北陸自動車道

北陸自動車道

[1] 北陸自動車道

Webページ

[2] 関越自動車道 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E8%B6%8A%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A%E9%81%93

練馬ICから本庄児玉ICまで 国道254号 、本庄児玉ICから長岡JCTは 国道17号 がほぼ並行している。

三国山脈 を貫いて東京と新潟県を結ぶ高速道路であり、 上越新幹線 とともに 首都圏 と 日本海側 を結ぶ高速交通網として重要な機能を持つ。また、 藤岡JCT から 上信越自動車道 (関越自動車道上越線)が分岐しており、首都圏と長野県 北信地方 ・ 東信地方 を結ぶ高速交通網の一部でもある。

日本有数の 豪雪地帯 を貫いており、沿線( 上越 エリア)には多くの スキー場 が 存在 し、首都圏とこれらのスキー場を結ぶ高速道路である。このため、 冬期 に通行困難となる並行一般道救済のために追加設置されたICが多い。また、首都圏の 放射方向 の高速自動車国道の中では唯一、 首都高速道路 との直接接続がないため、近年 東京外環自動車道 などと接続されるまでは、特に冬季の練馬ICにおける大 渋滞 が慢性化していた [2] 。

水上IC - 湯沢IC には、 道路トンネル として国内第2位の長さの 関越トンネル がある。

路線名・道路名 [ 編集 ]

高速自動車国道 の路線名としての 関越自動車道 は、東京都を起点に 群馬県 藤岡市 で分岐し 新潟県 新潟市 および 上越市 に至る以下の2つの路線からなる。

路線名

起点

重要な経過地

終点

新潟線

[3] 北陸自動車道に居座ったクマ 猟友会が駆除 | NHKニュース, , http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161105/k10010757201000.html?utm_int=all_side_ranking-access_002

5日午後、新潟県糸魚川市の北陸自動車道の下り線にクマが1頭現れ、道路脇のスペースに入り込んでその場にとどまり続けたあと、夜になって猟友会に駆除されました。この影響で北陸自動車道の下り線は、現場付近でおよそ5時間にわたって通行止めになりました。

[4] 舞鶴若狭自動車道 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%9E%E9%B6%B4%E8%8B%A5%E7%8B%AD%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A%E9%81%93

SA・PA[編集]

売店は西紀SA、六人部PAに設置されている。24時間営業は西紀SAのみ。ガソリンスタンド、レストランは西紀SAのみに設置されており、深夜営業はしていない。

ハイウェイオアシス[編集]

三方五湖PAは、三方五湖のひとつ三方湖近くで整備されており、これに併設するハイウェイオアシスも整備中。

主な構造物[編集]

橋梁[編集]

丹南武庫川橋(三田西IC - 丹南篠山口IC)

由良川橋(福知山IC - 綾部IC)

トンネル[編集]

三田西IC - 丹南篠山口IC

藍本トンネル

丹南第一トンネル

丹南第二トンネル

西紀SA - 春日IC/JCT

丹波第一トンネル - 全長2,361m。当道では延長が一番長い。

春日IC/JCT - 六人部PA

日ヶ奥トンネル

丹波第二トンネル - 1,438m

福知山IC - 綾部IC

私市円山(きさいちまるやま)トンネル

工事中の1988年(昭和63年)に私市円山古墳が出土したため、当初の切土工法をトンネルに変更した[6][7]。

私市トンネル

綾部IC - 綾部JCT

小呂トンネル

綾部PA - 舞鶴西IC

黒谷真倉(くろたにまぐら)トンネル

全長2,200m。京都府綾部市と舞鶴市の間に位置する。当道では延長が2番目に長い。

供用時より対面通行(暫定2車線)による供用となっている。なお、1999年(平成11年)に4車線化事業が着手され下りトンネルが建設中だが、のちに予算執行が停止されたため工事が休止されていた。

無料化社会実験開始後は休日を中心に渋滞が発生しやすく、全国の実験区間の中で休日の渋滞発生回数上位10位以内に入っている[8]。

舞鶴西IC - 舞鶴東IC

行永トンネル

木ノ下(きのした)トンネル

全長295m。京都府舞鶴市に位置し、舞鶴養老山を貫いている。当道の小浜延伸までは、旧舞鶴道で最も終端にあるトンネルだった。

供用時より対面通行(暫定2車線)による供用となっている。なお、4車線化は事業化されていないが、用地買収などは終了[要出典]している。

舞鶴PA - 大飯高浜IC

三国岳(みくにだけ)トンネル

全長1,816m。京都府舞鶴市と福井県大飯郡高浜町の間に位置しており、丹波・丹後・若狭の三国の境に聳える三国岳の直下を貫通する。

供用時より対面通行(暫定2車線)による供用となっている。なお、4車線化は事業化

[5] 親不知 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E4%B8%8D%E7%9F%A5

概要[編集]

飛騨山脈(北アルプス)の日本海側の端に当たる。新潟県糸魚川市、JR北陸本線の青海駅から市振駅の間に位置する。断崖は飛騨山脈の北端が日本海によって侵食されたために生まれたものである。

