多摩川

多摩川

[1] 多摩川

Webページ

[2] 鳩ノ巣渓谷, , http://www.yuhoyuyu.sakura.ne.jp/course/cn128/index.html

鳩ノ巣渓谷は多摩川の中流域にあって、小さな山を越えていくと、深くてダイナミックな渓谷が続いています。

古里駅から奥多摩駅までの渓谷沿いを、大多摩ウォーキングトレイルと数馬峡遊歩道をつないで歩いていきます。

[3] 玉川上水 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4

『玉川上水起元』(1803年)によれば、承応元年(1652年)11月、幕府により江戸の飲料水不足を解消するため多摩川からの上水開削が計画された。工事の総奉行に老中で川越藩主の松平信綱、水道奉行に伊奈忠治(没後は忠克)が就き、庄右衛門・清右衛門兄弟(玉川兄弟)が工事を請負った。資金として公儀6000両[2]が拠出された。

幕府から玉川兄弟に工事実施の命が下ったのは1653年の正月で、着工が同年4月、四谷大木戸までの本線開通が11月15日とされるが、1653年2月10日着工、翌年8月2日本線開通とする史料もある[3]。

羽村から四谷までの標高差が約100メートルしかなかったこともあり、引水工事は困難を極めた。当初は日野から取水しようとしたが、開削途中に試験通水を行ったところ“水喰土”(みずくらいど; 浸透性の高い関東ローム層)に水が吸い込まれてしまい、流路を変更(「かなしい坂」参照)。2度目は福生を取水口としたが岩盤に当たり失敗した。こうした事情を受けて、総奉行・松平信綱は家臣の川越藩士安松金右衛門を設計技師に起用。安松は第1案として「羽村地内尾作より五ノ神村懸り川崎村へ堀込み-」、第2案として「羽村地内阿蘇官より渡込み-」、第3案として「羽村前丸山裾より水を反させ、今水神の社を祀れる処に堰入、川縁通り堤築立-」を立案した。

この第3案に従って工事を再開し、約半年で羽村・四谷大木戸間を開通し、承応2年(1653年)11月に玉川上水はついに完成。翌承応3年(1654年)6月から江戸市中への通水が開始された[4]。しかし、工費が嵩んだ結果、高井戸まで掘ったところでついに幕府から渡された資金が底をつき、兄弟は家を売って費用に充てたという[5]。

庄右衛門・清右衛門は、この功績により玉川姓を許され、玉川上水役のお役目を命じられた。

なお、玉川上水の建設については記録が少なく、よく分かっていないことも多い[6]。安松金右衛門については三田村鳶魚の『安松金右衛門』に詳しく記されている。

給水地域[編集]

玉川上水の給水地域は『御府内備考』に簡略で分かり易く説明されている。

玉川上水 (中略)今、此上水、流末広大にして四谷・麹町より御本城へ入、西南は赤坂・西の久保・愛宕下・増上寺の辺、これ松平豊後守屋敷の辺、金杉左右海手すべて北手、南東方は外桜田・西丸下・大名小路一円、虎御門外、数寄

[4] 白丸ダム再訪、岩に苔無し、魚影無し ( その他自然科学 ) - ヒト・自然・history - Yahoo!ブログ, , http://blogs.yahoo.co.jp/tamariverearth/53135461.html

多摩川白丸ダム魚道を 6 年ぶりに2012.7.21に訪問。相変わらず鳩ノ巣渓谷からダムまでや 魚道に 魚影なし。

魚道見学受付には遡上した魚のことを報じたチラシあるも、いつのデータか不明。

遡上していれば嬉しそうにその様子を見せるだろうから、結局、白丸ダム直下は岩にコケも生えていないことから、 やや大袈裟に言うと死の川といったところか。

� 前回来た時に調べた資料は以下の通りである。

白丸ダムは高さ 30.3mの重力式コンクリートダムで、東京都交通局の発電用ダムである。同局の水力発電所・多摩川第三発電所および白丸発電所に送水し、合計最大1万7,500kWの電力を発電する。ダム湖(人造湖)の名は白丸湖という。1963年(昭和38年)、東京都交通局が白丸狭窄地帯と呼ばれる多摩川断崖の谷に建設した。貯えた水は下流の御岳にある多摩川第三発電所に送水し、最大1万6,400kwの電力を発電させる。

都は、多摩川上流に多摩川第一、第三、白丸の三つの発電所を所有し、東京電力に売電している。最も新しい白丸発電所は、白丸調整池ダムから下流の第三発電所までの間が、枯れ川にならないよう最低限の水(維持流量)を流していた観光放水を、発電も一緒に行おうと、 2000年11月に完成した地下式の施設である。白丸発電所の下流にある景勝地「鳩ノ巣渓谷」は1963年に第三発電所と白丸ダムが完成してから、水量が減少。観光に打撃となるため、3月から11月まではダムからの放流量を増やし、一方で第三発電所の出力を抑えていた。

2001年(平成13)4月、「魚ののぼりやすい川づくり推進モデル事業」の一環として国土交通省によって擬岩で覆われた魚道が新設された。魚道落差27m、魚道延長332m(トンネル区間125m)、魚道幅2mという都内最大規模のものであり、建設費は32億円といわれる。なお、既存のダムでは国内初めてとなるダム撤去作業が開始される球磨川上流の荒瀬ダムでは16億円の魚道が建設されている。5年間に亘るダム撤去の作業に先立ち荒瀬ダムのゲートが2010年3月に開放されているが、その影響からか球磨川河口で取れるアユの稚魚の量(206万匹)が増えたことが報告されている。200万匹を超えたのは、7年ぶりである。また県の調査では、支流との合流地点でアユのえさとなるコケなど藍藻類が増えていることも判明している。

[5] @nifty:デイリーポータルZ:市街地で分水嶺を探す, , http://portal.nifty.com/2011/06/16/b/

分水嶺とは水系と水系の境界線、つまりその場所に降った雨がどの川に流れてどの海に注ぐのか、というエリアの境目である。

たとえば日本列島の中心部分には太平洋と日本海の分水嶺が縦断していて、同じ山でも雨や雪が降った場所によって、流れ着く先が太平洋か日本海かに変わるのだ。

そこまで大げさでなくても、川が2本流れていればその間のどこかに分水嶺があるはずだ。それがたとえ山の中じゃなくて住宅街であっても。

(萩原 雅紀)

東京の水系事情

東京には大きく分けて荒川と多摩川という2つの大きな川が流れていて、それぞれが東京湾に注いでいる。都心部だとさらに渋谷川とか目黒川とかの水系もあるけど、東京の大部分はほとんど荒川水系か多摩川水系と言っていい。

[6] 等々力 (川崎市) - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%89%E3%80%85%E5%8A%9B_%28%E5%B7%9D%E5%B4%8E%E5%B8%82%29

等々力 (とどろき)は、 神奈川県 川崎市 中原区 の 町名 。 1994年 ( 平成 6年) 10月17日 に 住居表示 が施行されている [4] 。丁番の設定されていない単独町名である。

多摩川 を挟んで対岸の 東京都 世田谷区 にも 等々力 という地名が現存し、両者は明治末期までひとつの 大字 であった(後述)。

地理 [ 編集 ]

中原区の北部に位置し、 多摩川 に面している。域内には 等々力緑地 が広がっており、その中には、 川崎フロンターレ のホームスタジアムとなっている 等々力陸上競技場 や 川崎市とどろきアリーナ などの施設が所在している。

等々力は北端で多摩川を挟んで 東京都 の 世田谷区 玉堤 ・ 大田区 田園調布 と、南東端で 小杉陣屋町 ・ 小杉御殿町 と、西端で 宮内 と接している(特記のない町域は神奈川県川崎市中原区)。

歴史 [ 編集 ]

当地は、もともと 多摩川 の流れが南に屈曲していたところに張り出した、 荏原郡 等々力村に属する半島状の土地であったが、洪水や多摩川の付け替えが行われた結果、対岸の 飛び地 となった [5] 。江戸時代には旧河道の土地をめぐり等々力村と小杉村で争いとなり、宮内村が立ちあって境界が定められ、幕府側でのその裁決の文書には 大岡越前守 の名も残っている [6] 。明治末期に、多摩川に沿って府県境が引き直され、当地は 神奈川県 橘樹郡 中原村 へと編入された [6] 。

大正末期、多摩川に堤防が築かれた後には酪農なども行われたが、当地が 旧河道 であり、大量の 砂利 が埋もれていたこと、また河川保護のため多摩川の 河川敷 から砂利を掘ることが禁止されたことから、 東京横浜電鉄 によって陸地からの採掘が行われ、「七つが池」と呼ばれる 池 ができた [6] 。昭和30年代にはその七つが池も埋め立てられ住宅地となっていったが、それと並行する形で 等々力緑地 の整備も進んでいき [6] 、現在見るような都市公園となっていった。なお、等々力緑地内に現在も残る釣池 [7] は、「七つが池」のうちの五号池が残ったものである [6] 。

地名の由来 [ 編集 ]

対岸にある 谷沢川 が 多摩川 と合流する地点、あるいは谷沢川の途中にある不動の滝での水の轟音が由来と考えられている [5] 。 戦国時代 の文献には「とどろ木」や

[7] 谷沢川 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E6%B2%A2%E5%B7%9D

地理 [ 編集 ]

水源は東京都世田谷区桜丘四丁目・五丁目付近の 武蔵野台地 上の 湧水 と桜丘三丁目の旧品川用水のかつての吐水跡とされる。ここから南下して上用賀地内の複数の湧水を合わせ、世田谷区中町を経由する。ただ周辺は河川による開析が進んでおらず、湧水量は少なかった可能性がある。中町より上流の流路は、 大正 〜 昭和 初期の 玉川全円耕地整理 によって人為的に変更され、直線化されており、 首都高速3号渋谷線 下の田中橋付近から多摩川への合流口までが開渠となっている(上流の世田谷区桜丘三丁目付近にはわずかだが開渠が残っている)。

流れは徐々に谷を深くし、 東急大井町線 に沿う形で一旦東進した後、南下して23区内唯一の渓谷とされる 等々力渓谷 を流れる。このあたりでは水面は、周辺の最も高い台地面から20mから30m近くも切れ込んだ深い谷を形成し、渓谷崖からの多量の湧水がみられる。流れは 東京都道311号環状八号線 (環八通り)の下をくぐって、世田谷区野毛付近で 国分寺崖線 を出たところで丸子川(旧 六郷用水 )につきあたる。かつて六郷用水は、 大田区 六郷 までの通水の高低差を確保するため、谷沢川の上を交差して流れていたが、現在は当初の役目を終えて谷沢川と合流し世田谷区玉堤で多摩川に注ぐ。しかし、六郷用水の歴史的遺産の保護と環境保護のための清流復活事業として、合流した川の水の一部をポンプで引き上げ、ここから下流の丸子川に流している。

等々力渓谷は、急斜地のため宅地開発を免れて、比較的豊かな 生態系 が残された。一方で上流部や、渓谷周辺の宅地化が急速に進み雑木林や湧水が失われて、一時は農家や家庭からの排水が渓谷内の川を流れたが、その後の早い時期から下流の景観保護の機運が高まり、上流部の下水道の整備が進んで荒廃を免れている(後述)。

現在の矢沢川の上流は地下水面の低下などで、降雨があったとき以外は現在は通年にわたって水量が少ない。そのためこちらも清流復活事業として 仙川 の水を同区岡本三丁目で取水し、生物濾過した上で 用賀 まで送り、谷沢川に導入する施設が造られた。また、上流域で雨水を貯め、これを渇水時に中町一丁目付近と、ゴルフ橋 [1] 付近から谷沢川へ放水している [2] 。

等々力渓谷 [ 編集 ]

武蔵野台地 は、水を通さない海成の粘土質層の上に水を通しやすい礫

[8] 野川に切り離された、入間川の本当の下流部~深大寺用水と入間川を紐解く(16) : 東京の水 2009 fragments, , http://tokyoriver.exblog.jp/17982310/

野川に切り離された、入間川の本当の下流部~深大寺用水と入間川を紐解く(16)��

2012年 05月 20日

「深大寺用水と入間川を紐解く」シリーズの最終回は、失われた入間川の下流部を辿る。まずは前回の記事でも取り上げた、入間川の河口。現在の入間川は、調布市入間町と狛江市東野川の境目で、野川に合流して終わっている。前回の記事では水の流れる2008年6月、涸れている2012年2月の写真を載せたが、今回の写真は2012年5月のもの。水はしっかり流れている。右側に見える別の合流口は、かつての合流式下水道の排水口らしく、今では使っていないそうだ。

入間川と野川の流路の変遷 下の地図は、京王線以南から小田急線を挟んで二子玉川付近までの一帯の、現在見られる河川の流路を示している(一部暗渠)。野川が北西から南東に横切り、そこに入間川、仙川が合流している。また仙川は野川に合流する手前で丸子川を分け、そちらには途中から谷沢川が合流している。これらの川が現在のような流路となったのは1967年以降のことだ。

1967年以前の流路は、下の地図のようになっていた。大きく異なるのは「六郷用水」の存在だ。また、狛江市内の野川は今よりも西側を流れていた。そして、小田急線喜多見駅付近の、現在野川が流れている辺りには、入間川が流れていた。この失われた入間川下流部が今回の記事の主題だが、その前に一帯の河川・用水の変遷について簡単に触れておこう。

六郷用水 六郷用水は、江戸時代初期、1597(慶長2)年から1611(慶長16)年にかけて15年の歳月をかけてによって作られた、多摩川から分水した灌漑用水だ。開削を主導した小泉次大夫吉次にちなみ、「次太夫堀」とも呼ばれている。なお、多摩川を挟んだ反対側(川崎側)には同時期に二ヶ領用水が開削されている。 取水口のある狛江近辺の水路は1605(慶長10)年に開削が始まり、1609(慶長14)年には開通して現在の狛江と蒲田の間の本流が繋がった。そののち引き続き小堀(六郷領内の分流)が開削され1611年に完成した。その延長は23kmに及ぶ。当初は六郷領21ヶ村にのみ水利権があったが、のち1726(享保11)年に、世田谷領の14ヶ村についても利用が認められた。 六郷用水の廃止と野川の改修 300年以上にわたり、現在の世田谷区南部と大田区の田畑を潤してきた六郷用水は、

[110] 多摩川に「パリピ」大音量でBBQ 規制といたちごっこ:朝日新聞デジタル, , http://www.asahi.com/articles/ASJ6X5HZ5J6XULOB01B.html

神奈川県と東京都の境を流れる多摩川の河川敷で、バーベキュー(BBQ)をめぐるトラブルが後を絶たない。若者らが出すゴミや騒音、においに、周辺の住民は不満を募らせる。川崎市は一部を有料化するなど対策に乗り出しているが、場所を変えていたちごっこが続いている。

6月下旬の日曜日、川崎市中原区と東京都大田区を結ぶ丸子橋の周辺で、顔を真っ赤にした金髪の男性がマイクを握り、声を張り上げた。

「この夏、最高の思い出を作りましょう!」

集まったのは20代中心の男女…

[111] 吉祥寺・町田は昔、神奈川県だった 知事が捨てた街 :日本経済新聞, , http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK21022_R20C13A8000000/?df=2

移管を決めた「東京府神奈川県境域変更ニ関スル法律案」には、神奈川県知事も不便を感じている、という記述があった(国立公文書館所蔵)

[114] @nifty:デイリーポータルZ:市街地で分水嶺を探す, , http://portal.nifty.com/2011/06/16/b/4.htm

石神井川と仙川

荒川水系の川と多摩川水系の川がすぐ近くを流れている場所。続いてやってきたのは小金井市。中央線の武蔵小金井駅と西武線の花小金井駅に挟まれたエリアである。

ここは荒川水系の石神井川と多摩川水系の仙川が東に向かって平行して流れている。

[117] 多摩川からゴムボートで海を目指したら悟りが開けた - Yahoo!スマホガイド, , http://special.smartguide.yahoo.co.jp/kawanagare/20150421.html

スマートフォンを使って、さまざまな実験を行うこの企画。第141回は、ゴムボートで多摩川から海まで出られるのかを調査します。

こんにちは。ヨッピーです。

いきなり眠そうな顔で申し訳ありません。こんな顔なのは現在、朝の5時半だからです。

ところでみなさんは、人生に疲れた時、「海を見たい」と思ったりすることはありませんか?

大きな海を見て、自分の存在や、悩んでいることがいかにちっぽけなことなのかを確認する意味合いがあるのかもしれません。

僕も先月くらいからひどい企画を連発させられていて、ここにきて心底「疲れたな……」と思っていました。

そこで今日は……、

海を見に行きたいと思います!!

ゴムボートで!

■出発の準備をしよう

そんなわけで東急多摩川線・沼部駅から徒歩3分。多摩川の河川敷に来ました。

実を言うとおととし、同じように「多摩川から海を目指す」という企画を、同じYahoo! JAPAN内の「こちら検索探偵」でやったことがあるのです。

ハリボテのペットボトルいかだと、「お湯をかき混ぜる棒」という死ぬほどなめた装備で多摩川から海に繰り出したおととしの僕。

そもそもバランスが悪い上、あっさりペットボトル船が大破して実験は失敗に終わりました。

そこで今回は……、

じゃーん!

ちゃんとしたゴムボートを買ってみました。

オールもついてる立派なやつです!

普通のボートが2~3万円くらいするなか、このゴムボートだけが1万円となぜか激安だったので少し不安はありますが、それでもペットボトルのいかだよりは良い仕事をしてくれるはず!

電池式の電動ポンプを駆使して空気を入れる。

わりと簡単に完成!

よっしゃーー! おととしの雪辱を果たすどーーーー!

ボードも問題なく水に浮き、「いよいよ出発!」というところで……、

なんか、急に不安になってきた。

今思えばおととしのチャレンジって夏場だったし、水に落ちたところで特に問題あるわけじゃないけど、まだ肌寒い季節なのにまた水の中に落っこちたらめちゃくちゃ寒いんじゃないの……?

■いよいよ出発

そんなわけで「行きたくない」を連発しながらも、渋々ボートに乗り込む僕。

どうしよう。完全に行きたくない。

考えてみれば僕が海を見に行きたくなるきっかけを作った「疲弊感」も、そもそもは僕が余計な企画を思い付きで言

[118] 吉祥寺・町田は昔、神奈川県だった 知事が捨てた街 :日本経済新聞, , http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK21022_R20C13A8000000/

町田市は神奈川県だと勘違いする人もいるが、東京都だ。東急田園都市線「すずかけ台」駅の近くに境界を示す看板があった。看板の手前は神奈川県横浜市緑区

大学時代、友人に「東京を出て多摩川を越えたら神奈川県」と教えられたことがある。西日本出身者としては素直に信じていたのだが、実際に当てはまるのは一部だけ。中流域では「多摩川を越えても東京都」だ。しかしかつては違った。八王子や町田、多摩川の手前にある調布や成城、吉祥寺も神奈川県だった。なぜ東京になったのか。事情を探っていくと、長年の課題である水源問題と、複雑な政治事情が浮かび上がってきた。

[119] 荒川の水で旧江戸城外濠浄化構想…多摩川経由で : 社会 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE), , http://www.yomiuri.co.jp/national/20141129-OYT1T50053.html

東京都心にある旧江戸城外濠(そとぼり)(千代田区など)の水質を抜本的に改善しようと、東京大や中央大など5大学の河川や環境工学の専門家が、荒川上流の水を活用する構想をまとめた。

荒川上流から多摩川や玉川上水を経て外濠に導水する大がかりな構想で、12月3日に東京都文京区の中央大学で開くシンポジウムで発表する。

外濠は神田川とつながっているものの、水の流れがほとんどなく、大雨が降ると下水が流れ込む。夏場にはアオコが大量発生して水面が緑で覆われ、悪臭を放つこともある。

構想では、荒川上流の水利権がない水を活用する。荒川上流にある滝沢ダム(埼玉県秩父市)付近から多摩川に向かって長さ約20キロ・メートルの導水管を新設、荒川上流の水を多摩川に流す。多摩川につながっている玉川上水を経由して、外濠に導水する。

こうした方法により、冬場の渇水時を除けば、最大で毎秒約10トンの水を外濠に流すことができ、水質の浄化が期待されるという。

[120] 暗渠ハンター 涯のうえした・狛江喜多見に成城学園: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-16a8.html

もう1ヵ月も前の話ですが、小田急線・狛江駅駅前の泉の森会館というところで「六郷用水の今と昔」という小さな展示が行われていたので見に行ってきました。

六郷用水とは、小田急線が多摩川を渡るあたり(駅でいうと和泉多摩川駅)のちょっと上流から取水し、狛江、喜多見、世田谷の西端方面jからずっと下流の大田区・品川区あたりまで網の目のように続く、付近の田畑を潤していた用水です。つまり、国分寺崖線の下に広がる農地にぶわっと拡がっていたわけですね。 その、特に狛江周辺の昔の様子を地図や写真、絵で解説する、という展示でした。六郷用水についてはまだあまり詳しく知らなかったので、この上流のほうの全体像を把握するにはとても勉強になりました。

さて、ついでですからこのあたりの暗渠や湧水を見て回って帰りましょうかね。

展示施設のすぐ隣、もう狛江の駅のまん前には泉龍寺弁財天池という大きな池があります。 奈良時代からいつの旱魃にも枯れることなく一帯を潤してきた湧水でしたが、1972年の11月に枯れ尽きてしまったとのこと。現在は復元された姿となっています。ちなみに、隣の駅は「和泉多摩川」ですが、この「和泉」というのはこの池から取られたという説もあるようです。

さて、池つながりでもうひとつ。駅を新宿寄りに二つ戻って(狛江→喜多見→成城学園前)成城学園前に降りてみます。 狛江、喜多見と成城学園前。駅は至近距離ですが決定的に違うのは、国分寺崖線の崖下なのか、崖上なのか、という点。もちろん成城は崖上です。崖線には野川が流れており、崖上の成城側には当然国分寺崖線湧水ポイントがいくつか。 成城から歩いてこの湧水を見に行ってみることにします。

てくてく歩いて崖線近くにまで来ると現れるのが「みつ池」。しかし残念ながら保護区域に指定されていて、柵に阻まれ近づくことができませんでした。・・・無念。

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※訂正・・・さきほどまでここであたかも「みつ池」の如く池の写真を掲載しておりましたが、あれは先の「泉龍寺弁財天池」の画像でした;;;;;申し訳ありません、お詫びいたします;;;;

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近くのベンチでビール休憩したあと、なんとかこの池から野川に流れ込む様子を見られないかと崖を降りてみつ池の下あたりをうろう

[121] 白丸調整池ダム | おぼえがき, , http://now2000net.blogspot.jp/2012/06/blog-post_3.html

小河内ダムへ向かう途中に、白丸調整池ダムがあります。発電専用のダムで、魚道が整備されているのが見所なダムです。

[122] @nifty:デイリーポータルZ:「どこまで東京?」, , http://portal.nifty.com/2011/04/22/a/4.htm

とりあえず、薄目で見て、多数決ではここらへんが現時点での「ここ東」かなー、というところに線を引いてみた。ぼくの視力と主観によって。えいっ、と。

で、線引いてみてから、それがどこに位置しているかを見てみた。

中央線→吉祥寺

京王線→千歳烏山

小田急線→成城学園前

田園都市線→用賀

東横線→多摩川

東海道線→蒲田

京葉線→新木場

総武線→亀戸

常磐線→亀有

伊勢崎線→北千住

京浜東北線→赤羽

東上線→下赤塚

池袋線→大泉学園

おお!なんかこれまでまとめてきて抱いている感触といい感じで一致している。

一致してるけど、これじゃあまりにもてきとうなので、ちゃんと集計してみよう。がんばろう。

まずは中央線から。

[126] 砧地域 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%A7%E5%9C%B0%E5%9F%9F

砧地域(きぬたちいき)は世田谷区の定める5地域の一つで、砧総合支所管内を指す。 成城学園前駅を中心として、大規模な住宅街を形成している。 また、成城は住宅地として名高い。国分寺崖線を中心として砧公園や多摩川など、都市部にあって自然環境に恵まれた地域である。東京近郊では、かつては安行に次ぐ植木の主産地であった為、造園業者が多く所在する。

含まれる町名[編集]

世田谷区の内、

宇奈根

鎌田

岡本

砧公園

大蔵

千歳台

祖師谷

成城

喜多見

地理[編集]

世田谷区の南西部に位置する。 南には多摩川が流れ、その支流が幾つか流れる。 多摩川の河岸段丘である国分寺崖線があり、そこを中心として 自然が広がり、都区内でも緑被率はトップクラスの地域である。 また、国分寺崖線や刻み入る谷戸などで、土地の起伏の激しさは都区内有数である。

川[編集]

多摩川水系

多摩川

野川

仙川

丸子川

谷戸川(一部暗渠)

清水川

谷川(暗渠)

宇奈根川(一部暗渠)

目黒川水系

烏山川(暗渠)

沿革[編集]

