[78] 京暦系の大宮暦は1583年/天正11年閏1月を置き、
三島暦系の「美濃の暦」では1582年/天正10年閏12月を置いたため混乱が起こり、
織田信長が京暦を廃止しようと試みたようで (本能寺の変により実現せず)、
大宮暦は発行停止となる騒動がありました。 >>81, >>22, >>84, >>89, >>90
[1] 他の時期の同様の問題は旧暦参照。
[434] 本能寺の変、朝廷黒幕説を覆すキーワードは「日食」だった, https://ironna.jp/articles/7667
- [530] 天正10年6月朔の日食: suchowan's blog, https://suchowan.at.webry.info/201709/article_22.html
- [531] 天正10年6月朔の日食(続き): suchowan's blog, https://suchowan.at.webry.info/201709/article_24.html
- [532] 天正10年6月朔の日食(さらに続き): suchowan's blog, https://suchowan.at.webry.info/201709/article_26.html
- [533] 天正10年6月朔の日食(結局…): suchowan's blog, https://suchowan.at.webry.info/201709/article_27.html
- [534] 天正10年6月朔の天候: suchowan's blog, https://suchowan.at.webry.info/201710/article_2.html
- [535] 天正10年6月朔の日食(整理): suchowan's blog, https://suchowan.at.webry.info/201710/article_3.html
- [536] 天正10年6月朔の日食(一次史料?): suchowan's blog, https://suchowan.at.webry.info/201710/article_5.html
- [537] 「宣明暦」のふたつの意味: suchowan's blog, https://suchowan.at.webry.info/201710/article_4.html
- [539] 情報の共有の問題: suchowan's blog, https://suchowan.at.webry.info/201710/article_6.html
- [538] 情報の共有の問題(つづき): suchowan's blog, https://suchowan.at.webry.info/202102/article_5.html
[236] 天正10年6月2日 「本能寺の変」は信長が主張した暦の通りに日食が起きた翌日(饒村曜) - 個人 - Yahoo!ニュース, https://news.yahoo.co.jp/byline/nyomurayo/20160602-00058371/
[229]
大河ドラマ『麒麟がくる』、「本能寺の変」解釈で発覚した“時代考証の甘さ”(渡邊 大門) | 現代ビジネス | 講談社(4/6), https://gendai.ismedia.jp/articles/-/79750?page=4
[542] 信長に晩年はなかった, , http://www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/nob/nobu8.htm
[562]
国家鮟鱇さんはTwitterを使っています 「天正10年暦問題の「くわんれき」の謎が解けたかもしれない。「関暦」=「関東の暦」=「三島暦」の可能性を阿部浩一氏が示唆し(示唆しただけだが)、それがかなり流通してるけど、前々から疑問に思ってた。」 / Twitter, , https://twitter.com/tonmanaangler/status/1476499420762226691
[582] 進朔の閏月への影響(続き): suchowan's blog, https://suchowan.at.webry.info/201612/article_5.html
[2] 紀元・暦法を集めるスレ, https://academy4.5ch.net/test/read.cgi/whis/1044889496/301-302
立花京子著「信長と十字架」(集英社新書)によると天正十年末に予想される閏月
問題について、当年十二月の次に置くべきか翌年正月の次かの吟味に信長は或る
申入れを朝廷筋に行っている、これについて関係者の対応には困惑が伺われる、
これは単純な置閏のための計算といった事情による停頓とは思えないので、実は
信長はこの際において天主教国における改暦に、日本の暦制度の根本的改革をも
連動させようとの思惑を実践に移したのではないか?という学説なのです。
但しこの改暦実施が日本に伝わったのは2年後だそうですが、
信長はヴァリニャーノら親近のイエズス会バテレンから得た情報によって、夙に
教皇が改暦を断行するであろうという事態を予想していたのではないか、そして
置閏の議が諮問されるタイミングを捉えて純太陽暦採用を朝廷にせまった。その
背後には日本の政権を操ろうとするイエズス会の野望があった、と立花さんは
考えるに至ったのです。
そして信長の自己
神格化が路線の逸脱として南欧勢力から評価された結果が、本能寺の変で
秀吉に切り替えられてしまった。という筋書きを立花さんは描いておられ
説得力に唸ってしまうと同時に、一種の陰謀説には危なっかしさも感じます。