[1] 秩父湖, 埼玉県道278号秩父多摩甲斐国立公園三峰線の二瀬ダム
二瀬ダム(ふたせダム)は埼玉県秩父市、一級河川・荒川の本流最上流部に建設されたダムである。 国土交通省関東地方整備局が管理する国土交通省直轄ダムで、荒川水系では初となる多目的ダムである。高さ95.0mの重力式アーチダム。荒川の治水と埼玉県北西部の既得農地に対する農業用水補給および県営の水力発電が目的である。浦山ダム(浦山川)や滝沢ダム(中津川)と共に荒川上流ダム群を形成している。ダムによって形成された人造湖は、秩父宮妃によって秩父湖(ちちぶこ)と命名された。秩父多摩甲斐国立公園に指定されている。
左上:ダム左岸から遊歩道方面の映像
右下:遊歩道からダム左岸方面の映像
撮影機材:HDR-CX560V + audio-technica AT9941
平成27年04月24日
発注情報
一般競争入札の公示(物品・役務)「H27自動車(1500CC級、4×4D 5人乗り)交換購入」を追加しました。
平成27年03月24日
その他
平成26年度(26年4月-27年3月)水質調査データを公開しました。
平成27年03月18日
公表・報告
船舶の放置行為に罰則が適用されます! 〜荒川水系の国が管理する区間で指定〜
平成27年02月16日
その他
荒川ふれあいログハウスの使用について
平成27年01月19日
その他
秩父湖の水辺から… 雪が降りました。(H27.01.19)
平成27年06月10日 �荒川上流河川事務所/大宮国道事務所 /二瀬ダム管理所
その他
〜大規模地震、洪水などの災害に備えて〜 「災害対策用機器の操作講習会」を実施します。
平成27年05月08日 �二瀬ダム管理所
河川
第26回「みどりの愛護」功労者国土交通大臣表彰の受賞について
平成27年04月20日 �荒川上流河川事務所/荒川下流河川事務所 /二瀬ダム管理所
河川
第3回荒川河川整備計画有識者会議の開催について
平成27年03月23日 �荒川上流河川事務所/荒川下流河川事務所 /二瀬ダム管理所
河川
「荒川河川整備計画(骨子)」に対する意見募集の実施について
平成27年03月23日 �荒川上流河川事務所/荒川下流河川事務所 /二瀬ダム管理所
河川
第2回荒川河川整備計画有識者会議の開催について
携帯版 二瀬ダムホームページ
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本日のダム諸量
二瀬ダムの今日の諸量情報を掲載しています。
二瀬ダム管理所移転のお知らせ
二瀬ダム管理所は平成24年4月23日をもちまして移転いたしました。 二瀬ダム脇トンネルの手前へ移転しましたので、ご来所の方はご注意下さい。 駐車場は管理所の道路を挟んだ向かい側をご利用下さい。 住所:秩父市大滝3931−1
駒ヶ滝隧道のほぼ中間地点にある隧道内分岐。
まずは、ここを左折することにした。
この先は県道278号となる。
出口は近く、約50mほどで達する。
脱出。
数分ぶりに静かな外の空気に接し、ホッとする。
が!
今のトンネルって、自動車専用だったの?!
坑口にばっちり、標識があるんだけど…。
もしかして俺、 やっちゃった?
どうやら、やってしまったようである …orz
いや! でも!