1936年(昭和11年)北多摩郡砧村・千歳村が東京市に編入され、世田谷区に属す。

1991年 世田谷区が地域区分を設定し、砧総合支所が設置され、旧砧村村域の大部分・旧千歳村村域の南部を砧地域として定める。

公共機関など[編集]

世田谷区役所砧総合支所・成城出張所

区役所喜多見出張所

区役所砧出張所

区役所船橋出張所

区役所祖師谷出張所

警視庁成城警察署

警視庁交通安全指導センター

東京消防庁成城消防署

郵便局株式会社成城郵便局(郵便事業成城支店、ゆうちょ銀行成城店を併設)

国立成育医療研究センター(旧 国立大蔵病院→国立成育医療センター)

NHK放送技術研究所

所轄となる機関[編集]

警察 成城警察署

消防 成城消防署

郵便 船橋が郵便事業東京千歳支店(〒156)、それ以外が郵便事業成城支店(〒157)

経済[編集]

東京メディアシティ

東宝スタジオ

かつては、円谷プロダクションが砧地域に本社を構えていた。

産業[編集]

生産農地が存在する。

東京都中央卸売市場世田谷市場

かつて砧農協という単独の農協が存在したが、現在は合併により、JA東京中央砧支店になっている。なお、最寄のバス停には2011年3月31日まで「砧農協前」の名称が残っていた。

教育[編集]

大学・短期大学[編集]

成城大学

日本大

[127] 甲州街道 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%B7%9E%E8%A1%97%E9%81%93

概要 [ 編集 ]

元は「古甲州道」であり、甲州街道は江戸幕府によって整備された五街道の1つとして、5番目に完成した街道である。 江戸 ( 日本橋 )から 内藤新宿 、 八王子 、甲府を経て 信濃国 の下諏訪宿で 中山道 と合流するまで38の 宿場 が置かれた。近世初頭には「甲州海道」と呼称され、 正徳 6年( 1716年 )4月の街道呼称整備で「甲州道中」に改められる。 中馬 による陸上運送が行われた。江戸の町において 陰陽道 の 四神相応 で言うところの 白虎 がいるとされる街道である。 多摩川に近い所を通っていた箇所(谷保~府中~調布など)は、度重なる多摩川の洪水などにより何度か南側に平行する道路へ道筋が変更された。その後も古く狭い街道が、新しくできたバイパスへと路線が変更となっている。

歴史 [ 編集 ]

甲州街道「江戸~甲府」の開設は慶長7年であり、すべての宿場の起立時期は明確とはなっていなく、徐々に整備されていった。

近世には諸街道の整備が行われるが、甲州街道は 徳川家康 の江戸入府に際し、 江戸城 陥落の際の甲府までの将軍の避難路として使用されることを想定して造成されたという。そのため、街道沿いは砦用に多くの寺院を置き、その裏に同心屋敷を連ねた、また短い街道であるにもかかわらず、小仏・鶴瀬に関所を設けている。これは、 甲府城 を有する 甲府藩 が 親藩 であることと、沿道の四谷に伊賀組・根来組・甲賀組・青木組(二十五騎組)の4組から成る鉄砲百人組が配置されており、鉄砲兵力が将軍と共に甲府までいったん避難した後に江戸城奪還を図るためであるという。

参勤交代 の際に利用した 藩 は 信濃 高遠藩 、 高島藩 、 飯田藩 である。それ以外の藩は 中山道 を利用した。下諏訪宿から江戸までは甲州街道が距離はより短いが、物価が高いことや街道沿線のインフラ整備状況がその主な理由と言われる。その事から、発展が遅れ、衰退する宿場町もあった。

近世には旅の大衆化に伴い甲州道中上の名所旧跡などを紹介した地誌類や視覚化した絵図類が製作されており、絵図では『 甲州道中分間延絵図 』や『 甲州道中図屏風 』が知られる。また、 宇治採茶使 は甲州街道を利用した。

宿場 [ 編集 ]

多くの宿場があり人々は国府参り等を旅路の楽しみとして賑わっていたが、趣向の変化で国府も西の外れ近くと

[128] 首都圏の主要道路の変遷メモ, , http://anond.hatelabo.jp/20140309230249

■首都圏の主要道路の変遷メモ

明治~現代の各時代の古地図が見れるサイトを見つけて、古地図&道路フェチとしましては、むさぼるように見入ってしまいましたとさ。

■今昔マップ on the web 首都圏編

で、主要道路がこれまでどんな変遷をたどってきたのか、知ることができた内容をメモ代わりに。

なお、情報源はこの今昔マップが主で、一部ウィキペディアからの情報で補足しているが、事実と異なる記述があったらご容赦。

自分の興味地域は、東京南部~神奈川なので、以下はそのエリアについてのみ。

【おもな放射道路編】

東海道(国道1号・15号)

日本橋~品川区間。

1900ごろ時点で現在の国道15号と同じルート。市電も敷設されていた。八ツ山橋が現在の道路形状になったのは1960ごろ。

品川~横浜間。

京急本線が1900ごろ時点ですでに敷設されているが、道路は現在の旧東海道のみ。

六郷橋は1900ごろ時点ですでに架橋されていた。

現在の国道15号品川~大森町駅間が開通したのが1930ごろ。川崎~新子安区間は1920ごろ。

横浜~平塚。1900ごろ時点で、おおよそ現在の旧東海道あるいは東海道に沿ったルート。

1900ごろ時点で、現在の横浜駅付近は鉄道以外は海で、当時の横浜駅は現在の桜木町駅付近にあった。

生麦~保土ヶ谷区間は、1930ごろには現在のルートになり、当時市電が走っていた。横浜駅も現在の位置へ移動。

狩場IC付近が現在のルートになったのは1960ごろ。

藤沢バイパス開通は1960ごろで、それまでは神奈川県道30号および藤沢本町駅付近を通るルートだった。

平塚駅付近の現ルートができたのは1960ごろで、それまでは旧道ルート。(現ルートの国道指定はタイミング遅れて1980ごろ?)

なお、1900ごろ時点で、浜離宮~平和島駅間は現在の山手線・京急本線がほぼ海岸線で、以東はその後の埋立地である。

現在の国道1号日本橋~横浜駅間について

日本橋~五反田間は、中原街道の原型として1900時点でおおよそ既にあった。

三田~高輪台駅区間は、1900ごろ時点では細い道しかなく、1930ごろまでにかけて大きな道として開通した。

ちなみに、三田慶應のT字路ができたのが1940ごろ、白金高輪駅から古川橋方面の区間が開通したのが1960ごろ。

なお、日本橋~札の辻と魚藍坂~五反田には市電が走っていた。

[129] 日原トンネル旧道を歩く, , http://kasetsu.sukimakaze.com/hobby/nippara1.htm

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“鍾乳洞と巨樹の神秘の里・おくたま にっぱら”

日原の観光案内のサイトに出ているスローガンである。

東京都西多摩郡奥多摩町にある集落のひとつ「日原(にっぱら)」は、只でさえ山深い奥多摩町の更に奥地に位置している

人口こそ500人に満たない集落だが、この日原集落のもつ役割は大きい。

第一に、奥多摩の主要な観光地としての役割を持っている。集落の中心から凡そ2kmほど谷の上流へ進んだ所にある「日原鍾乳洞」は、

昔は信仰地として、いまはレジャースポットとして多くの人を集めている。

そして第二に、この附近の山々に多量に含まれている石灰岩の存在だ。

時は戦後、コンクリートの需要は増える一方であった。

そんな時、日原で石灰が採れることが判明。その後あっという間に、日原は一大採取地と化した。

山は削られ、かつて村人たちが崇め畏れていた「とぼう岩」という大岩も、セメントの山となって消えた。

今もなお、日原の山は削られ続け、街ではビルが建設されている。

ここで、日原の交通の沿革を説明したいと思う。

日原の歴史は古く、室町時代頃に「原島家」によって拓かれたという。(余談:現在も日原集落を始めとする奥多摩町には「原島」姓が多い)

だが、原島家が日原にやってきたルートは現在の日原川を遡るルートではなく、北方の秩父より標高1500mを超える山々

(現在長沢背稜と呼ばれる尾根)を越えて、日原へ至るものであった。

では何故多摩川の支流にありながら、多摩川からでなく秩父方面から開拓の手が伸びたのか?

これは私の推測だが、おそらくその理由は、多摩川と日原集落を結ぶ日原川の急峻さにあると思う。

日原川は雲取山を源に発し、奥多摩町の氷川集落で多摩川と合流するまで、ほぼ全ての区間でV字谷を作っている。

なかでも日原付近はとりわけ急峻であり、恐らく何万年もかけて作られたであろうU字谷(両側が断崖)まで存在する。

そのU字谷(この両岸に聳える岩を、人々は「とぼう岩」と呼んだ)を、当時の人々は越える事が出来なかったのであろう。

ともかく、室町時代に日原集落は拓かれた。

やはり山を越え秩父へと向かうルートは遠すぎたのだろう、直ぐに下流の氷川へと向かう道が造られた。

ただやはり「とぼう岩」は超えられな

[130] 荒川 (関東) - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E5%B7%9D_%28%E9%96%A2%E6%9D%B1%29

歴史[編集]

荒川は、江戸時代初期以前は現在の元荒川の川筋を通っていた。つまり関東平野に出たのち東へ下り、武蔵国・下総国境付近(今の越谷市・吉川市周辺)で南流していた利根川と合流、そこから合流と分流を繰り返しながら江戸湾(現在の東京湾)に注ぐ川だった。「荒」という名の通りの暴れ川でしばしば川筋を変え、下流域の開発も遅れていた。本流が今の綾瀬川を流れていた時代もあるが、戦国時代に水路が掘られて東の星川に繋がれ、綾瀬川と分流した[2]。

利根川東遷事業[編集]

1629年(寛永6年)に関東郡代の伊奈忠治らが現在の熊谷市久下で河道を締切り、和田吉野川の河道に付け替えて入間川筋に落ちるようになった。元の河道は、熊谷市で荒川から離れて吉川市で中川と合流する元荒川となっている。同時期の工事で利根川は東に瀬替え(利根川東遷事業)して古利根川流路から江戸川の流路を流れるようになった。付け替え後の荒川(元の入間川)は、下流で現在の隅田川の河道を通っていた。この部分は流速が遅く、台風で大雨が降るとしばしば溢れて江戸の下町を水浸しにした。明治時代の調べでは、大雨の際、熊谷市と川口市で最高水位に達する時刻の差が48 - 60時間あった[3]。洪水が人や家を押し流すことはないが、浸水による家屋と農作物の被害は深刻であった。しかし、荒川の舟運にとってはこの瀬替えによって水量が増えたことにより物資の大量輸送が可能となり、交通路としての重要性を高めた[4]。

荒川放水路[編集]

荒川放水路(あらかわほうすいろ)は、荒川のうち、岩淵水門から、江東区・江戸川区の区境の中川河口まで開削された人工河川を指す。途中、足立区千住地区、および墨田区・葛飾区の区境を経由し、全長22 km、幅約500 mである。1913年(大正2年)から1930年(昭和5年)にかけて、17年がかりの難工事であった。

計画に至る過程[編集]

明治43年(1910年)8月5日ごろから関東地方では長雨が続き、11日に房総半島をかすめ太平洋上へ抜けた台風と、14日に甲府から群馬県西部を通過した台風が重なり、荒川(現隅田川)を含む利根川や多摩川などの主要河川が軒並み氾濫し、死者769人、行方不明78人、家屋全壊2,121戸、家屋流出2,796戸に上る関東大水害が発生した。利根川左岸上五箇・下中森の破堤により群馬県邑楽郡一帯に被害が集中したほ

[131] 城外防御の拠点, , http://www7a.biglobe.ne.jp/~kyukaidou-tougemichi/jyougai-kyoten.html

さて探索を始めます。広い地域ですが狭い路を行ったり来たり、自転車が大活躍です。幾つもの資料や本を読み、穴の空くほどに地図を眺め、又本を読む。じっと地図を読んでいると本を誤解していたことにも気が付きます。 一先ずは高尾街道を宮の前まで行って、北西に進み城山川の流れを見るように月夜峰と呼ばれた台地に登ると城山川を挟んで北側にも台地状の尾根が続き敵の軍勢が城を目指して進む様子を、狼煙を上げて城に伝える施設だったのでしょうか。攻撃は夜中に行軍が開始され、霧も濃かったようで機能しなかったのでしょうか。現在の元八王子一丁目から三丁目までが旧城下に当たり、 現在の八王子市街地は、その後家康が関東に入府した後に旧城下の復興を断念し、新たに八王子を開発させた地域です。 北部武蔵から八王子を目指すとすれば、拝島辺りに集結し体制を整えてから進軍したのでしょうか。南下して多摩川を渡り、更に淺川を渡って水無瀬橋を渡ればここからが当時の城下と為ります。 東を水無瀬橋、南西を初沢城、北西を浄福寺城とする三角形にほぼ囲まれた地域を中心に探索してみましたので、地図を参照してください。

龍泉寺砦

水無瀬橋の上から上流よりやや西の方角をを眺めると、直ぐ近くに迫っている高台に、こんもりと見えるのが龍泉寺です。

砦といわれても狼煙台などが置かれていたか?防御ができる程の人数が詰められるような広さも無いところですが、この尾根がずっと西まで続いていて幾つかの狼煙台か連絡用の施設があったと見られていて、台地に登ると谷筋を行く道の情景が手に取るように眺めることができます。

七面堂砦

龍泉寺砦と同じように北の尾根状台地の東の先端にあり、南側と北側に夫々谷筋に、城へ続く道を見下ろす事が出来る位置にあります。同じように狼煙台等を設けてあったと考えられ、見下ろせば直ぐ下は四谷に置かれた前田の本陣に近く、初期に戦闘が開始されるよりも早く、敵の軍勢を見定める事も出きずに逃げさってしまったのではないかと、頼りなさにそう思います。

[132] 武蔵小杉 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%B0%8F%E6%9D%89

武蔵小杉(むさしこすぎ)は、神奈川県川崎市の武蔵小杉駅を中心とした地域の通称である。

中原区の区役所が置かれ、同区における行政及び商業の中心地区となっている。地域の住所表記は小杉町を中心に、周辺の小杉陣屋町、小杉御殿町、新丸子町、新丸子東、中丸子、下沼部、市ノ坪などが含まれる。

概要[編集]

地域はおおむね国道409号・JR南武線・東急東横線に囲まれた地区が商業等施設の集積地、周囲は住宅地となっており、多摩川河川敷、等々力緑地、二ヶ領用水、中原平和公園、中原平和館などの施設もある。商業では、地元の法政通り商店街以外にも、大規模なスーパー(イトーヨーカドー、マルエツ、東急ストア、フーディアム、デリド)などがある。

江戸時代、この付近には中原街道の小杉宿が置かれていた。近代になると、多摩川の川べりである武蔵小杉一帯は工場や横浜正金銀行の大規模なグランドなどが立地し、かつての駅名は東京横浜電鉄では「工業都市」、南武鉄道では「グラウンド前」である。一方太平洋戦争以前、この一帯で商業の中心として栄えていたのは、中原街道に近い新丸子駅周辺であった。

後に[いつ?]日本電気(NEC)玉川事業場やキヤノン小杉事業所がおかれ、武蔵中原駅近隣には富士通本店・川崎工場があることから、関連企業も南武線以北にあるビルに事業所を多く構えるようになった。

2010年3月には、それまで通過していたJR横須賀線に駅が新設され、南武線との乗換連絡通路も設置された。鉄道網は今後、東急東横線(目黒線)は東京メトロ副都心線や西武池袋線(西武有楽町線経由)、東武東上線、相鉄本線(相鉄いずみ野線)との直通運転が予定され、川崎縦貫高速鉄道(川崎市営地下鉄)の乗り入れ計画もあるなど、更なる整備が見込まれている。

武蔵小杉では2011年までの10年間に7,431戸の新築マンションが供給されたが、これは首都圏の駅別に見たランキングでは川崎(7,803戸)、豊洲(7,620戸)に次ぐ第3位であった[1]。これは鉄道網の整備に加え、NECなどの工場跡地の開発がマンションの大量供給に繋がった結果であり、武蔵小杉では今後も高層マンションや商業施設建設が予定されている[1]。

地区構成[編集]

東西方向に走るJR南武線と南北方向に走る東急東横線・目黒線が十字に交差しており、十字に4分割される地区ごとで違った性格を持っている。

[133] 多摩ニュータウン - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E6%91%A9%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%B3

戦後の高度経済成長期、東京区部での深刻な住宅難にともなって地価は著しく上昇し、その結果として地価の安かった市部が急速に宅地造成されることになった[5]。しかし民間主導の無計画な開発は劣悪なスプロール化をもたらすことになる。当時は民間による違法な宅地造成が56%を占める状況で、このような乱開発を防止するとともに居住環境の良好な宅地を大量に供給することを目的として1965年(昭和40年)に多摩ニュータウンが計画された[6]。

計画決定の当初段階では、開発主体者が全区域の土地を全面買収する新住宅市街地開発事業で進められることになっていたが、1966年(昭和41年)、既存住民らの請願により土地区画整理事業区域が設けられた。そのため、街づくりの基本概念となる後述の近隣住区理論を実践するに当たり、歩行者専用道路網などが一部途切れて空間構成に矛盾を生じることになったが、他方、街の形成に自由度を残した多様性をもたらすこととなった。

多摩ニュータウンの最初の入居としては、別の開発計画として存在し、早期から買収が進んでいた公団の「聖蹟桜ヶ丘地区」が計画に組み入れられる形で、多摩ニュータウンの「諏訪・永山地区」として1971年(昭和46年)に入居が始められた[7]。この地区を中心にオイルショックまでの3年間で約8千5百戸余りもの画一的な住宅が供給され、その後種々の問題を引き起こすことになる[8]。当時はまだ鉄道は開通しておらず、住民は多摩市北部の聖蹟桜ヶ丘駅などへバスやタクシーでの移動を強いられていた[9]。乗り入れ認可を受けていた当時の京王帝都電鉄・小田急電鉄は、新線建設の費用のほか多摩ニュータウン方面からの輸送量増加に伴う在来区間の複々線化の費用が掛かるとなると、とても採算が取れないとしていて、多摩ニュータウン内の開発益を得る余地も少ないことから、国や都に用地の無償提供などを求めて建設を中断していたためである[10]。最終的には、日本鉄道建設公団が私鉄事業者の鉄道施設を建設し、完成後に25年の割賦で事業者に譲渡するという方策がとられることとなり、小田急線が1974年(昭和49年)6月に小田急永山駅まで、続いて京王線が同年10月に京王多摩センター駅まで開通し、小田急も翌1975年(昭和50年)に小田急多摩センター駅まで開通した。

1974年(昭和49年)のオイルショックでは社会情勢が大

[134] 東急玉川線 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%80%A5%E7%8E%89%E5%B7%9D%E7%B7%9A

下記のデータは特記なければ路線廃止時点(溝ノ口線については大井町線編入前)のもの。

路線距離(営業キロ):

玉川線:渋谷 - 二子玉川園間 9.1km

砧線:二子玉川園 - 砧本村間 2.2km

溝ノ口線:二子読売園 - 溝ノ口間 2.1km

軌間:1372mm

駅数:(起終点駅含む)

玉川線:15駅

砧線:5駅

溝ノ口線:4駅

複線区間:

玉川線:全線

砧線:なし(全線単線)

溝ノ口線:二子 - 溝ノ口間

電化区間:玉川線・砧線・溝ノ口線とも全線(直流600V)

閉塞方式:スタフ閉塞(砧線)

歴史[編集]

玉電(玉川線)は、1896年(明治29年)、玉川砂利電気鉄道により、二子多摩川付近の砂利を東京都心に輸送することを主目的として、東京市麹町区の三宅坂と玉川の間の路線開設が出願されたことを起源とする。1902年(明治35年)に渋谷 - 玉川間の軌道敷設が許されると、1903年(明治36年)玉川電気鉄道が設立され、1907年(明治40年)、玉川電気鉄道の手により渋谷 - 玉川間が開業した[1]。

玉川から運んできた砂利を都心に輸送するため、渋谷では、都心に線路を伸ばしていた東京市電と軌道が接続され、渋谷には砂利運搬車両の留置線も設置された。1922年(大正11年)、玉川電気鉄道により渋谷 - 渋谷橋の間に天現寺線が開通すると、玉川線と天現寺線は直通運転された。 1924年(大正13年)には玉川 - 砧(のちの砧本村)間に砧線が開業し、二子橋の上流にあたる大蔵付近(東京府北多摩郡砧村)の砂利の輸送を開始した。このように、砂利輸送を主目的とした性格から、「ジャリ電」と呼ばれることもあった。関東大震災後の市内補修の砂利運搬には威力を発揮した。

玉川電気鉄道は路線を拡張してゆく。1925年(大正14年)、三軒茶屋-下高井戸間に下高井戸線(のちの世田谷線)を開業。1927年(昭和2年)には天現寺線渋谷橋より中目黒に至る中目黒線を、同年溝ノ口線(玉川 - 溝ノ口)を開業した。溝ノ口線の開業時には、多摩川を渡る二子橋の建設費の一部を玉川電気鉄道が負担し、二子橋は橋の中央に線路が敷設された形態の道路・軌道の併用橋となった。

1934年(昭和9年)、二子橋より下流での砂利採取が全面禁止され、さらに玉川電気鉄道の経営権が東京横浜電鉄や目黒蒲田電鉄を経営していた五島慶太らに移って以降は、

[135] 奥多摩工業の無人トロッコの見える場所 : 銅の匙、記憶の旅, , http://aizak3.exblog.jp/17114286/

日原鉱床と天祖山鉱床の位置 奥多摩工業と石灰採掘の歴史は、『多摩誌』の該当箇所をそのまま「more」に引用した。 京浜工事事務所の編纂した『多摩誌』はweb上で検索でき、全文が読むことが出来る。 3.2.2 奥多摩の石灰工業 建設省京浜工事事務所『多摩誌』 奥多摩町には古くからある製材工場(9工場,86人)のほかに,近年は電機部品等の工場も多くなってきたが(約20工場,350人),やはり最大の事業所は日原で石灰石を採掘する奥多摩工業であり,その関連企業である. 奥多摩工業は従業員数約300人で,日原に3個所の鉱山があり,いずれも氷川駅に運ばれて選鉱し,セメント工場や製鉄所へ出荷されているが,青梅市上成木にも梅ヶ平鉱山があり,瑞穂町富士山に化工場がある.また,奥多摩町倉沢に奥多摩化工があって,生石灰の生産を行っている. 奥多摩工業は,1927年に浅野セメントが買収していた日原の山林133町2反6畝を継ぎ,10カ年以内に当時の鉄道の終点御岳から氷川まで鉄道を建設し,石灰石の採掘を行おうとしたもので,日本鋼管と鶴見造船が300万円を出資して,奥多摩電気鉄道株式会社として設立されたものである. 鉄道は1941年に着工されて1944年に竣工したが,当時の地方鉄道法によって国有化され,会社は現社名となった. 氷川から戸望鉱床まで5kmの索道が建設され,実際に営業を開始したのは第二次世界大戦後の1946年であった.1947年の年産額は6.8万tであったが,1952年には39.8万t,1957年には126.1万tに達し,1961年には200万tを超えた. 採掘は朝顔坑の露天掘りで,底部からトンネルの運鉱路を通って岩松に集められ,ここで砕石される.砕石はさらに底部より鉱車に積まれトンネルの曳索鉄道を通って氷川に運ばれ,ここで選鉱される.カーバイド用やセメント用の鉱石はそのまま貨車で出荷されるが,高炉用や硝子用の4mm以下の細粉は水洗して砕石し,選別される.また,転炉用の生石灰を造るために,1961年,奥多摩化工が建設された(参52). 石灰石は1950年制定の新鉱業法によって新たに適用鉱物となったため,奥多摩工業は,1963年にかけて倉沢・天祖山・小川谷・已の戸・樽沢・御前山・川乗山など2,618haに鉱業権を設定した. そして戸望や油面を中心とした日原鉱床の貧鉱化に伴い,1

[136] 六郷土手の 止め天神 « 庵魚堂日乗, , http://tanken.life.coocan.jp/weblog2/?p=326

多摩川にかかる六郷橋です。

海から約6キロ。きょうはこの周辺を特にあてもなく探検です。

六郷橋のたもとに祀られている北野天神社、通称“止め天神”。

徳川将軍・吉宗の落馬をすんでのところで止めたことからこの名前になったという由緒のある社です。

将軍が毎週元気に暴れることができたのは、この天神様のおかげだったわけですね。

さて参拝。 ちょ、ちょっと待った。

境内に置かれていた石橋の欄干。

サイズからして、もう少し内陸を流れていた六郷用水に架かっていたものでしょう。‥‥多摩川に架けるにはちょっと小さい(笑)

大田区内には、かつて六郷用水の周辺で収穫された野菜などを洗っていた「洗い場」の名残りが各所にあり、南六郷には「河原橋下洗い場」という名前が残っています。

ネットを検索すると、境内にあるこれが「踏み石」と説明されているのがいくつか見つかりますが、どう見ても石橋の欄干です。

用済みになった欄干がなにかの成り行きで奉納されここに置かれたもので、もともと踏み石なわけではないはずですが。

止め天神の狛犬。

躍動感ある阿形と、静かに構える吽形。動と静の対比が際立つ姿です。

その近くに保存されているのが、かつて多摩川に架かっていた旧六郷橋の遺構。

大正十四年から昭和五十九年まで使われていたもの。

立派な姿です。

[138] 計画決定から50年、JR戸塚駅の「開かずの踏切」がついに解消!? 3月25日にアンダーパス開通![はまれぽ.com], , http://hamarepo.com/story.php?story_id=3874

投稿の中から、はまれぽ編集部もキニナルことを調査してお答えします! ぜひ投稿してみてね。(200文字まで)

国道一号線の「影取町」交差点から大船駅方面に向かう道の途中に「関谷インター」があるのですが、料金所が無く高速道路でもないただの県道でした。なぜ一般道路なのに「関谷『インター』」という名前を付けたのでし...

