり大きい。 現在島民1名(とは言え、住民というより管理人みたい)と、ほぼ無人化したこの島には野生の九州鹿が500頭くらい棲息しています。ここにある王位石の存在を知り、訪れてみたい!と思ったら…行かないわけないよね! ちなみに、野崎島は特殊な条件下にある為、上陸・旧野首教会の見学には事前に「おぢかアイランドツーリズム」に連絡する必要があるようです。

[4] 小値賀島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%80%A4%E8%B3%80%E5%B3%B6

小値賀島(おぢかじま)は、九州本土から西へ約50km離れた五島列島の北部にある島(有人島)である。全島が長崎県北松浦郡小値賀町に属する。 人口 - 2,433人(2010年国勢調査確定値)[1]。

地理[編集]

五島列島の北部、宇久島と中通島の間に位置する。一般的には五島列島に含められることが多いが、長崎県では平戸諸島の一部としている[1]。島の東には野崎島、六島があるほか、島の周囲には納島、斑島、藪路木島、大島、宇々島、黒島、小黒島など小さな島が点在する。このうち斑島と黒島は小値賀島から橋で結ばれている。

海中火山の噴火によってできた比較的平坦な島で、小値賀火山島群では最大の島にあたる[2]。かつては島の中央部が浅い海となって東西2つの島に分かれていたが、1334年に干拓が行われて一続きの島となった[3]。

歴史[編集]

古代、小値賀島が細長い瀬戸によって東西二つの島であったことから、『古事記』の天両屋(両児島)は小値賀島だったのではないかと森浩一は推測している。室町時代まで、小値賀島と浦部島(中通島)においては、青方(五島)氏と松浦氏の両家が交互に地頭職を勤めていたが、観応2年(1351年)に、小値賀島と浦部島の一部を平戸領(松浦藩)とし、浦部島の大半を青方領(五島藩)とすることで和解した。以後、小値賀島は、明治まで平戸藩に属することになった。

交通[編集]

航路[編集]

島の南部の笛吹港(小値賀港ターミナル)まで、佐世保港(佐世保市)から高速船とフェリーが、博多港(福岡市)からフェリーがそれぞれ運航されている。

九州商船(高速船・フェリー)

佐世保 - 宇久平(宇久島) - 小値賀島 - 佐世保

※高速船の始発便・最終便は有川(新上五島町・中通島)発着

野母商船(フェリー)

博多 - 宇久平 - 小値賀島 - 青方(新上五島町・中通島) - 福江(五島市・福江島)

笛吹港(小値賀港ターミナルに隣接する離島待合所)には六島・大島への町営旅客船が発着するほか、島の北部の柳港には納島・寺島(佐世保市)・神浦(佐世保市・宇久島)への旅客船が発着する。

航空[編集]

島の東部に小値賀空港があり、長崎空港・福岡空港からの路線があったが2006年3月31日限りで定期航空路が全廃され、現在休止中である。

バス[編集]

小値賀交通が島内および斑島への路線バスを運行している。

[5] 「五島列島」旅 その27(野崎島) 野首集落のキリシタン墓地跡 | ISLAND TRIP(アイランドトリップ), , http://www.islandtrip.jp/2016/04/220801.html

桜が散ったら急に気温が高くなってきましね。どうも、いづやん( @izuyan )です。

五島列島旅の第二十七回をお送りします。無人島である野崎島、そこに今も建ち続ける「旧野首教会」を見るという旅の大きな目標は達成されたわけですが、まだ島を離れるまでは時間があります。

無人島にダム?

「旧野首教会」の撮影と見学を済ませて、さらに島の西側に向かいます。斜面を登って道を進むと、海が見えてきたと思いました。が、最初に見えてくるのは大きな池です。これ、実はれっきとした「ダム」なのです。

無人島にダム・・・? まあそう思いますよね。僕も思いました。

しかもこのダム、島が無人になってから作られたものだそうです。それって無駄では?と思いたいところですが、このダムの水は海底の送水管を通ってお隣の有人島、小値賀島の農業かんがい用水として使われているそうです。

喫茶タートルのトムさんにちらっとお聞きした、島に来る移住者は農業従事者が多い、ということとも無関係ではないでしょう。水資源確保はどの島でも重要な課題だからです。

それにしても、やはり知らないと島でいきなりダムが現れたら面食らいます。ダムのすぐ向こうには海が見えるのもまた不思議です。

海側の斜面には土砂流出を防ぐためか、ネットのようなものが敷かれていました。

ダムの横を回って、下り坂を行くと「野首港」にたどり着きます。船が着いた野崎港より新しい係接岸のようです。後で聞けばチャーター船が時おり泊まることもあるそうです。休憩所もあったりして、ここだけ見ると無人島には見えません。

