那覇港

那覇港

[1] 那覇港

Webページ

[2] 守禮之邦便り保存箱2, , http://home.b-star.jp/~deepdive/shurei2.htm

沖縄本島は右図のように北東から南西に延びる細長い島で、西側が東シナ海、東側が太平洋に面しています。

一番狭いところは中部。恩納村(西側)と金武町(西側)の辺り、直線距離にして4キロを切ります。

今日は歩いて太平洋岸まで行ってみようという訳です。那覇市から一番近い太平洋岸は与那原(よなばる)町です。

戦前は那覇から与那原までの9.4キロに鉄路が敷かれ、蒸気機関車が客車と貨車をけん引し、約30分で両駅を結んでいました。

線路幅は日本で標準的に使われている1,067mmより狭い762mmの軽便鉄道で、「ケービン」と呼ばれ親しまれていました。

大正3年に与那原線が開通後、嘉手納線、糸満線も開通しましたが、沖縄戦で破壊され、戦後、廃止届も出されぬまま自然消滅しました。

[3] 西のアザナ |「テンペスト」沖縄観光ガイド - Walkerplus, , http://sp.walkerplus.com/tempest/13.html

「アザナ」とは、遠くを見渡すために設けられた物見台のことです。東西に長い首里城には、敷地の両端に「東のアザナ」と「西のアザナ」があります。標高約130メートルに位置する「西のアザナ」は、木曳門(こびきもん)の南側に位置していて、城内を見渡すことができます。また、城外を見渡せば眼下に那覇市の街並みが広がり、晴れた日には慶良間諸島まで一望することができます。

かつて「西のアザナ」は「島添(シマスイ)アザナ」とも呼ばれており、その意味については「浦々を支配する」と「浦々を擁護する」の2説が存在しています。この「西のアザナ」でも、「東のアザナ」や「右掖門(うえきもん)」と同様に、1879年の琉球処分まで「漏刻門(ろうこくもん)」の時を報せる太鼓に呼応して、同時に鐘を打って城下に時刻を報せていました。

多喜良らが那覇港に来航するペリー艦隊の一団を、ここから眺めました。ペリーの帰国後、寧温と朝薫が2人で海を眺めるシーンもここです。

那覇港を埋め尽くすように碇泊(ていはく)する大艦隊は王宮からもはっきりと肉眼で捉えられた。

「おいおい今度は大艦隊だぞ」

多嘉良(たから)が物見台の西のアザナから那覇港を見下ろしている。黒い船団に埋め尽くされた那覇港は無数の橋がかかっているように見えた。

(第十三章 大統領の密使:単行本下巻151ページ 文庫本第三巻213ページ)

寧温と朝薫は西のアザナから東シナ海を眺めた。那覇港に佇(たたず)む黒船は艦隊の大部分を琉球に残した。しかし台風の目のペリー提督がいなくなっただけで穏やかさを取り戻したように見える。

(第十四章 太陽と月の架け橋:単行本下巻212ページ 文庫本第三巻302ページ)

[4] 首里城 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%96%E9%87%8C%E5%9F%8E

首里城の創建年代は明らかではない。近年の発掘調査から最古の遺構は14世紀末のものと推定され、三山時代には中山の城として用いられていたことが確認されている。おそらく、13世紀末から14世紀のグスク造営期に他の沖縄の多くの城同様に成立したものと考えられる。 尚巴志が三山を統一し琉球王朝を立てると、首里城を王家の居城として用いるようになった。同時に首里は首府として栄え、第二尚氏においても変えられることはなかった。