よぴさん

とうとう『旧三井物産横浜支店生糸倉庫』(旧日東倉庫)が全て解体されてしまいました。跡地は赤レンガの瓦礫で埋め尽くされています。跡地は取り敢えず駐車場と聞きますがあの瓦礫を全部下敷きにしてアスファルトで...

0330riさん

[149] 等々力 (世田谷区) - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%89%E3%80%85%E5%8A%9B_%28%E4%B8%96%E7%94%B0%E8%B0%B7%E5%8C%BA%29

等々力 (とどろき)は、 東京都 世田谷区 、 神奈川県 川崎市 中原区 の地名である。起源は同じ等々力村に由来し、近代になって市町村制等が整備される中で、世田谷、川崎に分割されたものである。本稿では、このうち世田谷区の等々力を扱う。川崎市側については、 等々力 (川崎市) を参照のこと。

概要 [ 編集 ]

行政上は一丁目から八丁目から成り、北は 目黒通り を越え上野毛通りあたりまで(八丁目)、南は 環八通り 付近まで、西は中町・野毛、東は 目黒区 自由が丘 三丁目と接する(六丁目)。概ね、 東急大井町線 等々力 - 自由が丘 間の北部、目黒通り等々力不動前 - 産能大前の沿線に広がっている。面積は1.732平方キロメートル、人口は25,447人( 2014年 (平成26年)3月1日現在) [1] 。

住居表示実施前までは、環八通りの南側・現在の玉堤地区も、世田谷区玉川等々力町の一部であった。また、 多摩川 対岸の、現在の川崎市中原区等々力は、かつては等々力村の一部であった。現在、川崎市の等々力とを直接結ぶ公共交通・橋梁・渡船はない。ただし、現在世田谷側の目黒通りから川崎側の 宮内新横浜線 の間の多摩川に橋を架橋する計画がもちあがり、現在、東京都・川崎市において協議が行われている。

等々力には、 世田谷区役所 玉川総合支所・玉川区民会館が設置されている。商業面では、 等々力駅 周辺にわずかに商店街が形成されているほかは、目黒通り沿いにスーパー(紀伊国屋)や飲食店がある程度であり、商業的な求心力は、近隣の 二子玉川駅 や自由が丘駅周辺にある。町域のほとんどは閑静な住宅街であり、比較的緑も多い。

等々力と同じように多摩川両岸に存在する同名の地名の例としては、他に 瀬田 、野毛(東京: 野毛 、 上野毛 、川崎:下野毛)、 宇奈根 等の例がある。

地価 [ 編集 ]

住宅地の地価は、 2014年 ( 平成 26年) 1月1日 の 公示地価 によれば、等々力6-13-12の地点で76万5000円/m 2 となっている。世田谷区内で最も地価が高い。 [2]

玉川地域の行政上の中心地としての性格 [ 編集 ]

等々力は、江戸期以前は 荏原郡 等々力村であった。のち周辺の7ヶ村( 用賀 、 瀬田 、上野毛、 下野毛 、 野良田 、 奥沢 、 尾山 )と合併し 玉川村 (現在の世

[150] 白丸ダム - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E4%B8%B8%E3%83%80%E3%83%A0

白丸ダム (しろまるダム)は、 東京都 西多摩郡 奥多摩町 白丸、 多摩川 水系 多摩川に建設されたダム。高さ30.3mの 重力式コンクリートダム で、 東京都交通局 の 発電用ダム である。同局の 水力発電 所・ 多摩川第三発電所 および 白丸発電所 に送水し、合計最大1万7,500kWの 電力 を発電する。ダム湖( 人造湖 )の名は 白丸湖 (しろまるこ)という。

歴史 [ 編集 ]

1963年 ( 昭和 38年)、 東京都交通局 が白丸狭窄地帯と呼ばれる多摩川断崖の 谷 に建設した。貯えた水は下流の御岳にある 多摩川第三発電所 に送水し、最大1万6,400kwの電力を発電させる。

2001年 (平成13年)、 国土交通省 が 魚道 を新設し、多摩川に生息する魚の往来が出来るようにした。また、白丸ダム直下に 白丸発電所 が建設され、観光のための放流水を利用して1,100kWの電力を発電できるようにした。

周辺 [ 編集 ]

JR 青梅線 ・ 鳩ノ巣駅 下車、徒歩10分。 エメラルドグリーン の 水 が壮観な、東西に細長い人造湖である。

上流には 小河内ダム(奥多摩湖 )があり、その直下にも東京都交通局の多摩川第一発電所がある。白丸ダムが東京都交通局による発電用ダムであるのに対し、小河内ダムは 上水道 用水確保を主目的とした 東京都水道局 のダムである。

[151] 白丸調整池(東京都奥多摩町 東京都交通局) ( 散歩 ) - 水力発電所とダムに行ったおはなし - Yahoo!ブログ, , http://blogs.yahoo.co.jp/dam_suiryokuhatuden/15981723.html

坂本貯水池に架かる吊り橋 に行く途中の話の中で出てきましたが

坂本ダムの右岸側をチョコチョコっと通って参りました

これを

[152] 東京新聞:観光放流やめ発電強化 奥多摩の鳩ノ巣渓谷:電力・節電(TOKYO Web), , http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/scheduledstop/list/CK2011062002100003.html

夏の電力不足を少しでも補おうと、東京都は、多摩川上流の景勝地「鳩ノ巣渓谷」への平日の観光放流を取りやめ、都が所有する水力発電所での発電量アップを目指す。地元・奥多摩町の理解も得られており、環境省と国土交通省の許認可を得られ次第、実施したい意向だ。

都は、多摩川上流に多摩川第一、第三、白丸の三つの発電所を所有し、東京電力に売電している。最も新しい白丸発電所は、白丸調整池ダムから下流の第三発電所までの間が、枯れ川にならないよう最低限の水(維持流量)を流していたのを、発電も一緒に行おうと、二〇〇〇年十一月に完成した地下式の施設。ただ、調整池からの高低差が二十数メートルしかないため、常時出力は第一の五千四百キロワット、第三の五千三百キロワットと比べ、白丸は百三十キロワットとかなり小さかった。

白丸発電所の下流にある奇岩が見どころとなっている鳩ノ巣渓谷。一九六三年に第三発電所と白丸ダムが完成してから、水量が減少。観光に打撃となるため、三月から十一月まではダムからの放流量を増やし、一方で第三発電所の出力を抑えていた。

[153] 東京にも領土問題 千葉・埼玉との境界が未確定 :日本経済新聞, , http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK0500G_V00C13A9000000/

葛西臨海公園から東京ディズニーリゾートを望む。右手にシンデレラ城がちらりと見える。左手の舞浜大橋より下流は境界線が定まっていない

東京都の地図を眺めていたら、隣県との境界線が切れている場所があった。国土地理院に聞いてみると、境界が決まっていない場所だという。実は東京都は千葉県、埼玉県との間で、境界を巡る「紛争地」を抱えている。なぜ境界が定まらないのか。東京都の「領土問題」を追った。

[154] 東京にも領土問題 千葉・埼玉との境界が未確定 :日本経済新聞, , http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK0500G_V00C13A9000000/?df=2&dg=1

1970年代後半から80年代前半にかけて、東京ガスのパイプラインを巡って境界が問題となった。どこを境界とするかによって、固定資産税などの税収が変わってくるからだ。

何年も協議したが両者とも持論を譲らない。結局、1983年(昭和58年)、当時の自治相(現・総務相)の裁定で、双方の主張する境界線のちょうど真ん中を暫定的に境界と定めて税収を配分することになった。この暫定措置が、その後30年も続いている。

2010年には羽田空港の拡張で再び境界線問題が浮上した。滑走路そのものは東京都側にあったが、海面下の構造物の一部が千葉県の主張するラインを越えてしまった。このときも行政区域の確定には至らず、双方が確認書を交わしたという。

東京都は「今後も問題が生じた場合は個別に協議して解決する」方針。個別事例で起きた問題は、行政上の境界問題とは切り離すという。千葉県も同様だ。ひとまず行政上の境界は棚上げするという姿勢だが、その都度協議を重ねるより、根本原因である行政上の境界を解決した方が早いのではないか。お互い歩み寄る余地はないのだろうか。

[155] 東京にも領土問題 千葉・埼玉との境界が未確定 :日本経済新聞, , http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK0500G_V00C13A9000000/?df=3&dg=1

江戸川区の主張するラインだと江戸川水門の右手にある土地が江戸川区の飛び地になる。市川市は旧江戸川の中心が境界と主張している(国土地理院の電子国土地図、緑のラインが都県境)

江戸川区と隣の千葉県市川市の境界線は、もともと江戸川の真ん中を走っていた。放水路の開削後は旧江戸川に境界が引き継がれたが、水門を造る際、旧江戸川の流れを西寄りに変えたことでそれまでの境界線が陸地上になってしまった。地続きの市川市か、川を挟んだ江戸川区か。この土地の帰属が、いまなおはっきりしていないのだ。

[156] 東京にも領土問題 千葉・埼玉との境界が未確定 :日本経済新聞, , http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK0500G_V00C13A9000000/?df=4&dg=1

小合溜(正式には小合溜井)ができたのは8代将軍吉宗の時代。江戸の水害を防ぐために造られた。協議の過程で葛飾側は「このときから既にこちら側の領土だったと古文書に書いてある」と主張したという。

江戸時代から、葛飾側と三郷側は水害を巡る争いが絶えなかったという。小合溜は葛飾側からすれば防波堤だが、三郷側からすれば、流れてほしい水をわざわざせき止めてしまう邪魔な存在。洪水時は決壊してくれた方が三郷側にとっては助かる側面もあった。

[157] 多摩 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E6%91%A9

多摩(たま)は、本来は、多摩郡が範囲とする地域である。

おおよそ、現代で言う多摩地域(東京都のうち区部・離島以外)を中心とするが、若干広く、区部の一部(中野区全域・杉並区全域・世田谷区の一部)を含む。また、中世までの多摩郡を基準とした場合は神奈川県川崎市多摩区の一部をも含み、区名にそれが残っている。

表記[編集]

異字表記として多磨があり、現在では府中市多磨町(旧多磨村)としてのみ使われる。これは、旧多磨村発足時、多くの住民が多摩村を希望したが、既に南多摩郡多摩村があったため多磨村にしたといわれる。

また、世田谷区玉川の「玉」も同源である。

語源[編集]

『和名類聚鈔』に「太婆」の注釈が記されていること、多摩川の上流部(現在は奥多摩湖で分断されている)に丹波山村を水源とする丹波川(たばがわ)があることなどから、古くはタバであったとする説がある。また、『安閑紀』にある多氷が、多末の誤記で、多摩のことだともいう。これらの説は江戸時代の『新編武蔵風土記稿』で言及された。

タマ(あるいはタバ)自体の語源ははっきりせず、

タマ(リ)。水が多く溜まる地の意味。

田間。

峠を意味する「タワ」、あるいはウラル・アルタイ説でその古形とされる「ダバ」。大菩薩峠から流れる川の意。

魂。

など諸説がある。

なお一説に(有力な説ではない)、埼玉(さいたま、古くは、さきたま)は、多摩の先(さき)にあるからサキタマだという。

また、魏志倭人伝に見られる「投馬国」との関連を言及されることもある。

多摩を冠する地名[編集]

地形[編集]

多摩丘陵

多摩川

奥多摩

多摩湖

多摩平(日野市)

行政区画[編集]

多摩地域(多摩地区)

多摩郡(令制国の武蔵国多摩郡)

西多摩郡

東多摩郡(1896年南豊島郡と合併し消滅)

北多摩郡(1970年消滅)

南多摩郡(1971年消滅)

多摩市 - 旧南多摩郡多摩町

川崎市多摩区 - 中心部の稲田がかつて多摩郡内だった。

その他[編集]

多磨霊園(府中市)

玉川地域(世田谷区)

多摩ニュータウン

多摩田園都市

ナンバープレート[編集]

東京都多摩市・稲城市・武蔵野市・三鷹市・調布市・府中市・小金井市・国分寺市・国立市・小平市・西東京市・東村山市・立川市・町田市・昭島市・狛江市・東久留米市・清瀬市・武蔵村山市に所在する自動車のナンバープレートに、国土交通省運輸局記号として

[158] 高尾山 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B0%BE%E5%B1%B1

高尾山(たかおさん)は、東京都八王子市にある標高599mの山である。東京都心から近く、年間を通して多くの観光客や登山者が訪れる。

概要[編集]

関東山地の東縁に位置する山のひとつ。明治の森高尾国定公園に指定されており、キャンプやバーベキュー等、また、植物の採取、鳥類の捕獲も禁止されている。

中腹には、数多くの建物や文化財を有する高尾山薬王院の他、サル園・野草園や標高500mからの夜景を楽しめる高尾山ビアマウント(夏季限定)等がある。山頂には、展望台や高尾ビジターセンターがある。長さ1,697kmの東海自然歩道の起点でもある。また明治以降、高尾山薬王院の参拝客に元気をつけてもらおうと振る舞ったのが始まりのとろろそばは高尾山の名物であり、ふもとから山頂に点在する各店がそれぞれメニューを提供している。

暖温帯系の照葉樹林帯(カシなどの常緑広葉樹)と冷温帯系の落葉広葉樹林(ブナ・イヌブナ・ナラ・ホオノキなど)・中間温帯林(モミ・ツガなどの針葉樹林)の境界に位置するため植生が豊かであり、しかも都市部に近い割には比較的よく保たれている。

高尾山は、東京近郊の行楽地として有名であるが、元来は修験道の霊場であり、現在は真言宗智山派大本山高尾山薬王院有喜寺の寺域となっている。そのため、天然の森林が守られてきた。中世には、八王子城主北条氏照による「本山の竹木の伐採を禁じる」という制札が薬王院に残されており、江戸時代にも幕府直轄領となり八王子代官・大久保長安が山林保護政策をとり、その書状が同じく薬王院に残されている。その後も帝室御料林、国有林と常に保護されてきた。明治以降、牧野富太郎をはじめ、多くの研究者により高尾山が最初の発見地として新しい植物が発表された。

山頂から東側は八王子市や相模原市などを中心とした関東平野の街並や、筑波山、房総半島、江の島まで眺めることができる。また西側は丹沢山地や富士山を見渡せる。冬至の前後数日間には、富士山の真上に太陽が沈むダイヤモンド富士を見ることができる。また八王子八十八景にも選ばれている。また、高尾山には古くから天狗が存在しているとの伝説もある。

オリエンテーリングのパーマネントコースも整備されており、トレイルランブームも相まって競技に興じる人がよく見られる。『出没!アド街ック天国 』においても取り上げられた。

1971年から毎年春と秋に高尾山から陣

[159] タワーマンションのまちづくり進む武蔵小杉|日経BP社 ケンプラッツ, , http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/article/building/news/20131209/643609/

筆者は5歳の頃から4階建ての集合住宅(社宅)に住み始め、その後も学生時代を除き、高層集合住宅に親しみ、現在は横浜の超高層マンションに住んでいる。そのため、土に対するあこがれも強く、妻の実家のいわき市で「家庭菜園」をして生活のバランスをとっている。50年近くマンション暮らしをしてきた筆者にとってみても、東横線から見る武蔵小杉の町並みは、超高層マンションが林立し、ちょっと違和感を覚えものだ。どんな「まち」になっているか、現地を歩いてみた。

中原街道からはじまった町

35年くらい前、武蔵小杉駅でたびたび降りて、近くの居酒屋で呑んでいた。20代後半に競馬を趣味としていたからだ。横浜から東急東横線で武蔵小杉駅に行き、南武線に乗り換えて、かつては日本で一番長い駅名だった「東京競馬場前駅」まで行き、テンポイントやクライムカイザーの雄姿を見た。競馬は負けるのが常。負けるたびにとぼとぼと「おけら街道」を歩き、武蔵小杉まで戻ってきて、みんなで一杯やって帰宅した。当時の駅近辺はごちゃごちゃしていて、近くに工場や社宅があったこともあり、呑み屋が多かった記憶がある。

もともと、現在の小杉十字路付近は江戸時代に整備された「中原街道」の要所だった。近くに多摩川を渡る丸子の渡しがあり、近隣の農産物などの江戸への物流に重要な役割を担ってきた。明治以降も中原街道沿いが賑わいの中心になっていたが、1926年(大正15年)に東横線が開通して以降、中心地が変わっていく。27年には南武鉄道線が川崎―登戸間を開通させたが、小杉地区にはグランド前停留所という駅ができた。その後、44年(昭和19年)に南部鉄道線が国有化され、その時期にグランド前停留所が武蔵小杉駅と改称された。東横線は開通時には小杉付近には駅は作っておらず、45年に現在の地に武蔵小杉駅を開業した。

当時、東横線は通勤通学客の確保を狙っていたこともあり、1929年に日吉台の約24万m2の土地を慶応大学に、31年に新丸子駅近くの3万3000m2の土地を日本医科大学に、35年には元住吉近くの約3万m2の土地を法政大学に寄付した。沿線に大学などを率先して誘致した。また宅地分譲も次々に行い、鉄道利用者を増やした。

[160] タワーマンションのまちづくり進む武蔵小杉|日経BP社 ケンプラッツ, , http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/article/building/news/20131209/643609/?P=6

武蔵小杉駅から中原街道付近の散策

武蔵小杉駅の朝は、周辺の住宅から東京都心に向かう通勤客で混み合っている。若年層がわりと多いが、これも付近にできたタワーマンションの住人が多いためだろう。

駅前には駅に直結したタワーマンションのエクラスタワー武蔵小杉(地上39階建て、高さ約150m、住戸数326戸)があり、商業施設のほか中原図書館も併設されている。

[166] @nifty:デイリーポータルZ:道のまっすぐ具合を確かめる, , http://portal.nifty.com/2007/02/02/b/index.htm

地図を見るのが好きだ。

知らない場所でも、行った気分になったりできる。ただ、もっと面白いのは、知っているはずの場所で何か新しい発見があることだ。

近場の地図を眺めていて、気になることがあったので、確かめてきました。

(text by 三土たつお)

[167] 道路レポート 奥多摩古道 (氷川〜除ヶ野), , http://yamaiga.com/road/yokeno/main.html

東京都の奥座敷、奥多摩町の中心が氷川(ひかわ)である。

多摩川と日原(にっぱら)川の合流地点に開けたさほど広大でもない緩斜面に町役場、小学校、JR青梅線の終着駅である奥多摩駅、国道411号などの都市機能が集中的に立地している。

そして氷川から日原川に沿って1kmほど北上した山腹に、除ヶ野(よげの)集落がある。

取り立てて何がある場所でもないが、古くから人の住う土地であったことは、この意味ありげな地名にも現れている所だ。

現在、除ヶ野から氷川へは、日原川に架かる北氷川橋渡って行くのが普通であるが、このルートは安寺沢林道が除ヶ野まで開通した昭和50年代から使われるようになったという。これは除ヶ野集落で聞いた話である。

そして古い地形図を見ると、除ヶ野から氷川まで順当に日原川左岸の山腹を緩やかに下って行く道が描かれている。

その表記は「破線」であり、小径の域を出ないものであったと察せられる。

そして再び現在の地形図に戻ると、相も変わらず「破線」が描かれているのである(赤く着色した)。

これが今回採り上げる「奥多摩古道」である。

この名前も特に定まったものではないが、奥多摩地域にある古道の一つという事で、このように呼ぶ事にした。

なお、「今も昔もこの道は破線で描かれている」としたが、より縮尺の大きな地図を見ると、道は断絶している。

次の地図(「プロアトラスSV7」縮尺5000分1)を見ていただきたい。

「奥多摩古道」は、氷川小学校の北側の一角で、途切れている。

そしてその周辺を見ると、様々な形と大きさの建物が密集している。

それは例えば「栃久保」<辺りに見える住宅地とは明らかに異なる様相を示しており、大いに不自然である。

いったいこの場所には、何があるのか?

知っている人は知っている。

人口5600人の山間の町が誇る、お土産物にはならぬ“特産品”が、ここで生み出されている。

かつて国鉄青梅線の御岳以西の区間を作ったのも、この場所を占める者である。

さらに奥多摩駅の貨物取扱高は、その“特産品”が鉄道で輸送されていた当時において、青梅線全体の8割を占めるほどに膨大であった。

それは、何者か?