「こんなところまでキュウシュウジカが!」と思ったら、ただのモニュメントでした。

日の光が海の底に届いて、目がさめるような景色が広がっています。夏場だったら確実に泳ぎたくなる海です。

海を前に残されたキリシタン墓地跡

その場で国土地理院の地図を見ると、この野首港周辺にもかつては建物があったようですが、おそらくダム建設の時に撤去されたのでしょう。往時のことを伝えるものは何もないように思えました。

と、海から山の方に顔を向けると、海岸そばの灌木の中に石の十字架が立っているのが目に入りました。

「キリシタンの墓だ・・・」

思わずつぶやいてしまいます。

よくよく見ると、その周りにも灌木に覆い尽くされかけた墓石が見え隠れしています。浮足立った足取りで近づこうとしますが、灌木

[6] 野崎島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%B4%8E%E5%B3%B6

地理[編集]

五島列島小値賀島東端の約2km東に位置する。一般的には五島列島に含められることが多いが、長崎県では小値賀島も含めて平戸諸島の一部としている[1]。

島は南北6㎞、東西1.6㎞で南北に細長く中央部がくびれた形となっている。島の多くが急峻な山地であり、平地は島の中央部に僅かに存在するのみである。北部にある二半岳(305m)は小値賀町全体でも最高峰である。火山活動により形成されたとされ、その痕跡を中央部付近の土壌から窺い知ることが出来る。島の南西端は中通島北端に近く、両島の間(津和崎瀬戸)の最も狭い所は約600mほどの距離である。

歴史[編集]

旧石器時代から戦国時代にかけての遺跡などが多数出土している事から、太古より人が住んでいたとされる。

江戸時代には、平戸藩領であった野崎島に大村藩領から難を逃れた潜伏キリシタンが移り住んだ。明治時代に入り、徳川幕府の禁教令を引き継いだ政府により、キリスト教の信仰を表明した住民が平戸に連行され弾圧を受けるも、信仰の自由を認められ帰島が許された。

1950年代中頃には中央部の野崎、野首、および南端の舟森(瀬戸脇)の3集落で合わせて650人以上が暮らしていたが、高度成長期の集団離村などにより急激に人口が減少し、1990年代には全ての住民が島を離れて無人島となった[2](ただし、2010年国勢調査では1世帯1人の常住者が記録されている[1])。

2007年(平成19年)には旧野首教会が「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の構成資産の一つとしてユネスコの世界遺産(文化遺産)暫定リストへ追加された。

自然[編集]

森林の多くが天然林で、イスノキ、スダシイ、ヤブツバキ等の樹木等で成り立っている。北部にある沖ノ神島神社周辺には原生林が残る。

現在、島には400頭ほどの野生の鹿(キュウシュウジカ)が生息している。過疎化によって耕作地が放棄されたため害獣とされた鹿の駆除が行われなくなり、天敵となる動物が存在しないため一時は700~900頭ほどまで増加したが、自然淘汰により現在の数まで減少したとされる。

鳥類では、長崎県で普通に見られる種の他、天然記念物であるカラスバトが生息する。

交通[編集]

