関ヶ原合戦・大坂の陣に勝利した徳川家康が二条堀川の西(現中京区二条城町)に建てた城。慶長7(1602)年5月村越茂助を奉行として着工されました。翌8(1603)年3月には家康が将軍宣下をうけるため上洛入城し,その頃には主要部分が完成していたと考えられています。
二条城は京都御所の守護と将軍上洛時の宿泊所として造営され,建設当初は二条亭とも,二条新御所,二条新屋敷とも呼ばれていました。
元和5(1619)年増築が行われ,御座所・大広間・二の間などが整えられ,二の丸の大部分は現在の配置で建てられていたと推定されています。特に,二条城が今日見るような形で整備されたのは,三代将軍家光(いえみつ)の時。寛永3(1626)年の後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の二条城行幸を契機として,伏見城の遺構などが移され,天守閣を含めてすべてが完成したのは寛永年間(1624〜43)といわれています。
寛文2(1662)年5月の大地震で石垣と二の丸殿舎が被害を受け,寛延3(1750)年雷火によって天守閣が焼失,ついに再建されませんでした。さらに天明8(1788)年にも天明の大火により本丸の殿舎,櫓(やぐら),二の丸の櫓の一部が類焼しました。
文久3(1863)年,十四代将軍家茂上洛のため殿舎の整備が行われ,慶応2(1866)年,最後の将軍となる徳川慶喜(よしのぶ)が二条城で将軍宣下を受け,慶応3(1867)年10月二条城で大政奉還が公表されました。
明治維新後,二条城は太政官代が置かれ,東京遷都後は留守官の管轄下にありましたが,明治4(1871)年京都府に移管,同年から明治18(1885)年まで二の丸御殿に京都府庁がおかれました。二条城そのものは明治6年陸軍省の所管となり,明治17年に宮内省の管轄となり「二条離宮」と改称されました。
昭和14(1939)年京都市に下賜され,今日に至っています。当初は恩賜元離宮二条城(おんしもとりきゅうにじょうじょう)と呼ばれました。
二条城の役割
二条城は,豊臣秀吉の京都邸宅であった聚楽第(じゅらくだい)の機能を継承した徳川氏の京都屋敷として造営され,幕府の朝廷に対する公的な対面や儀礼の場として利用されました。
江戸時代には二条城を中心に,京都所司代(きょうとしょしだい)・京都町奉行(きょうとまちぶぎょう)・京都代官(きょうとだいかん)などの政庁が城の北・南・