親不知駅がある歌(うた)の集落を中心に、西の市振(いちぶり)地区までが親不知、東の勝山(かつやま)地区までが子不知(こしらず)と呼ばれており、併せて親不知子不知とも呼ばれる。市振から勝山までは約15km程の距離である。

越後国と越中国の間を往来する旅人は、この断崖を海岸線に沿って進まねばならず、古くから北陸道(越路)最大の難所として知られてきた。

難工事の末に国道8号と北陸自動車道が開通し、当地における3代に亙る道路の変遷を見ることができる。北陸自動車道は親不知IC付近を海上高架橋により通過しており、難所におけるルート選定の苦労を偲ぶことができる。一方で、高速道から海岸美を堪能することもでき、景勝地となっている。

親不知から南には飛騨山脈が延びているが、親不知近辺は雷鳥の飛来地としても有名である。親不知・飛騨山脈を挟んで西側に位置する富山県と、飛騨山脈で富山県と向かい合う長野県が、県の鳥を雷鳥としている。

親不知と同様の断崖は、太平洋側にも存在し、静岡市清水区の由比地区にある薩埵峠と、静岡市と焼津市の境界に位置する大崩海岸がそれに当たる。旧由比町の薩埵峠を通過する国道1号と東名高速道路も難工事の末に開通しており、この付近の東名高速道路も海上を通っている。

名称の由来[編集]

「親不知」の名称の由来は幾つの説がある。一説では、断崖と波が険しいため、親は子を、子は親を省みることができない程に険しい道であることから、とされている[1]。また、以下のような伝承もある。

壇ノ浦の戦い後に助命された平頼盛は越後国蒲原郡五百刈村(現在の新潟県長岡市)で落人として暮らしていた。このことを聞きつけた奥方は、京都から越後国を目指して、この難所に差し掛かった。しかし、難所を越える際に、連れていた子供が波にさらわれてしまった。その時、次の歌を詠んだ。

親知らず、子はこの浦の波枕、越路の磯の泡と消え行く

以後、その子供がさらわれた浦を「親不知」と呼ぶようになった[1]。

これらの伝承を基にしたものに、合唱曲『親しらず子しらず』(山本和夫作詞、岩河三郎作曲)がある[2]。

ギャラリー[編集]

[6] 高速道路にクマ居座り通行止め 新潟 糸魚川 | NHKニュース, , http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161105/k10010757111000.html?utm_int=news_contents_news-main_005

5日午後、新潟県糸魚川市の北陸自動車道の下り線にクマが1頭現れ、道路脇のスペースに入り込んだまま、その場にとどまっています。この影響で、北陸自動車道は現場付近で通行止めとなっていて警察は地元の猟友会とともにクマを駆除するかどうか検討しています。

[7] 国道360号 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%81%93360%E5%8F%B7

概要[編集]

路線データ[編集]

一般国道の路線を指定する政令[1][注釈 1]に基づく起終点および経過地は次のとおり。

起点 : 富山市(城址公園前交差点 = 富山県道44号富山高岡線(旧国道8号)交点)

終点 : 小松市(浮柳町、空港西口交差点 = 国道8号交点、国道352号起点)

重要な経過地 : 富山県婦負郡細入村[注釈 2]、岐阜県吉城郡河合村[注釈 3]、同県大野村白川村[注釈 4]、石川県石川郡尾口村[注釈 5]、同郡吉野谷村[注釈 5]

路線延長 :144.7 km(実延長91.4 km、現道91.3 km)[2][注釈 6]

富山県区間 : 57.8 km(実延長4.7 km、現道4.7 km)

石川県区間 : 30.6 km(実延長30.4 km、現道30.4 km)

岐阜県区間 : 56.3 km(実延長56.3 km、現道56.1 km)

指定区間 : なし[3][注釈 7]

道路の改築事業として富山県富山市から岐阜県飛騨市にかけて丸山バイパス、種蔵・打保バイパス、宮川細入道路、細入バイパスが建設され種蔵・打保バイパスの一部区間を除き既に供用を開始している[4]。種蔵・打保バイパスの未開通区間は岐阜県の財政状況が厳しい為完成まで長期間を要する見込みである[5]。

終点の石川県小松市浮柳町の空港西口交差点は他の一般国道とは接続していない終点ではあるが、石川県小松市園町(園町交差点)からの区間は港国道ではない。

歴史[編集]

1975年(昭和50年)4月1日:一般国道360号(富山県富山市 - 岐阜県大野郡白川村)として指定。

1993年(平成5年)4月1日:終点を石川県小松市まで延長。

2000年(平成12年)8月28日:宮川細入道路と細入バイパスとにまたがる一区間(富山市加賀沢 - 飛騨市宮川町小豆沢)が開通。

2005年(平成17年)4月8日:種蔵・打保バイパスの一区間(飛騨市宮川町種蔵字ヤソゼ - 同大瀬)開通。

2005年(平成17年)4月26日:鮎飛トンネル貫通。

2008年(平成20年)2月29日:宮川細入道路二工区(飛騨市宮川町小豆沢 - 飛騨市宮川町祢宜ヶ沢上)開通。

2008年(平成20年)4月1日:小松市立高校前交差点 - 空港西交差点(終点)の区間を国道360号に指定。従来の小松市立高校前交差点 - 沖町交差点(終点)は、