史書で記録されている限りでも、首里城は数度にわたり焼失しており、そのたびに再建されてきた。その度に木材の調達が問題となり、薩摩藩からの木材提供で再建を行ったり、将来の木材需要を見越して本島北部での植林事業を行ったりしている。一度目の焼失は1453年(享徳2年)に第一尚氏の尚金福王の死去後に発生した王位争い(志魯・布里の乱)であり、城内は完全に破壊された。二度目の消失は1660年(万治3年)のことであり再建に11年の年月を要した。しかし1709年(宝永6年)に三度目の火災が起き正殿・北殿・南殿などが焼失した。この時は財政が逼迫しており、1712年(正徳2年)に薩摩藩から2万本近い原木を提供された。現在見る首里城の建築は、三度目の火災の後再建された1715年(正徳5年)から1945年(昭和20年)までの姿を基にしている。なお、1712年(正徳2年)発行の「和漢三才図絵」(寺島良安・編)には首里城が「琉球国」の項の挿絵(地図)のなかに描かれている[1]。

1879年(明治12年)の沖縄県設置に至る琉球処分以後は、正殿など首里城の建物は政府の所在地としての役割を喪失し、日本陸軍の第6師団(熊本)の軍営として、その後は首里区(後の首里市)に払い下げられ、学校などとして利用された。

王宮でなくなった首里城は急速に荒廃が進み、老朽化が激しく崩壊寸前の状態になった。既に門のいくつかは取り壊されており、正殿の取り壊しも検討された。しかし、伊東忠太、鎌倉芳太郎ら関係者の奔走により保存が決定され、昭和初期(1928年(昭和3年) - 1933年(昭和8年))に正殿の改修工事が行われて国宝に指定され、県社沖縄神社の社殿となり源為朝と歴代国王が祀られた(源為朝が琉球へ逃れ、その子が初代琉球王舜天になったという説がある[2])。

太平洋戦争中の沖縄戦において日本軍が首里城の下に地下壕を掘り

[5] 首里城 〜西(いり)のアザナ〜 ( 沖縄県 ) - Sherry☆ のよんな〜な日々 - Yahoo!ブログ, , http://blogs.yahoo.co.jp/mxpdj189/5695373.html

皆さん、お盆期間中はゆっくり過ごせましたか

内地では今日が 「送り盆」 ですが、沖縄は昨夜の ウークイのウチカビ炊きやエイサーで終わりました。

ご先祖様も沢山のお土産を持って、楽しく帰られた事でしょうね

また来年帰って来てくれる時には、少しでも何か良い報告が出来る様に精進しておきたいと思ってます。

首里城の京の内に近くに 《西のアザナ》 があります。

*京の内の記事はこちら http://blogs.yahoo.co.jp/mxpdj189/5620347.html

西(いり)のアザナ

標高130mの城郭の西側に築かれた展望台(物見台)で、ここからは那覇港の様子を望む事が出来ます。

首里城内をはじめ、那覇市街地や慶良間(けらま)諸島が一望できます。

別名『島添アザナ』ともいい、往時にはここに旗を立て、鐘を備えて時刻を報じました。

この西のアザナでは、昨年に引き続き 沖縄大学地域研究所 の学生さん達が のろしの実証実験 を行っています。 ※のろし=合図や警報のため、撒き・火薬などを用いて高くあげる煙のこと

かつて琉球王国では、琉球列島各地に通信施設として遠見台が設置され、海上を航行する船などを監視し、弾火による首里王国への通信・連絡を行っていました。

テンペストの中でも、この西のアザナから那覇港への “ペリーの黒船襲来”を見たとされています。

残念ながら、今年も天候不良で実験は失敗に終わっています。

天候ばかりはどうしようもないもので、昔の人達は天候の悪い日などはどうやっていたのかと思います。

のろし実証実験の記事はこちら http://www.qab.co.jp/news/2011071929548.html (琉球朝日放送)

西のアザナから見える景色はこんな感じです。(3枚の写真を繋げているので見づらくてごめんなさい )

お天気が良かったら 残波岬(ざんぱみさき)まで見えるので、また晴れた日に行きたいです。

詳しい地図で見る

[6] 沖縄県 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84

概要[編集]

日本列島の南、南西諸島の内琉球諸島を占める地域である。南西諸島のうち、屋久島、種子島、トカラ列島、奄美群島は鹿児島県に所属する。それより南で大東諸島や尖閣諸島まで含む。気候は大部分の地域で亜熱帯に属し、宮古島・多良間島・石垣島・西表島・与那国島・波照間島・沖大東島などでは最寒月平均気温が18°C以上の熱帯に属する。

