サンフランシスコ平和条約米国草案に対する韓国側意見書(1951年7月19日送付)。意見項番1の段落末尾に"Parangdo"が登場している。
歴史[編集]
1951年4月頃 - 兪鎮午の回想によれば、歴史学者の崔南善に韓国領土として確定しておくべき島嶼について諮問、木浦と長崎と上海を結ぶ三角形の中心(東シナ海北部)に、波の中に沈んだり現われたりする「パラン島」があると回答を得たという[2]。
1951年7月19日 - 梁裕燦韓国大使が、ジョン・フォスター・ダレスとサンフランシスコ平和条約の草案について会談し、それまでの対馬への主張をやめて、「独島」「パラン島」への主張を含む国務長官宛の書簡を提出。ダレスに位置を尋ねられ、韓豹頊は「日本海にありだいたい鬱陵島の近く」と発言。
1951年8月 - 韓国山岳会と韓国海軍は日本海軍水路部発行の海図を使って済州島西南方180kmを探査したが発見できず[3]。また国務省の地理学者サミュエル・W・ボッグスによるアメリカの事務報告でも「確認できない」とされた[4]。
1951年8月10日 - 米国務省はラスク書簡で、「パラン島」について「取り下げられたものと理解」すると回答。
1984年 - 済州大学が、中国名「蘇岩礁」を探査し「波浪島」とする。
2001年1月26日 - 韓国地質学会が波浪島を「離於島」とする。
2006年12月29日 - 韓国海洋水産部が、中国名「丁岩礁」を「波浪礁」とする。
概要[編集]
1951年、サンフランシスコ講和会議の開催に際し、韓国駐米大使の梁裕燦が外交文書としてアメリカ合衆国政府に提出した要望書「米国草案(サンフランシスコ平和条約)に対する韓国側意見書」[5]で、「竹島などとともに日本が放棄すべき島の1つ」として韓国は韓国領への帰属を要望した。
この際、合衆国国務長官であったディーン・アチソンに、竹島と共に島の位置面積などを尋ねられた梁韓国大使は「だいたい鬱陵島の近くで日本海にある小島である」と返答したが、その後の米政府の調査、および、韓国政府による懸命な捜索にも拘らず、現在まで発見されていない。
後にアメリカ政府はラスク書簡にて竹島とともに波浪島に対するこの韓国政府の要望を却下している。
今なお所在不明だが、韓国政府は現在も公式にその存在を否定していない。東シナ海の蘇岩礁(実際は暗礁)が波浪島だと