小値賀島の笛吹港から、町営の定期船が1日2往復している[3]。中通島の津和崎港などから海上タクシー等の船をチャーターして渡ることもできる。

名所・

[7] jpn012, , http://www.gainendesign.com/taizan/nippon/jpn012.html

横浜在住の弱冠20歳の村上太郎さんが、五島列島の探訪記を送ってくれた。

五島列島の東北端にある小値賀(オヂカ)島の東方対岸に野崎島がある。

野崎島は周囲約19Kmの地塁山地で、島の中央部に野首(ノクビ)天主堂が建っている。

野崎島の北端部の平岳頂上付近に、小値賀を見る形で、その”巨石遺構”があるという。

その”巨石遺構”は「王位石(オエイシ)」と呼ばれている。

それは見事な石組の超巨大な鳥居状構造物である。

王位石は野崎島にある「沖の神島神社(コウジマジンジャ)」の裏手にそびえる御神体でもある。

その壮大稀有な巨石構造物は写真からでも、偉大な存在感を伝えてきている。

王位石の対岸に、小値賀島の「地の神島神社」があり、それは王位石を向いている。

「地の神島神社」の二つの鳥居の延長線上に、王位石が見えるそうだ。

野崎島神島神社にある神社帖には、「四方有鳥居三基在海中 今一基在社檀後 四基鳥居自然湧出」

と興味深い記述があるとのことで、王位石のほかに、海中にも同じ形の石があり、大潮の干潮時には

笠石が見える…ということだ。

「沖の神島神社」の裏手は傾斜角が45度以上もある急斜面だ。

そこに23.5mの巨大な巨石柱が立っている。しかもその柱は

3つの長方形の巨石が縦に積まれている。そしてメインの柱は2本ある。

頂上には、厚さ約2mの豆腐型の石が水平に載せられ、それは畳8畳分はある。

写真中の人間の大きさからその偉大さが分かるはずだ。

Copyright(C) 2001 by M-Taro

王位石の頂上部。

豆腐型の石は約2m大の土台石によって支えられている。

昔は、この王位石の上で神楽を舞ったそうである。

これほど明確な加工痕跡がある巨石も珍しいのではないだろうか。

遠野の続石ドルメンやのうがの高原塔岩などよりも、明らかに

人工が漂う。 しかし、そのテクノロジーは秘されたままだ。

最大の巨石柱は少なくとも100トンはある。

それらが10数個組み合わさっているのだ。

しかも平岳という山の頂上付近にある。

Copyright(C) 2001 by M-Taro

王位石から望む、対岸の小値賀島。

このライン上の海中に、 王位石と同様な巨石構造物がある…の…か!

Copyright(C) 2001 by

[8] 鳥島 (長崎県) - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B3%B6_(%E9%95%B7%E5%B4%8E%E7%9C%8C)

鳥島 (とりしま)は、 東シナ海 北東部にある3つの 島 から成る島嶼群である。 住所は 長崎県 五島市 鳥島となっており [ 要出典 ] 、 福江島 の南西約60km、 男女群島 から北西方向に35kmの海上に位置する長崎県最西端 [1] (沖縄県を除く九州最西端)の 無人島 である。全国各地にある「鳥島」と区別するために 肥前鳥島 (ひぜんとりしま)が俗称となっている。

概要 [ 編集 ]

肥前鳥島は、北小島(面積19平方メートル、標高9メートル)、中小島(面積80平方メートル、標高13メートル)、南小島(面積88平方メートル、標高16メートル)の3つの島から成る [2] [3] 、中小規模のビルディングに相当する大きさの島嶼群である。存在は古くから知られており、 海図 や歴史史料などにも明記されている。 1970年 に、行政が 福江市 鳥ノ島として登記簿に登記が行われた。 [ 要出典 ]

2006年 には、 国土地理院 などの働きかけで「鳥島」が統一呼称となった(登記簿は鳥ノ島)。肥前鳥島の住所は長崎県五島市浜町である。 [ 要出典 ]

産業 [ 編集 ]

この島の周辺海域は クロマグロ の幼魚(ヨコワ)、ブリ、ヒラマサ、 クエ (アラ)等の好漁場として知られ、地元の漁船により漁業の操業が行われているが、中国漁船による違法操業も行われている [4] [2] 。

また、底物の釣果に恵まれる釣り場として有名であり、釣り人にすれば「憧れの磯」である。しかしながら、 海況 、 天候 に阻まれ上陸のチャンスが限られているという。シーズン中の3月から6月までは 五島列島 の渡船組合が瀬渡しを行っているため、民間人でも渡船組合の船に便乗すれば肥前鳥島に渡航可能である。 [ 要出典 ]

地形 [ 編集 ]

新第三紀 深成岩 の 花崗斑岩 などからなっている。

歴史 [ 編集 ]

かつては米軍の演習区域で、射撃場として利用されていた。

排他的経済水域基点問題 [ 編集 ]

この島は、日韓両国政府から 国連海洋法条約 による「 島 」には該当せず、「 岩 」であるとして、 排他的経済水域 (EEZ)策定のための基点にされていなかった。これは面積が小さく、海上プラットフォーム建設や埋め立て工事を実施しない限り、肥前鳥島には人が居住することもできないためである。日本海の 竹島 も、同

[9] 五島沖の3島、「岩」から「島」に名称変更 EEZ基点を明確化+(1/2ページ) - MSN産経ニュース, , http://sankei.jp.msn.com/politics/news/131203/lcl13120319300001-n1.htm