↓答え↓

[168] 道路レポート 都道204号日原鍾乳洞線 旧道 , , http://yamaiga.com/road/nippara/main.html

後にも先にも、山行が史上最悪の路面崩壊といえば、松の木峠の旧道を置いて他にない。

そう信じてきた私だが、レポート公開以来、読者から「もっと凄い場所がある!」

そんな挑戦状のようなメールが、年に数回以上も届けられるようになった。

中でも、複数の人から繰り返し紹介された場所がある。

東京都奥多摩町の日原川流域に、おそらく松の木峠を越える絶望的な崩落地点が、存在するのだという。

促されるようにして、WEB上で見ることが出来た幾つかの現地レポートを見たが…

皆 撤退していた。

だが。

私は、この崩壊地をモニタ越しに何度か見るうち、

「突破できるのではないか」 「言うほど難しいのだろうか?」

そんな疑問を感じるようになっていた。

確かにその崩壊地の幅は、松の木の比ではないように見えた。

だが… 松の木の時のように、チャリ同伴を強制される訳ではないのだ。

極端な話し、山頂まで高巻することだって、谷底まで迂回することだって出来るのではないか。

年に数回、誰かしからは届く、“日原からの挑戦状”。

遠く秋田にいた私は、それを読むたび、もうもどかしさでどうかなってしまいそうだった。

もし東京で暮らすことがあったら、じっくりと挑戦してみたい。あの松の木の時と同じように… 独りで、思う存分…。

そう願ってきた。

2007年1月5日、私は上京を果たす。

その日より僅か11日目の朝。

挑戦するために 私は独り 家を出た。

問題の大崩壊地は、東京都の西端部を占める奥多摩町の中北部の一角、日原(にっぱら)という場所にある。

自宅からは約50km。電車を乗り継いでいけば簡単に行けそうな近場だ。

旧道を地図に探したが、最新版ではもう描かれていなかった。

手許の古い地図でも見てみると、日原トンネルを迂回するような谷沿いのグネグネ道と一本の短い隧道が、確かに描かれている。

情報によると、その旧道の入口付近に崩壊があり、隧道の内部や裏側へは行くことが出来ないというのだった。

日原上流には関東有数の規模を誇る鍾乳洞があり、渓流釣りや登山に適する場所も豊富で、日原全体が都民の一大レクリエーション場となっている。

反面、一帯の地下には石灰石が膨大に埋蔵されており、昔からの石灰石鉱山地帯でもある。奥多摩町氷川に本拠を置く奥多摩工業は、専用鉄道を日原谷の奥地まで延ばし、今なお盛んに

[170] 平山城址・絹の道散歩 - 時空散歩, , http://yoyochichi.sakura.ne.jp/yochiyochi/2009/09/post-63.html

先日府中から国立に多摩川に沿って、また立川から府中へと立川崖線に沿って歩いた。その時気になっていたのは、多摩川を隔てて聳える多摩丘陵。あそこは聖蹟桜ヶ丘か、ということはその東の丘は米軍のレクレーションセンターのあるところか、あのあたりは高幡不動か、と、あたりをつけながら歩いた。 そのときふと、平山城址公園ってどのあたりだろう、と地図をチェック。昔南大沢から分倍河原に向かって歩いたことがあるのだが、平山城址公園のそばの道を越え、北野街道に出た。そのときは、日没時間切れのため結局、平山城址公園に行けなかった。そのことが少々心残りであったのだろう。ということで、とある日曜日、平山城址公園へとでかけることにした。 行く前に地図をチェック。平山城址公園のそばに長沼公園がある。またその西には野猿峠・野猿街道が走っている。さらにその西南には「絹の道」のマーク。横浜開港時、八王子で集めた絹を横浜まで運んだ道筋とか。絹の道って、多摩の歴史などを読んでいると、しばしば登場するキーワード。いい機会なのでそこまで足を伸ばすことにした。距離は10キロ程度。が、カシミール3Dでチェックすると、結構なアップダウン。多摩の丘陵を登ったり降りたりの散歩となりそう。少々膝に不安を覚えながらも、まずは最初の目的に京王線平山城址公園に向かう事にした。

本日のルート;京王線・平山城址駅>宗印寺>平山城址公園>北野街道>長沼公園>展望台・南陽口>長沼公園・野猿峠口>絹ヶ丘>白山神社>北野台>大塚山公園>絹の道>絹の道資料館>鑓水>小泉家屋敷>京王相模原線・多摩境駅 平山城址公園駅 平山城址公園駅に降りる。のんびりとした駅前。ローカル線の旅といった風情。駅前で案内をチェック。平山季重を巡る散歩コースといった案内がある。 さて、最初の目的地平山城址公園に行くルートを探す。穏当に歩くとすれば、北野街道をすこし東に戻り、先日南大沢から分倍河原に戻る際に歩いた峠越えの車道であろう。途中から公園に上る入り口もあった、かと。

宗印寺から丘陵に上る が、地図を眺めていると駅の南、北野街道からすこし丘陵地に入ったあたりに宗印寺。このお寺の裏山あたりから城址公園に上る道があるにちがいない、と故なき「確信」のもと歩を進める。 お寺に着く。眼下の眺めが美しい。登り道はないものかとチェック。お寺の西脇から山に向かう細道がある。とり

[171] 東京から一番近くて田舎っぽい雰囲気ふんだんにある場所教えろ!:哲学ニュースnwk, , http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4908067.html

1: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2015/07/17(金) 16:52:59.468 ID:28m9ILEp0.net

[172] 等々力駅 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%89%E3%80%85%E5%8A%9B%E9%A7%85

地下化計画 [ 編集 ]

将来、当駅を 地下駅 にする計画がある。これは、 田園都市線 の複々線化並びに混雑緩和とそれに伴う大井町線改良工事の一環として同線で急行運転を開始させるために 追い抜き設備 を設置するのが主な目的であり、1面2線の島式ホームおよびその両外側に 急行通過線 を設ける予定である。また、老朽化した駅舎も改築され、 スロープ などの バリアフリー 施設が設けられる。

当初は、上り(大井町方面行)通過線を当駅に、下り通過線(溝の口方面行)を隣の 尾山台駅 に分けてそれぞれ設置する計画だったが、後に上下線とも当駅に設置する計画に変更された [2] 。現在も、当駅周辺において 地質調査 が行われている。

しかし、駅の地下化によって当駅付近にある 東京23区 内で唯一の渓谷である 等々力渓谷 の 湧水 が妨げられ、渓谷の自然が破壊されるとの懸念から、工事反対の声が上がったため、世田谷区を中心として「 等々力駅地下化工事技術検討委員会 」が設立された。同委員会は工事によって環境影響が生じないように第三者的立場から技術的検討を行い、 2005年 12月に報告書を提出した。なお、駅周辺住民は「大井町線に急行は不要」という観点からも反対を行っており、駅周辺にはのぼりが立っていた。

以上の理由から、地下化工事が着工できずにおり、仮に着工・完成した場合でも相当な時間がかかることが予想される上、 2008年 3月からの田園都市線の混雑緩和対策と急行運転を間に合わせるために、溝の口方の隣駅である 上野毛駅 に上り通過線を設置し、朝 ラッシュ時 間帯及び夜間帯において使用されている。

利用状況 [ 編集 ]

2013年度の1日平均乗降人員は29,058人である [3] 。近年の1日平均 乗車人員 は下記のとおり。

年度

1日平均

乗車人員

出典

[173] 暗渠でひろったかけら~立会川暗渠で: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-deab.html

立会川を下りましたが、詳しい経過はまた後日。

しかしちょっとしたトピックスを拾ったのでそれだけまずご紹介します。

ひとつめ。

立会川暗渠、荏原町付近で見つけた「大径マンホール跡」。( 参考:tokyoriverさんページ )大きさがわかりずらかろうとクツをおいてみましたw。

ふたつめ。

立会川(立会道路)と国道1号線が交差する地点に・・・・。

またバス、しかも東急バスですか・・・。 東急バス荏原営業所」発見・・・。 やっぱり何か水路と関係あるとしか思えませんが。真偽のほどは今後の課題として。

さて、トピックスは以上。

より大きな地図で 立会川で拾ったかけら を表示

この日は立会川水源の碑文谷池から立会道路を下って河口である勝島までいってきました。

復路では近くの品川用水を上り、先日tokyoriverさんに教えていただいた「清水池と402号線の間にあるL字水路跡」を見てきました。

行程詳細は追ってご報告します。

[174] 暗渠ハンター 立会川を下る①: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-627a.html

立会川を3回ほどに分けて掲載します まず初回は、立会川の源流とされる碑文谷池から立会道路を下り、中原街道との交点(旗の台駅すぐそば)まで行きます。

また次回以降は立会川に原町から合流する、清水池からの支流を遡り、さらにその後中原街道から海まで。

スタートはここ、碑文谷池です。東横線の車窓からも見える、大きな池です。貸しボートなんかもあるくらい大きな池ですが、この日は相当暑くて誰もお客さんいませんでしたw。

池の北のほうに、こんこんと水が湧く様子が確認できます。

池の南から、東横線高架下に流れを発しているそうです。 碑文谷5丁目にあるみどりの散歩道が立会川。 目黒通りを越えると、一旦自転車も通さない車止めがあり、その先は公園に繋がっています。

ちなみに、都会の真ん中の「 マンションと合体しているセメント工場物件 」はこのすぐそば。

公園の先は「川の地図辞典」によると2車線の通り沿いに進むようですが、鵜呑みにせずその周辺の暗渠を探しましたが、どうも決定打に欠けます・・・。 そのうちに立会道路に出てしましました。大門橋。 立会川暗渠に造られた緑道で、真ん中が遊歩道になっています。 こちらに進むと下流、 こちらに進むと碑文谷池とは別の水源から伝わる上流です。 まずはこちらの上流を辿ります 程なく碑文谷八幡神社の参道となり、奥の社務所や社にたどり着きます。

この辺に湧水があるのかなあと注意深く探してみましたが・・・・。 井戸と水場があるくらいですね・・・。

暑い日でしたが鬱蒼とした森が作る木陰は涼しく、しばし一休み。

さて改めて立会道路を下ります。 お。ここは宮前橋。

しかしこの立会道路には、たくさんの「まっすぐな道」が交差しています。 この交差するまっすぐ道は、過去の区画整理のためなのか、それともこのそれぞれが「水道道路」的なものなのか・・・。これもあとで調べてみようっと。 目黒線西小山駅前に近づくあたり・原町清水池からの支流と合流し、その後流れは右にかくんと曲がって、あとは中原街道までやや蛇行したりして続きます。 その中原街道手前には、「荏原雨水調整池」があると以前「 目黒区川の資料館 」A津さんに教わりました。 それがこれ。 ここと隣接する公園との地下に巨大な調整池があるそうです。そういえば公園の片隅にはたくさんの土嚢が置かれていました。地下はどんなんなってん

[175] 暗渠ハンター 立会川を下る②: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-bc11.html

立会川の水源は、碑文谷池、碑文谷八幡神社周辺、清水池の3つとされています。 今回はこの清水池から原町で立会川に注ぐ暗渠を巡ります。

まずは清水池。清水池公園を構成する主要素ですね。 公園の池としては珍しく釣りOKで、普段は釣り人がたくさんいらっしゃいます。(ただし魚の持ち帰りは禁止) ちょっと前、雑誌「pen」の「有名人の、東京の中でも特に好きな場所」みたいな特集があって、高橋幸宏さんはこの清水池公園を挙げてらっしゃいました。 (高橋さんは大の釣り好き。またYMO結成当時から数年はこの近辺のお家に住んでらっしゃったようです・・・当時のお家についてはこちら参照「 A Fragment 」)

この池から南下する道路が流路です。 途中、こんな不自然な(あ、ほんとは川筋だから「自然」かw)カーブを描いきながら碑文谷1丁目と目黒本町6丁目の境目を流れていき、原町との境界で立会道路に合流しています。 ずっと前からこの道は知っていて「なんでこんなカーブしてんだろ?」と思ったことはありましたが、なるほどこれは「川筋」なんだよなあ・・・といまさら納得です。私が一皮剥けました(セルフ・ピーリングw)。

比較的近いところには「月光原小学校」というどこか心に染み入るような名前の小学校があります。昔月光原と呼ばれていた土地があるようです。 なんかいいですねー。月光原。いいなあ。月光原。(<しつこい) 今回の地図は、暗渠ハンター 立会川を下る①の項をご参照ください。

次回はいよいよ河口まで。

[176] 暗渠ハンター 立会川を下る③: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-0273.html

さて立会川も最終回。

では中原街道と立会道路との交点から。 手前が中原街道、その奥に緑道が続きます。

進んでいくと、旗の台駅近くでいったん線路を前に中断。

さらに荏原町の駅をまたぎ中延を通って国道1号線まで続きます。 その途中にあった物件が、先日ご紹介したこの「大径マンホール跡」。 荏原町付近にはこんな味のある質屋さんも。大谷石づくりですね。 わき道もいい感じ。 地図上では立会緑地と名前を変え、こんな感じになります。 途中から工事中。すぐわきのストロングタイプの暗渠道を行きます。 中延あたりではこんな川辺っぽい光景も。 さて、ここが国道1号線との交点です。国道1号線ですが地域での愛称は「2国」。

東京横浜を結ぶ大幹線を、海側から1国(産業道路)、2国(1号線)、第3(第3京浜)と呼ぶんですって。かえって混乱しそうですけどねw。 そして、上の写真の左の敷地が、先日から問題視wしている「東急バスの荏原営業所」です。 うーん、川筋と操車場、どんな関係があるのでしょう・・・。 2国(<やっぱ紛らわしい)を越えると道幅がぐっと広がり、こんな光景になります。 ところでこの道をまっすぐ30m程度進むと、品川用水と立会川が交わる地点に。 立会川を下流に向かって左を望んだ写真が下ですが、この道がおそらく品川用水。立会川を突っ切って右に続いていたようです。 しかし横切るって・・・立体交差だったのでしょうか・・・。 さて、さらに立会川を下ります。道は上りへの一方通行道路となり、その脇をこんな歩道が続きます。 こんな魅力的は道も交差。ただし立会道路はすこし盛り土して作ったのか、支流からはこのように階段で数段上るようにして交差しています。 横須賀線・新幹線の高架と交差する場所が近づいてきました。 これを越えるとすぐにJR西大井駅。

ここからはこんな整備された緑道となり、いまいちテンション下がりますw。 JR大井町方面に向かっています。道もまた細くなったり、こんな暗渠らしい道になったり。 (あ、これは立会道路に交差する道だったかもしれません;;;;) いわくありげな舗装跡ですねw。

大井町に到着。川筋を見失いそうになりますが、しっかり立会道路の続きがあるので大丈夫。 駅の南にある線路を渡って、 右に現れる大きなガードをくぐると こんな緑道が復活します。 蛇行して進むこの道の傍らには、なんだ

[177] 暗渠ハンター 大田区郷土博物館から内川を遡る: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-a061.html

調べ物(当然暗渠・川関連♪)をするために、 大田区南馬込にある郷土博物館 に行ってきました。

収穫は上々。博物館を出て坂を下っていくと、この辺りは内川の流があったことを思い出しました。 庵魚堂さんがちょうどこの夏かなりの勢いで特集されていた内川 w。

どれどれせっかくだから。私も辿って遡ってみることにします。

すぐに流路は見つかりました。

だってこんな立派な桜並木になってるしw

すぐに国道1号線を跨ぎます。

流路脇にはこんな立派な柳の木。でかいっす。時間があれば木の下に佇むご老人にお声を掛けたいところでしたが・・・スルー。

程なく、 庵魚堂さんもかかれていた巨大施設 に行く手を阻まれます。こんな「あからさまに隠してる」ところって、すごく興味をひくもんですね。

この施設の北側は東海道新幹線・横須賀線の通り道。線路高架を越えて内川上流の流れ出るポイントを探してみると・・・・。

ありました。ここですね。

ここで右からくる下水開渠が、内川に流れ注いでいる模様。

この写真はその足元に流れ込む下水開渠を上から写したもの。

ちょっとわかりずらいか・・・。

これまた見事にあからさまな下水溝です。禍々しげな雰囲気に魅せられてちょっとこの支流を追ってみます。ここが今回の自分的ハイライトでしたw

線路と並行して走る支流はすぐに坂(っつか山w)の中腹に飲み込まれてしましました。写真は支流が確認できる最遠ポイントからさっきの内川合流点を望んだところ。金網じゃまw。

内川本流に戻ります。細い暗渠道が、環7まで続きます。

途中は両岸(?)工事中だったり。

暗渠道自体の工事中だったり。

警備の方に何の工事ですか?と訊いてみると、

「・・・・・えっと・・・・下水管の付け替えです」と自信のなさそうなお返事。

まあこれ以上詳しく聞いてもお仕事の邪魔になるかと追加質問を断念w。

そして環7にこの階段で分断されます。

環7を越えるともうすぐに「水源の碑」があり、暗渠道が終わります。

これはその碑の足元から見る生内川。

しかし庵魚堂さんもご指摘の通り、ここが水源とは思えません。唐突すぎる。

そこで周りをしばし探索してみました。

どうやらこの「水源」の背後(北側)は山となっている様子。

写真のような急勾配が迫っています。よく湧水地にありがちな地形ですね。

結局水源の特定はできなかったけど、やはり「水源」碑は本当

[178] 暗渠ハンター 山王崖下の「池尻掘」?①湧水つきの東側掘: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-c37c.html

大田区に遠征してきました。 今回から数回にわたって、池尻掘、六郷用水北堀、内川の様子をシリーズでご紹介します。

まずは池尻掘から。 実はこの池尻掘、 カケダシのころからの愛用テキスト「 川の地図辞典 」にはしっかり載っているのですが、 その他の文献でも見当たらないしググっても出てきません;;;; もしかして名前の記載ミス?・・・という疑いを持ちつつも、便宜上もうこの「池尻掘」という名前で通すことにしますw ※補記:大田区の資料ではいくつか「池尻川」という表記が見られます。

※2011.7.18追記:大田区の小学校史の記事に、「環7内側・山王近辺の谷からの流れも内川の源流のひとつ」である旨の記述を見つけ、池尻堀も内川水系として扱うことにいたしました。

池尻掘は、 環7の馬込交差点あたりを真ん中にして 西と東それぞれから流れ出して南下し、 途中でこの2本が合流して 池上通りとの交差点あたりで六郷用水北堀と合流する水路です。Yの字形みたいに。

まずは東側の水路から探検。 「川の地図辞典」と手元地図を見比べていると、 どうも川の地図辞典の記載より上流がありそう。 そこから探ってみましょう。

「川の・・・」記載の始点に立ってみると、 果たしてさらに東のほうにあからさまな暗渠がありました。 この先が上流ですね。

すっかり無理固められていますが、ザッツ川筋。

おっと、金網フェンスで囲われている洋館。廃屋のようですがとことなくキッチュな風格(なんだそれw)があります。

奥に進んでいくと二筋に分かれるところがあります。まずは右に折れて進んでみます。

さらに狭い暗渠がまっすぐに続いていました。

足元には「 おしくらマンホール 」モドキが出現!

うわっさらに狭くなってきたw かなり好みの暗渠ですよこれ!!!

この暗渠は100mくらい続き、最後はは10段程度の階段となって、崖上に出ます。 その崖上からの暗渠の眺めはこれ。

この崖の横には駐車場があり、このへんが谷頭となっているようです。

この崖を含む台地が山王、台地の向こう側がJR大森駅となります。 先ほどの二筋の分かれ道のもうひとつの暗渠は、数10m続いてすぐに終り、この奥に消えてしまいます。

もうちょっと奥まで分け入っていくとこんなかんじ。 まだこの先の崖下伝いに先がありそうですが、もう流路は追えません・・・。

[179] 暗渠ハンター 山王崖下の「池尻掘」?②西側の掘と合流後の暗渠: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-f286.html

では池尻掘の2回目は、まず東側の掘との合流点から上流に遡ってみましょう。

西側の堀は、環7の向こうからやってきます。

この正面の道を入ると、いきなり崖。 この崖上は大倉山公園という公園になっています。

崖上から流路をみるとこんな。高いですねえ。

西側堀は蛇行もなく、ちょっと見所は少ないです。 � �

どんどん北上して、馬込東中を左に曲がって坂を上ります。

「川の地図辞典」では、このあたりが起点。 この古い民家なんて怪しいな・・・。

何気なく隣のアパートをみると・・・

コーポラスいずみ。・・・「いずみ」!!!? ここが湧水ポイントか!? なわけありませんw

まだ上り坂が続くので、もはや「川の・・・」をちょっと無視してあたりをさぐってみます。 道は蛇行し、「もしかしたら流路が続いてる?」と思わせるには充分。 こんな不自然(いや、自然?w)な三角形のヘタ地まで登場。

古い川の流路と新しい計画道路が交わるところに、よくこんなヘタ地ができますよね。 渋谷区の例はここ 。 坂を上りきるあたりには大きな敷地の古い神社。 水源があったとしたら、このあたりじゃあないかなあ。

さて、東西合流後の流路は少しだけ環7とともに南下します。 なぜかこのあたりの環7沿いには看板建築物件が多く見られました。

環7と池上通りの立体交差あたりから、池尻掘は環7の西に離れていきます。 左が環7の立体交差。流路は右に。しかし先に見えるカーブは曲がらずにほぼまっすぐ進みます。

お!この立体交差付近で支流暗渠発見。

さっそく追ってみます。

曲がり角はわくわくするほどマンホールが連なっています!

残念ながらこの暗渠はこの角を曲がるとおわり。 本流に戻ります。

あ。ここにも支流。(写真まんなか奥)

ちょっと進むと行き止まりになります・・・。

民家から排水口が道に突き出ていますね。

さらに下ると春日神社横に橋跡がありました。

明神橋、という橋です。

欄干の親柱だけが移築されているのですね。

さらに南下して、池上通りにぶつかるところで六郷用水北堀と合流します。 このへんが合流点。

写真を撮っていたら、にこにこしたおじさんが近寄ってきて 「その花ね、種から植えたんだよw きれいでしょうww」 と。 「いえ、花を撮っているのではなく暗渠を撮っているのです」とはいえませんでしたww

[180] 暗渠ハンター 内川のまんなかへんをちょっとだけ: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-360c.html

大田区遠征、前回までは池尻掘をご紹介しましたが、今回は内川を。 内川は北馬込2丁目、環7内側の谷頭から流れ出て、大田区中央から東海道本線をくぐったところで突如開渠となり、まっすぐに京急線をくぐって大森ふるさとの浜辺公園あたりで海に注ぐ変化に富んだ川です。 いちど 上流付近を辿ったことがありましたが 、今回池尻掘と六郷用水北堀を巡る時にその中流(?)付近を通ったもので予定外でしたがチラ見してまいりました。 (ちなみに 庵魚堂さんが内川の記事を精力的に書かれていたのは丁度去年の夏でしたね )

中央と大森西の間で東海道線をくぐるあたりでは、内川は数本の流れに分岐しています。 これは、その北側の暗渠。 こんなふうにJRをくぐります。今回の内川チラ見はここからスタート。 JRは高架とは名ばかりで「低架」ですw その橋裏もこれまでみたことがなかったようなビジュアル。 蚕の足を思い出しました。(うわ、そういう比喩ちょっとキモいなあ・・)

昭和30年代前半の地図では、この低架のちょっとだけ上流までは開渠の表記がありました。 これをくぐるとまたいくつかに分岐しますが、まずは内川本流に近づいて開渠を拝むか・・・。 なんて思っていたら支流暗渠発見。 ずうっと西に向かって内川に並行するように延びているのですが、これまた「おしくらマンホールもどき」がたくさん見られる豊か(w)な暗渠でした。

こんなのも!

この暗渠は大森8中にぶつかって途絶えてしまいます。 そこからいよいよ内川開渠に向かいます。

出ました。内川にかかる富士見橋です。 富士見橋から上流を望む。今回は下流には行かず、上流を戻ってまた六郷用水北堀に向かいます。

ここからさらに2つほど橋を越えると、また東海道本線をくぐることになります。

これが東海道本線をくぐる高架。・・・でなくてここも低架。 奥に水門が見えます。ここが内川の開渠と暗渠の境目となります。 なんかこう、メカニカルでかっこいい・・・。

この低架は、ここからくぐります。 うわw-ほんと頭ぶつけそうです。自転車すれ違えないほど狭いしー。 まあ「橋裏」としても鑑賞に堪える見事なものなんですけどね。 こんな危なっかしい通路でも相当便利なようで、ちょっとの間に何人もの方が行き来していました。しかし閉所恐怖症のひとはここヤバいだろうなー。

そして暗渠となった内川は、一

[181] 暗渠ハンター 立会川プリンセス支流: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-9bd2.html

環7を自転車で走っていたら、気になる谷を見つけました。 目黒線洗足駅のちょっと北から東に延びる谷です。

環7をちょっと入った谷頭付近でうろうろしていると、 ご近所の方に声を掛けられました。 (怪しかったかな、私・・・)

模型店の雷王というお店 のご主人で、 このあたりの町内会の役員もされているという方でした。 (模型は鉄道やガンダム系強し。外観はふつうのおうちっぽいですが、 中はものずごい品ぞろえのようです!!! Nゲージもあるでよ)

たまたまそこにいたこれまたご近所の旦那さんと一緒に、 「ここにどぶが流れていたよ」 「その続きはあっちで、小学生のころ冒険に行ったよ」 などなどいろいろお話をうかがえました。

特にこの雷王のご主人には 「こっちから流れが始まってるから」 と、谷頭であるお庭の奥までいてていただいただけでなく、 「この流れは良く知ってるから、自転車で案内しますよ」 とおっしゃっていただき、この谷の途中までご案内いただきました。 雷王さん、ほんとうにどうもありがとうございました。

ってことで、まずは洗足2-15近辺。 この奥が谷頭らしいです。

そしてこの奥が模型屋さん「雷王」。 ご近所のお二人のお話では、 この真ん中の白いところが生活排水だったようです。

雷王ご主人のご厚意で、 この奥のお宅の横に流れるこの上流を 撮影させていただきました。

まずは雷王さんの入り口。 ちょと意外な店構えですが、 ご主人も気さくな方。遠慮なく門をたたいてみましょう!

