[1] 二条城
二条城(にじょうじょう)は京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある江戸時代の城である。京都市街の中にある平城で、後述する足利氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏によるものがあるが、現在見られるものは、徳川氏によるものである。城跡全体が国の史跡に指定されている他、二の丸御殿(6棟)が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計1016面が重要文化財に、二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されている。さらに1994年(平成6年)にはユネスコの世界遺産(世界文化遺産)に「古都京都の文化財」として登録されている。 徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀と、徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終焉の場所でもある。
関ヶ原合戦・大坂の陣に勝利した徳川家康が二条堀川の西(現中京区二条城町)に建てた城。慶長7(1602)年5月村越茂助を奉行として着工されました。翌8(1603)年3月には家康が将軍宣下をうけるため上洛入城し,その頃には主要部分が完成していたと考えられています。
二条城は京都御所の守護と将軍上洛時の宿泊所として造営され,建設当初は二条亭とも,二条新御所,二条新屋敷とも呼ばれていました。
元和5(1619)年増築が行われ,御座所・大広間・二の間などが整えられ,二の丸の大部分は現在の配置で建てられていたと推定されています。特に,二条城が今日見るような形で整備されたのは,三代将軍家光(いえみつ)の時。寛永3(1626)年の後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の二条城行幸を契機として,伏見城の遺構などが移され,天守閣を含めてすべてが完成したのは寛永年間(1624〜43)といわれています。
寛文2(1662)年5月の大地震で石垣と二の丸殿舎が被害を受け,寛延3(1750)年雷火によって天守閣が焼失,ついに再建されませんでした。さらに天明8(1788)年にも天明の大火により本丸の殿舎,櫓(やぐら),二の丸の櫓の一部が類焼しました。
文久3(1863)年,十四代将軍家茂上洛のため殿舎の整備が行われ,慶応2(1866)年,最後の将軍となる徳川慶喜(よしのぶ)が二条城で将軍宣下を受け,慶応3(1867)年10月二条城で大政奉還が公表されました。
明治維新後,二条城は太政官代が置かれ,東京遷都後は留守官の管轄下にありましたが,明治4(1871)年京都府に移管,同年から明治18(1885)年まで二の丸御殿に京都府庁がおかれました。二条城そのものは明治6年陸軍省の所管となり,明治17年に宮内省の管轄となり「二条離宮」と改称されました。
昭和14(1939)年京都市に下賜され,今日に至っています。当初は恩賜元離宮二条城(おんしもとりきゅうにじょうじょう)と呼ばれました。
二条城の役割
二条城は,豊臣秀吉の京都邸宅であった聚楽第(じゅらくだい)の機能を継承した徳川氏の京都屋敷として造営され,幕府の朝廷に対する公的な対面や儀礼の場として利用されました。
江戸時代には二条城を中心に,京都所司代(きょうとしょしだい)・京都町奉行(きょうとまちぶぎょう)・京都代官(きょうとだいかん)などの政庁が城の北・南・
通称・別名
旧二条城
所在地
京都府京都市上京区五町目町
城郭構造
平城
天守構造
築城主
織田信長
築城年
永禄12年(1569)
主な改修者
主な城主
足利氏
廃城年
天正元年(1573)
遺構
指定文化財
再建された建造物
石碑、復元石垣
日本の歴史書において「二条城」と呼ばれることのあるものは複数ある。当時の二条大路は朱雀大路が廃れた後、都一の大路であり、足利尊氏から義満まで3代の将軍が二条に屋敷を構えたため、将軍家の屋敷を「二条陣」または「二条城」といった。のちには、二条通に面していなくても将軍家の屋敷を二条陣または二条城といった。室町時代に平安京の左京にあった唯一の城である。ちなみに右京にも唯一、「西院城」があった。二条城と西院城を平安京の両城ともいう。
1.室町幕府第13代将軍・足利義輝の居城。
