三島村

三島村

[1] 三島村 (みしまむら)

30.834889 129.95575

Webページ

[2] 三島村 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E6%9D%91

三島村(みしまむら)は、薩摩半島南端から南南西約40kmの位置にあり、竹島・硫黄島(鬼界ヶ島)・黒島の有人島と、新硫黄島、デン島の無人島から成り立つ。

[3] 旅行記 ・硫黄島 〜 薪能 俊寛 − 鹿児島県三島村, , http://washimo-web.jp/Trip/Ioujima/ioujima.htm

硫黄島と書けば、2006年のアメリカ映画『硫黄島からの手紙』が話題になった、東京都小笠原村に属する硫黄島(いおうとう)ですが、訪ねたのは鹿児島県にある硫黄島で、”いおうじま”

と読みます。薩摩硫黄島とも呼ばれる、日本史において鬼界ヶ島を名乗っていたと考えられています。平清盛が権勢を欲しいままにしていた平安時代末期、平家打倒の陰謀が漏れて捕らえられた高僧・俊寛が流された島とした知られ、平成8年(1997年)には、中村勘三郎(当時は勘九郎)さんらによる歌舞伎『俊寛』が島で上演されました。二代梅若玄祥(梅若六郎改め)がシテ/俊寛を演じる薪能『俊寛』が5月30日、硫黄島の特設舞台で催されるというので日帰りツアーに参加してきました。三島村営フェリー『みしま』の定期航路は、鹿児島港を出港後、竹島を経由してして硫黄島まで約3時間15分を要しますが、今回薪能ツアーのために、片道1時間50分で枕崎港〜硫黄島港間を往復する臨時便が運航されました。 (旅した日 2009年05月)

薩摩半島南端の長崎鼻から南南西約40kmの位置にある竹島、その西隣の硫黄島、さらに西にある黒島の三島および無人島や数個の岩礁から成り立っているのが三島村です。三島村へのアクセスは、村営船フェリー『みしま』が、鹿児島港から竹島〜硫黄島〜黒島を結び、翌日逆をたどる週3便の航路があり、鹿児島港から竹島まで2時間50分、硫黄島まで3時間15分、黒島まで4時間15分を要します。硫黄島は、現在も盛んに噴煙をあげる硫黄岳がそびえ、その名前のとおり岩肌一面に硫黄を噴出している島です.。3つの写真はいずれも、フェリー『みしま』から眺めた硫黄島の風景です。

[4] 硫黄島 (鹿児島県) - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A1%AB%E9%BB%84%E5%B3%B6_%28%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E7%9C%8C%29

硫黄島(いおうじま)は、薩南諸島北部に位置する島である。郵便番号は890-0901。人口は114人、世帯数は61世帯(2010年2月1日現在)[1]。薩摩硫黄島(さつまいおうじま)とも呼ばれる。大隅諸島には、含まれるとする説と含まれないとする説とがある。

地名(行政区画)としての「硫黄島」の呼称は鹿児島県鹿児島郡三島村の大字となっており、全島がこれに該当する。

鬼界ヶ島と推定される島の一つである。

概要[編集]

東西5.5km、南北4.0km、周囲14.5km、面積11.65km2、114人の島民が住んでいる[1]。竹島、黒島とあわせ、上三島(鹿児島郡三島村)を構成する。

鬼界カルデラの北縁に形成された火山島であり、ランクAの活火山に指定されている。 主峰の硫黄岳(後述)は標高703.7mで常時噴煙を上げており、亜硫酸ガスによってしばしば農作物に被害が発生する。また、港内は港底から鉄分を多量に含んだ温泉が湧出し、海水との反応で赤茶色に変色している。硫黄のために島の周辺海域が黄色に変色していることから「黄海ヶ島」と呼ばれ、これが「鬼界ヶ島」に書き換えられたとの説がある。古くは『平家物語』に語られる俊寛が流刑された地と伝承されている。また、『吾妻鏡』正嘉2年(1258年)9月2日条に、2人の武士が硫黄島に流刑にされた記述があり、その内の1人は祖父も治承の頃(12世紀末)に硫黄島に流刑にされたと記録されていることから、平安時代末期からこの島が流刑地であったことが分かる。

