三宅坂 の小高い丘の憲政記念館(井伊彦根藩邸跡)から桜田門を見ると。この約550メートルの短い距離の間で「桜田門外の変」が起きたと思うと。感慨深いものがあり、しばしたたずみ、見入ってしまいます。
東京で一番美しい坂、三宅坂 を参照
井伊彦根藩邸の名残り
憲政記念館に入ると左に、枯葉のゴミ箱かいな?と思ってしまうものがあります。これは「桜の井」の遺構。
井伊彦根藩邸時代には門前にあり、「柳の井」と並んで名水と呼ばれ、旅人の喉を潤したと云います。
歌川広重「東都名所・外桜田弁慶堀桜の井」
明治5年頃の桜の井の遺構。
古写真にも写っていて、道路工事の際に移設されたものだということがわかります。
憲政記念館中庭の石灯籠
他に井伊彦根藩邸時代のものを探すと、、、
これは藩邸時代の遺物なのか?
年号が入っていないので、千代田区観光協会、憲政記念館に質問すると、、、
「昭和48年、衆議院議員宿舎で余ったものを移設」と丁寧に教えてくれました。ありがとうございました。
時代ものではなかった囧rz。
井伊彦根藩邸時代のものは「桜の井」の遺構しかないようです。
歌川広重「江都勝景 桜田外の図」
歌川広重「江戸名勝図会 桜田」
赤い門を出て、「桜の井」「柳の井」を横目で見、緩やかに下り、桜田門から登城する大老井伊直弼の行列があったのです。
絵巻、古地図で検証
桜田門外の変の時代背景、経緯は歴史好きの皆さんの方が詳しいと思いますので、残された絵巻、古地図等で検証したいと思います。
襲撃犯の一人、 蓮田市五郎 が事件後、細川家にお預けになっている間に、請われて描いたという絵巻が残っています。
古地図と見比べてみると、、、
「桜田門外之変図」(クリックで拡大)。
安政六年(1859年)外桜田絵図。三宅坂はさいかちの木が多かったので別名、さいかち坂。地図上に サイカチ河岸 と表記されています(クリックで拡大)。
通りに二つの番所( A,B )があり古地図と一致します。
桜田門の対面に二つの門( C,D )があり、屋敷区分から見ると松平市正上屋敷の表門と松平安芸守上屋敷の裏門のようです。
絵巻、浮世絵から見ると井伊彦根藩邸の表門は E 地点です。
井伊直弼の行列は、徒士20数名とお付きの従者40名ほど。対する襲撃側は18名。数で見ると井伊側有利ですが、安政七年三月三日(新暦1860年3月