長崎県五島市は、五島列島沖の東シナ海にある「岩」の名称を持つ3つの島について、名称を「島」に変更する方針を固めた。3島は通称・肥前鳥島を構成しており、日本の排他的経済水域(EEZ)設定の基点となるが、韓国側は「岩なので基点にならない」と主張していた。島周辺では中国や韓国の漁船の違法操業が常態化しており、島に名称を変更することで日本のEEZ内であることを明確に示す狙いがある。 肥前鳥島は、五島列島の西60キロの東シナ海上の無人島。「北岩」「中岩」「南岩」の3つの島(計187平方メートル)で構成される。 五島市は、3島の名称をそれぞれ「北小島」「中小島」「南小島」に変更する方針。野口市太郎市長が9日に開会する市議会で名称変更を表明した上で国土地理院に名称変更を申請することにしている。3月末までに国土地理院と海上保安庁の地名等の統一に関する連絡協議会で認められ、正式決定する運びだという。 肥前鳥島周辺はヨコワ、ブリ、アラなどの好漁場で知られるが、この数年、周辺での中国船や韓国船の違法操業が常態化。平成23年11~12月には、長崎海上保安部が付近の領海内に侵入した中国漁船2隻を相次いで摘発している。

[10] 鳥島 (長崎県) - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B3%B6_%28%E9%95%B7%E5%B4%8E%E7%9C%8C%29

鳥島(とりしま)は、東シナ海北東部にある3つの島である。住所は長崎県五島市鳥島となっており、福江島の南西約60km、男女群島から北西方向に35kmの海上に位置する無人島である。全国各地にある「鳥島」と区別するために肥前鳥島(ひぜんとりしま)が俗称となっている。

概要[編集]

肥前鳥島は、北岩、中岩、南岩の3つの岩礁から成る。この3つの岩礁の高さは標高16mであり、面積は3つ合わせて187平方メートルと、中小規模のビルディングに相当する大きさである。存在は古くから知られており、海図や歴史史料などにも明記されている。1970年に、行政が福江市鳥ノ島として登記簿に登記が行われた。

2006年には、国土地理院などの働きかけで「鳥島」が統一呼称となった(登記簿は鳥ノ島)。肥前鳥島の住所は長崎県五島市浜町である。

観光[編集]

この岩礁は、底物の釣果に恵まれる釣り場として有名であり、釣り人にすれば「憧れの磯」である。しかしながら、海況、天候に阻まれ上陸のチャンスが限られているという。シーズン中の3月から6月までは五島列島の渡船組合が瀬渡しを行っているため、民間人でも渡船組合の船に便乗すれば肥前鳥島に渡航可能である。

男女群島および鳥島問題(排他的経済水域基点問題)[編集]

この島は、日韓両国政府から国連海洋法条約による「島」には該当せず、「岩」であるとして、排他的経済水域(EEZ)策定のための基点にされていなかった。これは面積が小さく、海上プラットフォーム建設や埋め立て工事を実施しない限り、肥前鳥島には人が居住することもできないためである。日本海の竹島も、同様の理由で現在のところEEZの基点にはなっていない。

1978年に、日韓両国政府は肥前鳥島沖から済州島沖にかけての東シナ海に埋蔵されているとされる石油および天然ガスに関して、これを両国が分かち合うべく日韓大陸棚協定(日韓大陸棚共同開発協定)を締結し、現在に至る。

しかし、2006年6月に開かれた日韓間の排他的経済水域(EEZ)境界線画定交渉において、韓国政府が同様に岩として基点にしていなかった竹島を、従来主張していた鬱陵島から変更すると主張したため、日本政府も対抗して日本側のEEZの基点として肥前鳥島を主張する意向を韓国側に伝えたとされている[1]。

海上保安庁では、2010年頃から男女群島および肥前鳥島について重大な関心を

[11] 野崎島来島 ご来島の前に | 野崎島 - Nozaki Island -, , http://nozakijima.jp/before_visit.html