歴史的には、明治時代の琉球処分までは、薩摩藩を通じた日本の影響および中国大陸にある国家の冊封を受けた「両属」の国家体系を採る琉球王国であった。そのため、他の都道府県とは異なる文化・習俗が根付いており、これらを生かした観光産業が盛んである。また、国内有数の長寿地域としても知られ、その特有の食生活などを有する反面、アメリカ統治時代に根付いた食文化も色濃い。

太平洋戦争では、地上戦(沖縄戦)の末にアメリカ軍(米軍)が占領した後、1972年(昭和47年)までの四半世紀にわたり、一貫して米軍の施政権下に置かれた。沖縄の本土復帰後も、東アジアの軍事的抑止において地政学的・戦略的に重要とされることなどから、多くの米軍基地(在日米軍)が所在している。これら基地の返還や移設をめぐる諸問題は主要な政治問題の一つともなっており、近年においても普天間飛行場の移転先を巡る論争(詳細は普天間基地移設問題を参照)などの議論が続いている。

国土交通省は、「沖縄本島」を、「本土」5島の一つとしている[2][3]。ただし、沖縄では一般的に(漠然と)、本州を「本土」と呼んだり、あるいは、沖縄県を除く46都道府県のことを「本土」と呼ぶ場合もある。また、民間企業においても、特に運輸・輸送業界では、日本の都道府県で唯一陸路(道路・鉄道等)で他の都道府県との往来不可である地理的条件などから、県庁所在地の那覇市がある沖縄本島に対して、いわゆる離島料金を適用する事例も多い。

国土交通省による日本の14地域区分の1つである沖縄は、沖縄県1県のみから成る[4]。なお、「九州地方」の一部または「九州・沖縄地方」と呼ぶ場合もある。(九州・「九州」の由来参照)

中華人民共和国および中華民国(台湾)では、その帰属が日本にあるべきではないとする主張がある。(中華民国・沖縄県への認識 、中国人による沖縄県への認識参照)

名称[編集]

「おきなわ」という地名の由来は、「沖あいの漁場」を意味する「おき(沖)な

[7] 沖縄県 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E7%9C%8C

概要[編集]

日本列島の南、南西諸島の内琉球諸島を占める地域である。南西諸島のうち、屋久島、種子島、トカラ列島、奄美群島は鹿児島県に所属する。それより南で大東諸島や尖閣諸島まで含む。気候は大部分の地域で亜熱帯に属し、宮古島・多良間島・石垣島・西表島・与那国島・波照間島・沖大東島などでは最寒月平均気温が18°C以上の熱帯に属する。

歴史的には、明治時代の琉球処分までは、薩摩藩を通じた日本の影響および中国大陸にある国家の冊封を受けた「両属」の国家体系を採る琉球王国であった。そのため、他の都道府県とは異なる文化・習俗が根付いており、これらを生かした観光産業が盛んである。また、国内有数の長寿地域としても知られ、その特有の食生活などを有する反面、アメリカ統治時代に根付いた食文化も色濃い。

太平洋戦争では、地上戦(沖縄戦)の末にアメリカ軍(米軍)が占領した後、1972年(昭和47年)までの四半世紀にわたり、一貫して米軍の施政権下に置かれた。沖縄の本土復帰後も、東アジアの軍事的抑止において地政学的・戦略的に重要とされることなどから、多くの米軍基地(在日米軍)が所在している。これら基地の返還や移設をめぐる諸問題は主要な政治問題の一つともなっており、近年においても普天間飛行場の移転先を巡る論争(詳細は普天間基地移設問題を参照)などの議論が続いている。

