「天下の嶮」といったら、皆どこを思うだろうか。
ある人は箱根を挙げるかもしれない。またある人は碓氷を選ぶだろう。
だが、多くの人はこう言うはずだ。
それは「親不知」である、と───
親不知は新潟-富山県境からやや新潟よりにある、古来から北陸道(現在の国道8号)の難所として知られる区間だ。
この地は北アルプスの山塊が直接海に落ち込む地であり、少し内陸に入れば1000メートルを越す山々が聳え立つ。
その山塊は日本海の怒涛に削られ、海岸には天を突かんばかりの大絶壁が形成された。
通常、このような交通に適さない海岸線は迂回され、山越えの道が取られるものである。
しかしながら、あまりにも急峻かつ複雑な地形を誇る北アルプスの山々は、徒歩の往来を拒んだ。
人々は、絶壁の足元に残されたわずかな磯を頼りに、波飛沫をかいくぐってまさに死地を駆け抜けたのである。
その雷名は天下に轟き、遠く離れた私の故郷、北海道にすらも「蝦夷親不知」という地名が残されるほどであるから、その無二なる嶮路ぶりが窺えよう。
現在の国道8号、特に親不知付近の道は、古代律令制の時代にまでその歴史を遡る事ができる。
大和、奈良、そして京へと通じる物流の道として、当時はおそらく今以上に重要な街道であった。
戦乱の世には上杉謙信を初めとした数々の武将達が大軍を率いてこの地を渡っており、その様は「乱世の廊下」とも称される。
時代が江戸に下っても、以前京との往来、そして北陸諸藩における参勤交代の道として、重要性は増すばかりであった。
その一方で、他の主要街道が整備されていく中、絶壁の下のわずかな磯という物理的に手のつけようがない親不知の区間はほとんど改築もできず、
律令の時代とほとんど変わらない、道ともいえぬ道であったという。
そんな場所にようやく道らしい道が造られたのは明治になってからである。
明治9年に国道、県道、里道の制度が確立し、親不知を含む北陸道は国道三等となり、道幅は二間半(約4.5m)とされた。
待望の道路整備に住民の期待は膨らんでいったが、さらにこれに火をつけたのが明治11年の明治天皇北陸巡幸である。
先にお伝えしたとおり、明治天皇の北陸巡幸は長岡街道、
曽地峠といった、その後の国道8号の運命を決定付ける大きな意味を持っていたが、ここ親不知でも同様であった。
しかしなが