2.室町幕府第15代将軍・足利義昭の居城として、織田信長によって作られた城。二条通にはなかった。
3.織田信長が京に滞在中の宿所として整備し、後に皇太子に献上した邸「二条新御所」。
4.徳川家康が京に滞在中の宿所として造った城。
現存する二条城は4の城である。1と2は同じ場所に造られたが連続性はない。2と3は同じものと見る説もあるが、『信長公記』その他の史料、及び発掘結果、残存地名などを根拠として別のものとするのが現在では通説となっている。1~3について「二条城」と呼ぶのは4.が完成した江戸時代以降のことであり、4と区別する趣旨で「旧二条城」「二条古城」などと呼ばれることもある。ここでは、近世の二条城である4.の前史として1から3までの「二条城」について略説する。
~足利義昭の二条城~
足利義昭は、織田信長の武力を後ろ盾として将軍に就任した後、六条本圀寺を居所としていたが、1569年、三好三人衆による襲撃を受けた。このときは京にいた信長家臣団および義昭の側近らの奮戦により防戦に成功するが、この報を受けた信長はさらに防備の整った城の必要性を認識し、義昭のために築城をすることを決めた。場所は義輝の二条城のあった地を中心に拡張して約400メートル四方の敷地に2重の堀や3重の「天主」を備える城郭造の邸宅とした。信長自身が普請総奉行として現地で陣頭指揮を執り、御殿などの建築を統括する大工奉行には村井貞勝と島田秀満が任じられた。旧管領細川京兆
マンガミュージアム(旧龍池小学校跡)の前に建つ二条殿址の碑
本能寺の変の時、織田信忠が奮戦・自害した
別名
二条新造御所、二条御所、二条古城、旧二条城
所在地
京都府京都市中京区二条殿町(御池両替上ル、御池室町上ル)
形状
館
現状・遺構
現状:市街地
遺構:石碑
満足度
歴史等
「二条城」と呼ばれることのあるものは、複数ある。
①室町幕府第13代将軍足利義輝の居城。
②織田信長によって、室町幕府第15代将軍足利義昭の居城として作られた城。
③織田信長が、京に滞在中の宿所として整備し、後に皇太子(誠仁親王)に献上した邸。
④徳川家康が、京に滞在中の宿所として作った城。
現存する二条城は、
④の城である。
①と②は同じ場所に作られたが連続性がない。
②の二条城と③の二条城は同じものと見る説もあるが
『信長公記』その他の史料を根拠として別のものとする説が通説となっている。①②③について「二条城」
と呼ぶのは④が完成した江戸時代以降のことであり、④と区別する趣旨で「旧二条城」「二条古城」などと呼ばれたりする。
この二条城は、③に相当するもので、「二条殿」「二条新造御所」或いは「二条御所」等と呼ばれたりする。
天正10年(1582)6月2日、明智光秀は本能寺に宿泊していた信長を襲った(本能寺の変)。
この時、信長の嫡子信忠は妙覚寺に泊まっており、本能寺 が襲われているのを知り、救援に向かったが、明智の軍勢に阻まれた。そこで、
信忠は防御力の全くない妙覚寺を出て隣接するこの二条御所に移った。二条御所でも、誠仁親王を退去させた後に両軍は戦闘を開始し、
激闘の末に信忠は自害し、二条御所は炎上してしまった。
『参考サイト:「フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)」、「城郭図鑑」』
現況・登城記・感想等
私は、最初に京都へ転勤した時、この近辺に住んでいた。しょっちゅう通った場所なのに写真がないことに気が付き、
今回掲載するにあたっては、当時の同僚増っさんに写真を撮ってきてもらった。
二条殿跡は京都市街の中心地にあり、当然のことながら、石碑を除き往時の面影は全くない。とても、本能寺の変の時に信忠が奮戦・
自害したことなど想像することさえ難しい。
ギャラリー
二条殿址の碑(御池両替通上ル)
マンガミュージアム(旧龍池小学校跡)の前に建つ
■城郭関係資料
「日本の名城・古城事典」(1989/TBSブリタニカ)
「日本の城ハンドブック」(2005/三省堂)※注記の「二条城小史」に一部二条御新造と混同した記述が見られる。
■郷土史・歴史
「日本史諸家系図人名辞典」(小和田 哲男 監修 2003/講談社刊)
「日本史広辞典」(1997/山川出版社)
「本能寺の変(新・歴史群像シリーズ)」(2007/学研) 「謎解き本能寺の変」(2003/藤田達生 著/講談社) 「信長は謀略で殺されたのか」(2006/鈴木眞哉・藤本正行 共著/洋泉社)
「本能寺の変」(2010/藤本正行 著/洋泉社)
「織田信長合戦全録」(2002/谷口克広/中央公論社)
「考証織田信長事典」(2000/西ヶ谷恭弘/東京堂出版)