【重要】ご来島をお考えの方へ

野崎島は、ほぼ無人の島です。安全で快適な島旅をお過ごしいただくため、以下の3点をご確認ください。

"野崎島への基本的なアクセスは 九州本土(佐世保港・博多港など)または五島列島(福江島・中通島など)―小値賀島―野崎島です。

小値賀島―野崎島のアクセスは町営船「はまゆう」が一日往復2便のみとなります。

ただし、町営船「はまゆう」は運休日(月2回程度・不定期)がございますので事前にお問い合わせください。

※チャーター(瀬渡し)船は随時運行可能です

(要事前予約。小値賀島―野首港間・片道1万円)。

※天候によっては野首港に着かない場合、野崎港接岸になり

料金が15,000円となります。

野崎島は手つかずの自然が残る、ほぼ無人状態の島です。

野生動物や虫、落石などの危険が伴う箇所もあります。

自然のなかに入る心得として、しっかりとした装備(服装・持ち物。詳しくはこちら「野崎島への服装&持ち物」)のご確認をお願いいたします。

また、野崎島へ渡航される際は、安全管理上、事前に、おぢかアイランドツーリズムまでご連絡くださいますよう、お願いいたします。

おぢかアイランドツーリズム

TEL:0959-56-2646 (あさ9:00~よる18:00)

旧野首教会は防犯上施錠されているため、旧教会内部はご覧いただけない場合がございます。内部の観覧を希望される場合も、必ず事前におぢかアイランドツーリズムまでご連絡ください。

天候の影響を受けて、小値賀―野崎間の町営渡船「はまゆう」はダイヤが乱れる場合がございます(朝の船が出ても、午後の便が出ないと、ほぼ無人状態の島にとりのこされる、ということにもなりかねません)。

事前に渡航のご連絡をいただいたお客様には、数日前に渡航困難の可能性がある場合には、その旨ご連絡させていただくなど、できるかぎり、スムーズな島旅のお手伝いをさせていただいております。野崎島への渡航の際には必ず事前にご連絡をお願い致します。

おぢかアイランドツーリズム

〒857-4701

長崎県北松浦郡小値賀町笛吹郷2791-13 小値賀港ターミナル内

TEL:0959-56-2646 (あさ9:00~よる18:00)

[12] 野崎ダム[長崎県] - ダム便覧, , http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=3096

五島列島の野崎島にあり、「承水路」と呼ばれる雨樋のような水路で自然水が集められてダムに貯水し、海底のパイプラインを通って隣の小値賀島に送水され、かんがい用水として使われる。

[13] 王位石(おえいし), , http://hifumi.sakura.ne.jp/powerspot96.html

高さ約24メートルあるこの王位石は、『沖の神津神社』(五島列島で最も古い)の御神体になります。野崎島自体がかつては神島と呼ばれ、信仰の中心でした。それに相応しくこの島全体の波動が非常に高く、巨石を使った磁場調整の跡がいくつか見られます。

野崎島写真集へ また、自然学塾村で宿泊することもできますし、こちらで山蛭やマムシ対策も親切に教えてくれます。

[14] 奥吉野方言 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%90%89%E9%87%8E%E6%96%B9%E8%A8%80

奥吉野方言 (おくよしのほうげん)は奈良県南部、 十津川村 周辺で話される 日本語の方言 である。周囲とは特徴の異なる 言語島 となっている。奈良盆地の方言とは特徴が大きく異なる。( 奈良弁 も参照。)

アクセント [ 編集 ]

京阪式アクセント である 近畿方言 の中にあって、奥吉野方言は内輪 東京式アクセント である。京阪式アクセントとの隣接部では 垂井式アクセント 等が分布する。

文法 [ 編集 ]

近畿方言と共通する特徴の他、独自のもの見られる。

断定助動詞は他の近畿方言と同じく「や・じゃ」であるが一部「だ」も見られる。十津川村・下北山村には「かあて(書いて)」「なあて(泣いて)」のような音便がある [1] 。天川村洞川には「とんだ(研いだ)」「つんだ(注いだ)」のようなガ行撥音便があり、天川村坪内にはその前段階とみられる「とい ん だ」、黒滝村桂原には両者を合わせた「とんだ/といんだ」がある [2] 。十津川村・旧大塔村・下北山村には「のおで/のお ん で/のおんで(飲んで)」のようなバ・マ行ウ音便がある [3] 。またサ行イ音便は天川村洞川では徹底して音便化する [4] 。

脚注 [ 編集 ]

^ 飯豊毅一・日野資純・佐藤亮一編『講座方言学7 ―近畿地方の方言―』国書刊行会、1982年、118頁。

^ 飯豊・日野・佐藤編 (1982)、131頁。

^ 飯豊・日野・佐藤編 (1982)、132頁。

^ 飯豊・日野・佐藤編 (1982)、131頁。

[15] 甑島列島 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%91%E5%B3%B6%E5%88%97%E5%B3%B6