島内には民宿5軒、商店2軒がある。

鬼界カルデラとの位置関係[編集]

硫黄港の正面に高さ80mの溶岩絶壁があり、その東縁が鬼界カルデラのカルデラ壁と考えられている。硫黄島は、硫黄港から矢筈岳山体の南東側、平家の城を経て、竹島に至る東西20km、南北17kmの鬼界カルデラの北西縁に位置している[2]。

交通[編集]

鹿児島北埠頭からの定期船「みしま丸」が2日ないし3日おきに就航。所要時間は3時間半。鹿児島港と三島村の竹島、硫黄島、黒島を結ぶ航路(「三島航路」)は、村民の足を確保し、その生活を維持するため、当村が自ら船舶を建造し、船舶交通事業を経営している[3]。

枕崎空港から硫黄島空港へのセスナチャーター便(20分)

島内にはタクシーやバスはない[3]。

自然[編集]

東は太平洋、西は東シナ海に臨み、黒潮の

[5] 黒島 (鹿児島県) - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E5%B3%B6_%28%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E7%9C%8C%29

黒島(くろしま)は、薩南諸島北部に位置する島である。郵便番号は890-0902。人口は199人、世帯数は106世帯(2010年2月1日現在)[1]。大隅諸島には、含まれるとする説と含まれないとする説とがある。

地名(行政区画)としての「黒島」の呼称は鹿児島県鹿児島郡三島村の大字となっており、全島がこれに該当する。

概要[編集]

面積は15.37平方キロ、199人の島民が住んでいる。東岸の大里と西岸の片泊の二つの集落から構成される。

竹島、硫黄島とあわせ、鹿児島郡三島村を構成する。

太平洋戦争末期には、鹿児島などから出撃した特別攻撃隊が時として緊急避難することがあった。

島全体が樹木で覆われており、沖から見ると黒ずんで見えることから黒島の名が付いたという。壇ノ浦の戦いに敗れた平家一族が築いたと伝わる平家城跡があり、島民は平家落人の子孫といわれ、民俗芸能「なぎなた踊り」、「矢踊り」などが伝わる。また旧暦の6月23日に島内の15歳から16歳までの女性が祠の掃除をして歌と踊りを奉納する射場どんと呼ばれる行事があるが、別名「処女ためしの神」とも呼ばれており、祠にある13段の階段を「私こそが処女なり」と思う者だけが最上段に登ることができ、男性と交わりの少ない者ほど上段に進めるという奇祭である。

2010年2月12日、黒島(大里地区)に初めて消防車が配備された(日本損害保険協会寄贈)。それまで片泊と大里の両地区にある消防団分団では可搬ポンプ(小型動力ポンプ)しかなかったが、今回の配備によって三島村は「火災に効果的に対処できるようになった」としている[2]。

文化財[編集]

海岸線から山頂まで、特異な植物相が見られ、「薩摩黒島の森林植物群落」の名称で国の天然記念物に指定されている。

教育機関[編集]

三島村立大里小中学校

三島村立片泊小中学校

参考文献[編集]

『中央公論社』にっぽん 島の旅5 沖縄・薩南の島々 1984年5月18日 第1刷 p36、p134 ISBN 978-4124024555

脚注[編集]

[6] 琉球海道~竹島・硫黄島・黒島 国道58号の旅, , http://www.ab.auone-net.jp/~kurosio/mishima.html

1. 三島村の三つの島(竹島・硫黄島・黒島)