[8] こえど越, , http://www.geocities.jp/wellon2/tohge/tohge_3k/koedo/koedo.htm

こえど越 (撮影

2003. 8.12)

手前が新潟県糸魚川市(いといがわし)吹原(ふきはら)

奧が同県能生町(のうまち)島道(しまみち)

標高は約635m(国土地理院の地形図から読み取る)

道は林道入山吹原線

地図を広く眺めると、新潟県の上越市辺りから日本海に近い所を通って、西の富山県方面へ抜けようとすると、これはもう海岸沿いの北陸道・国道8号を走る以外には、ほとんど手がないことが分かる。それは、北アルプスの峻険な峰が日本海の間際まで押し寄せ、天険親不知が形成されていることに代表される様に、新潟西部の海岸沿いでは、海の近くまで山がちな為に、内陸を繋ぐ経路が発達し難いことが原因の一つになっているように思われる。

すると、旅が詰まらない。2、3回程度なら国道8号を走るのも、それはそれで面白いことだが、何度も同じことを繰り返していては能がない。そこで、わざわざ上越市の南にある新井市から、南葉山林道(仮称:南葉山峠)を通って名立町に抜けてみたり、親不知の南を大平峠で越えてみたりと、いろいろ抵抗を試みるのであった。この「こえど越」もそんな試みの一つとして越えようと思った峠である。

地図をよくよく見ると、糸魚川市と能生町との山の中を、辛うじて車道が一本通じていた。ご愛用のツーリングマップルでは、こんな細々とした道も、お薦め道路として掲載されているのが嬉しい。市町境は峠になっているようだが、峠名が記されていなかったのは残念である。それでも、交通量の多い国道8号を離れ、趣味としている峠道も楽しめるとあっては、行かない訳にはいかない。4年前(2000年6月)に機会を得て、糸魚川市から峠に向かったが、その時は通行止であえなく退散となった。それからは何とか越えたいものだと思いつつ、やっと去年(2003年8月)に越えることができたのだった。

<国道8号からの分岐>

今回の峠の旅は、旅程の関係から能生町から始めることになった。まずは国道8号より分かれて、県道246号・西飛山能生線に入ることになる。名立町の方から国道を走って来て、そろそろ県道分岐と思っていたら、道路標識には「県道88号」と出ているではないか。これはおかしいと思いつつも、能生町役場方面であるので、半信半疑ながらその分岐に入った。

ちょっとしたパニック状態なので、ひとまず車を路肩に寄せて停め、様子を見ることにした。窓の外は生憎の

[9] 道路レポート 福井県道209号五幡新保停車場線, , http://yamaiga.com/road/fpr209/main3.html

2015/9/14 16:15 【現在地】

起点から約1.6km、配水池からはおおよそ200m、峠までは残り500mまで迫ったところ。

序盤の状況や、地図上の破線という表記具合を見れば、ここまで予想以上に頑張ってくれたとは思う。だが、ついにここで軽トラですらも通行を躊躇うような状況が現れてしまった。

大きく崩れている訳では無いので、どうしても通行したいという人ならば、多少の地均し作業をして先に行けると思うが、この直前で全ての軽トラの轍が途絶えており、そこまでして通っている車も無いようである。

もちろん、オフロードバイクとかなら、まだ問題は無い。

だが、一応は供用済みの県道を、県道として評価するなら、やはり乗用車程度は通れなければ、「通行可」と言うことは出来ないだろう。

不整地に強い特定の車種(自転車含む)や徒歩で通れるだけでは、廃道状態だと言われてもやむを得ない。

轍が途絶えたこの地点がどういう場所なのかと言えば、山間部に入ってから今までずっと道の右側にあった小さな沢を渡って、これからは左側に谷を見るようになる遷移の地点である。

とはいえ、地形図に水線が表現されていないほどの小さな沢の源流付近であり、渡るといっても橋はおろか暗渠さえないのだ。

ただ無造作に交差するだけで事足りているのだが、稀には出水があるせいで、この場所の路面が特に荒れているのだろう。

また、もしかしたら昔はこの場所にも狭い水田があったのかも知れない。

なぜかここだけ木が生えておらず、小さな草地が広がっていた。

今までとは反対に右山左谷となった道は、廃道と断言するほど悪くはないが、さりとて現役と言うにも心許ない微妙な荒れ方&草むし方で、続いていた。

序盤と明らかに違っているのは、かなりの急坂であるという事だ。

私は今日ここまでの長い走行で、もう出尽くしたのではないかというくらい汗を掻いており、夕暮れ近いこの時間になって、ようやく暑さと一緒に発汗も落ち着いていたのであるが、風の全くない鬱蒼とした谷をほとんど直登するに等しい急坂にしごかれては、たちまちのうちに汗を吹き出すのもやむを得ないことだった。

まあ、夏の峠越えをしているのだから、汗が出ない方が不健全だよな。

あと数百メートルで峠のはず。

辿り着きさえすれば、あとはもう自動的に休憩時間となる。それでも旅を進められるのは、

[10] 日本海夕日ライン - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B5%B7%E5%A4%95%E6%97%A5%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3