言い訳するとさ、秩父側の坑口には無かったぜ、この標識。
後でもう一度探してみたんだけど、やっぱりなかった。
ただ例の、工事で封鎖された遊歩道(封鎖状況)があったから、本来ならば歩行者(チャリも)は“事情を察して”そちらへ廻れってな訳だろう。
そして、その遊歩道というのは、工事中の区間と二瀬隧道を通って、右の写真の歩道橋に出てくるようである。
この歩道橋の降り口が写真のフレーム外すぐ左にあって、トンネルに入らずとも二瀬ダムへと来ることが出来るようになっている。
複雑なので、次の地図もご覧頂きたい。
現在地は、地図中央付近の「3875」という数字が書かれたそのすぐ左の信号機の場所だ。
歩道は地図に描かれていなかったが、私が書き足した。
また、この地点からは「道A」と「道B」の二本の道が分かれているように地図では描かれているが、現地での私は最後まで「道A」の存在に気付かなかった。
単に駐車場やダムの展望台スペースだと思っていた部分が、実は抜け道だった事になるが、ともかくこの「道A」は西側からの一方通行路で、現在地から車では入ることが出来ない。
まとめよう。
この駒ヶ滝隧道は、実は自動車専用の隧道だった。
歩行者や自転車がとるべきルートとは、私と同じで東側から通り抜ける場合だが、まず遊歩道を通って現在地へ来て、そこからは「道A」で西へ抜けるのである。
これならば、駒ヶ滝隧道へ入る必要はない。(ただ何度も言うように、駒ヶ滝隧道東口に規制標識がないので、自転車は私のように入ってきてしまうケースが少なくないと思われる。歩道は一部階段だし…。)
先ほどと同じ写真だが、ポイントをハイライトしてみた。
実は、普通に県道を素通りすると気づきもしないのだが、ここにも信号機が設置されている(地図には描かれているが)。
そして、これらの信号機はそれぞれ、「道A」から来たドライバ
首都高では当たり前のトンネル内分岐…それが、山深い秩父・旧大滝村に! そんなトンネルへ、15年振りに♪
ここが、国道140号・駒ヶ滝隧道(トンネル)のある秩父湖(二瀬ダム)前。左手には、無料大駐車場…
15年前に来た時は、もう少し、活気があったような…。時代の流れっすなぁ…
このドライブインで、アイスキャンディを買って、元カノと食べたっけ…。今じゃ、現場事務所に…(/--)/
そんなことを思い出しながら、メインディッシュの駒ヶ滝隧道は、後の楽しみに取って、二瀬(ふたせ)ダムの散策から♪ 右上画像の矢印の部分が、そこへの道っす…。
トンネルを見たい方も、暫しのお付き合いを…(*^_^*)
秩父湖と名付けられた人造湖。観光名所にしているのでしょうが…(-_-#)
周辺道路工事中のため、民家の軒先のほうへ、誘導されます…(゚゚;)エエッ
人が住んでいるアパートの前かと思ったら、「官」所有の廃墟でした…(;゚゚)ウッ! ぜ、ぜ、税金が…(/--)/
歩行者専用の小さなのトンネル…二瀬トンネル。カビが生えてて、ちょっち嫌かも…(^o^;)
反対側は、こんな感じ。その下に、旧道?がありました。強行突破も考えましたが、管理棟から丸見えなので…(^O^;)
トンネルを抜けて、左側には、工事中の橋が…。完成すれば、トンネル不要で、ダム堤体上へ抜けられます…ってことは、トンネル内分岐は、廃止に? すると、分岐部は、廃トンネルと化して、マニアの訪問が増えるかぁ…(^o^;)
観光案内図と、しっかりとしたケースの中に、パンフレットが… 1枚戴きました♪ これが、後の悲劇に…(゚゚;)エエッ
遊歩道を下り、振り返ると、そこには、トンネル内で分岐した坑道の出口が…
二瀬ダム側の坑口です。建物の下に、トンネルの坑口があるって、微妙…(^o^;)
坑口は、小さく見えても、そこそこの大きさ。振り返ると、ダム堤体上…あっ\(◎o◎)/!
堤体上は、県道になっていて…歩いているのは、私だけ…(^o^;)
下流側の眺望…
ダム湖側の眺望…広さよりも、深さのダム湖なんでしょうか?