薩摩半島から50~60km南の沖合に、三つの小島が浮かんでいる。

三つの小島とは、三島村に所属する、竹島、硫黄島、黒島のことである。

このうち竹島と硫黄島は、薩摩半島最南端の長崎鼻や、

九州最南端の佐多岬から眺めることができる。

とくに硫黄島は、海から火山が突き出したその風貌から、遠くから視認しやすい島だ。

これら竹島・硫黄島・黒島へは、村営旅客船「フェリーみしま」で鹿児島から向かうことができる。

隔日で朝、鹿児島港・南埠頭を出港して、

竹島、硫黄島、黒島の順に接岸する。

二日一往復なので、その日じゅうに鹿児島へは戻らず、黒島の片泊港での碇泊となる。

翌日の朝、黒島を出ると、硫黄島、竹島の順に接岸して、鹿児島へ戻る。

上りか下りのどちらかが隔日に運行されるので、あらかじめダイヤを調べておきたい。

近年は、夏の繁忙期に、枕崎に立ち寄よる運行ダイヤも組まれている。

三島村は戦前は十島村に属していたが、

トカラ列島が戦後アメリカに接収されたのを契機に、十島村から分離独立した。

現在は十島村と共に、役場が鹿児島市内にあるが、

役場がその自治体の土地にないのは、全国でも鹿児島県の三島村と十島村、

そして沖縄県の竹富町だけである。

ちなみに竹富町役場があるのは石垣市である。

小さな離島が集まった自治体は、拠点となる場所がその近隣の都市になってしまうが、

役場が自治体の外にあると、村職員の住民税が自治体に還元されない問題が発生する。

三島村の人口は400人余り。その半数は黒島にいて、過疎化が深刻な状況にある。

島の主な産業は畜産業で、黒毛和牛である鹿児島黒牛の生産が盛んである。

2. 竹島

竹島と聞くと、韓国に占領されている竹島を連想するかもしれない。

しかし、あちらは島根県の竹島で、こちらは鹿児島県の竹島でまったく別の島。

竹島の名前の由来は単純明快で、

島全体が琉球竹で覆われた「竹の島」という、それだけのことだそうだ。

竹島のそのすぐ東側には、南西諸島へ向かう航路があり、

屋久島航路や十島航路、奄美・沖縄航路を行き来するフェリーから、竹島は良く見える。

細長く、高低差のない平でなだらかな島で、

周囲は13km、人口は100人にも満たない小さな島である。

黒毛和牛の放牧が盛んで、島の

[7] 琉球海道~トカラ列島(前編) 国道58号の旅, , http://www.ab.auone-net.jp/~kurosio/tokara1.html

1. トカラ列島と十島村

屋久島の南には、トカラ海峡が広がり、トカラ海峡で大隅諸島が終わる。

トカラ列島は大隅諸島と奄美群島の間に広がる島々で、

そのほとんどが、霧島火山帯に属する火山島である。

トカラ列島は、大隅諸島から奄美群島への琉球弧の架け橋となり、

古来から琉球弧を行き交う人々に、琉球海道の中継点としてその存在が知られてきた。

興味深いことに、トカラ列島のほとんどの島で「平家の落人伝説」が残されており、

島民は平家の子孫であることを自負している。

平家の落人伝説は、九州の山奥の椎葉や五木でも見られるが、

三島村の硫黄島やトカラ列島、そして喜界島や奄美大島、加計呂麻島でも残されている。

平家の落人が大和の京文化を南西諸島に持ち込んだことは、間違いないようである。

トカラでは、中世、日本と琉球王国の架け橋を担っていた史実が残されている。

トカラの島々の住民は、薩摩に間接的に服属することで、

薩摩の御用聞きとして、南方の事情を薩摩に伝える役割を果たし、報酬を受けていた。

また一方で、琉球王国に日本の事情を知らせて、報酬を受けていた。

薩摩が琉球支配に乗り出すときには、その指南役として手引きをしながらも、

琉球王国に対して薩摩の意図を伝達し、平和裏に支配が運ぶよう琉球王国を説き伏せていた。

奄美大島と喜界島までは琉球王国だったが、トカラ列島は琉球王国の支配を受けたことはなく、

かといって薩摩も薩南諸島より南にあるトカラ列島は、領地として支配なかった。

トカラ列島はあまりにも小さな島々だったため、領地としての価値がなかったからだが、