[編集] 概要

新潟県の海岸線を南北に縦貫する、延長約337kmの道路で、新潟県が観光振興を目的に指定したものである。国道や県道・市道の他、臨港道路も含まれる。

この「日本海夕日ライン」のうち、村上市から山形県鶴岡市温海地区(かつての温海町)のあつみ温泉に至る区間は、国土交通省北陸地方整備局が「日本風景街道プロジェクト」の一環として、観光など地域活性化を目的に両県・両市などと共同で、2007年秋に「北陸風景街道」に指定している。なお、両市間の風景街道としての愛称は「日本海パークライン」である。

なお、日本海東北自動車道沿線にあたる新潟県と山形県、秋田県、青森県の4県と沿線各市町村などによって構成され、同自動車道の早期全線開通と行政・経済での交流強化などを図る組織として1988年(昭和63年)に結成された組織は「日本海夕陽ラインネットワーク協議会」という名称であるが、この「日本海夕日ライン」とは直接的な関係は無い。

[編集] 構成される道路

国道7号 伊呉野(村上市・山形県境) - 勝木交差点(村上市)

国道345号 勝木交差点 - 笹川流れ - 瀬波上町交差点(村上市)

村上市道瀬波1号線 瀬波上町交差点 - 瀬波海岸なぎさ通り - 瀬波温泉丁字路(村上市)

新潟県道3号新潟新発田村上線 瀬波温泉丁字路 - 岩船三日町交差点(村上市)

岩船港臨港道路岩船港線 岩船三日町交差点 - 上ノ山交差点(村上市)

国道345号 上ノ山交差点 - 桃崎浜交差点(胎内市)

国道113号 桃崎浜交差点 - 白勢町交差点(新潟市北区) - 平和町交差点(新潟市東区)

新潟港臨港道路入舟臨港線 平和町交差点 - 新潟みなとトンネル(新潟市中央区)

新潟市道中央3-176号、新潟市道中央1-186号ほか(海岸道路) みなとトンネル西詰交差点 - 水族館前丁字路 - 新潟青陵大学前交差点(新潟市中央区)

新潟市道寄居浜線1号、新潟市道関屋浜松町浜浦町線ほか 新潟青陵大学前交差点 - 新潟大堰橋・浜浦橋東詰(新潟市中央区)

国道402号(新潟海岸バイパス) 浜浦橋 - 青山海岸・小針浜 (新潟市西区)- 五十嵐三ノ町(新潟市西区)

国道402号 五十嵐三ノ町 - 越前浜(新潟市西蒲区) - 角田浜(新潟市西蒲区)

国道402号(越後七浦シーサイドライン) 角田浜 - 間瀬田ノ浦 - 寺泊野積

[11] 黒部川 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E9%83%A8%E5%B7%9D

地理[編集]

富山県と長野県の境、北アルプスの鷲羽岳(わしばだけ)に源を発し、おおむね北へと流れる。川全体の8割は深い山地を穿ちながら流れ、黒部峡谷と呼ばれる。黒部市宇奈月町愛本橋付近で山地を抜け、広さ1.2万haの黒部川扇状地[1][2]を流れる。この扇状地は黒部市、入善町にかけて広がり、その地形は海中にまで広がっている。黒部川の豊富な水量でこの扇状地は湧き水が多く、黒部川扇状地湧水群として名水百選のひとつにも選ばれている。本流は河口付近では黒部市と入善町の境界となり、日本海へと注ぐ。

自然[編集]

河口周辺は富山県指定の「黒部川河口鳥獣保護区」として鳥獣保護区に指定されている。連携排砂後、水質汚濁があったが国土交通省による2006年の水質調査結果により8年ぶりに水質日本一に返り咲いた。

歴史[編集]

江戸時代この地を領した前田氏は、防衛と技術上の問題から越中東部の常願寺川、早月川、片貝川、黒部川に橋を架けなかったが、黒部川に橋がないことはあまりにも不便なため、寛永3年(1626年)に北陸街道を大きく上流に迂回した愛本の地に初めて橋を架けた。しかし氾濫の度に流失を繰り返したために、前田綱紀は寛文2年(1662年)に橋脚がない全長63mもの刎橋を作らせた。この愛本刎橋は日本三奇橋の一つに数えられたという。

利水[編集]

「黒部川#関西電力の発電所」も参照

黒部川は水量が多く高低差もあるため、水力発電に有利な条件を備えており、大正時代には日本電力(現在の関西電力)による水力電源開発が始められた。特に上流部では急峻な山岳地帯を舞台にして、壮絶とも言える工事が行なわれている。なかでも黒部ダムや黒部川第四発電所、関電トンネルといった通称「くろよん」と呼ばれる電源開発事業は最も有名であるが、その他にも戦前期の黒部川第三発電所の建設工事では「くろよん」を上回る犠牲者を出しているなど、黒部川の電源開発は多くの人命を失い、多大な労力を払いながらの事業となった。

一方、下流の扇状地でも、大正時代より灌漑用水などを活用した発電所建設が進み、全国でも珍しい低落差発電が行なわれている。

河川施設[編集]

ダム[編集]

宇奈月ダム

出し平ダム

小屋平ダム

仙人谷ダム

黒部ダム

連携排砂[編集]