この雷王さんの敷地の環7側に、 流路の上流が延びています。

ささ、奥に。

狭いけど、さらに奥に進みます。ご主人様、ありがとうございましたw

ここは実は品川区と大田区の区境。となりのマンションは、 区境の共有部分に強引に塀を掛け、 つまりこの流路のまんなかに塀を作ってそのためにこの流路が 暗渠化された模様。ふむふむ・・・。

はしっこまで来ると、すぐそこに環7が見えました。 ここが始まり、なんですね。

環7をはさんで西側には、洗足池に流れる支流のひとつ、 清水窪の湧水 があります。

さてこっから、下流を辿れるところまで行ってみましょう。 雷王さんも案内してくださる、とのことなので心強いです。

・・・しかし雷王さんからご注意を受けました。 特に年末年始は(この日は12月30日)、空き巣ねらいと間違われるので 注意し

[182] 暗渠ハンター 内川の南馬込支流群: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-d364.html

(品川用水シリーズの途中ですが、違うトピックを挟みます。これも速報系ですねw)

内川については、当ブログでも何回か触れてきました。 初めて行ったときは 主に上流の流路の確認だったり。 次に行ったのは 開渠から暗渠になる付近だったり。

この二つの記事の間の流路は、 桜並木としてよく整備された道となっているのですが、 今回はその本流でなくその付近の支流、 特に内川の谷と、その南西に位置する本門寺の山の間にある いくつかの暗渠をご紹介していきます。 ここではこれらまとめて、内川の南馬込支流群、と呼ぶことにします。 一度にたくさんご紹介させていただきますので、 ぜひ今回はじっくりとご覧いただければ、と思います。 どうぞよろしくお願いいたします。

ひとつめはこちら。 地図中の南馬込支流①です。 南馬込6-24のブロックから、 隣のブロック6-19に延びる暗渠。 目視できるのは、6-24と20の間のところと、

隣の6-19と16の間でだけ。

ここ、ちょっと奥を覗きこんでみましょう。

そしてその西。 地図中の南馬込支流②です。 6-14と15の間にも短い暗渠が隠れています。

この左手の崖下の歩道から奥に。 歩道が尽きると金網に囲まれてしまいます。

その金網のさらに奥に蓋が続いていました。

残念ながら終点は未確認です。

地形からしてこれと繋がっているのかもしれないもう一つの暗渠。 地図中の南馬込支流③は、 さらに一つ西のブロックです。

道を隔てた6-9の空き地に現れる水路。

その行く先は、ブロックの反対側の、 高台の公園の崖下を縫って続きます。

しかし残念ながらこちらもこの先行方不明…。

圧巻は次。 地図中の南馬込支流④です。 北西に2ブロック辿ると、 梅田小学校がありますが、 なんとその校庭の端っこには細く深く抉られた小さな谷があり、 その奥は「はしご式開渠」になっていまいた。 これはびっくり。思わず声を上げてしまったくらいです。 (左側が小学校校庭です)

ちょっとアップで。

この開渠、校庭に沿ってまっすぐ北(内川方向)に行くのですが、 ぎっしり民家があってその後の流路は ブロック反対側でしか確認できません。 逆に上流方向は、暗渠はつながっているようなのですが 今回確認はできませんでした。

で、ブロック反対側で確認できるポイントがこれ。

多少油の浮いた、赤茶

[183] 暗渠ハンター 池尻堀の大仏支流: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-c554.html

以前、大田区馬込付近の 「池尻堀」のことを書きました 。

地形図を見ると、その付近にはいくつも谷があります。 (「こたたん山通信」のろっちさんはこの谷たちを<楓谷>と名づけられています 。いい名前ですねw)

地図を見ていると只でさえうずうずしてくる萌え地形なのですが、 ある日あるとき思い立って、 この楓谷の上のほう、 馬込駅の北・国道1号線横からぱっくりと始まる谷を 訪ねてきました。

毎度google earthさん「東京地形地図」さん、どうもありがとうございます。

楕円の中にはいくつかの谷が見られますが、 この谷たちが新幹線高架下あたりで一つに合わさります。 そこには確かに一つ、ドブのような流れがありました。

経緯は後程お話ししますが、 ここではこの北の谷をらが合わさって流れる水路を 「池尻堀・大仏(おおほとけ)支流」と勝手に名づけ、 痕跡や流路の街並みを見ていきたいと思います。

谷の入口は都営浅草線の馬込駅の北。 今回は、五反田から国道一号線を南下するバスでアプローチ。 馬込の東急バス荏原営業所前で降りました。 ここは、 立会川と品川用水が交差する水の要所。 またそんなところにバスターミナルがあるという 私的にもわくわくするところです。

東急バス荏原営業所を少し南に下ると、 1号線の広い道路からいきなり東側の崖下に下る 狭い階段が現れます。

おお、結構な勾配っすね。

谷頭にあたるこのあたりは路地の多い、 情緒たっぷりなエリアです。

ただ、「これは暗渠か」と問われると 正面切って「間違いない」と答える自信はこの時点ではまだありませんw

さきの階段近辺谷頭から、数本谷底に降りていく細い道があります。 その中の一つには、 丸と四角の異なる形の「おしくらマンホール」もどきが ありました。

ちょっと珍しいかも。

あまりの珍しさに遠目に猫も近づいてきた模様。(うそ)

ここからより低いところに向かって 比較的広い道が3本。 あっちへ行ったりこっちへ行ったりしながら、 たぶんこの3本ともが怪しいんじゃないかと思うように なってきました。 (文末の地図参照)

本編と全く関係ないのですが、 谷の南の崖上を歩いていたら、 すりすり猫にもあうことができました。

むー。かわいいにゃあ。

あ、なんかあんまり見たことがない ハンキョ形態のマンホール蓋に谷底で遭遇。

怪しい3本

[184] 暗渠ハンター 馬込山王・楓谷を歩く: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-f93e.html

前回は大田区馬込付近の、池尻堀につながると思われる 「大仏支流」を追いました。 さて、せっかくここまで来たので、 大田区名物(?)の 「馬込山王・楓谷」(ろっちさん命名) の 北のほうの谷を横切って帰ろうと思います。 ほんとこの楓谷は見どころがいっぱいで、 足腰も鍛えられますw

立ち寄ったのは、この地形図の 「この谷A」「この谷B」。

まずは「この谷A」に環七からつまり下流からアプローチ。

実はここは、 この記事 を書いた時に 猫またぎさん から 「その裏にすごいとこあるよ」と教えていただいて、 立ちよらなかったことを激しく後悔したスポットでもありました。

「不自然に広い歩道」くらいしか暗渠サインは見当たりませんが、 この道は十分谷底感が味わえます。

まっすぐ登っていくと、萬福寺というお寺が小高い丘に建てられています。

入り口には「するすみ」の像が。 え?するすみって何だって?

漢字では「磨墨」。

平家物語の「宇治川の先陣」に出てくる名馬の名前です。 いやー、高校の教科書で出会って以来このストーリーは 全く忘れてしまっていたのですが、この馬の名前「するすみ」ばかりが 妙に頭に残っていて、たまに思い出して「するすみ」と口に出したりしていましたw なんか口に出してみたい日本語、じゃありません?「するすみ」。 ちなみに以前インターンではるばる会社に来たドイツ人は、 「デンシレンジ(電子レンジ)」という言葉が面白いといって、 自分で口に出しては笑っていましたっけ…。 確かに韻を踏んでて面白いような気もする。

あ、でその「宇治川の先陣」ってのは、 鎌倉幕府ができるちょっと前のお話で、源義経側にいる二人のオトコ、 するすみに乗った梶山某といけづきという馬に乗った佐々木某が、 合戦の途中で 「どっちが先に宇治川を渡って『やあやあわれこそは…』って 名乗りを上げるか」と張り合う短いエピソードです。 見事「馬に乗っての一番乗り」はするすみでなくいけづきになるのですが、 そのあと徒歩(かち)で渡ったのが大串某。 この大串某があまりにもちゃっかりしてたため敵味方ともにウケた、 というお話。

横道にそれましたが、 そのするすみの持ち主である梶山某縁のお寺だそうです。するすみ。

さてこのお寺の丘を挟んだ反対・北側にももう一つの谷筋があります。 もうこの辺は先のろっちさんの記事に詳しいの

[185] 暗渠ハンター 立会川・清水池「下」支流: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-b1b1.html

立会川の主な水源は、3つに大別でき、西から東へ順番に挙げると ①碑文谷八幡付近 ②碑文谷公園弁天池(碑文谷池) ③清水池公園清水池 となります。

このうち、最近この辺りを改めて探索してみて、 ・②の弁天池からさらに上流にある暗渠 ・③の清水池からさらに上流にある暗渠 ・③から流れ出る立会川本流の傍流暗渠 などを見つけてきたので、 何回かに分けて書き進めて行こうと思います。 まず今回は、最後に挙げた 「③から流れ出る立会川本流の傍流暗渠」のお話、いってみましょう。

清水池(それと、今後触れる弁天池・別名碑文谷池)については、 とっても詳しくわかりやすく説明する 目黒区のページ を見つけてしまったので、 これをご参照ください。

清水池は古くから湧水を湛える名勝地。

ここから立会川(のひとつ)が流れ出していくのですが、 清水池の南に、それに寄り添うように流れる一つの水路がありました。

位置からすると、 もしかしたら清水池からあふれ出すもう一本の水路だったのかもしれません。 (たぶんそう解釈した方が自然でしょう) ではまずは地図を。この緑色のラインです。

より大きな地図で 立会川 を表示

立会川の主ルート(紫線)はこちらなんですが、

これを下っていくとある一つ目の大きなカーブ。

ここに、左手の後方から鋭角に合流してくる水路があるのです。 それがこれ。 左が本流、右というか正面が今回取り上げる傍流です。

まあ清水池の下(南)あたりから始まってるから、 これを「立会川清水池下支流」と仮に名づけることにします。

この清水池下支流にちょっとだけ入って、 合流後の本流方面を眺めたのがこの写真。 合流点付近には点々をマンホールが連なっています。

ではここから上流に向かって入って行ってみましょう。

未舗装です。

草の生え方からいって、 交通量はたいへんに低そうな道ですねこれは。

その原因は、やはり「狭いから」でしょうね。

ですがある意味見事な暗渠です。 このワイルドさは 桃園川たかはら支流 (リンク先はnamaさんの「暗渠さんぽ」) の一部にちょっと通じるものがあります。

これですから。この連続ですから。

盛夏だし、もう見たことない羽虫とかが いつ出てきてもおかしくない雰囲気ですが、 私の好奇心がそれに勝るのだw

化石のようになったマンホール。

見た瞬間、ジョージ

[186] 暗渠ハンター 立会川・清水池のさらに上流があった!?①: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-5706.html

立会川の3つの主水源のうち、 前回に引き続いて清水池周辺の話題を続けます。 このシリーズは清水池の周りの短い暗渠を取り上げ続けるので、 「ANGLE」を使った考察はしばらくお休み。

実は、水源と言われている清水池のさらに上流には、 付近を走る品川用水からの取水路と思われる水路が 大きく二つ確認できます。

一つは今回で取り上げる東の水路( 清水池上流東水路 と名付けます)、 もうひとつは次回を予定している、 鷹番を貫く西の水路( 清水池上流西水路 と名付けます)。

元々は、「目黒区文化財マップ」に切れ切れに載っていた暗渠を参考にしました。 これらを周辺含めて辿りながら、そして「東京時層地図」を見ながら 「一つの水路」として考察していく方法を今回はとっています。

ではまず東の水路、 目黒区中央町1-10での品川用水との接点から 清水池に向かう流路をご紹介していきます。 品川用水の、目黒通りに下る手前からこんな暗渠が始まっています。

ちなみに、この背後にも暗渠が伸びていて、 つまり品川用水からはこれから辿る清水池方面と、 反対側の目黒区防災センター方面の二つの落水が この地点で行われていたことになります。 その防災センター方面の暗渠というのは、 この奥に続くやつ。

今回はこれは追わずに、清水池方面に向かいましょう。

緑道チックに整備されたこの暗渠を通ると

すぐに目黒通りに出ます。

そして目黒通りを越えると、 またこんな風に続いています。

ちなみにこの川筋のところは 目黒通りがこんなに凹んでいるので一目瞭然。 (写真奥の窪み)

この暗渠はまっすぐ続いていて、 おそらく住宅区画整理で付け替えされた用水路、 なのだと思われます。

ここを通って曲がったあとは、殆ど道に紛れてしまいます。

もう清水池の北側、池まで至近距離。 どうもこの辺りは西水路につながる水路含めて若干水路は錯綜しています。

清水池の隣のブロックにて、 また暗渠空気全開の道が姿を現します。

目黒区本町2-14。

そしてこのような広すぎる歩道を経て (まるで2車線道路のセンターラインみたいですね)

清水池につながっていきます。 ちなみにこの水路は、次回ご紹介する西水路とも東西に繋げているようです。

清水池まで来ました。

と、まあこんな具合に、 水源である湧水・清水池より上流で品川用水からの水を受け

[188] 暗渠ハンター 立会川・碑文谷池上流で妄想落ち水探し: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-c067.html

立会川の3つの主水源のうち、 前回は清水池から品川用水に遡上するラインを探してみました。 今回は、もうひとつの主水源である碑文谷池を起点にして おんなじようなことをしてみました。

池から遡る前に、ちょっと池自体のお話も。 名前自体も、碑文谷池とか碑文谷公園の弁天池とかどうも通称は二つあるようです。 また 目黒区のHP では、 前回の清水池とは「兄弟池」という位置づけだとしていますね。 江戸の鷹狩の時代に野鴨がたくさんいた、とか その後水田灌漑に活用されまた池の中の島に弁天様が祀られてるとか、 紆余曲折あって今は池を中心とした公園として整備されているからとか。 結構いい感じのテイストで取り上げられてますね。

で、ここでは「碑文谷池」としていますが、 同じ 目黒区のHPでもこちらでは 「弁天池」になってます。 ま、どちらでもいいんですが、ここでは「碑文谷池」でいきましょう。 弁天池だと他にもたくさんあるし。

まだ暗渠道にはまらないはるか昔、 東急東横線に毎日乗っていた時期は 電車の高架からこの池をほぼ毎日見ていたものです。 そのころは「なんて池かなあ」 「近所に住んでる同僚に聞いても池のこと知らなかったし、マイナーなんだろな」 「でもたまにボートで遊んでる人いるなあ」 くらいのぼんやり度でしか注意を傾けていませんでしたね…。 まあ基本的にそんなに華やかな池ではないわけです。

水源とされる池ですが、 どうも昔の地図をちらちら見たりしてると この上流方向にもたまに水路が見えたりしてるし。 しかもそれを延長していくと品川用水にぶち当たるし。

しかしまあ結論から言うと 品川用水とはここでジョイントしていた!的な エキサイティングな展開にはなりません;;; あ、そんながっかりしないでくださいよw

どうやら碑文谷池からは2系統の水路で 品川用水につながっていたのではないかと思っています。 ひとつは池から西に向かっていくやつと、 もうひとつは北に向かっていくやつ。

まず西方面からいきましょうか。 公園の西側にこんな入り口があって、

そこからこう歩道を通って上流が辿れます。

なんとこの歩道の右側(つまり左岸)には、プール! 日大水泳部の寮と温水プールがありました。 なるほど。

この歩道を上流に辿ると 寮の敷地に沿って、こんなふうにかくんと曲がります。

そして敷地の端まで行く途中

[189] 暗渠ハンター 貉窪をこえて洗足で「弁天橋」をみた。: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-57be.html

以前、洗足池に流れ込む何本かの上流を探しに行ったんですが,、そのひとつとして大井町線北千束駅そばを掠めて環七に延びる 「貉窪」を散策 しました。

で。しばらくたってから、ドブ川研究家(?)の 俊六さんのブログ にレィルウェイライフさんという方が、 「洗足駅のそばに池と橋があって、その谷筋は洗足池につながってるかもしれない…」という コメントをされているのを 見て、これはいつか行かねば!確かめねば!と思っていました。 今回は、その貉窪と洗足駅そばの池とそれに繋がる川筋について、レポートします。

まずは前回の貉窪の谷頭を探しましょう。 環七に西から東にぶつかるのはここ。

環七は盛土されたような高台を通っていますが、この流れはその下にぶつかり低いまま。 高台・環七から貉窪の低い支流を見下ろします。

この低い流れが、環七の内側のどこにつながっているのかどうか・・・。 古地図をみると、貉窪の続きの谷頭がちょっとだけ環七内側に張り出しています。 それを探してみました。 地形から言って、ここのようです。

昭和大学歯科病院の横。ここ。

ではここで、地形を確認しましょう。 いつものように、google earthさんと東京地形図さんに感謝しつつ。

先の写真の環七内側のところは、上の図貉窪楕円形の右上の端っこです。

で、レィルウェイライフさんが指摘されていたのは地形図中の「厳島神社」近辺のこと。 どうもここは、環七内側から新たに始まる谷の途中にあり、 そのまま立会川方面に流れていくようですね。 つまり地形図で谷を辿っていくと、さっきの貉窪とはちょっと別の谷筋のようです。 おそらく環七の尾根(厳密には現環七と微妙に左右にズレがありますが)がもともと分水嶺になっていたのか…。

さてそれでは、この新たな東に流れる谷の谷頭を探してみよう!

環七から内側をじろじろ見ながらあるくと、一目瞭然で「ヤバい」感じの路地が見えます。

ここを入っていきましょう。路地の出口はこんな。

うーん、ワケありげです。たぶんここからドブのような流れが始まっていたのでは。 その先は、住宅ブロックを無視してわずかな高低差をおうことになります。 じつはここはそんなふうに住宅ブロックの真ん中を目黒区と品川区の区界が走るちょっとかわったところなのでした。 この写真。

敷地の両側に、左は目黒区洗足二丁目27、右は品川区

[190] 暗渠ハンター 南馬込の谷の、ミッシングリンク「池尻堀 南馬込1丁目支流(仮)」: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/1-5458.html

前回「練馬にある石神井川の谷イッキ攻め」的なシリーズをはじめたばっかりですが、このシリーズは息長く不定期連載ということにさせていただいて、今日は全く違うエリアのお話をさせていただきます。

以前、南馬込1丁目にある短い暗渠をご紹介しました。 この記事 で「この谷B」と書いてあるところです。 「この谷B」を出た水の行く先については、 ろっちさんの記事 でも取り上げられていましたが、まあずっと気になっていたわけなんです。

先日、またまた断片的ではありますが、その水の行く先について手掛かりを見つけたのでご報告。

まずは概況を掴んでいただくために地形図を。

左上から右下にかけて、環7がざばっと通っています。 そして右上から左下へ鉄道・横須賀線と東海道新幹線が通っています。 以前「この谷B」として見つけた暗渠は水色のところ。 この先どんなふうに谷底(つまりこの「楓谷(ろっちさん命名)」の真ん中の方)に向かって行くのかなあと思っていたところ、今回、オレンジ色の暗渠を見つけました。 これはすなわち以前の水色の暗渠の「行く先」だと思われます。 水色とオレンジ色を結ぶと、桃色のような流れが推測できるなあ、 というワケなんです。

ではさっそくその現場を。 南馬込1-14-5。 ここ、環7沿いなんですよ。 環7の歩道から、こんな風景が見えるんです。

怪しい金網。 覗き込んでみると。 立派なはしご式開渠です。 まさか、環7からこんなあからさまな川跡が見られるとは思っていませんでした。

”小学○年生”的な雑誌に 「あなたのすぐ近くに、四次元への見えない入り口がある!」 みたいな特集がよくあったような気がしますが、そんな見出しを思い出して軽く興奮してしまいますw 轟轟と車の行き交う何車線もある幹線道路から、 異世界への入り口が駐車場と民家の間の小さなスペースに残っていたわけです。

駐車場に足を踏み入れ、行く先(上流)を観察します。

ちょっと底が浅いですが、はしご式開渠が続きます。 そして駐車場の敷地を回り込むように折れ曲がります。駐車場スペースの背後は小さな崖なので、その崖下を回り込む、といった方が正しいでしょう。

崖下を伝う流れには蓋がされてしまいます。

しかし流路は明確。

駐車場スペースから、民家の狭間へと続きます。

では上流を、コの字ウォークで追っていきましょう。

民家の狭間か

[191] 暗渠ハンター 大田区楓谷・崖を下る暗渠: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-9d8e.html

前回の「 暗渠の愉しみバランスシート 」からいうと、今回の記事はこんな内容です。

では本文、行ってみます 。

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南馬込に行きました。そう、例の谷あたりに。 街角ねこさん写真家(でいいんでしょうかw)の ろっちさん が、 「楓谷」と名付けたところ 。 猫またぎさんをして「V字谷の聖地」と呼ばしめた 馬込の地形ですが、 楓谷はこの猫またぎさんが取り上げたエリアのもうちょっと南の方に位置します。

私もこの近辺は何度か断片的に記事にしました。 環七を両脇から囲む池尻掘りの 東 と 西 。 そして池尻堀東の奥から来る 大仏支流(仮)。 さらに池尻堀西の奥の奥から来る 池尻掘り南馬込1丁目支流(仮)。 その手前 のするすみ支流群(仮)。 そんなに家から近いわけじゃないのに、我ながらよく通ったものです。 会社で「住まいは馬込なんです」というひとがなぜか結構いるんですが、もうその一人一人に、「で、何丁目何番地?谷の底のほう?そばに坂はない?」と問い詰めたくなることが多いのですが、ずっと我慢してます。

で、今回はその楓谷エリアで、たぶんあまり知られていない(と思います;;;)暗渠を見てきたので、2回にわけてご報告します。

まずは全体の地形図をどうぞ。(GoogleEarthさん東京地形地図さんありがとうございます)

■序章代わりの「1」 では地形図の「1」とした矢印。これは、さきにご紹介した「楓谷」の命名者ろっちさんにすでにご紹介されてますので、軽く。 バスが行き来する南馬込1-60-5の尾根道からぽっかりとした暗渠が見えます。

ここからこの流れに階段で降りていきます。振り返るとこんな景色。 すでに秘境感満載ですね…。この先はこんなふうに続きます。

いったん道に出てガードレールに阻まれた後も…。

やはり階段で下ります。この谷のきつい高低差を物語りますね。

その先はいったん右に曲がって、左に曲がり、するすみ支流群(仮)の中心となる支流となって流れていくようです。

■するすみ支流群・南馬込2丁目崖支流(仮) 「2」 次は、今回新たに見つけたするすみ支流(仮)の副支流のひとつ。 それが地形図の矢印「2」。 南馬込2-23から唐突に始まる支流です。 ここ。

車の間をすり抜けて進んでみましょう。

進むと、崖

[192] 暗渠ハンター 大田区楓谷・こんどは断崖絶壁暗渠: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-4c65.html

■池尻堀西・馬込支流「3」

前回からの続きです。 今回の記事も、趣としてはこんな感じの「 暗渠の愉しみバランスシート 」となります。

まずは前回の地形図を再掲します。 (GoogleEarthさん東京地形地図さんありがとうございます)

今回は上地図の「3」という矢印のところ。 前回のするすみ支流群とは谷を異にするところですね。

「2」の場所から「3」へと移動する途中、 尾根道のT字路に井戸(サンタイガー式)がありました。なんか岬に立つ防人みたいな風情で。

このあたりから、これから下る谷を一望できます。

うっわーすっげえ高低差!とついつい「ですます調」が乱れてしまいます。

さてここ。南馬込3-17に突如金網が見えてきました。

覗き込んでみると…。

おわっ。 この先は崖になっていて、その崖を下る一筋の暗渠があるのです。 望遠で奥の方を見てみましょう。

大谷石で築かれた家の土台の高さを見ても、この谷の深さがわかるかと思います。 ただ、行く先がよくわかりません…。

この写真を撮った足元には、土管も見えています。

下流をなんとか確認するため、一つ先のブロックに回り込んでみましょう。 ブロックを囲む道は、こんな急階段になっていました。

そりゃそうだよなあ、あんな崖だったんだもんなあ…。

そして。 この階段を下りたところがまさに暗渠の出口だったのです。

右側に見えるお宅と階段とのスキマが暗渠。 半分プライベートな空間っぽかったので、 ちょっと覗き込んで写真を撮るのは自粛いたします。

ここからは、馬込二小の敷地の横を通って下っていく様子。

うん。道もちょっとヘンな造り。

この先すぐには 池尻堀西 が流れています。 おそらくそこに合流していたものと思います。 地理的にも時間的にも断片的にこの楓谷を巡ってきましたが、 ようやここへきて全体像を掴みかけたような気がしました。

より大きな地図で 池尻掘・六郷用水北堀・内川 を表示

[193] 暗渠ハンター オチのない内川支流の話。: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-0538.html

「大田区の文化財 第25集『地図で見る大田区』(2)」 という資料を眺めていたら、こんなものを見つけました。 そう、真ん中に流れる川(オレンジ色)は、内川。

明治19年測量、というこの地図には、 西から内川に合流する支流が二本くっきりと描かれています! 赤い丸のところ。

以前内川をたどっていて偶然見つけたのは もうちょっと上(北)のほうに位置する暗渠でしたが、 このあたりに暗渠なんてあったっけな…。

でもこんなに堂々と書かれているんだから、痕跡がないならないでいいや、行ってみよう! と鼻息も荒く出かけていきました。 大正9年の測量時にすでに消えているんですけどね。

まあ地形図でもね、こんなくっきり谷があるし、 なにか面白いことが待っているかもしれないし。 (東京地形地図さん毎度引用させていただいてます、ありがとうございます。)

一応東京都の下水道台帳をみるとこの川筋には合流式の下水道管が通っているので、まあ暗渠と呼んで差し支えはないかと思うんです。

以下、便宜上それぞれの住所から、南側を西馬込2丁目支流、 北側を西馬込1丁目支流と仮に呼ぶことにして話を進めてまいります。

■ 西馬込2丁目支流

2丁目支流は、南馬込5-27あたりで内川に合流します。 ちょうど都営地下鉄西馬込から延びてくる商店街の谷のところ。 一見なんの変哲もない商店街。

このあともなんの変哲もありません。 ただ、両脇を見るとぐぐっと下がった谷地形であることは間違いない。

国道1号線・第二京浜とまじわるところには、 文化堂というスーパーがあるのですが、 何かの資料で「ここに昔湧水があった」と書かれていましたので、 その湧水はこの西馬込2丁目支流にあわさって 内川へと流れ込んでいたのだと思います。

第二京浜を越えても川らしい跡が浮き上がってきません。

今日はテンションが低いまま終わってしまうかも知れません。 いまから覚悟しておいてください。 大阪の人と飲んでるときにオチのない話をして怒られたことがありませんか? そんな感じ。

道端に公園。 お。 なんか川っぽいもの発見!