「信長の天下所司代」(谷口克広 著/2009/中央公論社)
「天正壬午の乱」(2011/平山優 著/学研)
「証言本能寺の変」(2010/藤田達生 著/八木書店)
「織田信長総合事典」(1999/岡田正人 編著/雄山閣)
「信長の天下布武への道」(2006/谷口克広/吉川弘文館)
「京都の歴史が分かる事典」(2005/日本実業出版社)※「二条城」の項目に一部二条御新造と混同した記述がある。
■史料 「現代語訳信長公記 下」(2006/中川太古 訳/新人物往来社) 「原本現代訳信長公記 下」(1980/榊山潤 訳/ニュートンプレス)
「新訂信長公記」(1997/桑田忠親 校注/新人物往来社)
「川角太閤記」(1996/志村有弘 訳)/勉誠社 藤本正行氏の指摘によれば、明智軍1万3千の唯一の典拠であるという。
■その他
各市町村公式HPなど
京都市は15日、所有する世界遺産・二条城の修理費用を捻出するため、展示会やレセプションなどの会場に、重要文化財である二の丸御殿台所などを貸し出すと発表した。
今後、市に代わって会場の企画・運営を担当する複数の事業者を募集し、来春からの稼働を目指す。2014年度で1千万円の収入を見込む。
重文ではないが、和洋折衷庭園「清流園」や、茶室「和楽庵」など8カ所も対象。1日の利用料は、台所50万円、清流園100万円など。簡単な立食パーティーや音楽会などを開けるという。
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京都に関する研究ではしばしば「洛中」「旧市街地」「昔からの市街地域」などの表現が使われますが、具体的にどの範囲がそれに当たるのか、はっきり説明がされている機会はそう多くないという印象があります。
そこでこのページでは古地図を見ながら、京都における市街地の範囲の変遷を検証してみます。
1889年(明治22年)
1889年(明治22年)、当時の京都府上京区と京都府下京区とが合併する形で京都市は誕生しました。その頃の市域は次の通りでした。
両図とも黒い線が現在の区域(区の境界線)で、色分けされているところが当時の市域・郡域です。
今日の京都市に比べればかなり面積が小さかったのですが、これでも当時としては、将来のことを見越して広めに市域を確保していたそうです*1。
この時代にはまだ「上京区」と「下京区」しかありませんでした。鴨川の西側では後に「中京区」が作られたため当時の上京・下京の境界が今では分かりにくくなっていますが、おおよそ現在の東山区・左京区の境界線をそのまま鴨川の西側へ延長させたところが当時の境界線です*2。
*1
「統計でみる京都市の歴史」のPDFより。
*2
鴨川の西側では上京区の南部と下京区の北部とを合わせる形で昭和4年4月に中京区が作られたのに対して、鴨川の東側ではそのような再編がなかったため、京都市が出来た当初の上京区・下京区の境界線が鴨川の東側では左京区・東山区の境界線という形でそのまま残った。
1887年(明治20年)
先に見た1889年の図はあくまで「当時の京都市の範囲」であり、実際に市街化していた範囲はこれよりも狭いものでした。
明治期の市街地を知るための資料としては、立命館大学地理学教室にて公開されている「現在の都心部の1887年(明治20年)ごろの土地利用」という地図が参考になります。これで当時の状況を確認してみましょう。
鴨川の東西で状況が異なりますので、分けて見てゆきます。
鴨川の西側
市街地はこの時代、既に上京区の北限まで広がっていたことが分かります。対して市街地の南限は概ね今日の京都駅(地図中、下方のエメラルド色の箇所)付近だったようです。
市街地の西の限りは、二条城の南側は概ね大宮通ないし神泉苑通~壬生川通あたり、二条城の北側はところどころ畑や竹林を挟みながらも千本通を越えるあたりまで人家が広がっていたことが読み取れます。
京都市役所 〒604-8571 京都市中京区寺町通御池上る上本能寺前町488番地 電話番号:075-222-3111(代) 市役所へのアクセス