国土交通省は、「沖縄本島」を、「本土」5島の一つとしている[2][3]。ただし、沖縄では一般的に(漠然と)、本州を「本土」と呼んだり、あるいは、沖縄県を除く46都道府県のことを「本土」と呼ぶ場合もある。また、民間企業においても、特に運輸・輸送業界では、日本の都道府県で唯一陸路(道路・鉄道等)で他の都道府県との往来不可である地理的条件などから、県庁所在地の那覇市がある沖縄本島に対して、いわゆる離島料金を適用する事例も多い。

国土交通省による日本の14地域区分の1つである沖縄は、沖縄県1県のみから成る[4]。なお、「九州地方」の一部または「九州・沖縄地方」と呼ぶ場合もある。(九州・「九州」の由来参照)

中華人民共和国および中華民国(台湾)では、その帰属が日本にあるべきではないとする主張がある。(中華民国・沖縄県への認識 、中国人による沖縄県への認識参照)

名称[編集]

「おきなわ」という地名の由来は、「沖あいの漁場」を意味する「おき(沖)な

[8] 波上宮 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E4%B8%8A%E5%AE%AE

波上宮(なみのうえぐう)は沖縄県那覇市にある神社。那覇港を望む高台の上に位置し、「なんみんさん」として親しまれてきた。琉球八社の一つで、全国一の宮会より琉球国新一の宮に認定されている。

祭神[編集]

『日本の神々 -神社と聖地- 13 南西諸島』[1]では、主祭神からも分かるように熊野信仰の系列に連なっており、また琉球王国の総鎮守であると述べている。現在も沖縄総鎮守として信仰されている。

主祭神

伊弉冊尊 (いざなみのみこと)

速玉男尊 (はやたまをのみこと) 左神座

事解男尊 (ことさかをのみこと) 右神座

相殿神

竈神(火神)

産土大神

少彦名神 (薬祖神)

歴史[編集]

当宮創建の年代は不詳である。しかし『琉球宗教史の研究』[2]では、琉球八社は真言宗寺院に併置され、その創建の由緒を見ると多くは社寺同時に創建されたものと考えられることから、当宮は察度王の御代、護国寺が開山した時期に創建されたのではないかと推測している。

『波上宮 略記』[3]では、遥か昔、人々が海の彼方の海神の国(ニライカナイ)の神々に豊穣や平穏を祈った聖地が当社の鎮座する波の上の崖端で、拝所として日々の祈りを捧げたのに始まると述べている。当地での遥拝に関して『海上の道』[4]では、波の上の丘陵の高みにおいて、毎年、日を定めてこの付近の居留者が各々の故郷の方角に向けて香炉を置き、自身の本国に向かって遥拝する「ネグミ拝み」と言う祭りが近代まで行われていたことを紹介している。

天啓3年(1623年、和暦では元和9年)完成の『おもろさうし 第十』には「国王様よ、今日の良き輝かしい日に聞得大君を敬って、国中の人々の心を集め揃え、石鎚金槌を準備して石を積み上げ、波の上、端ぐすくを造り聖地へ参詣し給えば、神も権現も喜び給う。」[5]と言う意味の“おもろ”がある。『おもろさうし 上』[6]はこの中に詠われる「波の上、端ぐすく」が当宮鎮座地であると解説し、『日本の神々 -神社と聖地- 13 南西諸島』[1]では当宮創建を詠った“おもろ”ではないかと紹介している。

『神と村』[7]では、グスクは古代祖先達の共同葬所(風葬所)であり、納骨洞穴が拝所になった場所は「テラ」と称される場合があると述べたうえで、上記“おもろ”[5]に記された「なみのうへ は げらへて はなぐすく げらへて ものまいり しよわちへ てらま

[9] 首里城一のビューポイント西(いり)のアザナJTRIP Smart Magazine OKINAWA, , http://www.jtrip.co.jp/magazine/okinawa/article/sight/449/