「連携排砂」も参照

黒部川上流部は土砂崩壊の激しい地域であるため、土砂が予想を上回る勢いで各ダムに

[12] 奥只見ダム - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%8F%AA%E8%A6%8B%E3%83%80%E3%83%A0

奥只見ダム(おくただみダム)は、福島県南会津郡檜枝岐村と新潟県魚沼市に跨る、一級河川・阿賀野川水系只見川最上流部に建設されたダムである。

電源開発株式会社が管理する発電用ダム。型式は重力式コンクリートダム、堤高は157.0mでダム堤高では日本で第5位(2009年現在)の高さであり日本一高い重力式コンクリートダムでもある。ダムによって出来た人造湖・奥只見湖(銀山湖)は湛水面積 (1,150ha) が日本では3番目に広く(2009年現在)、総貯水容量 (601,000,000m³) は第2位(2009年現在)の人造湖である(総貯水容量第1位は2007年に完成した揖斐川の徳山ダム (660,000,000m³) )。越後三山只見国定公園に指定されている。

沿革[編集]

只見川電源開発計画[編集]

尾瀬沼を源に阿賀野川に注ぐ只見川は、有数の豪雪地帯でありかつその流域のほとんどを山地で占めている。この為水量が通年豊富で急流であることから、古くより水力発電の適地として既に明治時代より電源開発計画が為されていた。只見川の総合的な電源開発は1936年より実施された「第3次発電水力調査」に基づき当時の逓信省から発案され、その後日本発送電株式会社によって只見川から阿賀野川まで階段式にダム式発電所を建設する計画が進められるようになった。だが新潟県も豊富な只見川の水を利用したいとして「只見川分流案」を呈示、更に旧東京電燈を母体とする日本発送電関東支社は尾瀬沼をダム化(尾瀬原ダム計画)して利根川分水する「尾瀬分水案」を企画し調整がつかぬまま戦争により事業は一時中断した。

戦後、荒廃した国土を復興するために電源開発の重要性が一段と高まったが、既に只見川では1947年に「只見川筋水力開発計画概要」が日本発送電によって纏められている。内容は戦前の案と同様で只見川に11か所、阿賀野川に6か所、伊南川に3か所、大津岐川に1か所の水力発電所・ダムを建設するものでありこの中で奥只見ダムは堤高150.0m、総貯水容量580,000,000m³、認可出力385,000kWのダム式発電所として計画されている。この案での開発が行われると当時開発可能な発電水力は推定1,960,000kWであり、東北地方の当時計画されていた発電水力の4分の3を占める一大電源開発地帯となることから俄然只見川への注目が集まった。