日 時:平成17年6月30日(木)19時~21時 場 所:元龍池小学校1階会議室 参加者数:計31人(市民 17人,スタッフ 9人,オブザーバー5人) 内容: 1 開会のあいさつ(都市づくり推進課:山本課長) ・ みなさんこんばんは。今日で6回目のワークショップになります。半年前の寒い時期に始め,まちあるきなどもしてきましたが,ようやくこうしてマップが形になってきました。 ・ 今回を最後のワークショップとして,テーブルの上にあるマップの案を仕上げていただきたいと思っています。 ・ 用意したマップは他の班の分も含めて3枚あります。3枚を一つのものとしてまとめて情報発信しようというご意見がありましたので用意しました。 ・ 担当の班のマップを仕上げると同時に他の班のマップとの統一性も考えてください。 ・ また,子どもたちや地域の方にも情報発信できるものとしても考えていただきたいと思います。細かい字が多いけれど,お年寄りや子どもが見ても大丈夫かとか,そういう観点でも見ていただければと思います。 ・ ワークショップでの案としてマップを仕上げますが,今後,町内の方や沿道の企業の方にも見ていただいてご意見をお聞きしていきたいと思っています。 2 マップ案の説明(コンサルタント)・ お手元に各班の3種類のマップを用意しました。表と裏をあわせて6枚あります。1部はジャバラに折ったものがありますので,折り方の参考に見てください。 ・ 表紙やタイトル部分を班によって色分けして表現しています。1班は赤,2班は緑,3班は青になっています。 ・ 表紙のついている面の情報は各班でほぼ共通になっています。 ・ 表紙の下の部分はマップづくりワークショップをどういうふうにやってきたかということや3つの班それぞれのテーマを説明しています。 ・ 表紙のある面を開いた左端の部分は独立した情報で,全班に共通で御池通の歴史や強制疎開の歴史,協議会で考えてきたこと等を入れています。 ・ 真ん中の部分は,「町名の由来」を3つの班の共通テーマとしてとりあげました。基本的には押小路通から姉小路通を含む町名をとりあげています。学区全体となると範囲が広くなるので,通りにかか
第35回研究発表会(11.12.13)
第35回研究発表会(11.12.13) ◆日 時:平成23年12月13日午後1時10分~午後4時 ◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階 ◆研究発表:1.『ジョー岡田、波瀾万丈!82年分の話』都草会員 ジョー岡田 2.『京都名水巡りー京都の名水の多様性―』都草会員 西謙造 ◆参加人数:34名 ◆参加費 :300円 一般参加費 :500円 町を歩くと女性が振り向く御髪のジョー岡田さんは正真正銘の日本人で本名は岡田逸雄さんです。外人には「イツオ」と言うのは覚え辛くいようで「ジョー」は外国の友達から頂いた名前です。ガイドをした外国のお客様が自分の名前をあげるから「ジョー岡田」にしろ!ということで、それ以降は会社の名前も「ジョー岡田トラベルサービース」になり気分は半分外国人。日本中の人の中で一番大変な人生を過ごして来ましが、今日元気で都草会員の前でお話できることは嬉しいことです。と82年の人生のエピソードを語って頂きました。 普段は英語でのスピーチですが日本語でお話して頂きました。ジョー岡田さんの英語は独学です。敗戦時の中学3年生の時代までは、英語を習ってはいけない時代で当時は英語を話すと警察が調べにき、学校でも禁止でした。現在の自宅は昨年38.6℃と日本一の気温を記録した舞鶴から車で3時間をかけ、地道を走って来られました。高速を走らヂミチに行こう!ということです。(笑)でも人生はジミチではなくかなり飛んでいました。 「サムライショー」に使う軍刀は戦争中には尉官が帯刀する刀でした。鉄製で教育委員会に登録をしています。大根やリンゴを切ったりするのは練習刀で登録はいりません。竹等の硬い物は真剣でないと切れません。練習刀は5万円から10万円で軍刀も10万円位です。江戸時代の名刀は500万円から億、だそうです。 いよいよ軍刀を使ってのショーの始まりです。竹を切るのにアシスタントが必要という事で、最初の生贄は今井理事です。誰も持たずに立てた不安定な竹を切った後振り返り今井理事が支えている竹を、刀を振りおろしカットするという事です。以前ヨーロッパで行った時に親指を切ってしまい天井まで血が飛んだことがあるようです。その方とは親友になったようです(笑)今まで3300回して失敗は1回だけです。けっして動かないようにと言われ
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押小路烏丸殿(おしこうじからすまどの)は、中世京都にあった邸宅の1つ。後に二条摂関家の邸宅を経て、本能寺の変の際に織田信忠が戦死した二条御所となる。現在の京都市中京区二条殿町及び御池之町、龍池町付近と考えられている。通称二条殿。