沖縄観光で首里城を訪れる人は多いのですが、

西(いり)のアザナまでしっかり楽しんで帰る人は

半数にも満たないかもしれません。

ここは無料区域内にある見どころの一つで、

首里城で一番のビューポイントなのです。

行くなら夕方、日没の時間帯がオススメ。

東シナ海に沈む夕日が見られます。

首里城の開園時間は季節によって異なるので、

事前に確認してから行きましょう。

手にスタンプを押してもらえば一時外出・再入場も可能。

開園時間によっては日没後、

ライトアップされた城内へ戻ることも可能です。

ちなみに首里城の有料区域に入るなら、

午後のほうがオススメです。

理由は二つ。

午前中は団体旅行の観光バスが多く、落ち着かないこと。

那覇市内に宿泊した団体は

朝一番に首里城へ来るパターンが多いため、

首里城公演の来場者数は午前中がピークなのです。

平日でも駐車場は満車になります。

もう一つは首里城正殿は東を背にして建っているため。

午前中は逆光になって、正殿前で撮る記念写真は

人物が黒くなる残念写真になりがちなのです。

(写真は夕方、順光の首里城正殿)

西のアザナの行き方

正殿・下の御庭方面から来る人は、

首里杜館(すいむいかん)・木曳門(こびきもん)に向かって

左手奥を目指してください。

木曳門から入った人は、正殿に向かって右手へ。

西のアザナって、どんな場所?

アザナとは島言葉で物見台の意味。

首里城には東西にそれぞれアザナがあり、

このうち現在は西のアザナのみ一般開放されています。

西のアザナには、島添アザナという別名もあります。

首里・那覇の言葉では、

お日様が上る東をアガリ、日の入る方角=西をイリといいます。

北はニシ、南はフェー

(地域によってハイ、ハエ、パイなどとも)。

文字通り、西方向に面した物見台が西のアザナで、

ここは標高の高い首里から、

北谷から那覇、豊見城、南風原、太平洋側の与那原までを

グルリと大パノラマで見渡せる場所。

王府時代は那覇港に入る船を見張ったり、

島伝いに烽火(のろし)で

伝えられる信号を見る場所でもありました。

末吉公園や儀保駅方向。

浦添の向こう側が北谷町。牧港の火力発電所も見えます。

ツインタワーマンションなどが並ぶ那覇新都心。

那覇市街地。那覇空港を

[10] JOBBB 168 沖縄ボラボラ�A 那覇市 写真と記事のページ, , http://jobbb.sakura.ne.jp/radio/168Okinawa-bora-bora2/Okinawa-bora-bora2-picturecaption01.html

沖縄ボラボラ�A 那覇市

写真と記事のページ

写真・記事・構成…馬場哲平/撮影機材…CANON 40D/取材協力:瀬口つぐみさん

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2011年3月25日(金)沖縄ボラボラ1日目の後半

只今那覇市内の大衆食堂にお邪魔しています!

出てきたのはAランチ。定員さんから受け取ったズシリと重い皿は確かなボリュームを約束してくれます。大阪でセコイ量の定食を見慣れているだけに非常に嬉しい気持ちになりますね。

しかし人一倍の食欲を誇る哲平でも完食するのには相当きつかったです。

ただ揚げたてのサクサク天ぷらや衣に甘辛い味がしっかりとついた豚カツなど、どれも空き腹にガツンとくる味で満足させていただきました!

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沖縄の大衆食堂の大きな特徴としてメニューの豊富さがあります。この「あやぐ食堂※綾語あやぐ とは沖縄の宮古諸島に伝わる古謡の総称だそうです。広辞苑より」では「おかずメニュー」「お魚メニュー」「ちゃんぷるメニュー」「そばメニュー」「丼・ごはんもの」「汁もの」など紹介するだけでもお腹一杯になるメニュー数を誇ります。しかも各メニュー内には10種〜30種もの定食が潜んでいます。

例えば「おかずメニュー」には茄子の味噌煮、すき焼き、てびち煮付、A・B・Cランチ、コロッケ定食、チキンカツ定食………と言った具合です。

1日1食だとしてもこの店の定食メニューを制覇するのには100日位かかりそうです。

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ユネスコ世界文化遺産にも指定された首里城目指して那覇市内をボラボラしましょう!食堂から15分程歩いたところに巨大なコンクリート建屋が一際目立つ、那覇市立首里中学校が現れました。