それゆえに、日本と琉球王国の架け橋となる中立したポジションになりえたのである。

トカラ列島は現在十島村に所属し、7つの有人島と5つの無人島を持つ。

島の領域は南北150kmを越え、海域も含めた領域面積で「日本一長い村」である。

明治維新後、7島の有人島に三島村の3島の10島で「十島村」として誕生したが、

戦後、トカラ海峡より南部がアメリカに占領されると、3島が独立して「三島村」となった。

そして1952年に十島村が日本復帰にすると、

三島村となった3島を除いた7島で「十島村」は復活した。

有人7島は北から口之島、中之島、平島、諏訪之瀬島、悪石島、小宝島、宝島で、

無人5島は臥蛇島、小臥

[8] 上三島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E4%B8%89%E5%B3%B6

上三島(かみみしま)は、薩南諸島北部に位置する島嶼群である。別名、口之三島(くちのみしま)。

概要[編集]

黒島、硫黄島、竹島の有人3島と、デン島、新硫黄島の無人島からなる。

全島で鹿児島県鹿児島郡三島村を形成する。古くはトカラ列島(下七島)とともに薩摩国川辺郡に属し川辺郡十島(かわなべぐんじっとう)と呼ばれていたが、1897年に大島郡へ移され十島村(じっとうそん)を形成していた。しかし、1946年2月2日に北緯30度を境としてトカラ列島以南がアメリカ軍の軍政下に置かれたことから、上三島の部分のみ三島村として分離。1952年にトカラ列島が日本に復帰し十島村(としまむら)となった後も、引き続き三島村として存続している。

上三島は、大隅諸島に含まれるとする説と含まれないとする説がある。天気予報では「種子島・屋久島地方」に含まれ、さらに「種子島地方」と「屋久島地方」とに細分する場合には「種子島地方」に含まれる[1]。

ギャラリー[編集]

[9] 口永良部島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A3%E6%B0%B8%E8%89%AF%E9%83%A8%E5%B3%B6

面積:38.04km²

周囲:49.67km

長径:12km

最大幅:5km

最高点:657m(古岳)

人口:137人

世帯数:82戸

集落 [ 編集 ]

島の中心は港のある本村地区で、島の人口の大半が集中している。同地区には、役場出張所や商店、学校、ガソリンスタンド等が立地している。

本村

岩屋泊

新村

田代

向江浜

湯向

火山 [ 編集 ]

口永良部島は、薩南火山群島最大の 火山島 で、気象庁による『常時観測火山』に指定されている。 複数の 安山岩 質の 火山 からなり特に東側の火山は新鮮な火山で仁田尾山(526m)・三角点山(600m)・古岳(657m)・新岳(626m)があり、古岳火山南西から南東山麓には複数の安山岩質溶岩流が発達する。また、現在活動している新岳には山頂に直径200mの 火口 がある。

噴火史 [ 編集 ]

活動開始時期は不明で、50万年前頃までには海面上まで成長していたと考えられている。高堂森火山は約10万年前頃までに、野池火山の主部は約1万年前ごろまでに形成され、15,000年前から11,000年前にかけて2回の大規模な火砕噴火を生じた。最近1万年間の活動は、「古岳」「新岳」「鉢窪火山」で発生している。

有史以降の活動

目撃記録は無いが、古岳火口でも江戸時代末まで噴火が発生していた。

1841年 ( 天保 12年)

5月23日 新岳で噴火。

8月1日 集落が焼失。死者多数。

1914年 ( 大正 3年) 溶融硫黄噴出、鳴動。

1931年 ( 昭和 6年) [2]

3月 鳴動。

4月2日 新岳の西側山腹(新岳火口西縁)で噴火。土砂崩壊、負傷者2名、馬、山林田畑被害。

5月15日 爆発、降灰。硫黄流出、土地隆起。

1933年 (昭和8年)から1934年 七釜集落は噴石により全滅、死者8名、負傷者26名。

1945年 (昭和20年)11月3日 新岳火口東外壁で割れ目噴火。(水蒸気噴火?)