元は陽明門院の御所があったとされ、後に後鳥羽院の寵臣藤原範光の邸宅を経て、承元3年(1209年)に後鳥羽院の仙洞御所(三条坊門殿)となった。この邸宅の南側には後世「龍躍池」と呼ばれる広大な池が存在し、池の上には「泉殿」と呼ばれる離れが建てられ、本邸と結ばれていた。後に陰明門院の御所となったが、貞応元年(1222年)の火災で焼失した。その後、正嘉元年(1257年)になって後嵯峨院によって新たな御所が造営された。これが押小路烏丸殿の直接の祖となる。弘長2年(1262年)に院が寵愛する西園寺成子に与えられて以後彼女はここで生活した。
さて、二条家の祖である二条良実がここに居住したとする『拾芥抄』の説があり、また「二条京極第」に邸宅が存在したことから「二条」の家名が成立したとする説もある。更に二条家に伝わる『二条押小路家門亭泉記』には二条良実が建長年間に相博したと記されている。だが、二条良実邸は後に内裏として用いられる二条富小路殿であったことが、『平戸記』寛元2年4月20日条に記された良実の冷泉殿から二条富小路殿への移転記事(「今夜殿下(二条良実)御渡二条富小路御所」 )から確認可能であり、また良実の子二条道良が死去したのが、二条富小路殿であったことも『経光卿記』正元元年11月8日条の死去記事(「今暁(二条道良)令薨去給云々、坐二条富小路亭、已為陣中、旁無便宜」 )に明記されており、二条良実邸が押小路烏丸や二条京極にはなかったと考えられている(なお、当時二条富小路殿は里内裏である冷泉富小路殿とは二条大路を挟んで斜め向かいにあり、里内裏の出入口(陣)の一部とみなされていた)。また、建長年間(貞応と正嘉の間の時期)に押小路烏丸殿の施設が存在したかも不明であり、少なくても二条良実が押小路烏丸殿の主であった可能性は低い。更に室町時代後期に壬生晴富が二条持通より、相博を行ったのは永仁年間であったとする話を聞いており(『晴富宿禰記』文明10年3月9日条)、後伏見天皇が二条富小路殿にて即位した。永仁6年(1298年)以前の13世紀後半に二条富小路殿と押小路烏丸殿
�A京都市中京区三坊大宮町
�B
国道1号線五条堀川の信号から堀川通りを北に1.7kmの堀川御池の信号を左折し(中京区役所の角)御池通りを200m進んだ最初の信号を左折します。角に二条陣屋の案内板があります。100m先の右手です。陣屋前の道は狭いです。予約をしてなかったので中には入れませんでしたが、江戸初期の商家が残るという感じです。どちらかというと草津宿本陣や二川宿本陣という感じですかね。
�C平城
�F遺構等:現存建物・説明板
�G江戸期/小川氏
�H満足度:凸
豊臣秀吉の家臣で伊予今治で七万石の大名であった小川土佐守祐忠は関が原の戦いでは西軍に属したため出家し、その長男の千橘が萬屋平右衛門と名乗ってこの地で米穀商・両替商・木薬屋を営みました。この建物は寛永十年(1670年)に住居として建てられたものです。江戸期、二条城に伺候する中小大名の陣屋として利用され、また、京都奉行所の公事宿として利用されたため、隠し階段や武者隠しなどの身辺警備の施設が施されています。 (現地案内板より)
織田信長が室町幕府最後の将軍、足利義昭のために築城した旧二条城跡(京都市上京区)で、後に信長と対立した義昭が防御のために造った堀とみられる跡が見つかった。民間調査機関の古代文化調査会(神戸市)が12日発表した。ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが、戦国期の日本を描いた「日本史」や書簡に残した記述を裏付ける遺構とみられるという。
旧二条城は、義昭とともに上洛(じょうらく)した信長が1569年、13代将軍・義輝の居城「武衛陣第」跡地に築いた。推定される敷地は南北386メートル、東西366メートル。フロイスの記述によると「はなはだ広大で華麗な建築の宮殿」の建設は「70日間で完了した」とされる。義昭は68年に15代将軍に就いたものの信長と関係が悪化し、武田信玄や浅井長政らと信長包囲網を構築。73年、旧二条城に立てこもったとされる。
調査会によると、堀はマンション建設に伴う発掘調査で見つかり、東西方向に約8メートルの長さで確認できた。幅は最大約7メートル、深さ約3・4メートル。底部の南側が2段に掘られ、北側は急傾斜になっている。堀の縁には土塁のような盛り上がりや、柵の跡とみられる柱列も見つかった。
[26] この記事はSuikaWiki Worldでに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/22776855933436395