でもこれ、絶対ダミーです。 でもこの公園の端っこが急にがくんと低くなっていて、 おそらく谷頭部はこのへんなのだと思います。

その谷頭の上のほう、西馬込2-9の界隈にはちょっとした路地が。

特定はできませんが、配水路などがあった

[194] 白丸調整池[東京都] - ダム便覧, , http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0693

平成7年度に工事に着手し、14年4月竣工。開水路部とトンネル部とに分け、 魚道 形式もアイスハーバー型魚道と潜孔型魚道の2つの形式を採用。魚道落差27m、魚道延長332m。対象魚種はヤマメ、サクラマス、アユ等。 堤高 が30mを超えるダムについての魚道は、比較的少ない。

[写真] 魚道のトンネル部

[195] 羽田秋葉原運河探検クルーズ│人気の東京・横浜 パーティー クルーズ ジール, , http://www.zeal.ne.jp/plan/203.html

東京・横浜港の数ある客船の中から、クルーズコンサルタント有資格者や船舶操縦資格を持った海に詳しいスタッフが、お客様に最適なパーティープランをご提案いたします。お気軽にご相談ください。

秋葉原の万世橋と羽田空港を水路で結ぶ★秋のシルバーウイーク★の特別企画です

羽田空港ターミナルから送迎バスで多摩川に面した羽田空港船着場へ。多摩川を出航した船は東京の運河を探検しながら秋葉原の万世橋を目指すロングクルーズです。大型船では航行困難な東京の水路(海老取川や神田川)を小型オープン船で通り抜けします。途中、品川(天王洲ヤマツピア)で乗下船できるプランもご用意致しました。

プラン詳細

運航日程

2015年9月19日(土)~9月26日(土)

運航時間

コースにより異なる

集合場所

コース①、③・・・ 羽田空港:「国際線ターミナル2階ロビー指定箇所」[PDF]

コース②、⑤・・・ 秋葉原(万世橋)[PDF]

コース④、⑥・・・ 品川(天王洲)

予約形態

乗合クルーズ(社会実験モニタークルーズとなります)

お客様にはアンケート回答ご協力お願い申し上げます。

利用人数

1名様よりご予約可能

ご利用料金

早期予約割引!(予約後9月16日まで要事前振込)

①・② 羽田空港~秋葉原(万世橋)

大人 おひとり様 2,900円 / 小人 おひとり様 2,000円

③・④ 羽田空港~品川(天王洲)

大人 おひとり様 1,620円 / 小人 おひとり様 900円

⑤・⑥ 品川(天王洲)~秋葉原(万世橋)

大人 おひとり様 2,380円 / 小人 おひとり様 1,500円

※9月17日以降のご予約分は全て当日現金支払い料金となります。

当日お支払いの場合、以下の料金となります

①・② 大人 おひとり様 3,500円 / 小人 おひとり様 2,500円

③・④ 大人 おひとり様 2,000円 / 小人 おひとり様 1,000円

⑤・⑥ 大人 おひとり様 3,000円 / 小人 おひとり様 2,000円

※小人は4~12歳までです。

※3歳以下のお子様は大人1名に付き1名まで無料ですが、ご乗船の場合はご予約時に必ずお申し出ください。(2名以上の同伴は小人料金が適用となります)

料金内容

料金には、乗船料、消費税が含まれます。

使用船舶:

ルーク号(定員40名)

最大乗船人数:

40名様

特記事項

※出航の

[196] 東急東横線・みなとみらい線10両化工事(2013年1月取材) - Reports for the future ~未来へのレポート~, , http://mirai-report.com/blog-entry-1232.html

来る2013年3月16日より開始される東急東横線と東京メトロ副都心線の直通運転開始に合わせて、 東横線とみなとみらい線の優等列車が10両編成に増車 されます。これに向けて、優等列車停車駅では ホームの延長・拡幅 などの改良工事が進められています。1月初めに東横線・みなとみらい線の全線にわたり再度調査を実施しましたので変化があった駅の状況をレポートしたいと思います。 ▼関連記事 東急東横線・みなとみらい線10両化工事(2012年9月取材) (2012年10月10日作成) ■東急東横線・みなとみらい線の10両編成対応化工事の概要 現在、東急東横線・横浜高速鉄道みなとみらい線は 全列車が8両編成 での運転となっており、地上設備もそれに合わせた構造となっています。3月16日より開始される東京メトロ副都心線との直通運転開始後は直通先の東京メトロ・西武鉄道・東武鉄道に合わせる形で、 「特急」「通勤特急」「急行」の各優等列車を10両編成に増車 することが計画されています。このため、優等列車が停車する駅のホームと元住吉駅の下にある車両基地について 2両分の延長工事 が進められています。工事が行われているのは以下の駅です。 ●東急東横線 中目黒・学芸大学・自由が丘・田園調布・多摩川・武蔵小杉・日吉・綱島・菊名・横浜 ●みなとみらい線 新高島を除く全駅 ※ただし、後述する通り新高島駅でも10両編成停車時に使用する非常用ホームの増設が開始された。 なお、この工事は前回お伝えした東横線渋谷~代官山間の地下化工事とともに 特定都市鉄道整備事業 の対象となっており、2005(平成17)年度より運賃に上乗せする形で事業費の調達が行われています。詳しくは先週公開した 渋谷~代官山間の地下化工事に関する記事 をご覧ください。 ■東急東横線内の状況 今回も昨年9月と同様東横線・みなとみらい線全線を2分割して調査を実施しました。 東側半分(中目黒~多摩川間)は2013(平成25)年1月2日、西側半分(武蔵小杉~横浜~元町・中華街)は1月12日 の調査です。既に工事が完了し、変化が無かった一部駅については掲載を省略しています。 ●中目黒駅 左:渋谷側の目黒川橋梁上の部分はホーム土台が完成し、屋根の取り付け中。( 同じ場所の2011年1月9日の様子 ) 右:横浜側は屋根板の取り付けが完了。( 同じ場所

[201] 市から立ち退き命令があった横浜ビブレ前のおでん屋台、2016年1月に姿を消すってホント?[はまれぽ.com], , http://hamarepo.com/story.php?page_no=1&story_id=3650&from=

投稿の中から、はまれぽ編集部もキニナルことを調査してお答えします! ぜひ投稿してみてね。(200文字まで)

[204] 戦後から残る鶴見線高架下の住宅の様子は?[はまれぽ.com], , http://hamarepo.com/story.php?story_id=5093&from=http%3A%2F%2Fhamarepo.com%2Ftop.php%3FfromStory%3D5

先日、ベイスターズの試合を観戦していたら、聞き覚えのあるメロディーが流れてきました。横浜市民なら、歌える人が多いという「横浜市歌」です。去年まで聞いたことがなかったと記憶しているのですが、いつから始ま...

となりのリスさん

[205] 八高線 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E9%AB%98%E7%B7%9A

八王子駅 - 高麗川駅間 [ 編集 ]

中央本線 上りホームの反対側1番線から 八王子駅 を発車すると、右手に 横浜線 が分岐し 京王線 を跨ぐ。左へカーブし中央本線から分かれ、 浅川 を渡り、 国道16号 ( 八王子バイパス )を跨いで勾配を上っていく。 国道20号 (甲州街道)を潜って巨大な倉庫や工場の林立する 北八王子駅 に到着する。北八王子を発車すると勾配を下り、 中央自動車道 を潜ると間もなく 小宮駅 に到着し、勾配を下りながら 1945年 に 八高線列車正面衝突事故 のあった 多摩川橋梁 にかかる。多摩川両岸に向き合う 東京都下水道局 の二つの 下水処理場 を右手に見ながら鉄橋を渡ってしばらく直線に進むと 青梅線 を跨ぎ、青梅 電留線 、 米軍横田基地線 、 保線 基地などを大きく抱き込む形で左にカーブし、右手から 西武 拝島線 が寄り添ってきて 拝島駅 に到着する。

拝島駅を出るとすぐ国道16号の武蔵野橋を、 五日市線 、青梅線とともにくぐり、両線を左に分けながら住宅街の間のゆるい勾配を直線で上り、 東福生駅 に到着。東福生駅 - 箱根ケ崎駅間の路線は 横田基地 拡張にともない付け替えられたが、基地を完全に迂回したわけではなく、駅を出るとしばらく基地内の住宅やスーパーマーケットの間を走る。基地内を出て右に並行していた国道16号が、 瑞穂バイパス となり下をくぐって左に分かれていくと、コンクリート壁の間を抜ける。この部分は 滑走路 からすぐの延長線上にあり、未電化時代は トンネル となっていた部分である。これは昔、 飛行機 からの部品落下などが時おりあったためだが、飛行機の安全性向上もあり、電化の際に 架線 を張る邪魔になるため上部が取り壊された。 新青梅街道 を跨いですぐに、 箱根ケ崎駅 に到着。箱根ケ崎駅は拝島方面からの折り返し列車もある。以前は待避線もあったが撤去された。

箱根ケ崎駅を出ると、かつては本線の右側を複線のように貨物線が並走していた。撤去された現在は草に覆れ面影が乏しい。ゆるい登り勾配を進むと、瑞穂バイパスの跨線橋をくぐる。ここで、八王子駅から当線の左右を並行して走ってきた国道16号と一旦別れ、 川越市 までは、当線と 川越線 とは全く別ルートを走る。 埼玉県 入間市 に入り、 狭山茶 の 茶畑 の中を走り標高158メートルの八高線最高

[206] 東海道 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E9%81%93

律令時代 [ 編集 ]

概説 [ 編集 ]

律令時代 の東海道は、東海道の諸国の 国府 を駅路で結ぶもので、各道に派遣された官人が諸国を巡察する為に整備された路を指す。律令時代に設けられた七道の一つで、中路である [2] 。律令時代の東海道の道幅は、中世や江戸時代の道より広く、より直線的に建設された。

その一方で、当時は大河川に橋を架ける技術は発達しておらず、 揖斐川 ・ 長良川 ・ 木曽川 ・ 大井川 ・ 安倍川 ・ 富士川 ・ 多摩川 ・ 利根川 (当時)といった渡河が困難な大河の下流域を通過するため、むしろ東山道の山道の方が安全と考えられていた時期もあり、東海道が活発になるのは、渡河の仕組が整備された 10世紀 以降のことと考えられている [3] 。

中世に大半が改廃されたため、当時の正確な道筋については議論されているが、おおむね以下のような経路を通っていた考えられている。

畿内から近国まで [ 編集 ]

首都 が 飛鳥 に置かれた時期には、 大和国 の 宇陀 が、東海道方面への入口だったと考えられているが、その後、 平城京 に遷都されると、平城京から 平城山 を北上し、木津から木津川の谷間を東へ入って 伊賀国 に入り、 鈴鹿山脈 と 布引山地 の鞍部を 加太越え で越えて 伊勢国 へ、 木曽三川 を下流域で渡って 尾張国 津島 へ、 名古屋市 を通り、 三河国 と続いていったと考えられている。およそ、現在の 国道163号線 ・ 国道25号線 ・ 国道1号 に沿ったルートであった。

ただし、木曽三川の下流部は古来より水害が激しく、実際には船による移動に頼っていたと考えられ、あるいは 飛鳥 や 平城京 から 鈴鹿峠 を経由してそのまま伊勢国の港から 伊勢湾 を横断する海路が用いられる事も多かったとみられている。だが、その一方でこうした船には馬を同伴させることが出来ず、東国から馬に乗ってきた旅行者は三河国か尾張国で馬を他者に預けて伊勢国に向かう船に乗る必要が生じたが、帰途時に馬の返還を巡るトラブルなどもあった(『日本書紀』大化2年3月甲申条)。このため、徒歩や馬で旅を続けようとする人の中には、本来は認められていなかった尾張国府から北上して美濃国にある東山道の 不破関 に出る経路も用いられていた。伊勢湾を横断する海路と東山道に出る脇道の存在は、江戸時代の 七里の渡

[207] 火事で焼失した戸塚の重要文化財、住友家俣野(またの)別邸、その後はどうなった?[はまれぽ.com], , http://hamarepo.com/story.php?page_no=1&story_id=1764

投稿の中から、はまれぽ編集部もキニナルことを調査してお答えします! ぜひ投稿してみてね。(200文字まで)

[212] 奥秩父山塊 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E7%A7%A9%E7%88%B6%E5%B1%B1%E5%A1%8A

奥秩父山塊(おくちちぶさんかい)とは、野辺山高原の南東に位置する飯盛山(1643m)から雲取山(2017m)および南は三窪高原まで、広くはそれに東は奥多摩エリア、北は両神山(1723m)付近、南は大菩薩連嶺までを加えた山塊。関東山地の中心部をなす。奥秩父山地(おくちちぶさんち)ともいう。千曲川(信濃川上流)、荒川、笛吹川(富士川上流)、多摩川の4河川の水源域であり、山域に火山を殆ど含まないことも特徴となっている。

奥秩父は山域が比較的広く、2600m圏の高峰を含め、2000m級の山々が多数連なっていることから、北アルプス、中央アルプス、南アルプスに比して東アルプスと、この山域の山小屋関係者などは称している[1]。

大きな保水力を持った森林と、その水が川となって流れ出る渓谷の美がこの山域の魅力であるとして、英文学者で山旅を楽しんだ田部重治(1884-1972)は、雄大な日本アルプスの山々の特徴と並べて、1919年に『日本アルプスと秩父巡礼』を刊行、1930年にそれは『山と渓谷』として出版された。

[編集] 奥秩父山塊の主な山・峠・峡谷

[編集] 主脈

雲取山 (2017m) 東京都の最高峰 本主脈の東端

飛竜山 (2077m)

将監峠

唐松尾山 (2109m)

笠取山 (1953m)

水晶山 (2158m)

雁坂峠

木賊山(雲切山) (2468m)

甲武信ヶ岳 (2475m)

三宝山 (2483m) 埼玉県の最高峰

鶏冠山 (2177m)

国師岳(国師ヶ岳) (2591m)

北奥千丈岳 (2601m) 奥秩父山塊の最高峰

奥千丈岳 (2409m)

大弛峠

朝日岳(朝日山) (2579m)

金峰山 (2599m)

瑞牆山 (2230m)

小川山 (2418m)

上記の山々の連なりは「奥秩父主脈」とも呼ばれ、縦走登山の対象となることが多い。

[編集] 北東部

四阿屋山 (772m)

両神山 (1723m)

南天山 (1483m)

秩父御岳山 (1081m)

中津峡

三峰山 妙法ヶ岳・白岩山・雲取山の総称。

白泰山 (1794m)

妙法が岳 (1332m)

霧藻ヶ峰 (1523m)

白岩山 (1921m)

熊倉山 (1427m)

和名倉山 (2036m)

芋木ノドッケ (1949m)

長沢山

水松山

酉谷山

七跳山 (1651m)

大平山 (1603m)

大栗山

蕎麦粒山

[213] 渋谷駅 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E8%B0%B7%E9%A7%85

乗り入れ路線 [編集]

JR東日本の各線(後述)、東急の各線(後述)、東京メトロの各線(後述)、および京王の井の頭線という4社の路線が乗り入れるターミナル駅である。JR以外の各線はすべて当駅を起点・終点としている。

JR東日本の駅に乗り入れている路線は、線路名称上は山手線のみである(詳細は各路線の記事および「鉄道路線の名称」を参照)が、一般列車の運転系統としては電車線を走行する環状線としての山手線電車のほか、山手貨物線を走行する埼京線と湘南新宿ラインが停車し、旅客案内ではそれぞれ別路線として扱われている。なお、山手貨物線を経由する有料列車として、旧目黒川信号場から品鶴線を経由して総武本線・成田線に直通する特急「成田エクスプレス」、湘南新宿ラインと同じルートで東海道本線に直通するホームライナー(「ホームライナー小田原」「おはようライナー新宿」。後者は降車扱いのみ)が停車する。また、特定都区市内制度における「東京都区内」および「東京山手線内」に属している。

東急は次の2路線が乗り入れ、各路線ごとに駅番号が与えられている。

東横線 - 駅番号「TY 01」

田園都市線 - 駅番号「DT 01」

東京メトロは次の3路線が乗り入れ、各路線ごとに駅番号が与えられている。

銀座線 - 駅番号「G 01」

半蔵門線 - 駅番号「Z 01」

副都心線 - 駅番号「F 16」

このほか、京王井の頭線にも「IN 01」の駅番号が与えられている。

東横線と副都心線[1][2]、田園都市線と半蔵門線はそれぞれ相互直通運転を行っている。このため東横線・副都心線と、田園都市線・半蔵門線との駅は東急と東京地下鉄の共同使用駅であり、東急が一体で管理している。

駅構造 [編集]

当駅の特徴は渋谷という地名が示す通り、山手線に沿った南北の細い谷の底を中心として、駅が形成されている点である。当駅以外の首都圏の駅のほとんどでは、地上を走る郊外路線はJRに並行してホームを構えているが(品川駅、新宿駅、池袋駅、日暮里駅、横浜駅、北千住駅など)、当駅は前述した地形構造から、接続する各路線が安定した地形で路線敷設および当駅の接続を行うことが困難であり、多くの路線がJRと立体交差するように接続している。例を挙げれば、東京メトロ銀座線は当駅の地上3階を発車して地下にもぐり、東急東横線と京王井の頭線は都心部を走る路線であ

[214] @nifty:デイリーポータルZ:「どこまで東京?」, , http://portal.nifty.com/2011/04/22/a/

「はじめて上京してきたときは、びっくりした。東京ってテレビで見るような高層ビルばかりのところだと思ってたから」という話をきいたことがある。

ぼくは東京のお隣、千葉県の出身なので、東京にもなんてことない住宅街や畑が広がっていることは知っていた。が、そういう「いかにも東京」のイメージもなんとなくわかる。

実際の行政界の「東京」と、いかにも東京だよなー、と思う「イメージ上の東京」は異なる。たとえばぼくは立川より西は東京とは思えない(立川以西の方、すみません)。

みんなが「どこまで東京と感じるか」を調べてみよう。

(大山 顕)

千葉県とはいえ日常的に東京で遊び、働いて20年あまり。もちろん行政界的にどこまでが東京かは知っている。が、どこまで東京と「感じるか」はべつだ。以下にその感じを書き下してみよう。

東側

葛西は東京じゃない

でも葛西臨海公園は東京

小岩は東京だよなー

でも金町って東京じゃない気がする

綾瀬、微妙。

北側

赤羽とか高島平とかの団地知識のおかげで実際の東京境界にけっこう忠実な自分に気がついた

でもひばりヶ丘は東京じゃない

小平も東京じゃない

西側

東京は立川まで

府中本町は東京じゃない(たぶん武蔵野線のイメージ→「埼玉に行く線」)

南側

やっぱり多摩川って言われると東京じゃない

小田急線は下北沢までが東京(!)これはこの線に関してぼくが全く疎いから。世田谷代田って、もう東京な気がしない。

でも溝の口は東京

武蔵小杉も東京な気がした。なぜだ。

そして蒲田は断固東京じゃない。

とはいえ、羽田はやっぱり東京だ

千葉っ子なので、西側のことがよくわからない。小平って何。(小平の方、すみません)

で、みんなにも「どこまで東京?」をきいてみよう、と投稿してもらってまとめるサイトを作ってみた。その名も『どこまで東京?』だ。

インターネットって素晴らしい。こういうことのために開発されたんじゃないと思うけど。

自分がやったように、みなさんに地図に線を引いてもらうのは難しいだろうと思ったので、JR私鉄各線の駅名を挙げ、何駅までを東京だと感じるかを選んでもらうやり方にした。東京の鉄道の多くは郊外に向かって放射状にのびているので、つごうがよい。こういうことのために放射状にしたわけじゃないと思うけど。

西方面は「中央線-青梅線」「京王線」「小田急線」、南西方面は「田園都市線」「東

[215] 六本木、麻布十番、元麻布の川跡(1)がま池からの流れ : 東京の水 2009 fragments, , http://tokyoriver.exblog.jp/13955876

六本木、麻布十番、元麻布の谷筋の水を集めて流れて古川(渋谷川)に注いでいた小川の痕跡を再訪してきました。東京の水2005revisitedで、5年前にすでに詳しく記事にしていますが、なかなか面白いエリアですので、最新の写真をメインに2005年の写真、1997年の写真も織り交ぜて、何度かに分け、再度紹介してみます。六本木のところは、先日ちょうどブラタモリ最終回でも取り上げられていました。 ==================================================== まずは元麻布2丁目の「がま池」から流れ出していた小流を追ってみよう。 麻布十番から枝上に分かれる谷の一つに、有栖川宮記念公園の南側、谷頭の窪地には江戸時代より有名な「がま池」(「蝦蟇ケ池」)が残っている。「がま池」の名は、池に棲んでいた大きなガマガエルに由来するとされており、いくつか伝説が残っている。がま池の由来やその変遷については、こちらのサイトが詳しい。 明治時代の地図には、大きな池の姿が描かれている。この時点で池の広さは1600平方メートル。池の北側からは川が流れ出し、北側の谷へと続いている。

「五千分の一東京図測量原図 東京府武蔵国麻布区永坂町及坂下町近傍(明治16年)」より 現在の池の姿は、googlemapの空中写真で確認できる。池の広さはおよそ600平米。池の北側が埋め立てられ、池の上にせり出すかたちでマンションが建っている。中島はおそらく明治の地図に描かれているのと同じものだ。どんな旱魃の時でもかれたことがないと言われた池の湧水も、1990年代に入るとほとんど枯渇してしまい、現在は、循環水で水面を維持しているようだ。

大きい地図はこちら 現在、住宅街の道路端と、とあるマンションの玄関脇にがま池の説明版が掲示されているものの、先のマンションの中庭となっていて、入ることはおろか見ることもできない。マンション入り口の看板には池を公開している旨書かれているが、聞いてみたところ公開していないとの回答。5年前に訊いたときにも、一時的に取りやめているといっていたが・・・現在のマンションは2002年に建替えられたもの。その際は建設業者が池の公開を約束したというが、どうも有名無実になっているようだ。 池の周囲も住宅に囲まれていて、その姿を見ることは不可能だったのだが、数年前に池

[216] 日吉ダム - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%90%89%E3%83%80%E3%83%A0

桂川の河川開発[編集]

淀川水系の河川総合開発は戦後1953年(昭和28年)流域に多大な被害を齎した台風13号により、本格的な整備が進められた。既に1949年(昭和24年)より経済安定本部を中心に策定した「河川改訂改修計画」を土台に、1954年(昭和29年)「淀川水系改訂基本計画」が策定されこの中で初めて多目的ダムによる洪水調節が企図された。この計画に基づいて瀬田川洗堰改築・天ヶ瀬ダム(淀川)、高山ダム(計画当時は月ヶ瀬ダム。名張川)、室生ダム(計画当時は宇陀川ダム。宇陀川)が計画・建設された。

その後洪水調節に加え関西圏の人口増加に伴う水需要の逼迫に対応する為、1962年(昭和37年)に淀川水系は「水資源開発促進法」に基づく「淀川水系水資源開発基本計画」が策定された。この中で水資源開発公団(現・水資源機構)によって青蓮寺ダム(青蓮寺川)や布目ダム(布目川)が計画・建設された。こうして淀川水系の総合開発は整備されていくが淀川・木津川と並ぶ主要支川である桂川に関しては、1961年(昭和36年)に当時の京都府船井郡園部町と同郡日吉町の町境地先に「淀川水系改訂基本計画」に基づくダム計画が持ち上がった。

当時は「宮村ダム」と呼ばれていたこのダム計画こそ、後の日吉ダム事業である。

沿革[編集]

桂川は中流部に保津峡(この辺りは保津川と別称される)があり川下りや嵐山等といった風光明媚な観光地として多くの観光客が訪れる京都を代表する観光地であるが、治水の観点からは極めて問題な地形であった。保津峡で川幅が狭くなるために洪水流下能力が著しく阻害され、上流の亀岡市や南丹市は大雨が降ると容易に湛水するさながら天然の遊水地状態になる。これは天竜川における天竜峡と飯田市の地理関係に良く似ており、古来より亀岡盆地は水害の被害を度々受けていた。堤防建設や浚渫では限界が出てきており、宅地化の進行でこれ以上の河川改修は補償の観点から難しく、抜本的な治水対策が叫ばれる一方で関西圏地域の人口急増に伴い水需要も引き続き急増していた。

1971年(昭和46年)、建設省(現・国土交通省近畿地方整備局)は「淀川水系工事実施基本計画」を策定し、伊勢湾台風出水以来の洪水流量の改訂を実施した。これに伴い洪水調節を強化するため比奈知ダム(名張川)等の建設が計画されたが、桂川流域においてもダムによる洪水調節が求められた。

[217] 湯田ダム - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E7%94%B0%E3%83%80%E3%83%A0

湯田ダム(ゆだダム)は岩手県和賀郡西和賀町(旧・湯田町)、一級河川・北上川水系和賀川に建設されたダムである。

国土交通省東北地方整備局が管理する特定多目的ダムで、北上特定地域総合開発計画(KVA)に基づき計画された「北上川五大ダム」の第三番手として計画・建設された。堤高89.5メートル、型式は全国に十二基しか存在しない重力式アーチダムで、東北地方では唯一の存在である。水没住民との補償交渉が難航した初期事例としても知られている。ダム湖は錦秋湖(きんしゅうこ)と呼ばれ、北上川水系では田瀬湖に次ぐ大規模な人造湖であり、観光地でもある。

沿革[編集]