1966年 (昭和41年)11月22日 新岳で噴火し小規模火砕流。空振は、鹿児島市や種子島でも体感。負傷者3名。

1968年 から 1970年代 新岳で噴火、(1968年、1969年、1972年、1973年、1974年、1976年)

1980年 (昭和55年)9月28日 新岳東側斜面で水蒸気噴火。爆裂火口多数形成。マグマ噴出量は0.0001 DREkm 3 。

[10] 昭和硫黄島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E7%A1%AB%E9%BB%84%E5%B3%B6

昭和硫黄島(しょうわいおうじま)は、鹿児島県鹿児島郡三島村に属する無人島。海底火山の噴火によって1934年(昭和9年)から翌年にかけて、新たに形成された島嶼である。

日本の領海内で火山活動による自然現象により新たに形成され、かつ現在まで残存し観測記録が残る島は、1973年(昭和48年)に誕生した小笠原諸島の西之島新島と、この昭和硫黄島の2島のみである[1]。新硫黄島とも呼ばれる[2]。

概要[編集]

鹿児島県薩摩半島南端より南へ約30キロメートルの洋上、通称上三島、三島村に属する薩摩硫黄島の東、約2キロの海上に位置しており、周囲1.3キロメートル、面積0.07平方キロメートル[3]、最高地点標高24メートルの溶岩で覆われた無人島である。

新たな島の形成[編集]

別名、鬼界ケ島とも呼ばれる硫黄島(薩摩硫黄島)は、古くから活発な火山活動を続ける火山島であり、現在も周囲の海域では温泉湧出による変色域が多数見られ、島の玄関港である硫黄島港は、鉄分を大量に含んだ温泉水により常に海水が茶褐色に染められている。

1934年(昭和9年)9月12日、地震活動が硫黄島周辺で活発になり、海水の沸騰や火山灰の浮遊、海水混濁が見られ、20日には噴煙が立ち上り火山性の軽石が観察されるなど本格的な海底火山活動が始まった。12月7日に新島が出現し、12月23日には高さ約20-30メートルの火口丘が確認され、直後に一旦海中に没し消滅したものの、翌1935年(昭和10年)1月5日に再び新島が出現した。その後は溶岩流などが生じ陸地が形成され、新島は安定的に成長を続けた。噴火活動が落ち着いた3月8日には硫黄島の住民が新島に上陸しており、4月1日に行われた調査では、噴火活動はほとんど終息していることが確認された。

新島形成の経過[編集]

昭和硫黄島が誕生した昭和9年から10年頃の日本は、戦時体制が強化されつつあり、さまざまな情報の統制が行われていたため、昭和硫黄島の誕生は新聞等で広く全国に報じられる事もなく、一般に知られることは無かったが、噴火の推移、新島誕生の経過は著名な地理学者である田中館秀三[4]により詳細に調査され、田中館によって書かれた複数の論文記録が残されている。

以下、昭和硫黄島形成の経過記録を記す。

1934年(昭和9年)

9月12日 16時頃、地震活動開始

9月13日 午前中を中心に地震回

[11] 鬼界ヶ島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E7%95%8C%E3%83%B6%E5%B3%B6

鬼界ヶ島(きかいがしま)とは、1177年(治承元年)の鹿ケ谷の陰謀により、俊寛、平康頼、藤原成経が流罪にされた島。薩摩国に属す。

『平家物語』によると、島の様子は次の通りである。

舟はめったに通わず、人も希である。住民は色黒で、話す言葉も理解できず、男は烏帽子をかぶらず、女は髪を下げない。農夫はおらず穀物の類はなく、衣料品もない。島の中には高い山があり、常時火が燃えており、硫黄がたくさんあるので、この島を硫黄島ともいう。

翌1178年(治承2年)に康頼、成経は赦免され京に帰るが、俊寛のみは赦されず、独り島に残され、悲嘆のうちに死んだ。

鬼界ヶ島の現在の場所ははっきりしないが、薩南諸島の以下の島のいずれかと考えられている。

硫黄島 - 1995年(平成7年)5月に建てられた俊寛の銅像がある。火山の硫黄によって海が黄色に染まっていることから、「黄海ヶ島」と名付けられたとの説がある。

喜界島 - 俊寛の墓と銅像がある。墓を調査した人類学者の鈴木尚によると、出土した骨は面長の貴族型の頭骨で、島外の相当身分の高い人物であると推測された。

また、薩南諸島とは離れた長崎県の伊王島にも俊寛の墓がある。

外部リンク[編集]