195

[13] 国道8号 親不知旧道 1, , http://d-road.sytes.net/r.php/road/r8_oyashirazu/1

「天下の嶮」といったら、皆どこを思うだろうか。

ある人は箱根を挙げるかもしれない。またある人は碓氷を選ぶだろう。

だが、多くの人はこう言うはずだ。

それは「親不知」である、と───

親不知は新潟-富山県境からやや新潟よりにある、古来から北陸道(現在の国道8号)の難所として知られる区間だ。

この地は北アルプスの山塊が直接海に落ち込む地であり、少し内陸に入れば1000メートルを越す山々が聳え立つ。

その山塊は日本海の怒涛に削られ、海岸には天を突かんばかりの大絶壁が形成された。

通常、このような交通に適さない海岸線は迂回され、山越えの道が取られるものである。

しかしながら、あまりにも急峻かつ複雑な地形を誇る北アルプスの山々は、徒歩の往来を拒んだ。

人々は、絶壁の足元に残されたわずかな磯を頼りに、波飛沫をかいくぐってまさに死地を駆け抜けたのである。

その雷名は天下に轟き、遠く離れた私の故郷、北海道にすらも「蝦夷親不知」という地名が残されるほどであるから、その無二なる嶮路ぶりが窺えよう。

現在の国道8号、特に親不知付近の道は、古代律令制の時代にまでその歴史を遡る事ができる。

大和、奈良、そして京へと通じる物流の道として、当時はおそらく今以上に重要な街道であった。

戦乱の世には上杉謙信を初めとした数々の武将達が大軍を率いてこの地を渡っており、その様は「乱世の廊下」とも称される。

時代が江戸に下っても、以前京との往来、そして北陸諸藩における参勤交代の道として、重要性は増すばかりであった。

その一方で、他の主要街道が整備されていく中、絶壁の下のわずかな磯という物理的に手のつけようがない親不知の区間はほとんど改築もできず、

律令の時代とほとんど変わらない、道ともいえぬ道であったという。

そんな場所にようやく道らしい道が造られたのは明治になってからである。

明治9年に国道、県道、里道の制度が確立し、親不知を含む北陸道は国道三等となり、道幅は二間半(約4.5m)とされた。

待望の道路整備に住民の期待は膨らんでいったが、さらにこれに火をつけたのが明治11年の明治天皇北陸巡幸である。

先にお伝えしたとおり、明治天皇の北陸巡幸は長岡街道、

曽地峠といった、その後の国道8号の運命を決定付ける大きな意味を持っていたが、ここ親不知でも同様であった。

しかしなが

[16] , , http://www1.ocn.ne.jp/~tujitani/oomakionnsenn.htm

好きで〜す! 富山が・・・温泉が・・・ 紹介していま〜す! 富山 温泉

浪漫

富 山 県 南 砺 市 利 賀 村 0763−82−0363

大 牧 温 泉

《ナトリウム・カルシウムー塩化物泉・硫黄塩泉》

船でしか行けない 秘境の一軒宿

富山より北陸自動車道を西進、砺波IC降り右折

国道156号線太郎丸交差点を右折南進五箇山方向へ

国道156号4車線道路より2車線道路の旧庄川町へ

岩屋交差点左へ156号線直進

レストラン・書店コンビに等ある示野交差点過ぎ

まもなく庄川が左車窓に見える

小さいトンネル過ぎ利

賀村へ向かう国道471号交差点直進

小牧ダムが左前方に見え

トンネルを潜ると

大牧温泉に向かう庄川遊覧船上船場駐車場に着く

大牧温泉はこの遊覧舟で行くしか手段がないので

この駐車場で車を置き乗船する

時刻表・乗船料金

大牧温泉

〒 932−0371

富山県南砺市利賀村大牧44

0763−82−0363

Fax 0763−82−0933

http://www.oomaki.jp/

宿 泊 旅 館

日帰り宴会可能

日帰り入浴のみ不可

泉源 大牧温泉

・ナトリウム・カルシウム・塩化物泉・硫黄塩泉

・泉温 58℃ PH 8.14

・成分

陽イオン

NA 920mg

CA 482mg

Sr 10mg

陰イオン

H2So4 651mg

Cl 1844mg

F 5mg

メタケイ酸 60mg

メタホウ酸 60mg

・効能

泉質別適応

切り傷・やけど・慢性皮膚病・慢性婦人病

動脈硬化症

日本の秘湯大牧温泉

私が始めて大牧温泉に行ったのは、何と今から60年近い前、小学校確か2年生の頃遠足で行った記憶がある。

その頃は、親子の遠足で私は祖母と一緒に行った。

勿論今の様にダム湖を遊覧船に乗って行った。露天風呂もあり数人の友達が入って後日先生に叱られた覚えがある。

私は入らなかったけど。

今は富山から高速自動車道では砺波ICで降り、国道156号線を五箇山方向へ約2〜30分で庄川遊覧船小牧乗船所駐車場に着く。

現在では道も良くなり156号線も庄川町まで4車線で早くなったが昔はどの道を通って行ったか全く記憶に

[17] 富山県 庄川温泉郷 大牧温泉旅館 : …風露愚… 温泉宿と日帰り温泉巡り, , http://blog.livedoor.jp/kamiyako09/archives/50374174.html

休日を利用した温泉巡りの日記となっています。 「日本秘湯を守る会」会員宿全制覇を目標とし、温泉地での宿泊時の様子や日帰り入浴施設‥そして地元に根付く共同浴場、更に温泉後に立ち寄った食事処等をアップして行けたらと思っています。

【富山県 庄川温泉郷「大牧温泉旅館」】 URL  宿泊 【photo】男性内湯・露天風呂・女性内湯・(中浴場・大浴場) 庄川湯谷温泉」での立ち寄りをし、小牧発2時30分遊覧船乗船、ここから30分の庄川遊覧となります。 立ち寄り湯のみのお願いをされる方も多いそうですが、大牧温泉さんは「昼食付日帰り入浴」(要予約)と宿泊のみの受付となっています。 今から800年程前、砺波山の合戦に敗れた平家の微笑が源氏の追撃を逃れる際に発見し刀傷を癒したのが始まりと言われる温泉地は、 かつて、この峡谷にも村落があり、村人の湯治場として宿を営んでいたそうです。そして昭和5年の小牧ダムの完成とともに村落は湖底に没したものの、一軒の温泉宿だけがダム湖と切り立つ断崖の間に取り残される事となってしまいました。 そこで、多くの村人から愛された温泉を何とか続けようと豊富に湧き出る源泉を湖底から採りこみ、船と言う交通手段を頼りに再興されたそうです。 ダム湖岸辺に建つ建物前をぐるりと迂回、乗客を楽しませた後は「大牧温泉船着き場」に到着。 宿前に設けられているのは、専用の釣り場や清水の飲泉場等。 ぴかぴかに磨きあげられた館内。 下船客で混み合う帳場で、記帳を済ませた後は、2時間ドラマや温泉番組で訪れた、たくさんの俳優、タレントさんの色紙の飾られた廊下を通って部屋へと。 奥へと延びる館内中程に食事処、そして大浴場と男性露天風呂出口。その先に女性中浴場。 宿泊は館内一番奥となる「山亭」。 女性露天風呂への通路先「山亭」には同じ間取りの部屋が4部屋。 二階角部屋「穂高」八畳二間。バス・トイレ付。TV・金庫あり。 窓から見る庄川と露天風呂への通路。 館内平面図等。 浴室は男性が大浴場と露天風呂。女性が大浴場・中浴場・露天風呂(浴槽2) 男性露天風呂通路とお休み処が設けられている大浴場前。 男性大浴場。 男性露天風呂。 裏山の石造りの階段を登る露天風呂。ここからは 残念ながら、景色を楽しみながらの入浴は困難な模様…。 女性同様に、熱めのお湯だったそうです。 男性露天風呂からは、ぐるりと回って、