私と、ほぼ同世代のゲートが、新品のように…私は、既にボロボロ…(゚゚;)エエッ
すげー高さです…(@_@) ○玉が、縮み上がります…(^O^;) ちなみに、黒部ダムと同じ、アーチ式のダム…と思っていたのですが、編集中に調べてみると
埼玉県道278号秩父多摩甲斐国立公園三峰線(さいたまけんどう278ごう ちちぶたまかいこくりつこうえんみつみねせん)は、埼玉県秩父市荒川地区から同県秩父市大滝地区に至る県道である。
終点近くでは二瀬ダムの天端を通り、この付近では信号機による交互一方通行となっている。終点の国道140号との交点はトンネル内にある。
歴史[編集]
荒川は、江戸時代初期以前は現在の元荒川の川筋を通っていた。つまり関東平野に出たのち東へ下り、武蔵国・下総国境付近(今の越谷市・吉川市周辺)で南流していた利根川と合流、そこから合流と分流を繰り返しながら江戸湾(現在の東京湾)に注ぐ川だった。「荒」という名の通りの暴れ川でしばしば川筋を変え、下流域の開発も遅れていた。本流が今の綾瀬川を流れていた時代もあるが、戦国時代に水路が掘られて東の星川に繋がれ、綾瀬川と分流した[2]。
利根川東遷事業[編集]
1629年(寛永6年)に関東郡代の伊奈忠治らが現在の熊谷市久下で河道を締切り、和田吉野川の河道に付け替えて入間川筋に落ちるようになった。元の河道は、熊谷市で荒川から離れて吉川市で中川と合流する元荒川となっている。同時期の工事で利根川は東に瀬替え(利根川東遷事業)して古利根川流路から江戸川の流路を流れるようになった。付け替え後の荒川(元の入間川)は、下流で現在の隅田川の河道を通っていた。この部分は流速が遅く、台風で大雨が降るとしばしば溢れて江戸の下町を水浸しにした。明治時代の調べでは、大雨の際、熊谷市と川口市で最高水位に達する時刻の差が48 - 60時間あった[3]。洪水が人や家を押し流すことはないが、浸水による家屋と農作物の被害は深刻であった。しかし、荒川の舟運にとってはこの瀬替えによって水量が増えたことにより物資の大量輸送が可能となり、交通路としての重要性を高めた[4]。
荒川放水路[編集]
荒川放水路(あらかわほうすいろ)は、荒川のうち、岩淵水門から、江東区・江戸川区の区境の中川河口まで開削された人工河川を指す。途中、足立区千住地区、および墨田区・葛飾区の区境を経由し、全長22 km、幅約500 mである。1913年(大正2年)から1930年(昭和5年)にかけて、17年がかりの難工事であった。
計画に至る過程[編集]
明治43年(1910年)8月5日ごろから関東地方では長雨が続き、11日に房総半島をかすめ太平洋上へ抜けた台風と、14日に甲府から群馬県西部を通過した台風が重なり、荒川(現隅田川)を含む利根川や多摩川などの主要河川が軒並み氾濫し、死者769人、行方不明78人、家屋全壊2,121戸、家屋流出2,796戸に上る関東大水害が発生した。利根川左岸上五箇・下中森の破堤により群馬県邑楽郡一帯に被害が集中したほ
奥秩父にある国道140号線の「駒ヶ滝トンネル」です。国道のトンネルらしからぬ独特な雰囲気や関東圏にあることから分岐トンネルの中でも知名度が高いトンネルです。秩父と甲府を結ぶ国道140号線に三峰神社に向かう埼玉県道278号秩父多摩甲斐国立公園三峰線がトンネル内で合流する形になっています。
秩父市街より国道140号線を甲府方面に車を走らせ二瀬ダムの手前までやってきました。
…訪問時は夏休みのうえお盆休みが重なった時期だったのですが閑散とした雰囲気でした。90年代に何度か来たことがあるのですが当時はいつ来ても写真の辺りは信号待ちの車で大渋滞してたのでちょっと意外でした。
「駒ヶ滝トンネル」東側の坑門です。坑門と書きましたが、民家と民家の間の石垣にトンネルが口を開けているような感じです。(扁額があるのか見てくるのを忘れていました…)
トンネルを通行する自動車は写真左の信号機に従うことになります。