正門前から校舎の中に続くプランターには赤や白などの綺麗で鮮やかな花々が植わっており、その横を運動クラブの生徒たちが元気に走り抜けていきます。

それにしても沖縄で見るコンクリートのビルの多くは、なぜこのように薄汚れてカビっぽく変色しているんでしょうか?まぁ嫌いではありませんが…

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正門横の石碑によれば、首里中学の運動場には琉球王国時代(1372〜1879年)の最高女神官であった聞得大君(きこえおおきみ)の神殿と住居がありました。女神官は当時首里城にいた国王の長寿や、琉球王国の繁栄、五穀豊穣、航海安全などをこの場所で祈願したそうです。明治時代の廃藩置県で

[11] 首里城公園紹介動画「西のアザナ」 | 首里城公園 ‐ 琉球王国の栄華を物語る 世界遺産 首里城, , http://oki-park.jp/shurijo/1717

標高約130mの城郭の西側に築かれた物見台で、ここからは那覇の町や那覇港の様子、そして遠く水平線上に慶良間諸島などが展望できる。

別名「島添(しまそえ)アザナ」ともいい、往時はここに旗を立て、鐘を備えて時刻を報じた。城外、城内を眺望するには最高の場所である。

[12] おきなわ建築Web|沖縄 暮らしのでざいん研究会【野外ワーク・第1回首里城〜玉陵】, , http://www.okinawa-kentikuweb.com/special/okinawakurasi/work/01/index.html

2カ月に1度、沖縄のいろんなところを訪ね、ガイドさんと一緒に見たり聞いたりしています。

ここではその様子をご紹介します 。 →開催ご案内

「沖縄を“知る”野外ワーク」の第1季(シーズン)は世界遺産編として、世界遺産に指定されているグスクを中心にめぐります。目的は観光ではなく、“知る”こと。世界遺産を中心に沖縄県内をガイドする伊芸健さん(エミューツアープランニング)と、その場所の歴史や人にまつわるいろいろなことを見て聞いて、自分たちの足元を探る手がかりにしていきます。

第1回目は首里城と、第二尚氏王統の陵墓である玉陵(たまうどぅん)を訪ねました。

琉球王国の幾多の興亡を伝える歴史の証人である首里城。琉球の島々を治め、中国、日本、朝鮮、東南アジアの国々と外交、貿易を展開した首里王府の司令塔として、そして王とその家族たちが住む住居でもあった首里城は、華麗な王朝文化に彩られた城です。

玉陵は第二尚氏王統・第三代王・尚真が父・尚円を葬るために建築したものです。

沖縄のグスクはすべて築城年代が不明と言われています。

首里城は、14世紀に中山王察度が浦添城から移ってきたという説と、15世紀初め(1406年)に尚巴志が浦添城の中山王武寧を滅ぼした後に築いたとする説があるそう。尚巴志は首里城と浦添城、どちらを攻めたのでしょう?

下図は首里城全体の配置図です。ピンク色の実線で囲まれている部分は現在復元作業中の場所で、未開園区域となっています。 ● の部分は、今回私たちが見学した際に解説ポイントになった場所です。

守礼之門は首里城の入口。よく見ると5つの通路になっています。身分によって通れる通路が違っていたといわれているそうです。ちなみに中央が王族方、両端がお役人方、そのまた端が庶民…とか。

門をくぐって、首里城へ進みます。

最初の解説ポイントは「園比屋武御嶽」です。

石門の背後にある森が園比屋武御嶽です。

この御嶽は、国王が各地を巡航する旅に出る際に必ず拝礼した場所で、また聞得大君が就任するときに最初に拝礼した、国家の聖地でした。王家・尚氏ゆかりの島である伊平屋島の神「田の上のソノヒヤブ」を勧請し、祭っています。