俊寛紀行

[12] 中之島 (鹿児島県) - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%B9%8B%E5%B3%B6_%28%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E7%9C%8C%29

中之島(なかのしま)はトカラ列島に所属する島。面積は34.47km²。周囲30km、最高点は御岳(トカラ富士)の979m。人口は167人、世帯数は97世帯(2004年10月1日現在)[1]。

島名は七島の中ほどにある島であるということに由来している[2]

地名(行政区画)としての「中之島」は鹿児島県鹿児島郡十島村の大字となっており、島の全域がそれに該当する。

概要[編集]

十島村で最も人口が多く、1956年までは村役場の所在地であった。村役場が村外の鹿児島市に移転した後も2008年までは支所が置かれ、駐在所や民俗資料館・天文台などの施設が集まる実質的な村の中心地である。

地域[編集]

公衆浴場[編集]

温泉(公衆浴場)[3]が数か所存在する。西海岸沿いに設けられた東区温泉、西区温泉は、ともに乳白色のミョウバン・硫黄・塩分を含んだ天然温泉である。泉質:硫黄泉、効能:神経痛・筋肉痛・痔疾・冷え性という。

交通[編集]

島内を周回する道路は多数存在するものの未舗装の箇所が多い。島内は琉球寒山竹の生育が著しく、これらの未舗装の道の中には通行不可能になったものも少なくない。

十島村の他の島と比べると大きな島だがバス・タクシーは存在しない為、民宿にて車をレンタルするかフェリーで持ち込まないと島内での活動が制限される。

施設[編集]

十島村役場中之島支所

中之島天文台

十島村立中之島小中学校

鹿児島中央警察署中之島駐在所

十島村に唯一存在する駐在所であり、中之島駐在所の管轄区域は鹿児島郡十島村の全域が指定されている[4]。

中之島郵便局

中之島灯台

十島村歴史民俗資料館

十島村開発総合センター

店舗[編集]

永田商店

最低限の日用品と焼酎・ビール・アイスクリーム・タバコを取り扱っている。

通信[編集]

携帯電話はNTTドコモのみ利用可能である。十島村開発総合センターに公衆電話がある。

歴史[編集]

江戸時代以降[編集]

中之島という地名は江戸期より見え、薩摩国川辺郡のうちであった。薩摩藩直轄地で郷には属さず、薩摩藩の船奉行の支配下に置かれていた。

口之島や宝島と同様に津口番所、異国船番所、異国船遠見番所が併置されており、鹿児島城下より派遣された在番と横目が常駐していた。中之島の在番は中之島の他に諏訪之瀬島、悪石島を管轄しており、在番の指示を受けた郡司が島政に当たったとされる。「薩