歴史 [ 編集 ]

古代・中世 [ 編集 ]

甑島列島には約8000万年前の 白亜紀 の地層が残っている。日本国内では初めて ケラトプス の化石が発見され、アジアを見渡しても貴重な発見とされている。恐竜の化石が発見されたのは鹿児島県で初めてであり、藺牟田にある地層からは 翼竜 や ワニ など爬虫類の化石も発見されている [19] 。 上甑島 の 里 遺跡は、甑島列島唯一の 縄文土器 が出土した遺跡である [20] 。上甑島の里遺跡、 江石 遺跡、 桑之浦 遺跡、下甑島の 手打 遺跡、 片野浦 遺跡からは 弥生土器 、 土師器 、 須恵器 などが出土している [20] 。

上甑島の桑之浦には 神功皇后 の 三韓征伐 に関する伝説が残る [21] 。 奈良時代 には薩摩 隼人 族の一根拠地(甑島隼人)だったと推測される [21] [3] 。 平安時代 初期に編纂された『 続日本紀 』が「甑島」という名の初出であり [5] 、 遣唐使 船が甑島に停泊したことが記された [21] 。平安中期に編纂された『 和名抄 』には「甑島郡管管」、「甑島」という名前が登場する [21] 。甑島列島の各地に 平家の落人 伝説が残っている [21] 。 鎌倉時代 中期から370年間、13代に渡って 小川氏 が統治を行ない [22] [12] 、この時代から行政単位が上下(上甑島・中甑島、下甑島)ふたつに区分された [21] 。里には 承久の乱 で功績を挙げた小川季直が築城した亀城(かめじょう)があり、近隣の鶴城と合わせて鶴亀城と呼ばれている。1595年(文禄4年)、小川氏は本土の 日置郡 田布施(現 南さつま市 )に移封されて甑島の統治から離れた [23] 。

近世・近代 [ 編集 ]

江戸時代 には 島津藩 の直轄地となり、島津藩が採用した 外城制 の枠組みの中で 地頭 (領主)が派遣された。里・ 中甑 ・手打には地頭仮屋が置かれ、ひとつの集落の中に士族の居住地である麓、農民の居住地である在、漁民の居住地である浜が置かれた [24] [22] 。藩政時代には下甑島東岸の金山海岸で銅・金・銀などの採掘が行なわれ [25] 、薩摩藩の 南蛮貿易 の中継基地にもなった [26] 。甑島列島は 天草 や 長崎 と同じく キリシタン 文化を受け入れた場所のひとつであり、1638年(寛永15年)には

[16] 無人島にある教会(世界遺産候補)を見に行って来た - デイリーポータルZ:@nifty, , http://portal.nifty.com/kiji/140425163949_1.htm

島に渡る船が小値賀(おぢか)島からしか出てないので、まずはそこまで行かねばならない。が、長崎(市)から直接行く船はなく、上五島を経由するか、佐世保から行くしかない。

ということで、長崎→佐世保→小値賀島→野崎島というルートで行った。ちなみに長崎=佐世保はJRでおよそ2時間。佐世保=小値賀は高速船で約1時間半かかった。

小値賀島から野崎島へと向かう便は、朝7:25と午後14:30の2便しかない。で、帰りの佐世保に戻る船の時間など諸々の時刻表と照らし合わせると、長崎からだと2泊3日の旅程になることがわかった(県内なのに!)。

事前にネットで調べてみると、野崎島は無人島としては異例なほど、WEBサイトが充実している(→ 野崎島のWEBサイト )。そこに、「渡航の際には必ず事前にご連絡を」とあったのでまずは電話してみると、

「日帰りですか?泊まりますか?」

と聞かれた。

そう、なんとここ、無人島なのに泊まれるのだ。

「泊まることもできる」という話は以前にもどこかで聞いていたが、しかし野宿みたいな感じのハードルが高いやつかと思っていたら、ちゃんと宿泊施設があって電話でどっちにするか聞かれるくらいカジュアルなものだった。

値段は相部屋2500円、個室3500円。

無人島なのに宿泊施設があるって、どういう仕組みになってるんだろう?

面白そうなので泊まることにした。

また、島に泊まれば長崎から1泊2日で行けることもわかった。が、せっかくなので2泊3日にして24時間無人島に滞在できるスケジュールで行った。

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