もともとは今より広範な森だったそうですが、現在残されているのはその一部です。

首里城歓会門と守礼門との間にある園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいし

[13] 2004/07/26 那覇(2) 「地味な史跡めぐり(2):長虹堤『長虹秋霽』[1/3]」, , http://fromto.cc/hosokawa/diary/2004/20040726-naha2/

2004 年 7 月 26 日 (月) 那覇

長虹堤 〜琉球王国首都の「レインボーブリッジ」〜

ゆいレール美栄橋駅からの眺め。

現在の姿からはとても想像できないのですが、

ダイエー那覇店 (旧ダイナハ) のそばにある緑の丘、

そしてその前の何と言うこともない那覇の街の姿。

こじんまりとたたずむこの景色こそが、

国際貿易港であった那覇港から、

在りし日の琉球王朝の首都へと繋がる物流ルートとして利用された、

海中道路の痕跡の一部なのです。

それを描いたのが葛飾北斎『琉球八景』の 1 枚『長虹秋霽』です。

1451 年、首里城に脇にある人造湖「龍潭」を造営したことでも知られる、

中国人風水師であり国相の懐機は、尚金福王の命を受け、

湾に浮かぶ洲状の島で、当時「浮島」と呼ばれた那覇から、

首里までの冊封使節を向かえるルートとして、

現在の松山交差点付近から崇元寺付近に至る浅瀬に、

長さ1kmにもおよぶ海中道路を造営しました

(「浮島」の名は、現在でも「浮島通り」などの地名として残っていますよね)。

これは石造りの土手と 7 つの海水を逃すための水門 (= 橋) で構成され、

「長虹堤」と名付けられました。

「長虹堤」…、現代風に言えば「レインボーブリッジ」でしょうね。

所詮人間の考えることなど数百年経ってもそう変らないものです (笑)。

これで冊封使だけではなく、

那覇と首里の物流ルートが大幅に改善し、

近距離港として利用された泊港への物流も改善されました。

「長虹堤」の現在の場所に関しては、

松山一丁目にあったイビガマ (イベガマ、ヱビカマの表記もあり) という場所

(御嶽と思われる) から出発し、

美栄橋を通過して十貫瀬(じっかんじ)を抜けて崇元寺橋に至るルートである、

というのが通説のようで、これは現在でも資料さえそろえば簡単に検証できます。

あとで検証しましょう。

ちなみに崇元寺の建立は 1527 年とか 1572 年 (これはたぶん typo) とかいう説が Google では多数ですが、

よく読むと多くの記述では「1527 年と推測される」などと推測形になっています。

ちょっと資料を調べてみると疑問もあります。

以下は 琉球關係文書 七 元國事鞅掌史料 からの引用です。

これは薩摩藩の資料なので元号は日本の元号です

(琉球の資料であれば中国の元号が使用されてい

[14] 「第一尚氏王統三代の陵墓」を訪ねる! - 結〜つなぐ、ひらく、つむぐ〜, , http://blog.goo.ne.jp/nrai5029knai/e/19ba9e71ae7bc1de332526499b32bacb

結〜つなぐ、ひらく、つむぐ〜

身近な自然や社会との関わりを通して、マイペースで、新たな自分探しに挑戦しながら、セカンドライフ、スローライフを楽しむ。

読谷村旧伊良皆村落にある「第一尚氏王統三代の陵墓」を訪ねました。

1429年、当時、「北山・中山・南山」の三山に分かれていた琉球を、「尚巴志」が統一し、第一尚氏王統による琉球王国最初の統一王朝が成立しました。しかし、尚泰久王の子尚徳王のとき、前王の重臣であった金丸が王位に就き、第二尚氏王統に替わりました。そのとき、尚徳ゆかりの「平田子」や「屋比久子」が、第一尚氏王統の陵墓「天山陵」から遺骨を運び出し、読谷村伊良皆の「佐敷森」の岩陰に、第一尚氏の三王の遺骨を埋葬したといわれています。埋葬した平田子、屋比久子の墓も、三王の墓の近くに建てられています。

