京都

京都

[1] 京都 (きょうと)

35.0238540978835 135.762948989868

Webページ

[2] 京都 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、)は、日本の都市である。 都、京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。

[3] 京都絵図, , http://onjweb.com/netbakumaz/kyoumap/kyoumap.html

”超検索”幕末京都絵図

慶応四年戊辰二月再刻 書肆文叢堂竹原好兵衛版の改正京町御絵図細見大成を元に作成した絵図を掲載しております。

京都古絵図を8分割しPDFファイルで見ることができます。PDFファイルで町名、屋敷名などの検索ができます。

注意:PDFファイルで見る場合、種々なエラー(例えばフォントがない等)がでることがありますが、何とか見れると思います。検索する場合、二文字以上で検索するとヒットしない場合があります。この時は一文字で検索して下さい。

[4] 京の旧市街地, , http://www.akenotsuki.com/kyookotoba/shigaichi.html

京都に関する研究ではしばしば「洛中」「旧市街地」「昔からの市街地域」などの表現が使われますが、具体的にどの範囲がそれに当たるのか、はっきり説明がされている機会はそう多くないという印象があります。

そこでこのページでは古地図を見ながら、京都における市街地の範囲の変遷を検証してみます。

1889年(明治22年)

1889年(明治22年)、当時の京都府上京区と京都府下京区とが合併する形で京都市は誕生しました。その頃の市域は次の通りでした。

両図とも黒い線が現在の区域(区の境界線)で、色分けされているところが当時の市域・郡域です。

今日の京都市に比べればかなり面積が小さかったのですが、これでも当時としては、将来のことを見越して広めに市域を確保していたそうです*1。

この時代にはまだ「上京区」と「下京区」しかありませんでした。鴨川の西側では後に「中京区」が作られたため当時の上京・下京の境界が今では分かりにくくなっていますが、おおよそ現在の東山区・左京区の境界線をそのまま鴨川の西側へ延長させたところが当時の境界線です*2。

*1

「統計でみる京都市の歴史」のPDFより。

*2

鴨川の西側では上京区の南部と下京区の北部とを合わせる形で昭和4年4月に中京区が作られたのに対して、鴨川の東側ではそのような再編がなかったため、京都市が出来た当初の上京区・下京区の境界線が鴨川の東側では左京区・東山区の境界線という形でそのまま残った。

1887年(明治20年)

先に見た1889年の図はあくまで「当時の京都市の範囲」であり、実際に市街化していた範囲はこれよりも狭いものでした。

明治期の市街地を知るための資料としては、立命館大学地理学教室にて公開されている「現在の都心部の1887年(明治20年)ごろの土地利用」という地図が参考になります。これで当時の状況を確認してみましょう。

鴨川の東西で状況が異なりますので、分けて見てゆきます。

鴨川の西側

市街地はこの時代、既に上京区の北限まで広がっていたことが分かります。対して市街地の南限は概ね今日の京都駅(地図中、下方のエメラルド色の箇所)付近だったようです。

市街地の西の限りは、二条城の南側は概ね大宮通ないし神泉苑通~壬生川通あたり、二条城の北側はところどころ畑や竹林を挟みながらも千本通を越えるあたりまで人家が広がっていたことが読み取れます。

[5] 家から5分の金閣寺について - 真顔日記, , http://diary.uedakeita.net/entry/2016/08/29/222836

京都というのは言わずと知れた観光都市である。

私が住んでいる家など、歩いてすぐのところに金閣寺がある。あの金閣寺である。みなさんが想像されたとおりの金閣寺。足利義満の道楽の産物。あれが徒歩5分の距離にある。感覚としてはコンビニくらいの距離感である。

しかしそれで嬉しいかと言えばそうでもない。よく言われることだが、京都在住の人間にとっちゃ京都は日常的な場所でしかなく、観光地でも何でもないのである。徒歩5分の金閣寺はもはや金閣寺としてのオーラを消失している。あれは近所にある金色の建造物である。水色の建造物(ローソン)のおともだちである。

私のウォーキングコースには紫式部の墓があって、毎日のように前を通るが、これも完全に無視している。汗だくで腕を振りながら紫式部を完全シカトである。源義経出立の地とかいうのもある。それも「フーン」で済ませている。怖るべき無関心ぶりである。いちいち歴史に思いを馳せていると生活できたもんじゃないということか。とにかく京都というのは、三歩歩けば歴史につまずく街だから。

大学時代のアパートは、歩いてすぐのところに「一乗寺下り松」があった。宮本武蔵の決闘の地として有名な場所である。バガボンドを読んでいたら唐突に近所の地名が出てきたから強烈に覚えている。物語世界に没入していたはずが、いつのまにか徒歩5分の場所の話。「は?ツタヤの近くの?」となっていた。

「武蔵、ツタヤ北白川店の近くで決闘すんの?」

武蔵が一乗寺下り松で吉岡一門総勢七十余名との斬り合いを続ける間も、私はなんとなくツタヤ北白川店のことを考えていた。少し歩くとココイチもある。吉岡一門を倒した後は、さぞかしトッピングも豪勢になることだろう。

うちの近くには大きな空き地があって、草がぼうぼうに生えているんだが、「これがマチュピチュだったら俺マチュピチュに行きたがるのかな」とたまに思う。私は以前からマチュピチュに憧れているんだが、はたして近所にマチュピチュがあっても憧れることはできるのか。

「遠さ」というのは憧れの重要なポイントであって、気軽には行けないほど遠くにあり、写真や伝聞でのみ存在を知っている時に、もっとも憧れは強くなるのだろう。

しかしネットを見ていると「京都観光で絶対に行きたい場所」とか「京都の魅力を味わいつくそう!」という記事が定期的にあがってきて、反射的に「京都っていいところだなー

履歴

[11] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933425786

メモ