[18] 滋賀県 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%8B%E8%B3%80%E7%9C%8C

概要[編集]

令制国の近江国(江州)と完全に一致する。県名は大津が属していた郡名「滋賀郡」から採用された。「滋賀」の発音は、共通語では「し」にアクセントを置く(頭高型アクセント)が、地元では「が」にアクセントを置く(尾高型アクセント)ことが多い(「滋賀県」とする場合は共通語も地元の方言も同じアクセント)。

「近江」が「近つ淡海」に由来し、現在も滋賀県が「湖国」と呼ばれるように、琵琶湖は県のシンボルである。産業用水、近隣府県約1,400万人の飲用水の源、観光資源としてその存在は大きく、地域性も琵琶湖を挟んで異なる(後述「#地域」参照)。琵琶湖があるために内陸県で唯一漁港を持ち、その数も20港と、海に面する5府県より多い。水運交易が盛んだった中世や近世には若狭湾と上方を繋ぐ中継地として、大津や堅田など内水系の重要港湾が数多く発展した。東海道・東山道(中山道)・北陸道が合流する陸上交通の要衝でもあり、「近江を制する者は天下を制す」として度々戦乱の舞台となった。

交通利便の良さは人材の流出をもたらし、戦前まで滋賀県は流入人口よりも流出人口の方が多かった。中世から近代にかけては多くの出身者が近江商人として全国各地に進出し、「琵琶湖の鮎は外に出て大きくなる」という諺まで生まれた[1]。太平洋戦争後、高速道路の整備やトラック流通の興隆に伴って交通利便のよさが再認識され、流通拠点や工場・研究開発施設が相次いで進出、近年はJR西日本のアーバンネットワーク拡大に伴って京都府や大阪府のベッドタウンとしても注目されるようになり、首都圏以外の地方では数少ない人口増加県へと転じた[2]。尚、開発が進むのは京都や大阪に近い南部であり、北部とは経済格差が起こっている。南部では新興住宅地が広がり、駅前にはマンションが建つなど賑わいがある一方で、北部や西部は田園風景が広がり、のどかな雰囲気がある。ただ人口が停滞している湖北・湖東地域であっても地域再生の議論や実践が活発である[3]。

滋賀県は近畿地方に分類され、文化的・経済的に京都・大阪との結び付きが強いが、中部地方との交流も盛んである。近畿圏整備法で定める「近畿圏」と中部圏開発整備法で定める「中部圏」の両方に含まれ、滋賀県知事は近畿ブロック知事会と中部圏知事会議の両方に出席している(福井県と三重県も同様)。また福井県・岐阜県・三重県とともに「日本まん

[19] 石動町 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8B%95%E7%94%BA

地理 [ 編集 ]

富山県の 小矢部川 中流の地域で、 農業 が主力産業である。また、農業と並び、 紡績 産業も石動町の主力産業であった。

1898年 (明治31年) 11月1日 に、 北陸本線 金沢 - 高岡 間の開業と同時に 石動駅 が開設されてから、富山県の西の玄関口として発展し西礪波郡の中心地区となっていた。

現在の石動地区は北陸本線の他に 北陸自動車道 や 国道8号 などが整備され、交通の要所となっている。

歴史 [ 編集 ]

石動という地名の由来は 1585年 ( 天正 13年)、 前田利秀 が 石動山 の 伊須流岐比古神社 (現在の 石川県 鹿島郡 中能登町 )の虚空像菩薩を 城下町 であった現在の石動地区に移したことが起源とされている。その後、前田利秀は菩薩を移した地域を新しい「石動」という意味で 今石動 (いまいするぎ)と名付けた。石動の町名は今石動という地名から名付けられた。

当初、礪波郡発足当初は石動町に礪波郡役所が設けられたが、 1886年 (明治19年)に出町(現・砺波市)に郡役所が移転。この移転に憤慨して政界に進出した 上埜安太郎 により、 1896年 (明治29年)に礪波郡を東西に分けて西礪波郡に移行した際に再び石動町に郡役所が設けられて、 1942年 ( 昭和 17年)からは西礪波地方事務所が設けられていた( 1966年 に廃止)。人口は26,973人( 1962年 )。

現在の小矢部市石動町(いするぎまち)は 石動駅 前の北側に位置している。

沿革 [ 編集 ]

1889年 ( 明治 22年) 4月1日 - 町村制 導入により、今石動町・福町村・小矢部村・寄島村・上野本村・小矢部島村の全域、坂又村・畠中村・後谷村・桜町村・野端村・小神村の各一部、桜町村・上野本村の 入会地 を合併し 礪波郡 石動町が発足。

1896年 (明治29年) - 所属郡が 西礪波郡 に変更される。

1953年 ( 昭和 28年) 9月10日 - 西礪波郡 宮島 ・ 子撫 ・ 南谷 ・ 埴生 ・ 正得 ・ 松沢 ・ 荒川 各村と合併(新設合併)。

1954年 (昭和29年) 10月1日 - 西礪波郡 北蟹谷村 が編入合併。

1957年 (昭和32年) 9月30日 - 西礪波郡 若林村 の金屋本江・水牧の全域、下中・西中の西部が編入合併。

1962年 (昭和37

[20] ミニレポ第213回 国道305号(越前海岸) 大味トンネル, , http://yamaiga.com/mini/213/main.html

【周辺図(マピオン)】

福井県北半分、嶺北地方の日本海に面する地域は、丹生(にゅう)山地が海岸まで迫っており、平地はほとんど見られない。代わりに越前岬を代表とする数多くの海岸美があり、 越前海岸 と総称される名所として知られている。