岩手県・宮城県を流れる東北第一の大河川・北上川は一関市付近で急激に川幅が狭くなる。このため一関市より上流部では大雨が降ると度々洪水の被害を受けていた。根本的な解決は川幅の拡張であるが、約18キロメートルにも及ぶ狭窄部の開削は技術的に不可能であり、これに代わる対策が必要であった。当時河川行政を管轄していた内務省は、1926年(大正15年・昭和元年)に東京帝国大学教授・内務省土木試験所長の職にあった物部長穂が発表した「河水統制計画案」を採用し、従来多様な事業者が別個に行っていた治水と利水を一元的に開発するという河川総合開発事業を強力に推進しようとしていた。

全国64河川がその対象となったが、北上川についてもその対象河川となり1938年(昭和13年)、北上川上流改修計画が内務省によって策定された。これは北上川本流と岩手県内における主要な支流である雫石川(しずくいしかわ)・猿ヶ石川(さるがいしかわ)・和賀川・胆沢川(いさわがわ)の五河川に治水と利水の目的を併設した多目的ダムを建設し、北上川の洪水調節を図ろうとするものである。これが北上川五大ダムであり、渋民村地点(北上川)・御所村地点(雫石川)・田瀬地点(猿ヶ石川)・尿前地点(胆沢川)にダム建設が計画され、1941年(昭和16年)に猿ヶ石堰堤(後の田瀬ダム)が田瀬地点に建設を開始した。和賀川については湯田村(西和賀町の前身である湯田町の前身)湯の沢地点にダム計画が進められたが、太平洋戦争の激化で中断を余儀無くされた。

終戦後、計画は再開され高さ87.5メートルの重力式コンクリートダムとして骨格が次第に固まっていった。ところが1947年(昭和22年)9月のカスリーン台風と、翌1948年(

[218] @nifty:デイリーポータルZ:線路を歩ける橋、赤川鉄橋をくぐる、渡る, , http://portal.nifty.com/kiji/130607160840_2.htm

と、出てきたはじめての淀川であるが、これがとにかく広かった。

いつも、新幹線で新大阪について、そこからとりあえず梅田まで電車に乗ったとき必ず渡る川である。東京でいうと多摩川とか荒川とかの広さの川だが、それが県境になることなく新大阪と大阪の間にどどーっと流れているわけだ。

[219] 北総鉄道北総線 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%B7%8F%E9%89%84%E9%81%93%E5%8C%97%E7%B7%8F%E7%B7%9A

路線データ[編集]

路線距離:32.3km

京成高砂駅 - 小室駅間 19.8km - 第一種鉄道事業

小室駅 - 印旛日本医大駅間 12.5km - 第二種鉄道事業(千葉ニュータウン鉄道が第三種鉄道事業者)

軌間:1,435mm(標準軌)

駅数:15駅(起終点駅含む)

複線区間:全線複線

電化区間:全線(直流1,500V)

閉塞方式:自動閉塞式

保安装置:C-ATS[2]

最高速度:105km/h[1]

沿革[編集]

京成高砂駅 - 小室駅間は、千葉ニュータウン建設開始に伴い、1972年3月の都市交通審議会(現在の運輸政策審議会)答申第15号が示した2本の東京都心直結ルートの一つで、「地下鉄1号線(都営地下鉄浅草線)を延伸し、京成高砂駅で京成線より分岐し、松戸・市川両市境を東進、鎌ケ谷市初富を経て千葉ニュータウン小室地区に至る路線」である。

千葉ニュータウン内の交通路整備を優先するため、北初富駅 - 小室駅間を北総線第1期として先行開業することとし、1974年、日本鉄道建設公団(現・鉄道建設・運輸施設整備支援機構)民鉄線対象工事として着工し、千葉ニュータウン西白井・小室両地区の街開きに合わせて1979年3月に開業した。同時に暫定的に新京成線に乗り入れ、松戸駅まで相互直通運転を開始した。なお、新京成線との直通運転は第2期線開業後の1992年7月8日に同線の新鎌ヶ谷駅開業と同時に廃止された。

北総開発鉄道は、千葉ニュータウンと東京都心を結ぶことが建設目的であるため、1983年に第2期線の建設に着手する。1991年に京成高砂駅 - 新鎌ヶ谷駅間を開業し、北総開発鉄道、京成電鉄、東京都交通局(都営地下鉄浅草線)、京浜急行電鉄の4者による相互直通運転を開始した。

小室駅 - 印旛日本医大駅間は、同じ答申で示されたもう一つのアクセスルートの一部で、地下鉄10号線(都営地下鉄新宿線)を延伸して鎌ケ谷市初富に至り、小室まで前記の路線と併走し、その先の印旛松虫地区に至る路線の一部である。本来、千葉県営鉄道として建設される予定のものを、1978年3月に千葉ニュータウン事業に参加した宅地開発公団(後の住宅・都市整備公団、都市基盤整備公団、現在の独立行政法人都市再生機構)が小室 - 印旛松虫間の鉄道敷設免許を譲り受けて建設、開業した。住宅・都市整備公団千葉ニュータウン線として小室駅 -

[220] 富士川 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%B7%9D

富士川(ふじかわ)は、長野県・山梨県及び静岡県を流れる河川。一級水系富士川の本流であり日本三大急流の一つに数えられている。

甲斐と駿河を結ぶ水運としての要路であり、古くから人々の暮らしに密着してきた。

釜無川本谷として、南アルプス北部、山梨県と長野県の県境に位置する鋸岳(のこぎりだけ)に源を発し、長野県富士見町にて八ヶ岳などからの源流とする立場川と合流しながら、山梨県北杜市まで長野・山梨両県の県境を成す。北杜市にて山梨県域に入ってから尾白川、塩川、御勅使川などと合流しながら甲府盆地を南流し、西八代郡市川三郷町と南巨摩郡富士川町の町境で笛吹川と合流する。ここまでを釜無川と呼ぶ。

釜無川の名前の由来には諸説あり、上流の「釜無山」にちなむというものや、「水量が豊富で流れが速いため、釜を洗おうとするとすぐに流されて無くなってしまうから」という伝承に近いものなどが挙げられる。その中でも有力視されているのが、絶え間なく流れる様子を表した「クマナシ(隈無し)」に由来しているというものである。

一般的に釜無川と笛吹川の合流点より下流を富士川と呼び、そのまま富士山の西側を南流し、途中早川、常葉川、波木井川など更に下って静岡県に入ると稲子川や芝川などの支流を合わせ、富士市の雁堤南で東海道と交差し、富士市と静岡市清水区との境で駿河湾に注ぐ。

呼び方[編集]

正式には「ふじかわ」と濁らない発音であり、東海道新幹線富士川橋など橋付近のに掲げられている看板には英語標記で「FUJIKAWA」と記載され、国土交通省の発行の記述は「ふじかわ」と記載されている。また流域の静岡県、山梨県では「ふじかわ」と呼ばれ、これは静岡における4音の川で、2音目が濁るもの(安倍川、地名の旧芝川町(現・富士宮市)など)で共通のルールであるが、全国的には「ふじがわ」と誤って発音されてしまうことも多い。

辞書での呼び名はまちまちで、講談社の日本語大辞典、三省堂の大辞林(goo辞書、excite辞書含む)では「ふじかわ」と記載されている一方、岩波書店の広辞苑、小学館の日本語大辞典やYahoo辞書でも利用されている大辞泉では、「ふじがわ」と誤って表記されている。他、NHKのアナウンサーでさえ「ふじがわ」と誤って発音をする場合がある(2012年のNHK大河ドラマ・平清盛では「ふじかわのたたかい」)。

「ふじがわ」と発言される理由

[221] 水の高さ - 僕の寄り道――電気山羊は電子の紙を食べるか, , http://blog.goo.ne.jp/den6blog/e/e8577fcffc4d318fceb997ea7a97b881

2014年3月27日(木)

水の高さ

00 サイフォン構造などを持たない流れでは、水は必ず高い方から低い方へと流れる。遠く隔たった場所へと水を引こうと思ったら、長い斜面を維持したまま水路を引かなければならないわけで、それはたいへんな土木技術だと思う。高低差をちびちび倹約して引き延ばし引き延ばししながら使わなくてはならないからだ。

01 多摩川から取水して武蔵野台地を東に流れ、四谷大木戸の水番所で江戸市中に配水された玉川上水の長さは43キロもある。どれくらいの高さを持つ場所から取水しているのだろうと羽村取水堰まで見に行ったことがあるが、電車で行ってもげんなりするほど遠いことにまず驚いた。

静岡県清水区大内の観音沢川。農地へ水を引く取水口のために、堰を設けて水位調節をしている。

02 静岡市清水区にある日本軽金属蒲原製造所が今月31日をもってアルミ電解事業を終えるという。大量の電力を使うアルミ製錬だが、ここ蒲原製造所は富士川の水を使った自前の発電施設を有することで、電気代の高騰にもかかわらず1940年の操業開始以来、世界有数の工場であり続けたという。

03 東海道線に乗ると富士川駅と新蒲原駅の間に、山の上から下りてくる太いパイプがあり、幼い頃から気になっていたそれが日本軽金属蒲原工場自慢の発電施設である。日本軽金属富士川第二発電所といい、運転開始は昭和18年で、富士川上流の富士川第一発電所で放水した水などをパイプでここまで引いているという。第一発電所は柿元ダムにより安定した発電用水量を確保しているからだ。

04 この富士川第一発電所の放水地点と、富士川第二発電所が水を落とすポイントの高度差がどうなっているか知りたい。玉川上水は武蔵野台地の尾根筋を選ぶことで高さを節約しながら引かれているというが、富士川第一発電所は身延線十島駅と井出駅の間にあり、富士川第二発電所まで直線距離で16キロ以上ある。間に越さねばならない富士川の流れもあるわけで、ふたつの発電所を結ぶ地中の水路はどうなっているのだろうと、Googleの航空写真を眺めながら首を傾けている。

[222] , , http://www.geocities.jp/glock1320031/sub11-5.html

ケーブルの先を目で追うと、なんとすぐ先の茂みの中に三頭山口駅が・・・。道路わきに石段がありその先は獣道になっているが、すぐに駅跡にたどり着く。

ロープウェイというと低い所から高い所に上っていくものだと思っていたが、ここはなんと標高差0.65m。多摩湖を横断するだけであったために、対岸に渡る橋が出来上がると乗客が途絶え、休止に追い込まれる。

[223] 奥多摩駅 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%A4%9A%E6%91%A9%E9%A7%85

奥多摩駅(おくたまえき)は、東京都西多摩郡奥多摩町氷川にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)青梅線の駅である。

青梅線の終着駅で、東京都内でもっとも西に所在する。標高は東京タワー(海抜高351m)よりも8メートル低い343mで、東京都内にあるJRの駅の中でもっとも高い。

歴史[編集]

1944年(昭和19年)7月1日 - 運輸通信省(→運輸省→日本国有鉄道)青梅線 御嶽 - 当駅間開通と同時に氷川駅(ひかわえき)として開業。一般駅。

1952年(昭和27年)12月16日 - 東京都水道局小河内線(専用鉄道)が開通。小河内貯水池の建設資材運搬用の専用鉄道。

1957年(昭和32年)5月10日 - 東京都水道局小河内線、ダム建設竣工が間近となり、運行休止。

路線は休止後も撤去されていない。所有者は1960年代頃に西武鉄道、その後1970年代以降に奥多摩工業に移っている。

1971年(昭和46年)2月1日 - 奥多摩駅に改称。

1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により東日本旅客鉄道・日本貨物鉄道(JR貨物)の駅となる。

1997年(平成9年) - 「関東の駅百選」に選定。選定理由は「自然豊かな奥多摩に似合っているロッジ風の山小屋駅」。

1998年(平成10年)8月13日[1] - 貨物列車の最終運行日。

奥多摩工業の石灰石積込設備へ専用線が続き、石灰石の輸送を行っていた。最終期の行先は、浜川崎駅にあるセメント工場であった。

1999年(平成11年)3月25日 - JR貨物の駅(貨物営業)が廃止。

2002年(平成14年)2月8日 - ICカードSuica供用開始。

2006年(平成18年)4月21日 - 奥多摩ステーションギャラリーがオープン。電車発車時の合図が発車ベルから、童謡『どんぐりころころ』の発車メロディに変更される。

駅構造[編集]

島式ホーム1面2線を有する地上駅。ホームは1番線と2番線がある。2番線の有効長は6両編成が入線可能であるが、電車とホームの隙間が大きく開く箇所があるため、平日は朝の1本のみ、土休日は「ホリデー快速おくたま」号(6両編成)と普通電車の数本、臨時列車のみが使用している。かつては2番線の奥に貨物ヤードがあり、隣接する奥多摩工業の工場から川崎方面に向かって石灰石を発送していた。また、過去には東京都水道局小河内線(現・奥多摩工

[224] 【奥多摩の絶景!】日原街道で日原鍾乳洞へ(前編) : マッキータウンぶろぐ 〜東京近郊自転車コースガイド〜, , http://blog.livedoor.jp/mackey_town/archives/51989388.html

今回のライドは奥多摩の日原街道で日原鍾乳洞まで行く。 この企画は以前やったんだけど、日原街道は景観が素晴らしく 自分が過去に走ったコースでも指折りのオススメコースなのだ。 だが当時はケータイの写メによるレポなので不完全な内容だ。 今回はその魅力を存分に伝えるために再訪する事にした。 参考までに以前書いたレポ、奥多摩、日原鍾乳洞へ行く(前編) 今回のコース。 奥多摩駅を起点に日原街道(204号)で日原鍾乳洞まで。 距離は約11キロだが全般的に上り基調なコース。 スタート地点の標高が341mでゴールが638m 11キロの距離で約300m上る事になる。平均勾配は2.7%だ。 スタート地点の奥多摩駅。 サクッと書いてるけど、ここまで60キロ近く走ってるんだぞ! 遠いよ。奥多摩('A`|||) 駅から青梅街道に行き、日原街道入口のT字路を右折。 いつも写真を撮ろうと身構えると、そのタイミングで車が通過するのはナゼだろう? のっけから上り基調な日原街道。 街道とは言っても、ご覧のような細い道だ。 巨大な奥多摩工業が見える。 駅のすぐ隣にある奥多摩工業は今回のキーポイントの一つなので なんとなくでいいんで片隅に覚えておいてほしい。 なおも登る。 スタートからしばらくはヒルクライムモードだ。 ただ、ずっと登りが続くわけではないのでご安心を。 以前の水根線廃線遺構めぐりで紹介した線路跡が見える。 その時は高架の下からしか見えなかったが、今回は上から見ることが出来た。 ただ遠すぎて線路が残っているのかいないのか判断できない。 ※【参考画像】 以前紹介したのはこの構図。 何はともあれ、高架の上を見ることができて満足だ。 「日原鍾乳洞まで9キロ」の看板がある。 いつのまにか幹線道路らしい2車線になった。 最初のピークまで上ったので、いったん下る。 序盤は上ったり下ったりを繰り返すイメージ。 この辺りは岩肌が切り立っている。 しかも、かなり特殊な形をしており「岩肌フェチ」なとりさんは萌える。 スタートから約3.4キロ地点に大増鍾乳洞・・・ があるつもりだったんだけど、何と閉鎖されてるじゃないか! 奥のほうにもブルーシート。 帰宅後に調べて分かったんだけど2011年の台風による被害で 大増鍾乳洞は立ち入り禁止になり休業中らしい。 ここは非常に珍しい真っ白な純度の高い鍾乳石を見れることで有名だっ

[225] 埼玉県小鹿野町 あの廃吊橋再訪(前編) - 埼玉発 おとなの小探険 - Yahoo!ブログ, , http://blogs.yahoo.co.jp/takaratta1152/37604054.html

この橋、大御所さんのレポでも見覚えのある方もおられるかと思う。ところが、実はその存在を大御所さんに伝えてしまったのがこの記事であるかもしれないのである。

ちなみに、大御所さんの探索日は2010年2月25日、私の記事の公開は2008年8月25日である。

弱小ブログでの記事など何の影響もないだろうが、「山行が」での公開となれば何らかの変化が出ているだろう事が気になっていたのだった。

やっぱりそうだった。

きっと「山行が」での公開後、多くの読者がこの橋を訪問し、おそらく幾人かは渡橋もしたのだろう。

あるいは、何らかの事故が起きたのかもしれなかった。

[226] 9/7 日本で海岸線から一番遠い地点 - ひらさんのHighトレッキング 山行速報版 - Yahoo!ブログ, , http://blogs.yahoo.co.jp/mikio3540/40886679.html

今頃は伊藤さんと剱岳の早月尾根を歩いているはずだったんですが、

予備日の本日も悪天候予報でやむなく中止に・・・(゜´Д`゜)

[227] 「石島」「井島」の山火事 島の9割が焼失したその被害状況 - NAVER まとめ, , http://matome.naver.jp/odai/2131302866047524601

岡山と香川の境界にある島で大規模な山火事が発生しています。まだ完全に沈下していないものの9割が焼失という大惨事になっているようです。被害の状況をまとめました。

更新日: 2011年08月11日

[228] 昭和記念公園内を歩く: 暗渠さんぽ, , http://kaeru.moe-nifty.com/ankyo/2009/11/post-6d40.html

ふたたび、立川周辺です。と、いっても、このときは、たんにコスモスを鑑賞し、公園で昼ビールでも飲んで癒されよう、という目的で昭和記念公園に行きました。

そう、「今日は暗渠抜きよ」みたいなかんじで・・・。

ちなみに昭和記念公園っていうと地下シェルター説が気になりますが・・・そして中央線のここらへん、軍事萌えが活性化するエリアなんですが・・・

ふつうに公園日和を楽しんでいて(ふつうの公園日和の写真は割愛w)、そういえばここって川が流れていたな、と、川のほうへ行ってみることに。

残堀川(狭山池を水源とし、立川にて多摩川と合流する)。開渠が公園をぐるうっと通っています。ま、それはそれで。

で、ふと、川のすぐ脇に側溝が走っていることに気づきました・・・。わああ、こんなのあったんだ・・・!

見下ろすと、わりときれいな水がなみなみと流れています。ちょっと、うれしくなるほどに。 周囲の景色とあわせると、暗渠っぽいふんいきを醸し出しているのに、暗渠ともいいがたい。しかし開渠とも言いがたいぞ。なんと呼んだらいいのかな・・・そうしたら、連れのひとが、「半渠」と表現してくださるではないですか。ナイスネーミング!

ちなみに、横を流るる(はずの)残堀川はこうです。のぞきこんだら、カラッカラでした。

このカラッカラ、と、横の半渠のなみなみ、の対比が興味深すぎます。いったいなぜこんなことが・・・?半渠の水は、いったいどこから、どこへ・・・?

もう気になって仕方が無いので、追いかけてみることにしました(トイレ休憩もはさみつつw)。

途中、こうやってコンクリ蓋の終点があって、でもそれを我慢して遡ると、また出現して・・・の繰り返し。しばし黙々歩きます。

昭和記念公園、何度も来ているのに、こんな側溝知らなかった・・・当然といえば当然かもしれないけど。芝生でねころんだり、花見でどんちゃんやったり、それで帰るだけだと、この端っこをひっそり通っている流れには出会えないわけです。

突如、開渠になります。

サイクリングコースのすぐ脇だからでしょうか、とつぜん綺麗に整備されています。今までの、端っこボウボウ未整備地帯からすると、面食らうほどに。

そして、立て札が出現。 「立川分水は、1737年(元文2年)に玉川上水から水を分けました。水道施設が広まったため生活用水に使われることはなくなりましたが、現在も農業用水として利

[229] 羽田の大鳥居 ( 都市伝説 | 羽田 駐車場 神社 鳥居 羽田空港 ) - 実録!!ほんとにあった(と思う)怖い話 - Yahoo!ブログ, , http://blogs.yahoo.co.jp/to7002/36260900.html

穴守稲荷神社は文化元年の頃(1804年頃)、新田を守る堤防に祠を建てたのが始まりと言う事で、江戸時代か

[230] 八王子の廃なもの, , http://www5b.biglobe.ne.jp/~a-uchi/haibutu/index5b.html

中央線の前身である甲武鉄道が新宿〜立川間で開通したのは

八王子誕生のとき、明治22年4月のことです。そしてこの先の八王子に向って多摩川を渡

るために橋脚を造る必要があり、日野宿字下川原、現在の日野警察署北側付近で「日野煉瓦

製造所」が創業しました。

「日野煉瓦製造所」は明治21年から稼動し、そこで造られた煉瓦が橋脚に使われま

した。そして4ヶ月後の明治22年8月に八王子まで開通したのです。もちろん開通当初は

現在の上り線のみの単線で、そこには今でも開通当初の煉瓦橋脚を見ることができます。

ところが「日野煉瓦製造所」は明治23年に創業者の死亡で廃業してしまいました。

そのあとの明治30年になって「八王子煉瓦製造株式会社」

ができたのです。甲武鉄道の八王子〜上野原間は明治34年に開通していますのでその区間

に多く見られる煉瓦構造物(例えば水路や道路を跨ぐ橋、

湯の花トンネル、小仏トンネルなど)はこの工場の製品が

使われたものと勝手に想像しています。(根拠資料はありません)

京王線の八王子駅から上りの電車に乗って何気なく窓の外を見ていると、地上部に出

てすぐの右手に妙な構造物があるのに気づきます。あっという間に通過してしまいますが、

これが「煉瓦工場への引込線」の橋脚なのです。

現在の打越中学校の南で京王線と湯殿川に挟まれた地域に「八王子煉瓦製造株式会社

」が存在したということです。当時の住所では南多摩郡由井村北野ということになっていま

す。

[231] 東京外かく環状道路 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%96%E3%81%8B%E3%81%8F%E7%92%B0%E7%8A%B6%E9%81%93%E8%B7%AF

東京外かく環状道路 (とうきょうがいかくかんじょうどうろ)は、 東京都 大田区 から 埼玉県 を経て 千葉県 市川市 に至る延長約85 km の 道路 である。 首都圏 における高速道路計画 3環状9放射 のうち、3環状道路の一つ(他の2つは 首都高速中央環状線 と 首都圏中央連絡自動車道 (圏央道))であり、 都心 から約15kmの 環状道路 である。

表記については1975年頃から1991年頃までは公文書等で 東京外郭環状道路 と表記されており、この名残で市川市 [1] や東京都 [2] では現在も一部の 都市計画道路 名に「郭」の字を用いている。

東京の周りを取り囲んで、 湾岸線 、 第三京浜 、 東名高速 、 中央道 、 関越道 、 東北道 、 常磐道 、 京葉道路 、 東関東道 を相互に接続する 計画 だが、現在開通しているのは、自動車専用部( 高速道路 )の 大泉JCT から 三郷南IC までの区間と、一般部( 一般道路 )の 和光市 から 松戸市 までと 市川市 内の区間である。供用区間は、自動車専用部は 東京外環自動車道 、一般部の大部分は 国道298号 として供用されている。

「東京外かく環状道路」は高速道路部(自動車専用部)と一般道路部の総称であり、「東京外環自動車道」は高速道路部の路線名である。どちらも 外環 あるいは 外環道 と略称される。

本項目では主に事業中区間・計画中区間について記述する。

概要 [ 編集 ]

首都圏においては、中心部から放射状に伸びる道路に比べてそれらを連結する環状道路の整備が遅れていることが、慢性的渋滞の一因とされ、都市機能の弱点となっている。東京外かく環状道路は、この問題を解決するために計画された道路とされている [3] 。

都市計画道路として決定されたこともあり、下記の都県区間に分けられる [4] 。また、放射方向の道路で分けられることもある [5] 。主たる事業主体は 国土交通省 であり、高速道路は 東日本高速道路 (中央JCT-高谷JCT間)と 中日本高速道路 (東名JCT-中央JCT間)が施工している。

東京区間

関越・東名間�: 2007年4月都市計画(変更)決定。事業中。開通目標2020年度。

東名高速以南�: 調査中。

埼玉区間

大泉JCT-三郷南IC�: 東京外環自動車道・国道298号として開通済。

[232] 横浜駅 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E6%B5%9C%E9%A7%85

横浜駅 (よこはまえき)は、 神奈川県 横浜市 西区 にある、 東日本旅客鉄道 (JR東日本)・ 東京急行電鉄 (東急)・ 京浜急行電鉄 (京急)・ 相模鉄道 (相鉄)・ 横浜市交通局 ( 横浜市営地下鉄 )・ 横浜高速鉄道 の 駅 である [1] 。

JR東日本と京急の駅は 高島 二丁目に [1] [2] 、東急・相鉄・横浜市営地下鉄・横浜高速鉄道の駅は 南幸 一丁目にある [3] [4] [5] 。

概要 [ 編集 ]

横浜市の中心駅であり、JR・私鉄・地下鉄の各線が集まる ターミナル駅 である。当駅には合計6社局が乗り入れており、2015年2月現在 一つの駅に乗り入れる鉄道事業者数としては日本最多となっている 。