「尚巴志王(しょう はしおう、1372年 - 1439年6月1日、在位1421年 - 1439年)は、尚思紹王の子で、琉球王国・第一尚氏王統、第2代目の国王。神号は勢治高真物(せじたかまもの)。父・思紹、母・美里子の娘の長男として生まれる。父の思紹は、「鮫川大主(さめかわうふぬし)」ともいわれ、伊平屋島から馬天港へ渡ってきた。21歳のとき、父の後を継いで南山の佐敷按司となる。1406年、中山王武寧を攻撃して察度王朝を滅亡させ、首里(現在の那覇市)を首都とした。また父・尚思紹を中山王に即位させた。1416年、北山国を討伐し、次男尚忠を北山監守として北部の抑えにした。1421年、尚思紹王の崩御により中山王に即位。1429年、南山王他魯毎を滅ぼして三山を統一、第一尚氏王統による琉球王国最初の統一王朝を成立させた。在位中は首里城を拡張整備し、王城にふさわしい城とした。あわせて安国山に花木を植え、中山門を創建し外苑を整備した。また那覇港の整備を進め、中国をはじめ日本、朝鮮、南方諸国等、海外諸国との交易を盛んに行い、琉球の繁栄の基礎をもたらした。」

引用(尚巴志王 - Wikipedia尚巴志王 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%9A%E5%B7%B4%E5%BF%97%E7%8E%8B )

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「警

[15] From 2003: 吉林省旅行の続き3 <橋を渡る>, , http://bloggers.ja.bz/ykon/archives/000271.php

吉林省旅行の続き3 <橋を渡る>

北朝鮮無謀入国の旅、いよいよ北朝鮮編へ。

さて前回は、中国側の国境職員たちを説き伏せて、あれよあれよと国境の橋を渡りはじめることができちゃった、というところまででした。

(前回の素子の後ろ姿の写真と同じ場所。向こう岸が北朝鮮。背後にいる少年番人くんにばれないように背中でカメラを隠して撮影)

(しばらく歩いてもう何度か撮影。小心なので、結構びびって、撮ってはすぐにカメラをしまいました。素子「やめーや!」)

正直、数百メートルぐらいな感じのこの橋を歩きながら、いきなり撃たれるんじゃないか、とかもう偏見に満ちた変な妄想が浮かびまくりました。その一方で、後ろを振り向くと、数人の中国人が、橋を渡るぼくらを見ながら少年番人くんに何か文句を言っている様子。彼らは、ぼくらとともに、出国審査の建物を出た後、「昼休みで国境閉まっちゃったから、1時半まで待ちなさい」と言われ、がっかりしていた中国人旅行者(なのかなんなのかは不明ですが)たち。

「あいつらなんで橋渡ってんだ?」って言ってるのが聞こえてきそうな雰囲気で、それでなんとなくこっちは得した気分に(笑)。彼らも必死に交渉しているに違いないことを考えると、なんでぼくらだけを渡らせてくれたのかは、おそらく言葉があまり通じなかったからかもしれません。だって少年くん的にも、「こいつらは話しても分からないからめんどくせー」って思ってたかもしれないので。

いずれにしても、橋の上ではほとんど物音も耳に入らず、ただ二人だけでドキドキしながら歩きました。北朝鮮側の陸地の緑と、空の青と、川の流れが、なかなかきれい。そして、向こうはどうなってるのかな、なんて思っていると、橋の中間を示す赤いラインが。

「止歩」

と大きく書かれていて、この先からは橋も北朝鮮側なんだなということが分かりました。写真を撮りたかったものの、さすがに北朝鮮側に入ったとなると、緊張感も増し、しかも橋のはしっこには、小さく北朝鮮側の少年番人くんの姿が見え出していたような……。さすがにカメラを撮りだす気にはなりませんでした。

そしてさらに歩いていくと、いよいよ橋も終わりに近づき、北朝鮮側の小さなゲートと、ポールの上に掲げられた国旗が見えてきました。で、その横の詰め所にはやはり少年番人くんが待っていた。あなたたちは何者ですか??というちょっと不思議そうな

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