一方で丹生山地の内陸寄りには、九頭竜水系の河川に沿った広い平野が南北に続いており、県都福井をはじめとしたいくつもの都市が点在しているので、古代の北陸道以来、歴代の大きな陸路はみな海岸線を避けて、この内陸の低地帯を通ってきた。今日の国道8号、北陸自動車道、北陸本線、北陸新幹線、皆そうである。

しかし、越前海岸沖の日本海上は、対馬海流が流れ込む良好な漁場であったことや(越前ガニの高名は誰もが知っているだろう)、近世以前において陸路以上に重要な物流ルートだった北前船の航路にあたっていたことから、地形の険しさにめげず、多くの集落が港を根拠として立地して、その生活を営んできた。

暮らしがあれば、当然道も生まる。

越前海岸を南北に縦貫する今日の国道305号は、そうした生活道路の集大成であり、やはり短くはない歴史を持っている。

険しい海岸線を長く縦貫する道路であるから、国道305号には非常に多くのトンネルがある。

また、その改良史も一朝一夕ではないから、旧道、廃道、廃隧道が珍しくない。

このように、オブローダーにとって日本海沿いの一大名所といってもいい越前海岸における私の探索は、2015年9月14日の終日をたっぷり使って、自転車で北から南へ進めた。

この路線については、ネット上にも先行する多くの偉大なレポートがあると予期されたが、風景を予め知ってしまうのは勿体ないので、出発前の糧は敢えて定番の旧版地形図と「道路トンネル大鑑」に限った。

そして、帰宅後に取り寄せた市町村史で机上調査を行うという、“いつもの流れ”である。

この探索全体の分量はだいぶ膨大なので、越前海岸シリーズの第1弾として、今回は 大味(おおみ)トンネル をピックアップする。

まず、お馴染みの「道路トンネル大鑑」にある大味トンネルのデータは次の通りである。

大味トンネル

路線名:主要地方道敦賀三国線 所在地:福井市清水町大味 延長:67.5m 車道幅員:5.5m 限界高:4.5m 竣工年度:昭和36(1961)年 覆工:済 鋪装:済

「大鑑」は昭

[21] 隧道レポート 国道8号旧道 阿曽隧道(旧黒崎トンネル), , http://yamaiga.com/tunnel/aso/main2.html

2015/9/14 15:17 【現在地】

見事な二次放物線のアーチを描き出した石造の坑門。

ただし、放物線云々というのは「廃道本」で読んだ記憶から導かれた言葉であり、肉眼でアーチ形の正確な区別をするのは不可能だ。

例えば、多心円アーチと呼ばれるものと、二次放物線アーチの区別は、正確な測量でもしなければ難しいといわれる。

一般的にアーチの高さ(ライズ)に対する幅(スパン)の比をライズスパン比といい、半円アーチで1/2となる。扁平になるほど数字が小さくなり、扁平アーチと総称する。アーチ橋と呼ばれるものは、ほぼ例外なく扁平アーチである。

逆にライズスパン比が1/2より大きな値を取るものは縦長なシルエットになり、 尖頭アーチ と総称される。

なお、アーチとして最も安定した構造は半円アーチで、そこから離れるにつれて徐々に構造としては不安定になっていく。

…といったところが、私の中の一般的なアーチに対する理解である。

補足として、鉄道用の暗渠にはそれなりの頻度で尖頭アーチが用いられるのであるが、これには理由があって、大正5(1916)年に国鉄が制定した「混凝土拱橋標準」という示方書に、半卵形アーチやビリケンアーチと呼ばれる尖頭な多心円アーチが制式されていたためである。しかし、本隧道は明治の作であることや、多心円アーチではなく放物線アーチとされていることなどから、両者に直接の関係は無いだろう。ただし、尖頭アーチに至った技術的根拠には重なる部分があるかも知れないが、不明。

数学的な興味と、技術的な興味と、単純な珍奇なものへの好奇心という、三重の魅力で私をしばし釘付けにした石造放物線アーチであるが、やがて我に返って、通常の探索を続行する。

まずは首を上に向けての坑門観察。

アーチ、スパンドレル、帯石、笠石などといった石造坑門の標準的な構成要素が見て取れたが、その全体を覆い隠してしまうほどに濃緑色のツタが勢力を強めていて、お洒落な洋館のような洒脱した雰囲気を醸し出していた。代官山ってカンジ(←無根拠)。

なお、こびり付いているツタは、季節によって紅葉し落葉もする種類なので、この雰囲気も夏に訪れた故の個性だろう。

悪い印象はない。というか、素直にかっこいいと思った。

ただし、ツタのせいで肝心の扁額が読めなくなっていたら残念だったのだが、どうやらそもそも扁額は無い

履歴

[22] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24795567252330514

メモ