[13] 琉球海道~屋久島 国道58号の旅, , http://www.ab.auone-net.jp/~kurosio/yakushima.html

1. 黒潮に浮かぶ洋上アルプス~屋久島

屋久島へ向かうには、鹿児島空港から飛行機を利用するか、

鹿児島港・南埠頭からフェリーまたはジェットフォイルを利用するのが一般的だ。

空路、鹿児島へ入る場合は、そのまま鹿児島空港で乗り換え、屋久島空港に入る。

鹿児島市街からアプローチする場合は、高速船を利用するのが一般的である。

マイカーやバイクを運ぶなら、毎朝8時に出航する「フェリー屋久島2」を利用すればよい。

この他に、谷山港から「フェリーはいびすかす」で渡る方法がある。

「フェリーはいびすかす」は毎日18時に谷山港を出航し、翌朝早朝に屋久島・宮之浦港に着く。

この方法だと、朝一番に屋久島に入ることができるので、登山する方にお勧めできる。

ただし、この船は貨物船なので乗り心地はあまり良くない。

快適な乗り心地のクルージングを楽しむなら断然、「フェリー屋久島2」だ。

屋久島は一周がおよそ120kmの円形の島。

自転車でも一周することができるが、アップダウンがかなりあるので覚悟が必要だ。

島の大部分は山岳地帯で、最高峰の宮之浦岳は標高1935mで九州一の高さを誇る。

海岸から山頂まで2000mの標高差がある高山が連なるため、「洋上アルプス」と呼ばれる。

亜熱帯・温帯・亜寒帯、と変化に富んだ気候が見られる特色のある島だ。

また屋久島は非常に降水量が多いため、「水の島」と呼ばれている。

屋久島に降水量が多いのは、屋久島が山岳の島であることと密接な関係があり、

黒潮の湿った空気が屋久島の山岳にぶつかって雲を発生させ、雨を降らせる。

だから洋上は晴れているのに、屋久島だけが雲に包み込まれて雨になる。

屋久島だけがまるでベールに覆われるように雲海に包み隠されてしまう。

「屋久島は月に35日雨が降る」と言われる。

いつも島の何処かで雨が降っていると例えられるほどで、屋久島は天気予報が当てにならない。

にわか雨や天気雨が多く、晴れたと思ったら土砂降りの雨が降り、

天候に翻弄されていると感じさせられるほどだ。

そんな島ゆえに、屋久島に訪れるときは周辺の天気にじゅうぶん目を配りたい。

周辺が高気圧に覆われ快晴であることが、屋久島が晴れるための最低条件。

気温が上がると上昇気流が起きて雲ができるので、快晴の期待度が高いのは朝である。

屋久島の玄関は島

[14] 琉球海道~口永良部島 国道58号の旅, , http://www.ab.auone-net.jp/~kurosio/kuchinoerabu.html

1. 緑の火山島

屋久島の12km西の沖に周囲50kmほどのひょうたん型の小さな島が浮かんでいる。

十島航路や奄美・沖縄航路のフェリーに乗ると、

屋久島のちょうど反対側に間近に迫ってくるのが口永良部島だ。

しかしこの島に上陸するとなると、屋久島を経由しなければならない。

行政区域は屋久島町に属していて、まるで屋久島の付属品のような島だ。

屋久島は世界遺産になって知名度が上がり、観光客も増える一方だが、

口永良部島は相変わらず、人知れずひっそり屋久島の横に佇んでいる。

口永良部島へは屋久島の宮之浦港から屋久島町営「フェリー太陽」で向かう。

フェリー太陽は口永良部島へ1日1往復運行されていて、

偶数日は朝、奇数日は昼に宮之浦港を出航する。

偶数日は昼、奇数日は朝に種子島へ1往復していて、

種子島、屋久島、口永良部島を相互に結ぶ役割を果たしている。

宮之浦港を出航すると、フェリー太陽は口永良部海峡に向かう。

出港してしばらくすると矢筈岬の一湊灯台が見えてくる。

正面には口永良部島が見え、その先端にメガ崎灯台が見える。

口永良部島の海岸には断崖が迫り、荒々しさを感じさせる。

フェリー太陽は口永良部海峡を渡ると、口永良部島の南岸に沿って走り、

島の最高峰である標高650mの古岳を正面に見据える。

口永良部島は火山島で、新岳と古岳の二つの火口がある。

江戸時代に大爆発を起こし多数の死者が出たとの記録があり、

その後も度々、噴火を起こしている。

霧島~桜島~鬼界カルデラを結んだ直線の延長上にあり、霧島火山帯に属している。

霧島火山帯は日本で最も活動が盛んな火山帯で、絶えず噴煙を上げる桜島はその代表格。

三島に属する薩摩硫黄島も霧島火山帯に属する火山島であり、

鬼界カルデラのすぐ南に位置する口永良部島もまた、同じ霧島火山帯にある。

火山島でありながら、緑に覆われて火山に見えない島の様相から「緑の火山島」と呼ばれる。

仰々しい古岳を回りこむと、隠されたように湾があり、本村(ほんむら)港が見えてきた。

本村の町は古岳の奥まった入江にある。

ひょうたんの形をした島のちょうど窪みのところにあたる。

口永良部島の人口はおよそ150人で、その大半がこの本村に住むが、

町というには余りにも頼りない、集落という程度の小さな港町だ。

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