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“鍾乳洞と巨樹の神秘の里・おくたま にっぱら”
日原の観光案内のサイトに出ているスローガンである。
東京都西多摩郡奥多摩町にある集落のひとつ「日原(にっぱら)」は、只でさえ山深い奥多摩町の更に奥地に位置している
人口こそ500人に満たない集落だが、この日原集落のもつ役割は大きい。
第一に、奥多摩の主要な観光地としての役割を持っている。集落の中心から凡そ2kmほど谷の上流へ進んだ所にある「日原鍾乳洞」は、
昔は信仰地として、いまはレジャースポットとして多くの人を集めている。
そして第二に、この附近の山々に多量に含まれている石灰岩の存在だ。
時は戦後、コンクリートの需要は増える一方であった。
そんな時、日原で石灰が採れることが判明。その後あっという間に、日原は一大採取地と化した。
山は削られ、かつて村人たちが崇め畏れていた「とぼう岩」という大岩も、セメントの山となって消えた。
今もなお、日原の山は削られ続け、街ではビルが建設されている。
ここで、日原の交通の沿革を説明したいと思う。
日原の歴史は古く、室町時代頃に「原島家」によって拓かれたという。(余談:現在も日原集落を始めとする奥多摩町には「原島」姓が多い)
だが、原島家が日原にやってきたルートは現在の日原川を遡るルートではなく、北方の秩父より標高1500mを超える山々
(現在長沢背稜と呼ばれる尾根)を越えて、日原へ至るものであった。
では何故多摩川の支流にありながら、多摩川からでなく秩父方面から開拓の手が伸びたのか?
これは私の推測だが、おそらくその理由は、多摩川と日原集落を結ぶ日原川の急峻さにあると思う。
日原川は雲取山を源に発し、奥多摩町の氷川集落で多摩川と合流するまで、ほぼ全ての区間でV字谷を作っている。
なかでも日原付近はとりわけ急峻であり、恐らく何万年もかけて作られたであろうU字谷(両側が断崖)まで存在する。
そのU字谷(この両岸に聳える岩を、人々は「とぼう岩」と呼んだ)を、当時の人々は越える事が出来なかったのであろう。
ともかく、室町時代に日原集落は拓かれた。
やはり山を越え秩父へと向かうルートは遠すぎたのだろう、直ぐに下流の氷川へと向かう道が造られた。
ただやはり「とぼう岩」は超えられな