天正改暦問題

天正改暦問題

[78] 京暦系の大宮暦は1583年/天正11年閏1月を置き、 三島暦系の「美濃の暦」では1582年/天正10年閏12月を置いたため混乱が起こり、 織田信長京暦を廃止しようと試みたようで (本能寺の変により実現せず)、 大宮暦は発行停止となる騒動がありました。 >>81, >>22, >>84, >>89, >>90

[1] 他の時期の同様の問題は旧暦参照。

[434] 本能寺の変、朝廷黒幕説を覆すキーワードは「日食」だった, https://ironna.jp/articles/7667

[167] 改暦 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%B9%E6%9A%A6

信長は陰陽頭土御門久脩を安土に呼び出して尾張の業者と論争をさせたところ決着が付かず、最終的に信長の判断で閏月を12月に置くように決定して朝廷に要望を行った。信長はその後、近衛前久を通じて朝廷との調整に当たらせていたが、毛利輝元討伐のために上洛した6月1日(6月20日)に再度この話を公家衆に持ち出した。このため、勧修寺晴豊は日記に「無理なる事と、各申すことなり」と記している。翌日、本能寺の変が発生して信長は横死したこともあり、この件は有耶無耶のうちに終わった。だが、このために三島暦を用いていた北条氏や上杉氏、里見氏などでは京都とは違う閏月を採用したため混乱が生じ、特に信濃国では北部の真田氏・蘆田氏が三島暦を、南部の諏訪氏・小笠原氏が京暦を採用したために、同じ令制国内で2つの月が存在するという異常事態となった。

[236] 天正10年6月2日 「本能寺の変」は信長が主張した暦の通りに日食が起きた翌日(饒村曜) - 個人 - Yahoo!ニュース, https://news.yahoo.co.jp/byline/nyomurayo/20160602-00058371/

[229] 大河ドラマ『麒麟がくる』、「本能寺の変」解釈で発覚した“時代考証の甘さ”(渡邊 大門) | 現代ビジネス | 講談社(4/6), https://gendai.ismedia.jp/articles/-/79750?page=4

[542] 信長に晩年はなかった, , http://www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/nob/nobu8.htm

[562] 国家鮟鱇さんはTwitterを使っています 「天正10年暦問題の「くわんれき」の謎が解けたかもしれない。「関暦」=「関東の暦」=「三島暦」の可能性を阿部浩一氏が示唆し(示唆しただけだが)、それがかなり流通してるけど、前々から疑問に思ってた。」 / Twitter, , https://twitter.com/tonmanaangler/status/1476499420762226691

[582] 進朔の閏月への影響(続き): suchowan's blog, https://suchowan.at.webry.info/201612/article_5.html

[2] 紀元・暦法を集めるスレ, https://academy4.5ch.net/test/read.cgi/whis/1044889496/301-302

立花京子著「信長と十字架」(集英社新書)によると天正十年末に予想される閏月 問題について、当年十二月の次に置くべきか翌年正月の次かの吟味に信長は或る 申入れを朝廷筋に行っている、これについて関係者の対応には困惑が伺われる、 これは単純な置閏のための計算といった事情による停頓とは思えないので、実は 信長はこの際において天主教国における改暦に、日本の暦制度の根本的改革をも 連動させようとの思惑を実践に移したのではないか?という学説なのです。

但しこの改暦実施が日本に伝わったのは2年後だそうですが、 信長はヴァリニャーノら親近のイエズス会バテレンから得た情報によって、夙に 教皇が改暦を断行するであろうという事態を予想していたのではないか、そして 置閏の議が諮問されるタイミングを捉えて純太陽暦採用を朝廷にせまった。その 背後には日本の政権を操ろうとするイエズス会の野望があった、と立花さんは 考えるに至ったのです。

そして信長の自己 神格化が路線の逸脱として南欧勢力から評価された結果が、本能寺の変で 秀吉に切り替えられてしまった。という筋書きを立花さんは描いておられ 説得力に唸ってしまうと同時に、一種の陰謀説には危なっかしさも感じます。