現在の横浜駅は三代目であり、初代の「横浜駅」は 桜木町駅 に改称され、二代目の「横浜駅」は現在の横浜市営地下鉄 高島町駅 付近にあったが廃止された。

当駅は工事完成前に構内や駅周辺で次々と工事が行われるため、実質1915年に開業してから2015年2月現在に至るまで、一度も工事計画が完全に完成したことはない。このため、「日本の サグラダ・ファミリア 」と揶揄されている [6] [7] 。ただし、これは横浜駅のみに限った傾向とは必ずしも言えない。現在では駅ビルおよび駅周辺の大規模 再開発 事業が進行中( 2011年 〜 )である(詳細は「 #エキサイトよこはま22(横浜駅周辺大改造計画) 」を参照)。

2008年4月から、当駅に乗り入れている4者と横浜市や市民団体によって、当駅の俯瞰図・構内図・広域図・断面図に 点字 を施した「横浜駅さわる地図バリアフリーマップ」が配布されている [8] 。点字のないPR版もある。

乗り入れ路線 [ 編集 ]

以下の6社局が乗り入れている。JR東日本を除く各社局の駅には 駅番号 が付されているため、その番号も合わせて記す [2] [3] [5] [9] 。

JR東日本 : 各線(後述)

京浜急行電鉄 : 本線 - 駅番号「 KK37 」

東京急行電鉄 : 東横線 - 駅番号「 TY21 」

相模鉄道 - 駅番号「 SO01 」

本線

いずみ野線 (起点は 二俣川駅 であるが、早朝・深夜のごく一部を除く全ての電車が本線を介して当駅発着となっている)

横浜市交通局 : 横浜市営地下鉄ブルーライン - 駅番号「 B20 」

[233] 等々力渓谷公園 - 世田谷区, , http://www.city.setagaya.lg.jp/shisetsu/1217/1271/d00004247.html

こちらは東京都世田谷区のホームページです。音声で読み上げる、サイトマップ、携帯サイト、翻訳ページ、文字サイズを変える、標準、拡大、画面と文字の色を変える、白地に黒、黒地に白、青地に黄色、ふりがな、検索する言葉を入力、検索ボタン、検索方法、もくじ、ホーム、くらしのガイド、お知らせ、イベント、施設、世田谷の魅力、問い合わせ・よくある質問

[234] 等々力渓谷, , http://www3.plala.or.jp/sanpo/todoroki.html

と言う訳で、等々力駅前から今日の目的地 等々力渓谷 まではそれほど広くない通りを右へ左へと折れて行くのですが、この間の道のりは歩道に埋め込まれた石板の道標がサポートしてくれるので、これに従って歩いて行けばOK。

[235] 第一京浜から高輪橋架道橋のトンネルを通る | デフよん, , http://def4.ikt-s.com/takanawabashikadoukyou/

品川駅や目黒方面から芝浦ふ頭方面に行くときに、Google MapやNavitimeで経路を調べると、泉岳寺駅の脇辺りからJRの線路や新幹線を横切って進む道をナビされることがあります。それが 高輪橋架道橋 という聞き慣れない道です。通称で 高輪トンネル とも呼ばれます。

日本一高さ制限(1.5m)が厳しすぎる架道橋ということで有名です。

スマホのgoogle mapでの徒歩経路

あれ?こんな道あったっけ?と思いながら走って泉岳寺駅まで来ても、どこが入口かわかりずらいため、初めての場合は通り過ぎてしまいます。

第一京浜の上り車線を走っていると、確実に見逃します。

Google Mapではこの辺です。

映像では、このように進みました。

第一京浜から一方通行を走る

第一京浜の下りから入ります。 高輪大木戸跡 という信号を越えて、 泉岳寺 の信号までの間にあります。

� 自転車を降りて進むように注意看板があります。しかし、この絵から判断するに歩道を通る場合のようです。車道を走る自転車はどうすればいいのでしょうか?車道の標識から判断すると、自転車通行禁止の標識は見当たりません。

150㎝制限です。下ハン握って走ります。ちょっと怖いです。通ったのを後悔します。

昼12時くらいに通った映像です。下向いてるのであまり上手くとれませんでした。

�帰りは降りて押して歩く

帰りの泉岳寺方面に行くには、 架道橋 は車両進入禁止です。自転車は、降りて押して歩けば歩道を通れます。

自転車は降りて通行しましょう。

歩くと天井の低さがよくわかります。

のんびり歩いて帰りました。

最後にひとこと

ここにJR山手線の新駅が2020年完成予定です。その工事が始まると、この 高輪橋架道橋 は通れなくなる可能性が高いので通るなら今のうちです。

[236] 白丸調整池 | 東京都交通局, , http://www.kotsu.metro.tokyo.jp/other/hatsuden/shiromaru_1.html

電気事業

白丸調整池・白丸調整池ダム

白丸調整池ダムは、東京都西多摩郡奥多摩町にある発電専用のダムです。多摩川第三発電所を建設する際に、多摩川の水をせき止め、下流にある多摩川第三発電所に発電用の水を送るために造られました。また、このダムによってせき止められた調整池が白丸調整池です。

[238] 東京都交通局の発電所1, , http://www.tawatawa.com/densen3/page023.html
[239] 国道357号 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%81%93357%E5%8F%B7

概要 [ 編集 ]

東京湾岸道路 (とうきょうわんがんどうろ)の一般部( 一般道路 )であり、「湾岸道路」という通称でも呼ばれる。東京都内における 都市計画 事業としての名称は東京 都市計画道路 幹線街路東京湾環状線である。自動車専用部として 東関東自動車道 、 首都高速道路 が並走する。 千葉市 、 川崎市 、 横浜市 と3つの 政令指定都市 を結ぶ。

大半の区間が 東京湾 岸の埋立地を貫く経路上に設定されているため、埋立地間の海上を中心に未開通区間が存在する。全線が1本でつながっていないため、一般国道のみで走破することは不可能である。

東京港臨海道路 の開通に伴い交通量の増大が予想されることから、新木場交差点 - 夢の島交差点間で連続立体工事が行われた [1] 。

路線データ [ 編集 ]

一般国道の路線を指定する政令 [2] [注釈 1] に基づく起終点および経過地は次のとおり。

起点�: 千葉市( 中央区 「村田町」 = 国道16号 交点)

終点�: 神奈川県横須賀市(未開通)

重要な経過地�: 習志野市(秋津三丁目)・船橋市(日の出町)・ 市川市 (千鳥町)・浦安市・ 東京都 江戸川区 (臨海町一丁目)・同都江東区(有明二丁目)・同都 港区 (台場)・同都 品川区 (八潮二丁目)・同都大田区(京浜島二丁目)・川崎市(川崎区)・横浜市(磯子区)

路線延長 �: 81.0 km (実延長65.4 km、現道62.3 km) [3] [注釈 2]

千葉県区間: 17.4 km(実延長17.4 km、現道17.4 km)

千葉市区間: 16.8 km(実延長11.2 km、現道11.2 km)

東京都区間: 25.3 km(実延長22.4 km、現道19.3 km、海上距離5.6 km)

神奈川県区間: 1.2 km(実延長- km、現道- km)

横浜市区間: 14.2 km(実延長11.4 km、現道11.4 km)

川崎市区間: 6.1 km(実延長3.0 km、現道3.0 km)

指定区間

千葉市中央区村田町893番229 - 東京都大田区 羽田空港 三丁目1番

川崎市川崎区浮島町516番1 - 同区浮島町525番

川崎市川崎区東扇島23番1 - 横浜市鶴見区扇島7番1

横浜市鶴見区大黒ふ頭15番155 - 横須賀市夏島町1番1 [4] [注釈 3]

路線

[240] 新整備場駅 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%95%B4%E5%82%99%E5%A0%B4%E9%A7%85

駅周辺 [ 編集 ]

各 航空会社 の整備地区であるため、駅周辺に スーパーマーケット や コンビニエンスストア などの商業施設はない。

東京国際空港(羽田空港)

日本航空 格納庫

日本航空第一テクニカルセンター

日本航空第二テクニカルセンター

日本航空安全啓発センター

全日本空輸 格納庫

三愛石油 羽田支社

東京消防庁 蒲田消防署 空港分署

スカイマーク 本社 - 2012年5月に整備場地区から移転。

東京都道311号環状八号線

多摩川 河口

D滑走路展望台(2010年8月31日で一般公開終了)

バス路線 [ 編集 ]

毎時一本、羽田京急バスが路線バスを運行している。空72系統。 この系統はもとは、羽田空港国内線ターミナルと貨物地区を結ぶ、空71系統が前身。 新整備場地区の利便性向上のため、空71系統のうち毎時一本程度を空72系統に変更。 今までの循環経路を延長する形で、新整備場地区まで延伸。 新整備場駅への最寄のバス停は、「東新整備場」または「西新整備場」。 朝夕はYCATから羽田空港へ運行するバスが延長運転し、整備場地区まで運行する。 最寄のバス停は空72と同じく、「東新整備場」または「西新整備場」。 また深夜に羽田空港から整備場地区を経由し羽田京急バス東京営業所まで運行する路線が一便のみ運行される。

隣の駅 [ 編集 ]

東京モノレール

東京モノレール羽田空港線

■ 空港快速・ ■ 区間快速

通過

■ 普通

羽田空港国際線ビル駅 - 新整備場駅 - 羽田空港第1ビル駅

脚注 [ 編集 ]

[241] 水路をゆく・第二運河 富岩運河で遊ぶ…9, , http://suiro.blog27.fc2.com/blog-entry-1609.html

(『 富岩運河で遊ぶ…8 』のつづき) ● 中洲ができた原因は、正横を通過したときに一目でわかりました。小河川が運河の東岸に河口を構え、ほぼ直角に流入していたのです。ガイドさんによれば、「がめ川」とのこと。変わった名前ですが、漢字ではどう書くのか、帰宅後に検索してもわかりませんでした。 カワウ君と鴨さんが、船がすぐそばを通過しても、驚くそぶりも見せずおくつろぎの様子。ここから眺めたかぎりでは、少なくとも表面は砂礫っぽく、泥っ気はありませんでした。がめ川も流速が意外と速いのでしょう。 艀船運河としての処理を徹底するなら、流入河川は伏越(アンダーパス)で立体交差させ、神通川に落とすのが理想的ですが、それができない理由があったのでしょう。あるいはここも、運河竣工時は可航河川として利用されていたのかもしれません。 ● 中洲が水面上に顔を出している面積はわずかでも、浅瀬は大きく流路中央を侵食しているようで、「ふがん」は右側の岸に寄せること寄せること、そのギリギリっぷりは相当なもの。ちなみに、赤い桁橋は国道8号線富山高岡バイパスを渡す、富岩運河橋とそのものズバリの名前。神通川の中島大橋につながっているとのこと。 操舵席後ろから前方を見ても、右舷から顔を出して後方を振り返って(下写真)も、接岸せんばかりに寄せていることが、わかるかと思います。 ● ゴロタ石のある水際が間近に迫り、引き波は浅い岸辺の泥を巻き上げるほど。 水面下に杭か、沈置物でもあるのか、小さなブイが揺れているのも不気味でした。船長のご苦労も大変なものと思います。 ● 水深はその後、たたみかけるように浅くなり、ついには0.61mまで! 想像の斜め上をゆく豪快(?)な河床の上がりぶりに、言葉がありません。 たびたび引用している矢野剛「運河論」(昭和10年4月発行)によれば、「朔望平均干潮面以下水深‥‥水閘の下流に於いては五尺八寸」つまり、中島閘門から下の感潮水域でも、平均干潮面から約1.76mの水深を確保する設計だったとのこと。先ほど下流で見た水深と、ほぼ一致することがわかり、また、がめ川の及ぼす影響が、いかに大きいかも理解できます。 これでは現役だった時代も、定期的な浚渫が欠かせないなど、ネックになっていたのではないでしょうか? どのくらい放置するとここまで堆積が進むのか、ちょっと興味を惹かれるものがありますね。 ●

[258] 東横線・副都心線直通工事(2)渋谷~代官山間(2013年2・3月取材) - Reports for the future ~未来へのレポート~, , http://mirai-report.com/?no=1243

東急東横線・東京メトロ副都心線直通開始に向けた準備の最終レポートの続きです。第2回目の今回は 渋谷~代官山間の地下化区間、代官山駅の切替工事に向けた準備の状況、地下化に合わせて開催される各種イベントの予定 などについてお伝えしてまいります。工事の概要などについては 前回の「(1)新・渋谷駅」の記事 をご覧ください。 ▼関連記事 東急東横線・東京メトロ副都心線直通工事(2013年1月2日取材・地上部分) (2013年1月15日作成) 東急東横線・東京メトロ副都心線直通工事(2012~2013年取材・地下部分) (2013年1月18日作成) 東急東横線・東京メトロ副都心線直通工事(2012~2013年取材)&再開発の現状 (2013年1月19日作成) ■直通・切替準備が完了!(つづき) 渋谷~代官山間地下化工事の概要と副都心線渋谷駅の状況はこちら ●渋谷~代官山間 左:渋谷川に並行する東横線高架橋。トンネルはこの直下にある。 右:山手線の交差部分は軌道の復旧が続いており、徐行がかけられていた。2013年2月9日撮影 ※クリックで拡大 地下化後のシールドトンネルは 並木橋付近から現在線の高架橋直下 に入ります。シールド区間は地上掘削はありませんが、掘進の際沈下などが予想されるため工事に先立つ2009(平成21)年頃に 鋼材や地盤改良などにより高架橋が補強 されています。また、JR山手線の交差部分から先は地上を切り開いてトンネルを建設するため、 線路が鋼材により仮受け されています。トンネル内の工事は完了しており、1月調査時から変化があったのはJR山手線の交差部分のみです。山手線の軌道は 地下の掘削の際橋梁構造に変更 されていましたが、工事が終了したため 元のバラスト軌道に戻す 作業が行われています。2月はじめの調査時は山手線外回りで復元作業が行われており、軌道がまだ安定していないため 45km/hの徐行制限 が設けられていました。 ●代官山駅 2013年3月10日の代官山駅 代官山駅構内でも15日終電後の切替に向けた準備が大詰めを迎えています。3月10日の調査時は ホーム床面に15日切替時の切断位置を示すマーキングが書き込まれた ほか、駅内外を分ける柵も以前より背の低い簡易的なものに交換されました。なお、15日当日は朝から切替工事に向けた準備が行われるため、 ホーム渋

[259] 問屋場・高札跡 高幡山不動尊参道石柱, , http://www.c-hino.org/miru2/page/10oneday/oneday-10.html

問屋場・高札跡

日野宿本陣はす向かいにある白い建物は日野市立日野図書館です。ここに問屋場・高札跡の碑が立っています。このあたりが甲州街道日野宿の中心地でした。

ちなみに、この建物は日野郵便局本局として建てられたものです。

また、新選組ライブラリーが充実している中央図書館はJR中央線豊田駅から徒歩5分の場所にあります。

日野図書館の脇の道を入るとすぐに普門寺の観音堂が見えてきます。そのまま進むと小さな下り坂になっており、そこに日野用水下堰掘が流れています。下堰掘は宿内の家並みがある場所より一段低い所を流れていて、多摩川の堤防が長年の月日をかけて整備されるまでは氾濫原だった所だと思われます。

問屋場・高札跡からしばらくは甲州街道を歩きます 川崎街道交差点にある中島酒店、この店では街道沿いの家並みに特有の短冊状に仕切られた屋敷割を見ることができます。

店の横、駐車場入口を覗くと間口にくらべて奥行きの深い敷地になっているのが良くわかります。林家洋品店はデパートになくてもここにはある、といった品揃いで重宝がられているお店です。

街道に沿った民家の表札を見ていくと、落合、古谷、高木といった旧家が並んでいます。

高幡山不動尊参道石柱

川崎街道の入口に「高幡山不動尊参道」と書かれた石柱が立っています。左側面には地蔵堂、明治17年建立の文字が刻まれています。

この石柱はもともと甲州街道から大昌寺に向う、大門道の入口に立っていたものでしたが、昭和7年、現川崎街道ができたおり、ここに移されました。

[260] ある戦後映像の謎を解く - デイリーポータルZ:@nifty, , http://portal.nifty.com/kiji/151120195105_1.htm

昨年(2014年)の夏、友人のある"推理"を元に、羽田空港近くを探索した。これがものすごく楽しかったので、その話をしたい。

"推理"の元はある動画。ここに映っているのはどこなのか。いつ撮られたものなのか。

そしてぼくは「人の話聞かなきゃいけないな!」と思ったのでした。

[261] 市から立ち退き命令があった横浜ビブレ前のおでん屋台、2016年1月に姿を消すってホント?[はまれぽ.com], , http://hamarepo.com/story.php?page_no=2&story_id=3650&from=

投稿の中から、はまれぽ編集部もキニナルことを調査してお答えします! ぜひ投稿してみてね。(200文字まで)

[262] 戦後から残る鶴見線高架下の住宅の様子は?[はまれぽ.com], , http://hamarepo.com/story.php?page_no=1&story_id=5093&from=http%3A%2F%2Fhamarepo.com%2Ftop.php%3FfromStory%3D5

先日、ベイスターズの試合を観戦していたら、聞き覚えのあるメロディーが流れてきました。横浜市民なら、歌える人が多いという「横浜市歌」です。去年まで聞いたことがなかったと記憶しているのですが、いつから始ま...

となりのリスさん

[263] 戦後から残る鶴見線高架下の住宅の様子は?[はまれぽ.com], , http://hamarepo.com/story.php?page_no=2&story_id=5093&from=http%3A%2F%2Fhamarepo.com%2Ftop.php%3FfromStory%3D5

先日、ベイスターズの試合を観戦していたら、聞き覚えのあるメロディーが流れてきました。横浜市民なら、歌える人が多いという「横浜市歌」です。去年まで聞いたことがなかったと記憶しているのですが、いつから始ま...

となりのリスさん

[264] EU離脱で頭の体操、町田市が東京を“離脱”するとしたらどんな手続が必要? (THE PAGE) - Yahoo!ニュース, , http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160706-00000011-wordleaf-soci

EU離脱の是非を問い、「離脱賛成」が過半数を占めたイギリスの国民投票。このニュースを受けて、ネットでここぞとばかりにネタにされたのが「町田市の東京都離脱」だ。神奈川県に食い込むように存在するその形、市内を走る主要バス「神奈中(神奈川中央交通)バス」の存在、神奈川県相模原市や川崎市と同じ市外局番など、日頃から「神奈川県町田市」と言われてしまう要素に事欠かない町田市だが、本当に「東京都離脱」が実現するようなことはあるのだろうか。

現在の町田市を含む多摩地区の大半は、1871(明治4)年の廃藩置県後、神奈川県に所属していた。その後「東京府」に移管されたのは22年後の1893(明治26)年。東京の水源である多摩川の上流を管理するためという理由だったが、その水源があるのは北多摩郡と西多摩郡で、町田がある南多摩郡まで移管する必要はなかった。

『あなたの知らない神奈川県の歴史』(2012年)によると、南多摩郡も含めた移管には、政治的思惑があったという。北多摩郡・西多摩郡・南多摩郡の「三多摩」で勢力の強かった自由党に手を焼いた当時の神奈川県知事・内海忠勝が、彼らの影響力を削ごうと南多摩を切り離さぬよう主張したのだ。

東京府への移管当時は、甲武鉄道(現JR中央線)の開通で東京への親近感が強まっていた北多摩の住民には移管賛成が多かったものの、西多摩と南多摩では激しい反対運動が起こった。しかし、後に三多摩だけでなく現在の大田区、世田谷区、豊島区、足立区、江戸川区も含めた地域を一つの県とする「武蔵県」構想や三多摩を神奈川県に戻す案、「多摩県」として独立する計画が持ち上がると、東京の経済発展の恩恵を受けていた多摩の住民は、一転して東京からの離脱に反対した。

町田市が市制を施行したのは1958年。以降これまで、河川改修などに合わせて、隣接する神奈川県相模原市や大和市と、何度も境界変更を行っている。相模原市との境界変更は、主に飛び地を解消して生活や土地利用上の不便をなくすためのもので、今後も段階的な実施を予定している。

[265] @nifty:デイリーポータルZ:飛び地のアイデンティティ, , http://portal.nifty.com/2009/04/02/c/4.htm

やっぱり気になる飛び地の理由

やはり飛び地になった理由は気になる。観光センターの人に飛び地になった理由を聞いてみた

「昔このへんは林業が盛んだった。伐採した木材は筏を組んで川に流して下流の和歌山県新宮市に運んでいたため、新宮市との結びつきがとても強かった。なので地理的には奈良県であるにも関わらず、新宮市と同じ和歌山県に!という要望で和歌山県となった。という説が有力だけど実際のところはわからない」

とのことです。実際はわからないとか要望で実際にそうなっちゃうとかアバウトな感じ、人間っぽさを感じるのがとても素敵だと思った。

飛び地の謎も解けた。中身も感じた。後はおばあさんのくれたじゃばらを味わおう。

サンマ寿司の作り方

おばあさんが言っていたようにサンマの寿司と焼酎でいただこう。

この地方でサンマの寿司と言えばお酢で〆て巻いた姿ずしのことだ。地元の人にとってはお寿司屋さんなどで食べるよりも自宅で作って食べるほうが多い。ということで僕のおばあちゃんに作ってもらった。

[266] 国有地を60年間も不法占拠…”立ち退き危機”の京都の集落を直撃した(1ページ目) - デイリーニュースオンライン, , http://dailynewsonline.jp/article/1119046/

京都市北区衣笠開キ町にある砂防ダム内の、不法占拠集落が立ち退きの危機にあるという。砂防ダムとは、川の土砂を貯めることが目的の設備である。貯水機能はない。普段は小さな渓流が流れていて、その周りは河川敷になっている場合が多い。

■突然の退去勧告に戸惑う住民たち

実際に現地に足を運んでみる。河川敷にぽつぽつと家が建てられている様子を想像していったのだが、実際には隙間なく家が建てられていた。

床はコンクリートで固められているし、鉄製の丈夫な橋もかかっている。一時しのぎに作られた集落ではなく、しっかりと、地に足をつけて住んでいる印象を受けた。住み始めて60年以上経っているため、老朽化が進んだ家屋も多い。

河川管理者の許可のない不法占拠集落だったが、去年から急に管理が厳しくなった。建物には、警告の貼り紙が貼られていた。「河川管理上、支障があるので所有者は平成28年3月25日(金)までに以下へ連絡の上、工作物を撤去し現状に回復してください」

取材の時にはすでに、期日を過ぎていたが、撤去する気配はなかった。実際に取り壊された建物もあったが、行政代執行だった。

貼り紙には「ここに建設されていた廃屋は、荒廃が進み増水時に下流へ流出し、災害の原因となるおそれがあるなど、河川管理上、支障があったため京都府が平成28年2月10日に工作物を撤去しました」と書いてあった。数百万円をかけての作業だったという。

「突然の退去勧告に戸惑っている住人が多い。何十年も何も言わなかったのに、いきなり出ていけはひどい。生存権の侵害にあたるのではないか?」

と語る人もいた。

「東京オリンピックに伴う規制の強化ではないか?」

「韓国や北朝鮮との関係悪化から、主な住人である在日コリアンに圧力をかけている」

という説もあった。

ただ、実際には防災の意味合いが強いらしい。昨今、気象の変化が著しく、大きな水害が毎年のように起きるようになった。事実、2012年には、衣笠開キ町も水害があり被害があった。

川沿いには、突っ張り棒で強引に土台を作っている場所も多く、いざ大水が来た時には、簡単に壊れて、そのまま下流に流されて事故になる可能性は高い。

今まで、京都市は「立ち退き命令」を出すことにより住人から反発を食らうことを恐れていたが、それよりも大きな水害が発生した際に世論から「今まで何もしてこなかった罪」を問われる方が厄介だと

[267] 川崎の用水に所有者不明の橋 老朽化、市が対応苦慮:朝日新聞デジタル, , http://www.asahi.com/articles/ASK394T83K39ULOB00V.html

川崎市高津区の二ケ領(にかりょう)用水に、所有者不明の橋が架かっている。人や車も通れるが、老朽化が進み、市議からは安全性を疑問視する意見も出た。指摘を受けて、市は橋の一部を柵で囲い、車両通行止めに。ただ、「なくては困る」といった地域住民の声もあり、市は「今後、対応を検討する」と苦慮している。

「これがないと近くのバス停に行くのに大回りしないといけない」。10日夜、橋を渡って帰宅中の女性(82)はそう話した。市によると、橋は幅5・6メートル、長さ5・9メートル。表面はコンクリートで覆われている。

9日の市議会で指摘され、市は10日までに、人や自転車が通れるよう幅1・5メートルほどを残して柵で囲い、車両通行止めの看板を出した。問題を取りあげたのは中原区選出の松原成文市議(自民)。橋は高津、中原両区の境付近にあり、中原区民から「危ないので改善してほしい」と伝えられ、見に行ったという。

複数の住民によると、橋は「ずっと前からあるが、誰が造ったのかは分からない」。市にも許可した記録はなく、所有者や架けられた時期も不明という。

二ケ領用水は農業用水として江戸時代初期に設けられた。多摩川から取水し、橋が見つかった高津区からは最下流の幸区まで9キロ。住宅街を縫うように流れており、ところどころに同じような橋がある。

地域住民によると、問題の橋が…

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