Part1からの続きです。 改めて駒ヶ滝隧道の坑口を見てみます。 とても現役国道のトンネルとは思えない高さ、幅員です。 ここを大型バスが平然と通っているのに驚きです。 バスの中からだとトンネルの側壁が間近に見られるでしょう・・・。 トンネル内へ向かうべく、停止線の位置へ車を移動。 この区間、意外と交通量は多く、一番前の場所に停まれるようタイミングを計りました。 停止車両から見える位置にあるこの看板の通り、待ち時間が長めです。 エンジンを停めて待っても良いくらいです。 一旦トンネルを通過し、甲府側へ。 トンネルを出た所に駐車スペースがあったのでそこへ車を停め徒歩で探索します。 甲府側にも当然ながら信号機が設置されています。 駒ヶ滝隧道甲府側坑口。 見た目が広そうですが、入った所で狭くなっている騙しトンネルです。 過去の写真を見ると、ここには自専道の標識があったようですが、当日は見当たりませんでした。。 それにしても秩父側に比べこちらはひっそりとしています。 あんなに秩父側では車がいたのに、一体ドコへ・・・。 上の写真で右側へ進むとなにやら駐車場のような場所に出ます。 そして奥にはダムの事務所が。 右へ目を遣るとそこにはダムが。二瀬ダムという名称です。 そしてその上には車が続々と・・・しかも大型バス!! 実はダム上の道は埼玉県道278号となっており、山岳信仰の霊場である三峰神社へと繋がっています。 隧道の秩父側にいた多くの車はこちらへと向かっていたのです。 ダムを渡ってきた車両は隧道内へ。そして内部でR140と合流します。 この隧道内分岐がアツかったのですが、写真を撮っている余裕がありませんでした。。 ダムの事務所の前にも信号機がありますが、ここが青になることはありませんでした。 いったいどのような制御になっているのでしょうか・・・。 トンネル上にある橋は歩道で、隧道秩父側の横へ出ることができます。 隧道編は以上です。 次回以降で隧道の先から現道交点までの"旧道編"をアップします。 旧道編へすすむ 探索日:23.10.23
トンネルが遠くに見えるこの場所から作業道として使われているであろう林道が分岐していた。
ちょと行ってみよう。
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隣接している自治体 [ 編集 ]
埼玉県の自治体では唯一、南隣の 東京都 と北隣の 群馬県 の両方に接している。他の4つの都道府県と接する市町村としては、秩父市以外には 岐阜県 高山市 と 京都府 南丹市 のみであり、大変珍しい。
埼玉県
飯能市
比企郡 ときがわ町
秩父郡 小鹿野町 、 東秩父村 、 皆野町 、 横瀬町
児玉郡 神川町
群馬県
藤岡市
多野郡 上野村 、 神流町
東京都
西多摩郡 奥多摩町
山梨県
甲州市
山梨市
北都留郡 丹波山村
長野県
南佐久郡 川上村
歴史 [ 編集 ]
708年 ( 和銅 元年)に、現在の埼玉県秩父市黒谷にある 和銅遺跡 付近から、和銅(にきあかがね、純度が高く精錬を必要としない 自然銅 )が産出し、 朝廷 に献上された事を記念して、「 和銅 」に 改元 するとともに、 和同開珎 が作られたとされる。
秩父盆地 の中央にあることから古くから物資の集散地として、また 秩父神社 の 門前町 として栄えた。そのためかつては 大宮郷 (おおみやごう)と呼ばれ、 自治体 名も 1915年 までは 大宮町 (おおみやまち)であった。
1884年 ( 明治 17年)に 秩父事件 が起こる。同事件は、負債に悩む秩父の 農民 たちが結成した「 困民党 」と呼ばれる組織を中心とした武装蜂起であり、最盛期には小鹿野・吉田、さらには郡都大宮郷(現在の秩父市)等を武力占拠した。これに対し 政府 は、 警察 ・ 憲兵隊 、最終的には 東京鎮台 まで動員し、徹底的な武力鎮圧を図った。事件後の 裁判 の結果、 死刑 7名を含む4000名余が 処罰 された日本史上最大規模の民衆蜂起とされる。
1873年 ( 明治 6年) - 大宮学校(秩父第一)・郷平学校(太田)・浦山小学校が開校する。
1874年 (明治7年) - 久那学校が開校する。
1875年 (明治8年) - 影森学校が開校する。
1878年 (明治11年) - 市街地 にて 大火 がおこり44軒が焼失する。
1884年 (明治17年) - 大宮学校の 校舎 (現:民俗博物館)が竣工する。
1885年 (明治18年) - 知新学校(尾田蒔)・旭小学校(原谷)・高篠小学校が開校する。
1886年 (明治19年) - 秩父新道(本庄 - 大宮郷間)が開通する [1] 。
1889年 (明治22年) 4
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